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薬屋のおやじのボヤキ

公的健康情報にはあまりにも嘘が多くて、それがためにストレスを抱え、ボヤキながら真の健康情報をつかみ取り、発信しています。

食の進化論 あとがき

2020年11月30日 | 食の進化論

食の進化論 あとがき

 別立てブログ「薬屋のおやじの“一日一楽”&“2日前”の日記」で「人類の未来はどうなるか」をテーマにして、思いつくままに書き綴っていたところ、2020年8月29日に、今、書きつつある項目は、小生の処女論文「食の進化論」と関係するものとなった。そこで、その論文は13年前に書き上げたものだが、今回、それをざっと眺めたところ、今に通用する内容に思われ、それじゃあブログアップしようか、という気分になった。その書はワープロ打ちのコピー製本した手作り本であって、それを見ながらコツコツと一字一句パソコンに打ち直す作業を、暇をみては毎日のように続けた。そして、3か月して全部を打ち上げた。やれやれ、ほっと一息。
 当初のものは、勉強不足で通り一遍の中身のない事項が所々にあり、その後、少しは学び得たものが有りはしないかと思うも、13年経っても小生の脳みそは全然進化しておらず、その部分の内容を深めることはできなかった。お恥ずかしいかぎりだ。もっとも、他の部分については、その後の知見をもとに追記できた箇所がどれだけかはあり、その部分はけっこう内容が充実したようで、自己満足している。
 随分と大部な論文であることを改めて感じたが、気になったのは「食」に無関係な記述があまりにも多すぎることであった。随分とカットしたが、「食」を語るうえで、古代においては人類進化の道筋が深く関わるから、そうそうカットできず、一面、人類進化史の様相を示した論文となってしまい、その点お許し願いたい。
 残念だったのは、当初掲載を見送った「人と動物の味覚感覚の違い」に関しては、その後もネットに上った論文などを注視していたのだが、今日に至ってもどれだけも新たな知見が得られず、今回のブログ版にも載せられなかった。こうなると、これについては、もうお蔵入りだ。
 ブログアップにあたっては、パソコンのキーボードをこつこつ叩いていったのだが、初版本になんと誤字脱字の多かったこと。毎日毎日幾つも見つかる。いやーあ恥ずかしい。ブログ版にも、まだまだ、そして新たに、誤字脱字がたくさんあって読みにくかろうが、これもお許し願いたい。
 全部打ち終えた後、もう1冊残してあった初版本を何気なく手にしたら、そこには誤字脱字を朱書き訂正し、言い回しの悪い所を書き改めていたりしてあった。あれあれ、こちらを見ながらキーボードを叩かなきゃいかんかったわい。さあ、どうしたものか。ブログアップ版をもう一度一からチェックせねばいかんだろうが、いかんせんボリュームが有り過ぎる。直ちには取り掛かれそうにない。弱った。
 ところで、この朱書きは、いつ、どうやって行ったのだろうか。…。そうだ、思い出した。県庁勤務時代に同期であったN君に初版本を送ったところ、彼が校正してくれたのだ。そこで、その後の論文については、N君に甘えさせてもらい、彼に事前に見てもらって校正してもらったし、また、彼のアドバイスを元に論文の組み立てを大幅に変えたりもした。小生の良きアドバイザー、出版編集者として、彼なくしてその後の論文は完成させられなかった。懐かしく思い出す。そして、N君、改めて有り難う。

 最後の最後になってしまいましたが、この大部な拙論を最後まで辛抱強くお読みいただいた諸氏に厚くお礼申しあげます。間違った捉え方をしている個所、意味不明な個所をご指摘いただきたいですし、もっと参考にした方がいい論文のご紹介など、ご意見を頂戴できると幸いです。よろしくご協力のほどお願い申し上げます。

   2020年11月30日
                                 永築當果 こと 三宅和豊

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(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき
雑記編1日本・中国・韓国の食文化の違い
雑記編2世界の食糧難を救った作物はなぜかアンデス生まれ、そしてこれからも
雑記編3「大陸=力と闘争の文明」VS「モンスーンアジア=美と慈悲の文明」の本質的な違いは食にあり
雑記編4 肉は薬であり、麻薬なのです。ヒト本来の食性から大きくかけ離れたもので、これを承知の上で食べましょう。
雑記編5 人はどれだけ食べれば生きていけるのか?毎日生野菜150g(60kcal)で十分!!

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食の進化論 第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて

2020年11月29日 | 食の進化論

食の進化論 第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて

第1節 人間は高度科学技術文明の家畜になった
 「日本人1億2千万人、皆、何十人もの下僕を従えた王様である」
 これは、食生態学者、西丸震哉氏が昭和56年におっしゃった言葉である。西丸氏のお話はちょっと古いから今風に(といっても10年前の時点ではあるが)脚色し、小生の考えを多少織り交ぜて語ろう。

 日本の王様の家には、ワンタッチ電動の洗濯下女、チーンと鳴る調理下女、スイッチを押すだけの灯明番や暖炉番下男がいるし、チューナーを回せば楽団員が演奏を始め、チャンネルボタンで劇団員が演劇を披露する。出かけるには液体飼料を1回与えるだけで数百キロも走ってくれる金属馬がいるし、伝言の使いにやらせる飛脚は光の速さで双方向に瞬時にやってくる等々、毎日、毎時間、高度科学技術文明の生み出した産物の恩恵を満喫している。近い将来、さらに科学技術が進んで、マイコンが組み込まれた機器ばかりとなり、いちいち細かな指図をしなくても下僕が勝手に働いてくれたり、口頭でちょっと指示するだけで機器が思い通りに動いてくれたりする時代が到来する。
 昔の王様、いや、それ以上の身分の生活を堪能できることになるのである。でも、王様ばかりの世界になっても決して満足できない。うちに比べて右隣の家の芝生は広いし、左隣の家の金属馬は高馬力である。どうしても隣近所の王様以上になりたい。それに追いつくために身を削ってでもしゃにむに働く。そして、万一追い越しでもすれば、多少健康を害してしまっていても、鼻高々で有頂天になり、大満足する。“どうだ、見ろ、俺のほうがもっともっと偉い王様だぞ。”と。

 これが、西丸氏の「日本人、皆、王様」というお話である。
 日本の王様の大半がそういう行動を取るから、資本主義経済という魔物の思う壺となり、経済はさらに膨張し、そして科学技術の飛躍的な発展をもたらすのである。この先、どうなるかを少々考察してみよう。
 あまりにも高度に発達した科学技術によって製作される機器は、どれもこれも、もはや一般人の頭脳ではとうてい理解不能な高度なものばかりとなってしまう。したがって、その恩恵を十分に受けるためには、人間の頭脳よりも優秀な人工頭脳を持つ様々な機器がうまく働いてくれるように、人間の生活をそれらの機器に合わせなければならなくなる。最先端の機器にしっかり歩み寄ることによって、人間は安泰な日常生活を送ることができるようになるのである。
 この事態は、動物が安泰な生活を送りたいがために人間に歩み寄り、人間の都合に全て合わせることによって野生の生き方を忘れ去り、いつしか家畜化してしまったのと同じである。つまり、人間も同様にして、資本主義経済が生み出す高度科学技術文明の産物の家畜になってしまうのである。安泰な生活を手に入れ、安楽を決め込もうと。

第2節 寒冷化の訪れと食糧危機
 資本主義経済という魔物がいつまでも元気であってくれれば、人間は高度科学技術文明の産物の家畜として安泰でおられるのだが、その魔物がいつ病気しないともかぎらない。飼い主が病気したら、その家畜は面倒をみてもらえず、路頭に迷うしかなくなる。空恐ろしいことになる。資本主義経済という魔物は、経済が膨張しているかぎり元気であるが、萎縮するととたんに病弱となり、それが長期化すると大病を患う。最近では、病弱はバブル崩壊で経験しており、大病は1930年代の大恐慌で経験した。
 将来を展望したとき、魔物にとって幾つかの病原菌の発生が考えられるが、それらを検証してみよう。
 第一に、石油資源や木材資源の枯渇が危惧されているが、これらは科学技術の力によって代替できるものが必ず発明発見されるであろうから、全く心配はいらない。
 第二に、地球温暖化が危惧されているが、寒いより暖かいほうがいいに決まっている。これについては、今までに述べたとおりであり、何ら問題にすることはない。
 第三に、世界的に騒がれている今日の食糧危機であるが、これは弱小国が苦労しているだけであり、先進国は当分の間、何ら心配することはない。
 第四の危機は、これが恐ろしいことになるのだが、地球の寒冷化による食糧の大幅な減収である。資本主義経済という魔物が最も恐れる病原菌であり、これが魔物の最大の弱点である。
 人類の歴史の変革点には、いつも地球の寒冷化があった。そのときに食糧の絶対的な供給不足をきたし、その度に科学技術が目覚ましく発展し、文化・文明、経済システムが大きく変貌していった。大規模に寒冷化する氷期の到来は、まだ当分先のこととしても、数十年から2百年程度で繰り返される、平均気温が数℃下がる寒冷化は、直ぐにもやってくる恐れが多分にある。歴史時代において、こうした寒冷化のときには、食糧を求めての世界的な民族大移動がたびたび繰り返された。民族大移動とは聞こえがいいが、それは、侵略であり、略奪であり、大量殺戮であり、つまり住民全部を引き連れ、巻き込む侵略戦争である。
 過去の寒冷化において、中緯度地帯では低温に加えて一般的に降雨量
が減って栽培植物は減収となり、所によっては旱魃となって無収穫となる。緯度が高い地帯は牧草が不作となる上に、春と秋に雨が降るところが雪となり、家畜は草が食べられず、多くが死んでいく。こうして食糧が大幅に不足しだし、それが数年も続けば民族大移動を開始するしかなかったのである。
 歴史上、最後の大移動は、17~18世紀にかけてヨーロッパで発生したが、ヨーロッパ各国であぶれた者たちがアメリカ大陸への五月雨的な侵略を引き起こし、ヨーロッパ各国による大陸資源の争奪そして原住民の大量殺戮があった。これは、新大陸への移民というきれいな言葉で表現されるが、とんでもない侵略である。
 これ以降、地球は温暖期にあるのだから、必ずや近い将来訪れるであろう寒冷化は、先進国の食糧需要を賄う分の食糧生産をも不可能とし、ここに真の食糧危機が訪れるのである。先進国で農産物を大量に輸出しているオーストラリアやアルゼンチンとて国内需要が満たされる保証はない。現在、食糧輸出国であるアメリカやフランスは当然にして国内需要が供給を上回り、輸出は不可能となる。
 先進国における食糧の需給バランスは決して整わなくなる。貨幣経済の下において需給バランスが整わないということは市場原理が機能しなくなるということであり、それは資本主義経済が麻痺したことになり、魔物が病床に伏したことになる。こうした真の食糧危機が永続することによって、魔物が死に至るかどうかであるが、皆目見当が付かない。でも、人類は、そのとき死に行く魔物にカンフル注射を打ち続け、つまり科学技術を総動員して食糧の大増産を模索し、ひたすら魔物を延命させようとする可能性が高い。
 肉食比率を落としたくないという欲求に対する代替食糧の候補としては、第一に石油蛋白がある。技術開発は概ねなされており、肉の代替供給という観点から、真っ先に実用化が進むであろう。近年は細胞培養という技術も開発途上にある。それらに先立つ緊急措置として、海洋に住む鯨や魚類などの大漁捕獲である。あっという間に海洋資源は枯れ尽くし、絶滅種が数多く出ることであろう。
 最大の問題は、人類の食糧として最大のウエイトを占める穀類であるが、今までどおりには作物が育たない地域が大半となる。よって、新たに寒冷気候に適合する穀類を捜し出さねばならないのだが、西丸氏は、その第一候補としてアンデス原産のキノア(キヌア)を推奨しておられる。キノアはホウレンソウの仲間であり、1年草である。米が作れなくなるような寒冷地で、かつ、雨量が少なくなった所にも良く育つというから、米の代替作物になり得る。米とキノア半分ずつの雑穀米にしてもおいしく食べられるというから、東北・北海道では作付けが進むであろう。こうした研究は1970年代に、当時、地球寒冷化の危機が迫っているとの予想から、一部の研究者によって真剣に調査研究と栽培実験がなされている。
 キノア栽培をフルに行ったとしても、穀類は不足するであろうから、次に芋類の出番となる。澱粉質を含まずオリゴ糖をかなりの量含有するヤーコン芋の出番だ。これは1990年代から日本で研究が始まった。アンデス原産のヤーコン芋は、低カロリーのダイエット食として近年有名になったが、寒冷地での栽培に適している。食糧難でカロリー不足の上に、こんなものを食べたら栄養失調で死んでしまうと危惧されるであろうが、そうはならない。カロリー計算でカウントされるのはオリゴ糖であり、これはヒトの消化酵素ではブドウ糖単体への分解はできないが、腸内細菌の格好の餌となり、各種有機酸を作り出してくれるから、これがヒトのエネルギー源になる。加えて、整腸効果が抜群であり、腸内環境を大改善してくれて腸内発酵が大きく進み、三大栄養素(炭水化物、脂肪、蛋白質)を全く取らなくても、野菜を泥状に磨り潰したものをヤーコン芋と一緒に取れば生きていけるのであり、いや、これによって現在の飽食時代よりもずっと健康になれるし、元気も出ようというものである。ただし、三大栄養素を一切絶たねばならないが。つまり、穀類と肉(魚を含む)は口にせず、調理に油を使ってはならないのであり、口の卑しさと対決して、それに勝たねばならないから、至難の技とはなるが。
 こうしたアンデス原産の代替作物が複数登場し、食糧危機の助っ人になる可能性があるも、それでも、これでもって先進各国の食糧難が解消できるかは危ういところである。

 人間が異常発生する以前の、生態系の一員として人間が自然環境とともにあった時点では、寒冷化で少雨になっても、順次違った動植物が繁栄してきて、新たな食糧が入手できるようになるのだが、人間が異常発生してからは事情が異なる。温帯において地形が平坦であったところには森林が生茂っていたのであるが、人間の異常発生に伴い、今日に至っては森林は破壊し尽くされて栽培植物に取って代わっている。つまり、栽培植物の異常発生である。栽培植物は、多くのところが水源から用水路を引いての灌漑農業となっている今日、寒冷で少雨になると灌漑用水が欠乏し、農作地帯が不毛の大地、つまり砂漠化する危険が大きい。ここに、森林破壊のツケが顕在化するのであり、歴史上、最後の寒冷化である17~18世紀の比ではない。
 温帯において雨量が多すぎて排水がメインとなる農業は、モンスーン地帯にある日本と中国の華南にしかずぎず、この地帯以外は絶えず旱魃の危機を抱えているのであって、少雨ほど恐ろしいものはないのである。
 こうしてみると、先進各国が食糧危機を乗り越えるには、土と雨に頼る農耕方式から、工場内食糧生産が食糧供給の主流にならないことには解決しないのであり、先進各国はこれに突き進む可能性が高い。
 その点、日本列島は非常に恵まれている。地球が寒冷化の嵐に襲われても、周囲に海という巨大な湯たんぽがあり、気温の低下は大陸
に比べてうんと少なくてすむ。日本人が日本列島を捨ててボートピープルになり、民族移動することはない。ただし、中国大陸から押し寄せる可能性は大である。元寇の再来であり、今度ばかりは神風は吹かないであろうし、吹いても全く防御にならない。なお、元寇は13世紀後半の温暖化してからの出来事ではあるが、西暦1200年前後に数十年間にわたって地球は寒冷化し、そのときにチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国が南下政策を取り、ユーラシア大陸を席巻したのである。その余波として、食糧資源が豊かな日本列島も支配下に置こうとの魂胆から元寇があったと考えられる。
 その後、2度の数十年にわたる寒冷化を世界は経験した後、最後の寒冷化が先に述べたヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略であるが、その当時、日本は江戸時代前半のことであった。その寒冷化もどれだけか脈打ち、寛永、延宝、元禄、享保の各飢饉を引き起こした。
 江戸時代後半は温暖化していったが、天明、天保の2度の飢饉が起きた。ともに7、8年も続いたが、天明はアイスランドのキラ火山の大噴火の影響であり、天保は南米の火山の大噴火の影響のようであるが、世界の幾つかの火山噴火の複合との説もある。この2つの飢饉は、寒冷化ではなくて異常気象による低温化であるが、今、このような大噴火が起きれば、先進各国で食糧パニックが起きるのは必至である。
 寒冷化にしろ火山噴火による異常気象にしろ、年間平均気温は日本でも数℃下がる。小生が住んでいる岐阜は4℃下がれば秋田並みとなり、7℃も下がれば札幌並みとなる。そうした事態になると、日本中の休耕田を全部作付けしても、北の方では米は無収穫になりそうだから、米だけを捉えても、その需要を賄えるかどうか怪しい。なお、農水省では、その昔開発された、寒さに滅法強かったり、温暖地で大量に稲穂を付ける米の品種の種籾がサンプルとして永久保存されているが、その量は極小であり、大量作付けが可能となるには数年はかかろうし、それらはまずい米だから、手に入っても我慢して食わねばならない。
 今までと同じ作物の作付けをするとなると、日本でも極端な食糧危機となるが、まずい米で我慢し、先に述べたような代替食糧の栽培や石油蛋白などの生産によって、食糧危機は乗り越えることができるのではなかろうか。ただし、畜産は大幅な縮小を余儀なくされる。特に、人間の食糧と大きくバッティングする飼料をふんだんに与えねばならない豚は、たいてい食べられなくなる。

第3節 食物禁忌の歴史
 イスラム教の経典コーランでは、豚を食べることを禁止している。豚は排泄物にまみれた汚い動物であり、それを食べると人間の心までが汚れてしまうからダメだというのであるが、これは、その戒律を守らせるための方便であって、理由は別のところにある。
 マーヴィン・ハリスによると、紀元前のエジプトの多神教においても、古代エジプト文明の中期以降、豚は悪の神セトと同一視され始め、豚を食べることは忌み嫌われた。その理由として考えられるのは、豚の飼育には大量の水と穀類が必要であり、砂漠に住む民にとって、どちらも人間が生きていくのに非常に貴重なものであるから、豚を養殖して食べることは贅沢極まりないことになるからである。治世者にとって、民の食糧確保が最重要課題であるから、エジプトではこうして豚を食物禁忌とせざるを得なかったのである。
 なお、ユダヤ教においても、旧約聖書のレビ記で、食べてはいけない動物を数多く列記しており、正統ユダヤ教徒はこれを守っており、食べていい動物は家畜以外には鱗のある魚ぐらいなものである。ただし、家畜であっても豚はレビ記の記述により、もちろんダメである。
 マーヴィン・ハリスによると、レビ記の食物禁忌も、豚はエジプトと同じ理由によるほか、他の動物については捕りすぎて希少となった種は、それを食べることによって得られるエネルギー量よりも、捕獲するのに必要とするエネルギー量のほうが大きく、無駄にエネルギーを浪費するな、という観点から禁忌にしていると言う。レビ記の完成の頃には、パレスチナ辺りでは、野生動物を捕り尽くしてしまっていたのが実情のようだ。
 新約聖書には宗教上の食物禁忌はないようだが、キリスト教の経典は旧約聖書と新約聖書の2つであり、キリスト教徒は本来は動物食をかなり制限されるものであって、経典全体から厳格に解釈すると、ベジタリアンにならざるを得ないと考え、そうしている宗派もある。
 なお、キリスト教自然保護団体が、日本の捕鯨に対して、あれほどまでに強硬に反対するのは、鱗のない魚である鯨を食べることはレビ記に反する許されざる行為であるとの思いが根っこにあると考えられる。その昔、キリスト教徒が捕鯨をしまくり、鯨を片っ端から殺していったが、灯明用の脂を取るだけで鯨肉を食べるわけではなかったから、いくら鯨を殺しても聖書に反していなかった、という理屈を持っており、我々日本人にはとうてい理解できない宗教解釈である。
 先進各国で深刻な食糧危機を迎えると、宗教上の食物禁忌が強く叫ばれるようになるだろう。日本の捕鯨が真っ先にやり玉に上げられるであろうが、しかし肉が絶対的に不足するから戦後復興期の学校給食のように鯨を食べるしかなく、日本は捕鯨を強化し、鯨を捕り尽くすだろう。鯨をほとんど捕り尽くし、労多くして益なしの状態になってときに捕鯨は止む。そのように思われる。鯨の多くの種はそのとき滅亡することになる。
 家畜では、豚が世界的に禁忌となり、鶏も餌が人の食糧とバッティングするから大幅に縮小する。牛は本来の餌は人の食糧とバッティングしないが、日本では配合飼料を食べさせているケースが多く、牧草地帯も人用の代替植物の作付けが進むから、牛肉もほとんど食べられなくなる。
 なお、ジビエ(野生の鳥獣の肉)も貴重な食糧資源となり、熊、猪、鹿は絶滅するであろうし、渡り鳥も一網打尽にされ、野鳥は霞網で狩られ、多くが姿を消す。猿の肉も名称を偽って食肉にされよう。
 そうなる前に、宗教が力を付けて仏教の精神により、あらゆる動物(魚は除かれるであろうが)の殺生が法律によって禁止されるかもしれない。危機に瀕すれば宗教が国を動かすであろうから。
 こうして、日本人の食生活は、良くて江戸時代と同等以下となる。初期は毎日魚が食べられるが、これもどんどん先細りしていき、雑穀米と野菜や芋の煮物そして味噌汁の一汁一菜となろうが、野菜も低温気象で不作傾向にあって、どれだけ人の口に入るか保証の限りでない。

第4節 大人の自己保全志向
 人は保守的である。大人になったらそうなる。それは動物だからである。成長段階にある子どもには好奇心があり、学習意欲の塊のような時期が続くが、大人になってしまうと、それが順次弱まり、次第に自己保全にしがみつくようになり、変革を嫌うようになる。
 これに対する異論もあろう。人は年寄りになっても、学習意欲の塊のような輩もいる。小生もその末席を汚している。そこには、2つの原動力が働いている。
 1つは、類人猿や鯨類など頭脳が発達した動物の大人にみられる遊びである。これらの動物は、大人になってもよく遊ぶ。人の大人もよく遊び、なかには大人になっても好奇心が旺盛で、学習意欲が衰えないどころか、より高まる遊び人もいる。小生も今現在(これは13年前のことで、2020年時点では随分と衰えた)は、そのなかの1人のつもりでいる。
 遊びが労働に結び付くことがあり、日本に生まれた匠の技に、この傾向が強い気がする。匠は、遊びと労働を区別する言葉を持たないアポリジニのこころと同じなのではなかろうか。日本の匠たちのこころには金銭欲を超えた何かがきっと存在するはずであり、だから世界一の素晴らしい技が発揮できると考えたい。
 もう1つは、名声を得たいという欲望からである。偉い学者や偉大な発明家になりたいという煩悩のなせる業である。文明が生み出した私有財産というものが限りない欲望をかき立て、権威者として君臨しようとしたり、また、特許を取って一財産築こうとする行動に走らせたりするのである。
 ただし、好奇心旺盛な、こうした行動を取る者は一部の者であって、大人になると、通常はそれに憧れたり、夢を抱くことはあるものの、あきらめのほうが強く、あったとしても興味本位な野次馬根性や単なる出世欲でしかなく、安泰な生活を送ることができるように保身する方向に舵を取る。
 そうなると、今までに学んだもののなかで、これは正しいと教えられたことに対しては、あえて疑問を挟もうなどとは思わなくなってしまう。なぜならば、何らかの疑問をまじめに取り上げた結果として、正しいと教えられていたことが実は間違っており、これを否定せねばならなくなったときには、自己の日常生活の変革を求められることになるからである。そうなると、今までに築き上げてきた地位が揺らぎ、かつ、人間関係に軋轢を生ずることにもなる。自分だけが大勢と異なった行動を取るとなれば、当然にして多くの人との衝突は避けられないのである。また、家族間でも摩擦を生じ、孤立無援となる。加えて、あれは間違っていて、こっちが正しいのだと、いつまでも我を張っていると、変人奇人扱いされ、そして軽蔑されもする。(ブログ版追記 ましてや最近は、ますます空気を読まなければならない社会になってきて、その道に少しでも外れると激しくバッシングされるようにもなってきた。)
 己が道を歩むことは、かくも大変なことであり、若気の至りでそうした経験を積むなかで、大勢に従ったほうが安泰であることを覚えてしまい、大人はいつしか変革を嫌うようになる。
 こうしたことから、例えば「朝食を抜く」ことについては、どう考えたって人の健康にとって最も重要な正しいことなのではあるが、大人は自己保全の本能的働きによって、「朝食は取らねばならない」と教えられてきたことに対して、一片たりとも疑問を挟むことを拒否してしまうようになる。
 もっとも、食欲が全くないのにかかわらず、体にいいからと義務的に朝食を取っている人で何らかの健康障害を持っている場合には、朝食を抜くことの正しさを様々な角度から納得し得る説明を受けると、恐る恐る実行しようという人がどれだけかは出てくる。
 勇気をもってこれを実行し、それによって体調が良好になったと実感した人のなかには、朝食抜きを習慣化する人がでてくるが、これは少数派であり、大多数はこれを貫徹できず、自己保全のために朝食を抜くことを避け、少食とはなるものの、家族や仲間とのお付き合いとして朝食を復活させてしまう。
 朝食抜きを貫徹する少数派は、病気治療という考え方が勝って、こうした行動を続けられるのであろうし、挫折した人であっても少食にしただけでもどれだけかの効果があるから、これはこれでよい。 
 いかんともしがたいのは、客観的に見て不健康な状態にありながら、自分では健康であると思い込んでいる人に、朝食抜きを勧めた場合である。直ちに拒否反応が生ずる。自己保全に加えて、食欲煩悩によって生み出される食い意地との二重の反応により、これに関しては一切の思考がカットされ、脳の思考回路が断線する。つまり、聞く耳持たんという状態になる。
 これは、宗教に特有の反応であり、朝食を取ることが宗教などとは全く無縁なものであるはずではあるが、残念ながら日本人はわずか百年余の間に完全に洗脳され、「朝食信仰」なるものに支配されてしまっているのである。当店発行の毎月の新聞で6か月にわたり、朝食を抜くことの正しさを解説したところでの、お客様の反応がそのようであった。当初は、これを1年間続けようと考えていたが、せっかく築き上げてきた当店の信用というものが、これにより失墜しそうな気配が感じられ、やむなくシリーズ半ばで中止せざるを得なかった。
 いったん信じた宗教から抜け出すのは容易ではない。オーム真理教に入信した若者を家族が取り戻すのが容易ではなかった事実からも明らかなことである。日本人に朝食を抜くことを習慣化させることは、平和で豊かな時代が続くかぎり、全く不可能なことであることを、小生は身を持って実感した次第である。

第5節 飢えを救う宗教
 こうした日本人の安泰な食生活は、残念ながらそう長くは続かない。理由は今までに何度も述べた。深刻な食糧危機が訪れ、先進各国ともにこれが全く保証されなくなる時代がいつか必ずやってくる。
 食糧自給率がたったの30%にまで落ちた日本である。休耕田に全部作付けし、飼料用作物を食用に転換すれば何とかなるという安易な考え方もあるが、それは甘い見通しであると言わざるを得ない。激しい寒冷化ともなれば大凶作となり、目論んだ収穫量に遠く及ばなくなることは必至である。
 北朝鮮の国民
がどれだけの食糧を口にしているか定かでないが、それと大差ない状況、いや、それ以下となろう。飢えに苦しむ彼らは安泰な食生活を求めて脱北しようとするが、地球に恒常的な寒冷化が襲ったとき、先進各国の国民は、脱出できる先がもう世界のどこにもないのであるから、あきらめるしかない。
 あきらめろと言われても、あきらめきれないのが食欲煩悩であり、飽食に慣れ親しみ、美食文化にどっぷり漬かり、食い意地の張った日本人であるがゆえに、自らの力で飢えの苦しみに打ち勝つことはとうてい不可能となる。日本以外の先進各国ともなると、肉食傾向が強いから、より凄惨な姿をさらすことになる。
 飢えの苦しみから精神的に開放してくれるのは宗教しかない。紀元前に仏教などが生まれた社会背景と様相は類似したものとなろう。あのときも、地球の寒冷化で凶作が延々と続いた。
 自分は無神論者であると思っている日本人であっても、朝食信仰を含めて何らかの信仰を持っており、少なくとも呪術(=神頼み)に縛られているであろう日本人であるからして、新たな宗教を受け入れる余地はたぶんにある。食糧の絶対的不足が何年も続き、かつ、先の展望が見えない状況ともなれば、自己の生存の危機を乗り越えるには、宗教にすがるしか選択肢はなくなる。
 先行して少食健康科学なるものが脚光を浴びるようになり、現存する宗教はそれを取り込み、教義の拡大解釈や解釈の変更でもって乗り切りを図り、勢力を伸ばそうとするであろう。なかには、ずっと言い続けてきた我が教義こそ一切の拡大解釈や変更なしに人々を救うものであると主張し、その宗教の先進性を強調し、信者の拡大を図るであろう。
 その筆頭に挙げられるのが、北西インドで仏教と同時期に発生したジャイナ教である。仏教と類似点が多い宗教であるが、あらゆる生き物の不殺生を強く主張する厳しい戒律を持っている。現在、インドにその国民の0.5%に満たない少数の信者しかいないが、経済界や知識人の在家信者が多く、その存在感は大きい。ヒンドゥー教徒であるインド独立の父・ガンジーがジャイナ教徒と間違えられたことから、世界的に有名な宗教になったようである。ヒンドゥー教は、様々な宗教が仲良く集まった宗教のデパートのようなものであり、ジャイナ教の一派がヒンドゥー教に組み込まれており、その信者の一人がガンジーであったのである。
 これらとは別に、新興宗教も当然に誕生することも間違いない。どんな宗教が生まれるか。様々な少食健康法を母体として競い合って乱立するであろう。
 北西インドに仏教が生まれた当時、当地はバラモン教が支配しており、仏教は当然に新興宗教であった。また、古い仏教経典のなかに、六師外道として同時期に発生した仏教以外の大きな勢力を持った6つの宗教の教義を紹介し、それを乗り越えたところにあるのが仏教であると主張していることからも明らかなように、新興宗教が乱立していた。また、六十二見という記述もあり、それだけの数の新興宗教が存在していたことも明らかなことである。そして、それら新興宗教に押されて危機に瀕したバラモン教は、その後において仏教などの教説をその教義に取り入れてヒンドゥー教に衣替えし、インドにおいて勢力を盛り返したという歴史を持つ。
 多神教の日本においては、これと同じようなことが起きる土壌があり、少食健康科学を元にする数多くの新興宗教が柔軟に発生するのは間違いなかろう。

第6節 少食のすすめ
 いずれにしても、必ず訪れるであろう先進各国の延々と続く飢餓時代には、少食を良しとする科学、思想、宗教であふれかえるであろう。日本において少食の原点となるのは、すでに戦前に確立されている西式健康法にあり、1日500ないし600キロカロリーで健康に生きていけるというものである。
 今日、これを応用発展させ、医療現場で実行しておられる医師が何人かおられ、そのうちの一人である甲田光雄医学博士(故人)によれば、1日400キロカロリー程度の摂取で難病の治療効果が上がるとおっしゃっておられる。また、人は長期にわたり1日300キロカロリーの少食であっても、いや、そうすることによって、初めて健康に生きていけるともおっしゃる。いずれの場合も、基本形は生野菜を中心に、穀類はごく少量の生の玄米粉とし、動物性蛋白質は一切取らないというものである。これは、人が火食を始める前の食性に戻ることであり、まさにヒト本来の食性に従うことが基本となる。
 ところで、生野菜中心に切り替えるといっても、日本人がたいして野菜を食べていない現状を踏まえると、はたして寒冷期に十分な野菜が供給できるかどうかは甚だ疑問であり、これが大きな難題として残る。
 なお、朝食抜きとするのも、西式健康法の主要事項であり、これについては、西丸震哉氏や小山内博氏も別の角度から、これの重要性について独自の理論展開をなされており、その内容は省略するが、少食につながるものである。
 究極の少食は、何度も繰り返し行う長期断食にあり、これはジャイナ教において顕著である。甲田氏は、朝食抜きの少食生活に慣れれば、毎週曜日を定めて1日断食を行ったり、年に数回、1週間程度の長期断食を定期的に行うことが容易となり、より少食で健康体にもなるともおっしゃっている。
 西丸氏によると、動物というものは何日も獲物にありつけず、不定期的な断食を繰り返す生活が通常の出来事であり、生理機構がそれにうまく順応したものとして完成しており、ヒトも動物であるからして当然にその能力は残されている。毎日3度も食事を取るから、その機能が錆びついているだけだとおっしゃる。
 長期断食に慣れれば、超長期断食も可能となる。インド人機械工の男性(当時64歳)が411日間にわたり断食した記録があり、その間ずっと通常の生活で通し、404日目には登山も行ったという、とても信じられない“お化け”のような人がいた。これは、アメリカの科学者チームの生態調査としても実施されたものであるから、真の出来事である。(ブログ版追記 その後にインド人僧侶がほこらに入って断食修行し、タイ記録の411日間断食を行ったが、彼はその翌日に姿をくらませ、その後の行方は不明とのことである。これは勘繰りだが、あと1日で新記録となるも、体が持たなかったのかもしれない。)

 『肉を一切断ち、生野菜中心の食とし、朝食を抜き、少食とする。加えて時々の長期断食』
 これが、地球寒冷化に伴う食糧危機が訪れた場合に求められる食生活であり、ヒト本来の食性に限りなく近づけることによってのみ、飢餓を乗り越え、かつ、健康が確保できるのである。
 もっとも、どんな場合でも、急激な食生活の変更は、体を壊す。したがって、今から心して、将来求められることになる食生活に近づけようとする努力が要求される。

第7節 年寄りの利己主義
 理屈ではそうなるのであるが、今日の日本人の食生活とあまりにもかけ離れた、このような少食に今から取り組めといっても、難病にでも罹らないことには、食欲煩悩を抑え込むことはとうてい不可能である。
 小生の場合は、たとえ難病を患ったとしても、あまりにも食い意地が張っているから、そんな牛の餌のような食事に耐えられそうになく、腹いっぱいうまいものを食って、いっそ早々に死んだほうがマシだ、となる。娘も息子も東京へ行って一人立ちし、田舎で夫婦二人暮らしをずっと続けていて、ぼつぼつ粗大ゴミになろうとしている男年寄りは、ずいぶんと身勝手になり、横着になり、そんな考えしか生まれ出てこない。
 還暦を過ぎたあたりから年寄りの利己主義はこうして生まれる。さらに10年、20年と歳月が過ぎ、高齢になるにしたがって、これが高じていき、“余命幾ばくもないのだから、うまいものを腹いっぱい食わせろ”と言うようになり、あげくのはてには、“俺はまだ死にとうない”とわめきたてる。とどのつまりがボケ老人である。
 こうしたことは、やすやすと想像できるのであるが、年を重ねるにしたがって、我慢というものがだんだんできなくなってしまい、ついには我慢という観念そのものまで忘れてしまうから、人間とは何ともお粗末な生き物である。間もなく還暦を迎える小生も棺桶に片足を突っ込みかけた年代にあり、もはや後戻りは不可能であり、横着に前へ前へと進むしかない。食に関しては、一片の疑いもなく、まっしぐらに前進している。我が人生を振り返ってみるに、ものごころ付いたときから毎日のように魚が食卓にのぼり、高度成長とともに肉食文化にどっぷり漬かった食生活に慣れ親しみ、日本が豊かになった頃には、魚、鶏、牛、豚が食卓を飾らなかった日はなく、その量が年々増えていった。獣肉の消化能力が落ちた今日では、若かりし頃に比べて口にできる量はガクンと落ちたものの、とてもじゃないが精進料理では我慢できず、もはやベジタリアンには決して成り得ない。
 「肉」という「麻薬」から決して抜け出せないのである。食の進化論を書くに当たって、様々な方面から洞察するなかで「肉は麻薬である」ことを知るに至った小生ではあるも、肉は麻薬であるがゆえに決して止められないのである。悲しいかな、小生は完全な麻薬中毒患者に成り下がっている。
 動物性食品に対する嗜好が歳とともに変わってきたのも興味深い。還暦を迎える前あたりから胃の消化能力が落ちたからであろうが、獣肉や鶏肉より魚のほうがおいしく感じられるようになり、特に、その特有な臭いから牛肉は苦手となった。それでも、年に一度や二度は、霜降りの飛騨牛を一切れ二切れでいいから賞味したいという、強い欲求を抑えきれないでいる。
(ブログ版追記)
 その後、小生の嗜好は再び変化した。70歳近くなってからは、魚より肉が食いたくなったのである。焼き肉屋へ行って骨付きカルビが食いてえ、牛タンが食いてえ!と、欠食児童並みに肉への欲求が高まりを見せてきたのである。今は亡き我がおふくろは80代は魚を求めたが、90代になると肉を求めたのと同様な変化である。これは日本人の一般的傾向のようである。西式健康法を樹立された西勝造氏は「中年までは肉や魚を取らなくても健康でいられるが、通常60代になったら魚を求めるようになり、70代となったら肉を求めるようになるのが健康人である。高齢になると体が自然にそれらを求めるようになる。」と言っておられ、これは、加齢に伴い体内におけるアミノ酸リサイクルシステム(オートファジー)が鈍り、必須アミノ酸を口から補給せねばならなくなるからであろう。それが食の嗜好変化となって現れるのである。
(追記ここまで)
 こうして、日本人総麻薬中毒患者であるこの世の中においては、肉や魚を食うことが正常とされ、完全なベジタリアンは精神異常者との扱いを受けてしまう。食欲煩悩が定める物差しによって、食の良し悪しが決まってしまうのである。そして、時の栄養学者も麻薬中毒患者であり、肉食生活から抜け出せないでいるゆえに、その物差しにうまく適合するような理論を無意識的に組み立て、動物性蛋白質は必須の栄養であり、毎日たっぷり取れと「正常思考」してしまうのである。これに逆らうことは、小生とて、もはやできない。

 近々に寒冷化が訪れ、食糧危機を早々に迎えることとなった場合、我々団塊世代の次の世代、第二次ベビーブーマーである20代、30代の若者(ブログ版追記 今に至っては彼らは30代、40代となり、その子どもが順次大人になりつつあるが)も麻薬中毒患者であるが、大きな苦悩を伴うものの、彼らの再生は不可能ではない。なぜならば、彼らはその次の世代を正しく育てねばならないという責任感を抱いており、我が子のことを考えれば、肉を断つことに我慢が利くからである。もっとも、我慢の連続という苦から脱却するために、もがき苦しむではあろうが、その責任から、何とかして解決策を見いだそうとして懸命に努力することだろう。
 彼ら若い世代は思いのほか謙虚である。一握りの若者の横着さから、ご無礼ながら今どきの若者は皆なっちょらんと感じていたが、実はそうではなかった。ここ10年ほど(2007年時点でのこと)店頭で接客するなかで、お客様に簡単な助言をするようになったのだが、彼ら若者は小生のつたない説明を謙虚に聞いてくれ、かつ、たいていは礼儀正しくお礼も言ってくれる。小生をとてもうれしくさせてくれ、彼らに頭が下がる思いがする。今の若者はなんてすばらしい人たちばかりだと感心させられる。
 この若者の謙虚さは、どこから生まれ出てくるのだろうか。それは学習意欲からではなかろうか。されば好奇心があるということになり、新しい文化を構築できるたくましさを持ち備えているということになる。ここに、一途の望み、そして明るい展望が開けたような感がしてきた。
 しかし、彼らの足を引っ張り、彼らの更生の邪魔をするのが、年老いた我々団塊の世代である。「息子よ、肉を食わせろ。」とわめきたて、加えて肉が手に入れば孫たちにも食べさせ、「どうだ、肉はうまいだろ。昔は良かった、うんぬん…」と孫に話しかけ、孫たちが受けるべき新しい教育を妨害する。
 時代の変革期には、間に入った子持ちの若者たちは、いつも年寄りたちから苦汁をなめさせられる羽目に落とし込まされるから、なんとも哀れである。

第8節 姨捨山思想の復活
 年寄りは姨捨山に捨ててもらうしかない。
 人類の歴史上、これがどれだけあったかは隠された出来事であるゆえ不明だが、日本で語られるところでは、たいていはお爺ではなくお婆である。これは男尊女卑の表れであろう。
 動物の世界に存在する、本来あるべき姨捨山思想の復活は、年寄り、特に男の力があまりにも強いから、望みえない。エスキモーやアポリジニに残っていたこの文化も、もはや姿を消してしまったようである。
 動物の世界に存在する、本来あるべき姨捨山思想は、次のようなものである。
 草食動物が肉食動物に追い回されて犠牲になるのは、幼い子どもであるとの認識が我々には強いが、これは草食動物が一時的に増えすぎたときの調整であって、一般的ではない。子どもでは小さ過ぎて、肉食動物の腹の足しにはどれほどにもならない。やはり大人の草食動物を捕らえたいが簡単にはいかない。そこで、長時間にわたり追いかけたり、後をつけたりして、大物を得ようとするのである。こうなると、体力が衰えた年寄りは逃げるのを止め、“俺を食え”とばかり肉食動物に横っ腹を見せて立ちはだかり、一人犠牲になって群の仲間を救うのである。ゾウほどの巨体動物となると、群に着いて歩くことさえ辛くなった年寄りは、静かに群れを離れ、肉食動物の餌食となって死を選ぶのである。
 しかし、我々が、テレビで野生動物の世界を、さもこれが真実であるかに見せられている番組は、100時間もカメラを回して1時間に編集するのが普通だから、全てフィクションであって、視聴率を稼げるドラマに仕立てている作り話なのである。基本的に、夜行性である肉食動物が真昼間に狩りをするのはまれであることからも、かような番組を信じてはならないのである。
 このように現実の野生動物の年寄りは偉い。姨捨山思想を自らのものとしている。
 この思想をしっかり持っていたのが、エスキモーやアポリジニであったのである。エスキモーは長距離移動を繰り返す。体力が弱ったことを自覚した年寄りは、“俺はここに残るから皆は行ってしまえ”と告げ、一人凍死を選ぶ。凍死寸前までいった山岳遭難者がそうであるが、凍死は痛くも痒くもなく、苦しくもなく、夢見心地の気分を味わいつつ、すんなり命を絶つことができることを、彼らは知っているのであろう。一方のアポリジニの場合は、病気になった年寄りは住まい屋の外に放置され、そうされた年寄りは決して悪足掻きせず、静かに自然死を選ぶのである。こちらの場合はエスキモーと違って一晩で死ぬことはできず、何日かかかるのだが、水も飲まないのであるから、早晩死ぬことができる。通常の動物と違って、ヒトは絶えず水分補給せねばならない特殊な動物ゆえ、飲食を断てば早々に脱水症を呈し、間もなく血液がどろどろになって脳への酸素供給が滞り、つまり半分窒息状態になって夢見心地の気分を味わいつつ、すんなり命を絶つことができることを、彼らは知っているのであろう。柔道の締め技が決まったときと同じ気分になるのである。
(ブログ版追記)
 日本には寝たきり老人がものすごい数にのぼる。寝たきりになっても点滴をし、鼻から流動食を流し込み、それができなくなっら腹に穴をあけて胃ろうをし、これでもかとばかり寝たきり老人の延命措置に手を尽くしに尽くす。西欧人は、この日本の現状を老人虐待という。彼らの世界には、今でもちゃんと姨捨山思想がしっかりとある。車椅子を自分で動かせなくなり、食事も自分の手で食べられなくなると、もはや神に召される日は近いと観念し、飲食を断つ。周りの介護者もそのような状態になったら手助けをしないのである。そうして飲食を断って1週間か10日すれば、静かに旅立つのである。日本でもこうしたやり方で寝たきり老人を一掃せねばいかんだろう。西欧にはそしてアメリカにも寝たきり老人は基本的に存在しないのであるから。
(追記ここまで)
 団塊の世代は、いやになるほど実に大勢の人間がいる。我々の一世代上の80代、90代の年寄りでさえ、今や多すぎる状態にある。このまま推移すれば、20年、30年先には、日本はあまりにも醜い姿の年寄りであふれ返る。若者たちに恨まれ、憎まれ、いたずらに余生を送るのではなく、姨捨山の思想をしっかり持たなければならないのである。
 それが嫌なら生涯現役で働くしかない。「働く=ハタラク」とは「傍(ハタ)」を「楽(ラク)」にすることであり、周りの人に何らかの手助けができ、周りの人に年寄りの存在を喜んでもらえればいいのであって、銭を稼ぐばかりがハタラクことではない。ハタラクということは、死の直前まで可能である。(ブログ版追記 そして、死期が近いと悟ったら、自然死を選べばいいのである。“もう何も食いたくない、もう何も飲みたくない”と飲食を断つのである。そうすれば、1週間か10日で安楽に静かに旅立てるのである。死期断食の実行である。)

第9節 若者文化の醸成
 若者に老後の面倒をみてもらうなどということは、動物の世界には決してない。若者に迷惑をかけるなどということは決してしないのが動物である。加えて、若者の邪魔をしない。チンパンジーやニホンザルの社会にも文化があり、極めてゆっくりではあるが、その地域地域で異なった新たな文化が醸成されていく。その文化を構築していくのは必ず若者であり、大人たちとの間にどれだけかの軋轢が生ずるのは確かである。大人は決して若者が切り開いた文化を受け入れようとはしないのであるから。しかし、彼ら大人たちは、絶対に若者たちの邪魔をしない。静かに見守ることに徹している。それが動物である。
 我々人間が見習わねばならない最大の心構えがここにある。若者が作りあげようとしている新たな文化を決してけなしてはならないのであり、ましてや抑え付けてはならないのである。絶対に。
 それが、どうだ、これは文明というものが誕生してからだろうが、社会規範なり道徳というものは、儒教がいい例だが年寄りに有利なように定められ、これが、国家が国民を支配するのに好都合だから、それが正しいものだとされ、若者を抑え付け、縛り付け、そして洗脳する。
 年寄りにとっては、こうして出来上がった社会規範なり道徳というものは、実に有り難いことではあるが、これによって、年寄りを支える壮年層そして若者さらには子どもが苦しめられる。
 世代はどんどん更新されていく。団塊の世代も孫を持つようになった。子どもは若者以上に純真であり、素直であり、どんな風にも染まってしまう。“自分がそのように染められてきたから、お前たちもそのように染まれ。俺たちはこうしてやっと我が世の春が来たのだから、これからは楽をさせろ。”でいいのだろうか。
 多難な人類の将来ではあるが、明るい未来づくりは今の子どもたちの手腕にかかっている。彼らがすくすくとたくましく成長することを願わずにはいられない。小生に孫はいない。黙って周りにいる子どもたちを見守るしかないのは少々寂しいが、間違っても余計なおせっかいをやかないでいきたいと思っている。
(ブログ版追記 本節は13年前の初版を大幅に書き換え、小生の今の心境をつづりました。なお、初版では、彼ら子どもたちに贈る言葉はまだ小生は持たないとして、司馬遼太郎が小学校6年生の国語の教科書に載せた「21世紀に生きる君たちへ」をあとがきに代えて掲載して、本論を閉じたところです。)

つづき → あとがき

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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これぞ「最新」睡眠健康法(三宅薬品・生涯現役新聞N0.310)

2020年11月25日 | 当店毎月発刊の三宅薬品:生涯現役新聞

当店(三宅薬品)発行の生涯現役新聞N0.310:2020年11月25日発行

表題:これぞ「最新」睡眠健康法

副題:短時間爆睡そして8時間の地球の重力解放がポイント

(表面)↓ 画面をクリック。読みにくければもう1回クリック。裏面も同様です。

  

(裏面)表面と関連する「日本講演新聞」の記事

 

瓦版のボヤキ

(表面)表題:ごみ拾いはツキを呼ぶ?!

 

(裏面)表面と関連する「日本講演新聞」の記事

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食の進化論 第10章 美食文化の功罪

2020年11月22日 | 食の進化論

食の進化論 第10章 美食文化の功罪

第1節 人間の異常大発生
 この地球上に哺乳類が現れる前、恐竜が大繁栄していたと言われている。森林とそれに続く大草原のなかに、巨大な恐竜がそれこそウジャウジャ住んでいたかに錯覚する。しかし、細い足であの巨体を支えるにしては、地球の重力はあまりに強すぎて、陸上を動きまわることは困難であった。そこで、川や湖で体を浮かし、首を水面からヌ~ッと出して、陸上の草を食べていたと考えられる。
 大きな恐竜の首が長いのは、岸辺からより遠い所の草を食べたかったから、そのように進化したのである。こうした生息条件から推計すると、恐竜の生息量は、重量で100万トン程度にしかならない。
 鯨について推計すると、最も多かった頃には、全海洋で4千500万トンであったろうと考えられる。

 食生態学者の西丸震哉氏(故人)がそのようにおっしゃっている。では、現在の人間はというと、氏のデータは少し古いので最新のデータに置き直したところ、3億トンにもなる。77億人(2019年)の総重量である。
 西丸氏の話を続けよう。

 これほどの量になると、生物界では、その種の異常大発生と言う。人間の異常発生が、農業において作物の異常発生を極度に進め、これにより病害虫の異常発生を起こし、…。また、主要作物の穀類は作付けが限界に近づいており、これを全部人間の食糧にすれば80億人の人間を養うことができるものの、家畜に回す分が多く、肉、乳、卵に変形させると7分の1に減り、たいへんな無駄となる。
 一度、一般化した肉食率を減少させることは困難を極め、その国が飼料を確保できる力がある限り、絶対に肉食率は低下しない。その力がない国から順次脱落して、強制的に人口を減らされる。つまり餓死者が出る。
 現時点で日本人の安楽追究が度を過ごして、20~25%の過食の域に達している。そのために生活習慣病の多発の不幸を招いているわけだから、摂取カロリーは1日1750キロカロリーに、蛋白質は45グラムに減らさねばならない。この数値は重労働での生体実験で実証した値であり安全である。

 以上のように西丸氏はおっしゃっている。
 なお、参考までに平成30年国民栄養調査によると、日本人成人の平均摂取量は、それぞれ男2164・女1728キロカロリーと、男78・女66グラムである。
 こうした西丸氏がおっしゃるような減食が、現在広く勧められている。腹八分で済ませ、ということである。しかし、それは不可能である。ダイエットのために一時的に実行できたとしても決して永続はしない。
 人間は、あまりにも口が卑しい動物になってしまったからである。特に、日本人は、朝昼晩と1日3食も取り、晩は苦しいほどの量を食べてしまう。かつ、おやつや夜食を取ることも多い。食べる量を減らして腹八分で済ませても痩せないとよく言われるが、苦しいほどに食べればそれは120%であり、八分に落としても満腹状態であり、決して痩せるわけがないのである。

第2節 美食文化の始まり
 どうして人間がこんなにも口が卑しい動物になり下がってしまったのであろうか。それは人間の異常発生に伴って誕生した文明の高まりによって、富裕層が生じて生活に余裕ができ、美食を求めるようになったからである。専従の料理人を雇い入れ、彼らの技術研鑽で、一気に美食文化の花が開いたことであろう。
 まずは味付けが先行したであろう。塩、香辛料で始まり、砂糖、酒と続き、遅れて植物油の登場となろう。これらにより、何の変哲もない素材の味が、美味なるものに変身する。次に、ソースの開発により、本来は食材が腐ったときの味である酸味を楽しむようになる。最後に、本能的には毒と感ずるはずの苦味までも嗜好に取り入れた。なお、子どもは苦味を嫌う傾向にある。苦味を求めるようになるのは中高年になってからだ。苦味というものは、健胃薬として働き、胃の働きが落ちてきた中高年の胃がそれを欲するからである。このように、味は特定の内臓や器官と関連しており、年齢とともに変化していくものである。また、大汗をかいたら塩味を求め、逆に寒すぎれば体を温めるために塩味を欲するというように、生活習慣とともに味覚は変化もする。

 国が繁栄して庶民にまで生活の余裕が生ずれば、味付け法が広く普及する。美味なる料理は食がすすみ、毎日、満腹になるまで食べてしまう。繁栄は長続きせず、やがて没落して生活の余裕がなくなるが、一度覚えた美食文化は容易には捨てられず、美味なるものを求める欲求はかえって高まりを見せることになる。
 西丸震哉氏が次のようにもおっしゃっている。
 ニューギニアの原始種族には、味に関係する単語が一つもない。彼らは、来る日も来る日も同じものを同じようにして食べ、動物がガツガツ餌にかじりつくのとあまり変わらないやり方で、かなりあっけなく短時間で食事を済ます。原始社会人に共通して言えることは、あらゆる食べ物に対する嗜好度が低いということである。
 食べ物はなければ困るという意識はあるが、一応存在するだけで安心し、それ以上の精神的高揚にはつながらない。食生活を楽しんで生きているとは思えないし、おそらくは考えたこともないであろう。
 そして、原始種族は、案外山菜の類には手を出さない。苦味などは毒がある証拠であり、毒にやられる危険を回避しているのであって、彼らの食材の幅は狭い。文明社会において、与えられた食べ物は何でも安心して口にするということは、外界に対する危険感を喪失し、原始性を急激に失っていくという、一種の退化現象かもしれない。

 西丸氏の話はこれくらいにして、この外界に対する危険感の喪失は何も人間だけに止まらない。
 2、3の書からそれを紹介しよう。
 氷の島、グリーンランドへ連れていった馬に食べさせるものがなくて、やむを得ず肉を与えたら食べたので、飼育することができた。動物園では、乳離れしたゴリラに肉をどれだけか与えて飼育すると元気に育つ(ただし、ある程度成長した子どもや大人のゴリラは肉を与えても手を付けようとしないが)。家畜の牛には、家畜の残渣を飼料に混ぜて与えれば食べるのであり、そうすることによってよく育つ。
 このように、完全な草食動物であっても安心して肉を食べ、また、動物食をすんなり受け入れることが多い。さらに、野生動物も、動物園で飼育するとき、彼らが食べたことがないものを試験的に与え、食べるようであればそれを代用食とする。竹しか食べないパンダがリンゴをおいしそうに食べるようになったりもする。
 飼育される動物は、餌をわざわざ自分で探しに出かけなくても、人間が餌を定期的に運んできてくれ、これほど安楽なことはないと、安心して人間に依存してしまい、与えられた食べ物には決して毒がないと思い込み、食べ物の種類を大きく広げるのである。
 人間が、かくも広く何でも食べるようになったのは、食べたことがない物を食べてみるという勇気ある先駆者のお陰ではあるが、いったん安全と認識されると、より嗜好に合うように味付けを施し、食文化に組み込んでしまう。そして、あるところの文明が自分たちのそれより優れていると思えば、安心してその文明の産物に頼り、世界中に定着する道を歩んできたのではなかろうか。
 こうして、文明の発達に比例して、美食文化が高まり、広まっていったのであろう。極端な言い方をすれば、食文化に関しては、人間は文明という得体の知れない「生き物」の家畜と化してしまったとも言える。

第3節 1日3食は口の卑しさから
 人間の口の卑しさの第2は、1日3食も取るようになったことである。
 これは、特に日本人に顕著である。採集狩猟時代は不規則な食事とならざるを得なかったであろうが、農耕が始まってからは安定して穀類が確保できるようになり、決まった時間に1日1食生活をしていたと思われる。それは、前漢時代(紀元前206年~紀元8年)に完成された基本古典医学書「黄帝内経素問」の「第40編 腹中論」から読み取れる。その後、世界中がたいてい1日2食になったことは世界各地の古文書からはっきりしている。決して3食ではなく、朝食は取らなかったのである。
 動物の生理機構は同時並行して2つも3つも働かせることはできない。消化吸収・活動・病気治癒は並立し得ないからである。最初に動物の病気治癒について説明しよう。家畜やペットにも当てはまる。
 彼らは病気になったときには、一切の飲食をせず、体も動かさず、ただじっとしている。免疫系統に全てのエネルギーを集中させて自然治癒力を最大限に発揮させるためである。人間とて同様であり、病気すると食欲が失われる。栄養を付けないと病気が治らないからと、無理してでも食べよ、というのは大間違いである。もっとも、例外はある。それは、ひどい栄養失調の場合であるが、現在の日本人には無縁の話だ。したがって、ヒトに特有の脱水症に備えて、喉の渇きを止める程度に水分補給だけにしたほうが治りがずっと早いのである。
 次に、消化吸収についてであるが、食べ物が口に入ってから胃腸で消化吸収し終わるまでに使われるエネルギー量は、摂取したエネルギー量の2割程度にもなる。当然に、その間、血液は消化器系統へ集中して送られる。特に胃での消化が急がれるから、食後に眠くなるのは、それにより脳への血液循環が少なくなるからである。動物は食べ終わったらゴロゴロしているのは、完全に消化吸収しようとしているからだ。
 3つ目の活動については、肉食動物のライオンがいい例である。彼らは完全な空腹状態になってからでないと狩りをしない。消化器系統が完全な休み時間になってからである。血液が脳と筋肉に集中して送られる態勢が整ったとき、初めて狩猟を開始するのだ。
 ライオンの場合、狩猟は失敗の連続で何時間経っても獲物が手に入らないことが多い。初めのうちは筋肉や肝臓に蓄えられているグリコーゲンをブドウ糖に変換して運動エネルギーを生み出すが、これを使い果たすと、体内に備蓄している脂肪を分解し、ブドウ糖の代わりになるケトン体などを作り、これで運動エネルギーを生み出す。2日、3日と狩猟に連続して失敗しても、備蓄脂肪がある限り、全力疾走が可能であり、腕力も決して衰えない。1日1回程度の少しばかりの水分補給だけで、いずれは獲物を手にすることができる。
 ヒトの生理機構も同様である。夕方の明るいうちに軽い夕食を済ませ、日の出とともに起き、水を飲むだけで作業に取り掛かることができるのである。消化器系統がほとんど休み時間に入っているから、体がよく動き、頭も冴えて効率良く作業が進む。喉が渇き、時々水分補給せねばならないのがライオンと違う点である。1日の作業がお昼には終わる。ここで最初の食事を取る。食事が済むと消化器系統が盛んに働く時間に入り、ゴロゴロしているか昼寝をする。日が西に傾き始めると、腸は活動中だが胃の活動は終わっており、軽作業ができる態勢となる。翌日の作業準備をゆっくり行い、後は日が落ちるまで自由時間となる。
 食糧が乏しい採集狩猟時代であれば、早々に寝てしまい、1日1食で済ませてしまったであろう。穀類栽培が本格化して食糧備蓄に余裕が出だしてからは、口寂しさから明るいうちに軽い夕食を取り、1日が終わる。
 歴史時代になってからも、つい最近まで、世界中の庶民はこのような生活をしていたと考えられるのである。
 長寿で知られるグルジアでは、朝食は取らず、1日の主な食事は午後2~4時頃までに取り、夕食は6~7時半までに軽く取るという生活スタイルを取っている。生理学的に実に理にかなっているから長寿なのである。
 朝飯を食わなくても、力が出るのである。いや、逆に、朝食を食おうものなら、力仕事を始めると腹は痛くなるし、力は出ないし、脳に血が回らないから、やる気も生じないのである。
 いつから人は馬鹿みたいに朝食を取るようになったのか。
 記録としては、紀元前の古代ギリシャ市民がそうであった。市民は皆、富裕層であり、まともな労働もしなくてよかったから、一日中遊ぶことが仕事であった。すると、口寂しさが高じて卑しさに変わる。朝は胃が空っぽであり、食べようと思えば、容易に胃の腑に納まる。こうして朝食を取るようになった。
 ヨーロッパでは、中世の時代まで、栄華を極めた特権階層は1日3食であった。そして、贅沢病に悩まされた。今で言う生活習慣病である。現在のヨーロッパでは、何度も繰り返されたこの悪習を教訓に、庶民も朝食は食うことは食うが、極めて小食にしており、水分補給がメインと言ってもいい。ただし、民族的例外もある。それはユダヤ人だ。彼らの存在基盤は脆弱であり、その日の昼食や夕食が確実に取れる保証はなく、先食いしておかねば安心して1日を過ごせないから、朝食もしっかり食べる。それが今日でも習慣化している。
 日本での1日3食は、鎌倉時代に一部宗派の僧侶の間で始まったようであるが、江戸時代の初期までは、天皇や将軍までが朝食は食べていない。朝食を食べ、1日3食となったのは、
江戸時代になってしばらくして世情が安定して天下泰平となってから、僧侶、公家、武士に広まり、元禄文化が花開いた頃に江戸町人の間にもこれが広まった。そして、大坂町人もこれに続いた。しかし、農民や地方の商人は、依然として1日2食で通すのが普通であったようである。
 1日3食化と時を同じくして、食生活が贅沢になり、雑穀入り玄米食から精白米食(白米食)を食べるようになり、これの多食により、江戸患いが流行り出した。ビタミンB1欠乏による脚気である。
 たいていの藩では農民もけっこう豊かではあったものの、朝食は取らず、飯は雑穀入り玄米食であったが、開国後、明治中期には1日3食の白米食(もっとも麦飯が多かったが)に変わったようである。その原因は、明治初期に新政府が富国強兵政策の下、農家の次男坊、三男坊を対象に兵隊募集をかけたことによる。殺し文句は「1日3度、白い飯が食える」である。これによって、兵役から戻った働き盛りの若者が、家に帰ってから1日3食の白米食を求めたのであり、こうして1日3食が全国に広まったと思われるのである。
 白米3食は、江戸時代の将軍に脚気を引き起こして心不全で若死にさせるなど、その危険性は枚挙にいとまがないのだが、兵食において、とんでもない悲劇をもたらした。少々長くなるが、それを紹介しよう。
 篠田達明氏の「闘う医魂」のなかで詳細に示されているが、その概略は次のとおり。
 「1日3度、白い飯が食える」という白米食は、質実剛健な兵士の4人に1人が脚気を患うはめとなった。明治18年に麦飯に切り替え、いったん脚気を激減させた。しかし、明治27年の日清戦争では4万1千余名の脚気患者を出し、死者まで出た。その病死者数は戦死者の約4倍の4千余人にのぼる。さらに、明治37年に始まった日露戦争では25万人余の患者が発生し、病死者は戦死者の約3倍の2万8千人にのぼった。
 なぜ、こんなことが起こったのか。犯人は、陸軍医務官の森鴎外である。彼は脚気伝染病説を信奉し、陸軍兵食論で白米食を主張し、それを実施させたからである。脚気は麦飯で防ぐことが分かっていながら、白米食に切り替えさせたのである。白米食によって脚気が再発しだしたことから部下から麦飯に戻すよう進言があったが、森鴎外はそれを聞き入れなかった。乃木希典大将は、この森鴎外に全幅の信頼を寄せており、それゆえ203高地でいたずらに戦死者を出すばかりであった。なお、当時、海軍は麦飯を取り入れており、脚気患者は発生せず、日露戦争での日本海海戦で圧倒的な勝利を収めたのとは、あまりにも対照的であった。
(要約引用ここまで)
 その後、乃木大将は戦争であまりにも多くの死者を出した責任から自害したが、一方の極悪人である森鴎外は小説家となり、戦後に文化人切手にも採択されるなど文人として高く評価され、今日に至る。
 なぜに国家反逆罪以外の何物でもない森鴎外が免責されたのか。それは、森鴎外が官僚のトップにいたからにほかならない。今も昔も官僚のやることは全て正しいのであり、誤りはないとされているのである。小生思うに、森鴎外自身も、脚気は伝染病でないことに早晩気が付いていたことだろう。しかし、官僚のトップに上り詰め、その地位を失いたくないから
、自分が打ち立てた伝染病説と陸軍兵食論は絶対に撤回できない。1日3食とも白い飯が食えれば兵隊どもは大喜びするから、陸軍の徴兵が円滑に進み、国民も納得する。その兵隊が大勢死んでも兵隊は単なる虫けらであり、何万人死のうが俺の知ったことではない。病死者もお国のため戦死したことにしておけばよい。森鴎外はそんなふうに考えたであろう。そして、森鴎外は巧妙な逃げ道を打っていた。その兵食論には「純白米にたくわん」と記されていたのである。たくわんは米糠で漬け込むから、多量にたくわんを食べれば玄米を食べたのと同じになり、脚気は防げる。そのためには兵隊に毎食丼鉢1杯ものたくわんを食わせなければならないだろうが、そんなことはとうてい不可能だし、戦地となると補給もわずかとなる。でも、官僚的理屈からすれば、たくわんを十分に補給しなかっか補給処が悪いのであり、兵食論を著した自分が悪いのではない、ということになってしまうのである。
 今も昔も高級官僚は、国民から見ればエイリアンであって、彼らはそのあまりにも優秀な頭脳が災いして、国民をゴキブリ以下にしか扱わない。国民の健康問題については、らい病患者を長期にわたり隔離したり、薬害エイズ問題を正当化し続けたりと、国民に対する彼らの扱いはエイリアンの仕業としか言いようがないのである。先に述べた食品添加物など表面化していない健康問題がまだまだたくさんある。政府はその実情を知っていながら、国民の健康はどうでもいいと、エイリアン的立場でウソの情報を発信し続け、また、屁理屈でもって国民をだまし続けていることを肝に銘じておかねばならないのである。
 日本での1日3食の、その後の話に戻そう。
 明治初期の兵食の影響を受けて、農民も1日3食になってしまったのだが、地租としての米の供出が江戸時代の年貢よりも強化されたがために、農民は雑穀米や麦飯とせざるを得ず、脚気は防ぐことができた。しかし、朝食を取ることによって、胃の疾患が激増したことは間違いない。食べてすぐ動けば、胃への血液循環が不十分になり、胃が弱るに決まっている。胃が弱れば消化吸収が不完全となり、栄養吸収も悪くなる。また、製塩と塩の流通が発達して塩の入手が容易となり、3度の食事に塩味の濃い味噌汁が必ず付き、かつ、塩辛い漬物を多食し、塩分の取り過ぎが輪をかけて胃を悪くしたのである。
 明治維新前後に欧米人がびっくりした日本人の健康さ、丈夫さは、1日3食の普及と相まって順次失われていくことになったのであるが、1日に3度もおまんまが食える喜びが、体のだるさなどの不調を上回ってしまった、その結果であろう。再び朝食抜き1日2食へ戻すという行動は取られなかった。
 体の不調というものは、永続すれば知らないうちにそれを感じなくしてしまい、その状態が普通と思えるようになり、その状態にあっても健康であると錯覚するに至るのである。慣れとは、かくも恐ろしいものである。もっとも、なかにはごく少数だが、今までどおりの健康体を維持している者が残るが、そういう人は例外的に、“異常に丈夫なお化け”の扱いをされることとなる。ひところ欧米人がビックリした日本人の丈夫さは、こうしてだんだん失われていく。しかし、誰もそれに気が付かない。
 健康かどうかの判定は、周りの皆による相対評価で決まる。皆が病気になれば皆が病気でない、と思い込んでしまう、とんでもない悲劇が過去にあった。それは、古代ローマの都市国家ポンペイである。ヴェスヴィオス火山の噴火による火砕流で一瞬のうちに全滅し、降り積もった火山灰で完全に埋もれてしまったことで有名である。商業都市として栄えたポンペイは都市機能が充実しており、今日の都市と全く同じように上水道が完璧に整備され、各家庭に水道管が引き込まれていた。その水道管は全て鉛で作られており、これによって都市に住む全員が鉛中毒になっていたのである。古代ローマの各都市も大なり小なり、その傾向にあったようであるが、ポンペイほどまでには水道管は整備されてはいなかったようだ。こうしたことから、ポンペイの住民は、他の地域の人々に比べて背が低く、平均寿命も短かったようであるが、ポンペイの住民は、皆が普通に健康であると思っていたようである。健康とは周りの皆による相対評価で決まる、悲しい一例である。
 日本は、明治政府の安定とともに中央集権体制が強化され、それに伴って食文化の均一化が大きく進んだ。豪華な朝食が登場し、すぐに全国に広まっていった。ヨーロッパと同様に生活習慣病が多発しそうなものであるが、動物性蛋白質の摂取が少ない食生活であったがために、それは表面化しなかった。動物性蛋白質で毎日取るのは魚を少々であって、肉はまれにしか口にしなかったからである。今日まで、世界にまれにみる豪華な朝食を取る文化が続けてこられたのは、ここに原因している。しかしながら、皆が胃弱になり、かつての丈夫さをだんだん失っていった。そのことに誰も気づかずに今日に至っている、世界一胃弱な民族、それが日本人なのである。よって、明治維新前後には例外的に“異常に丈夫なお化け”がいただけだ、としか見ない。
 近年になって、若者を中心に朝食を取らない者が増えてきているが、これは夕食が遅くなったことと肉や油脂の過剰摂取で、消化器官、特に胃に高負担がかかり、胃が疲労困憊しており、体が朝食を要求しなくなったからである。朝、
食欲を感じなかったら、決して食べてはならない。しばらくの間、胃を休ませてあげねばならないのである。食事の欧米化が進んできたのだから、1日3食とするならば、朝食はごく簡単なものへと移行させねばいけないのだし、基本的には朝食は抜くべき性質のものだ。

第4節 「エネルギー変換失調症」の発生
 1日3食の弊害の最大の問題は次のことに尽きる。
 1日に3食も取ると、体に必要なエネルギーは、ほとんどが食べた物から直接取るようになってしまう。おやつに夜食、喉が乾いたら砂糖入り清涼飲料水を飲むという食生活をしていると、完璧にそうなってしまう。
 つまり、血液中に漂う栄養を、体中の諸器官の細胞群が直接取り込むだけで済んでしまうのである。血液中の栄養が足りなくなると、通常は肝臓や筋肉に蓄えているグリコーゲンの出番であるが、これさえブドウ糖に変換するのに苦労するようになり、血糖値が少しでも標準値を切ると、小腹が空いたと感ずるようになる。1食でも抜こうものなら、脂肪をケトン体などに変換する機能が完全に錆びついているから低血糖になってしまい、我慢できないほどの空腹感に襲われる。この状態になっても食事が取れないとなると、低血糖が進み過ぎ、脳へのエネルギー源の補給が経たれて意識を失い、昏睡状態となる。
 空腹感は、胃が空っぽになって生ずるものではない。低血糖になって、脳へのエネルギー源の補給が困難になったサインが空腹感であることを、しっかり頭に置いておかねばならない。1食でも抜いたら空腹感を生ずるという状態は「エネルギー変換失調症」という名の、高度文明社会に特有の病気である。かような名称の病名は医学書にはないのであるが、小生はそう呼びたい。日本人のほぼ全員がグリコーゲンをブドウ糖に変換する機能は持ち備えていようものの、脂肪をケトン体などに変換する機能をほとんど喪失している事実、これは病気以外の何物でもなかろうから、小生はそう名付けたいのである。
 野生動物や文明前の人たちは、平時には空腹感など一度も感じたことはないと考えられるのである。それを感じるのは、もはや体の中にエネルギーに変換できる脂肪も蛋白質もなくなった餓死寸前の事態に陥った場合だけであろう。小生は、1日1食の生活を3年半続けており(ブログアップ時点では、これを12年ほど続け、最近2年間は昼食を軽く取り1日2食に戻している)、それに慣れっこになっている。また、ときどき1日断食を実行し、47時間にわたって食を断つ。その間、口寂しさは募るものの、空腹感は全く感じないのである。”腹減ったぁ、飯食いてえ”という感覚は完全に喪失している。(ブログアップ時点でも、そう)
 長期断食の経験はないので、その場合にどうなるのかは分からないが、平気で繰り返し長期断食をなさる方も大勢おられるということは、空腹感を全く感じないからできるのではないかと思える。(ブログ版追記 3日断食し、その前後も極めて少食で、実質5日断食を2回したことがあるが、その場合も空腹感は生じなかった。ただし、うまいものを食いたいという口の卑しさの高まりは相当なもの。)

 毎日朝食を取っている人が朝食を抜くと低血糖状態になって、午前中は脳の働きが悪くなる。2グループの比較実験でそのような結果が出ている。一時的に朝食を抜いたグループの人は皆、たしかに低血糖になり、脳細胞に十分な栄養が届かず、脳の働きが落ちるからだ。そこで、この結果を見て、栄養学者は、砂糖はすぐに吸収されて瞬時にブドウ糖に変換されるから、朝は砂糖を取れ、とまで言う。
 脳細胞が、ブドウ糖だけを栄養源としているのであれば、そういうことになるかもしれない。しかし、そうではない。この方面の研究はいろいろ行われているので、それを紹介しよう。
 まずは、断食してブドウ糖が底を突くと、脳の栄養源として脂肪から変換されたケトン体が使われるようになる。ケトン体には何種類かあるが、そのなかで最も多く作られるのがβヒドロキシ酪酸であり、これが優れものである。このβヒドロキシ酪酸は母乳に多く含まれており、赤ちゃんの脳の発達に重要な役割を果たしていることが、京都大学の香月博士氏の研究で明らかになった。赤ちゃんは、目覚めているときに猛烈に学習せねばならない。このとき、ブドウ糖よりもβヒドロキシ酪酸のほうが脳細胞を活性化させるのであり、βヒドロキシ酪酸のほうが記憶効果を上げるのである。
 したがって、朝食抜き(ただし、これをずっと続けている人)のグループのほうが、本当は頭が良い結果が得られることになるはずである。朝食抜きというミニ断食によって、必要とするエネルギー源は脂肪が分解されて得られる
βヒドロキシ酪酸などが用意され、これが脳に行って記憶効果を上げるのであるから。小生も実感している。朝食を取らなくなってから、朝から体がよく動き、頭が冴え、仕事の効率がアップするのである。
 つぎに、長期断食を続けると、脂肪のほかに蛋白質もエネルギー源として動員されるようになる。つまり、筋肉の蛋白質が分解変性されてαアミノ窒素などが作られ、これも脳の栄養として使われることがカナダのオーエンス博士によって明らかにされている。
 脳細胞はブドウ糖のみを栄養とする、などと言う輩は、精糖メーカーの御用学者以外の何物でもない、と断言できる。ついでながら、昨今のテレビ番組で、あれが体にいい、こちらのほうが体にもっといい、などと毎日のように放映され、紹介された食材がスーパーの店頭から姿を消す、ということが度々あるが、これらは、全てペテン師が仕掛けたウソと心得たほうが利口であろう。

第5節 断食のすすめ
 まず、1週間とか10日間の長期断食であるが、断食道場の話によると、中小企業の経営者が定期的に長期断食に訪れるようである。事業に行き詰まったり、製品開発が思うように進まなかったりしたときに長期断食すると、頭が冴え、良いアイデアが湧いてきたりして、苦境から脱することが往々にしてあるからのようだ。
 1日3食取っていた古代ギリシャにあっても、ピタゴラス、ソクラテス、プラトンなど有名な哲学者たちは、計画的に断食を行い、これにより、知的な閃きがグンと湧いたと言われている。体を飢餓状態にしてやると頭が冴えるのは、こうした事例からも確かなことと思われる。
 次に、ミニ断食である朝食抜きで、重労働に耐えられるか、である。重労働をしていると自負する方は、腹が減って力が出ないとおっしゃるが、そういう方はたいした重労働ではないからであろう。
 最高に重労働するのは大相撲の力士である。彼らは伝統的に朝食抜きで、恐ろしいほどに激しい朝稽古をする。消化器官が完全な休業状態でないと、あんな過酷な運動をすることはできない。少しでも胃に食べ物が残っておれば吐くに決まっている。彼らは1日2食の食生活に慣れきっているから、脂肪をケトン体などに変換する機能を十二分に持ち備えており、これが筋肉のエネルギー源となり、力が最大限に出せるのである。筋肉にとってもブドウ糖よりケトン体などのほうが効率的にエネルギーが生み出せるのかもしれない。
 なお、ついでながら、心筋が求めるエネルギー源はブドウ糖ではなく、悪玉として評判の高いLDLコレステロールのみだ。これを悪玉と呼ぶのは死神以外にいないと思うのだが、たいていの日本人は、心筋に必須のLDLコレステロールを減らそうとしているが、これは心臓を飢え死にさせる道であると心得たほうがいい。

 「腹が減っては戦はできぬ」「食べてすぐ寝ると牛になる」という格言があり、食べたらすぐに働くことが当然のように思われている。これも1日3食を習慣化させる大きな要因となっている。
 この格言がどのようにして誕生したのか。
 予防医学の第一人者である小山内博氏(故人)は次のように述べておられる。
 昔は税金の一種に「庸(よう)」という役務の無償提供があった。ただ働きをさせられるのだから、「腹が減っては戦はできぬ」と食べ物を要求する。ならば、食べさせるから働けと食事を提供する。食べさせたはいいが、皆、食後は眠くなって横になろうとする。これでは困るから「食べてすぐ寝ると牛になる」と脅して働かせようとした。ということで、この格言が対になって作られたのである。この格言は、支配者と被支配者との間で、役務をする・しないの駆け引きに食べ物が使われたのであって、生理機能は完全に無視されている。
 「庸」の制度がない今日であるも、雇用主と従業員という関係が、これに類似しており、あたかもこの格言が正しいものであるかのように生き続けているのである。
 食に関して、別の格言がある。「親が死んでも食休み」というものがある。あまり知られていない格言ではあるが、葬儀の準備や何やらで大忙しであっても、食後は体を休ませねば健康を損なうというものであり、いくら仕事が忙しくても食後は十分に休憩せよ、ということだ。
(要約引用ここまで)
 この格言だけが、ヒトの生理上、正しいのであって、前の2つは間違っているのであるが、「食べてすぐ寝ると牛になる」とは誰も思ってはいないものの、それは怠け者のすることであり、イタリア人は昼食後に2時間も3時間も休憩するから他のヨーロッパ諸国より遅れた国になると軽蔑する。だが、イタリア人は、この点で非常に健康的な生活をしているのであり、これを卑下することがはたしてできようか。イタリア人より少しばかり余計に働いて銭を稼いで、胃腸を患って治療費を使うことが褒められたことか、大きな疑問である。
 こうして、日本人には食べたら働けという「庸」の習慣が今日でも生きている上に、食べないと口が寂しくなるという卑しさが加わり、「腹が減っては戦はできぬ」という格言が完全に正当化されてしまっている。
 ところで、実際の戦において、戦う前に食事を取ったであろうか。否である。武士の時代は鎌倉時代に始まったが、鎌倉武士は出陣にあたって、梅干を食べただけである。梅干の主成分であるクエン酸が血液をサラサラにし、全身への酸素供給をスムーズにする。加えて、クエン酸は細胞内小器官ミトコンドリアにおけるエネルギー産生回路を円滑に回し、戦においてパワーが出るのである。
 この時期から、生活の知恵として梅干の効能をよく知っていたのである。これは、江戸時代まで続いた。大名は、必ず広大な梅林を城の近くに設けて梅の実を収穫し、兵糧として梅干を蓄えたのである。全国各地にある梅林はその名残である。
 現在でも、闘いの前には食事を全く取らない者が何人かいる。だいぶ昔のことになるが昭和30年代に活躍したプロレスラーの力道山は試合の前日は何も食べなかったというし、最近ではスピードスケートの金メダリスト清水宏保選手も、お腹を空っぽの状態にして試合に臨んでいた。2人とも持久力なり瞬発力なりを最大限に発揮させるためには、空腹状態でないとダメなことを知っていたのである。

第6節 グルメ文化最高潮の日本
 「腹が減っては戦はできぬ」の逆をいく、優れた健康法である、こうした事実はなかなか報道されない。
 ここのところ、やたらと報道されているのは、大リーガーとなった松井秀喜選手が、1日3食に加えて試合前におにぎりを2個食べて、それで好成績を収めているという話である。彼はゴジラとあだ名されるほどだから、胃袋もとびっきり丈夫であろうから、それでも健康を害することがないのかもしれない。
 健康を維持するためには、少なくとも1日3食きちんと食べなさいという広報宣伝を、政府とマスコミが一体となって繰り広げているのが現状である。資本主義経済の下では必ずこうなってしまう。
 何でもいいから需要を生み出すことが資本主義経済の最大の関心ごとであり、大量消費社会を作ることに専念する。人の健康など、どうでもいいのであり、朝食産業や昼食産業が儲かればいいのである。間食として、おにぎりを食べて米の消費が進めば、農水省の思う壺でもある。
 人間の口の卑しさに付け込めば、食糧消費は必ず拡大する。そして、過食により健康を害し、その結果として医療産業や健康産業までもが必ず儲かる。食に銭を使うあまりに医療・健康にも銭を使わざるを得なくなる。これによって、銭の流動が拡大に拡大を続け、経済は膨張し、経済は繁栄する。経済もまた生き物であり、人間の欲に付け込む恐ろしい魔物であり、最も進化した魔物が資本主義経済である。今や資本主義経済という魔物は、国家をも支配してしまい、国境という壁も溶かしてしまった。グローバル社会への変貌である。
 資本主義経済は今や恐ろしく急成長し、物質文明を極度に高めるに至り、先進国ではついにエンゲル係数という言葉を死語にしてしまった。実質上の食費(贅沢は除く)は生活費のわずかなウエイトしか占めなくなったのである。日本人であれば、いかに貧乏していても、塩、胡椒、砂糖、醤油、ソース、グルタミン酸ソーダなどの調味料は極めて廉価で手に入り、安くてまずい食材もこれらによる味付けにより、美味なるものへ変身させられるからである。安さを売り物とする外食産業は、皆、調味料を多用する、こうしたやり方だ。
 金銭的余裕から、高級料理を食べたいという欲望も当然にして生まれ、テレビの各チャンネルで食べ歩き旅やグルメ番組を盛んに放映するようになった。海の幸、山の幸などなど、いかにもおいしそうなものを次から次へと登場させて消費を煽るから、日本人皆がグルメ志向となる。
 日本人は、世界でもまれにみる豊かな自然環境の生態系のなかに住んでいる。様々な生物が野にも山にも川にも海にも豊富に存在し、四季折々にその恵みを得ることができる。加えて、南北に細長い島であり、寒暖の差による生態系の違いが、より生物種を豊富にしているから、これほどの美食天国は世界に例がない。和食だけでも十分すぎるほどに堪能できるのである。加えて、世界中から美味なる食材がいくらでも入ってくるのだから、極楽三昧の毎日となる。こうして、日本人の食文化の高まりは、とことん行きつくところまで到達してしまっているのではなかろうか。
 残された唯一の道は、古代ローマ市民のようにご馳走を食べてからそれをいったん吐き出し、また別のご馳走を賞味してみるという、極限状態に至った口の卑しさを満足させる食文化を味わうことだが、こんなことができるのは、食べ物を単に栄養としか捉えない西洋文化だからできることであって、食べ物を天の恵み、地の恵みと捉える日本人の文化観からして、こんなもったいないことには大きな抵抗感があり、決して誰もしない。
 最高潮に上り詰めた日本人の食文化に対し、小生もグルメの誘惑にはなかなか勝てないでいる。飽食に慣れ親しみ、美食文化にどっぷり漬かりきってきたツケは、あまりに大きい。断食すると、無性に口が寂しくなるのは、そのせいであろう。つまり、口が卑しくなるのである。断食の夜には、何か仕事を作って、眠くてしょうがない状態になるまで夜鍋仕事(といっても、決して鍋をつつくことはしないが)に没頭でもしないことには、それから逃れることは決してできない。
 何も断食までしなくても十分に相対的に健康であると思っている小生は、こんなつらい思いまでして何になる、と考えるようになってしまった。十数回にわたる1日断食の臨床実験で、けっこうな成果は得られたであろうからと妥協し、最近は女房ともども断食から逃避している。
 食欲煩悩があまりにも研ぎ澄まされてしまって、情けないことに、もはやどうしようもない状態に自分が陥ってしまっていると思うのであるが、我々日本人は皆、そうなのではなかろうか。

つづき → 第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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食の進化論 第9章 ヒトの代替食糧の功罪

2020年11月15日 | 食の進化論

食の進化論 第9章 ヒトの代替食糧の功罪

第1節 先人はなぜ滅亡したか
 人類の祖先種は次々と生まれては消え、消えては生まれるという繰返しをしてきている。わりと最近の旧人や新人でさえ、どこからともなく現れ、いつしか消えていく。現生人類であるヨーロッパのクロマニヨン人も滅亡したようであり、今のヨーロッパ人は、後から進出してきた別のサピエンス人と考える学者も多い。
 哺乳類の進化というものは、わりと詳しくわかっているウマの進化の系統樹のごとく、そうしたものだと言ってしまえばそうであるが、ウマの系統樹は5200万年であるのに対し、人の系統樹はその1桁下だ。過去の人はあまりにも次々と早く消えすぎている。人の最長不倒はジャワ原人の170万年(180万年の化石が最古で、10万年前の化石が最新)で、他は長くてせいぜい数十万年どまりのようである。
 後から来た種族が侵略者となり、先人を滅亡させたような証拠はなく、また、当時はそれほどに人口密度が高かったわけではないから、今日の民族間紛争のような相互殺戮はあり得なかったに違いない。逆に、新旧共存の証拠が多い。
 現在の人種の差以上に違う亜種または別種と考えられるから、簡単には同化せず、また混血できなかった可能性もある。したがって、お互いに住み分けながら時には接触するという暮らしをしていたことであろう。
 そうしたなかで、前から住んでいた先人が(逆の場合もあろうが)、何らかの原因で人口を急激に減らして自然消滅したと考えてよかろう。小生は、その原因を次のように考える。
 後からやってきた者たちが病原菌やウイルスを運んできて、接触した機会に先人たちは、それに対する免疫力がなくて、多くの者が一気に死滅したのではないかと。
 病原菌やウイルスは特定の目(霊長類とか猫類とか)に取り付くものが多い。ものによっては、もっと限定された動物種に取りついている場合もある。これが、新旧の種間が接触した場合に相手方に感染し、大ダメージを与えることがある。その一番の例が、スペイン人のアメリカ大陸侵略のときであり、ヨーロッパ人の体内に潜んでいた病原菌やウイルスがまき散らされて感染し、原住民は殺される前に大半が病死した。近代の例では、エスキモーが欧米人との接触からインフルエンザで9割が死んだ集団がある。
 アフリカから長距離移動でやってきた人集団がヨーロッパやアジアに入っていったとき、こうしたことが起きたのではなかろうか。もっとも、先人は全滅はしかかったであろう。わずかな人数は残り得る。しかし、もともと希薄な人口密度であったろうから、少人数で陸の孤島と化し、同族の仲間とは接触できなくなり、その結果、近親相姦が進み、子孫がどれだけも残せなくなる。また、近親相姦が繰り返されると、体型が先祖返りすることが多く、数多く発見されているネアンデルタール人の末期の化石がそれを指し示している。そして、人口は減りに減り、ついに一人もいなくなる。ネアンデルタール人はこうして姿を消したと考えられるのである。
 先に引き合いに出した最も長期間生き長らえたジャワ原人も、10万年前にアフリカからジャワにたどり着いたサピエンス人との接触から、ネアンデルタール人と同様にして姿を消したのではなかろうか。(サピエンス人の到来は通説では7万年前と言われるから、若干の時間差はあるが)
 歴史時代になって以降、人の間で新種の病原菌やウイルス感染が大きく広まり、人はバタバタ死ぬことが何度もあった。家畜の場合は、鳥インフルエンザがいい例だが、鶏はバタバタ死んでも、野鳥の被害は少ない。野生動物がバタバタ死ぬ例はまずないのである。これは、野生種は免疫力が強いからであろう。
 でも、人の場合、大自然の中で伸び伸びと暮らしていた大昔の人たちは、野生種と言っていい。でも、相次いで絶滅したということは、野生種であっても免疫力が弱かったのではなかろうか。
 寒さストレスによる免疫力低下がすぐに頭に浮かぶ。しかし、人は陸生動物としては、まれにみる皮下脂肪の厚さを誇り、つい最近まで、南アメリカ最南端の寒冷地フェゴ島に住む原住民は、真冬でも素っ裸の生活をしていたというから、人は寒さに適応した動物に進化していると考えられ、これは大きな理由にはならない。
 免疫力低下の最大の原因は、人に特有の食にあったのではなかろうか。これしかないのではなかろうか。
 人の食性は、本質的にはチンパンジーやゴリラと同じである。その後、最初の代用食として芋を多食するようになり、たぶん数十万年かけて澱粉消化酵素を十分に出せるようになったであろう。その後においては芋は人にやさしい食べ物となり、この点が類人猿と異なる。
 しかし、毎日、芋ばかり食べ続けていたらどうなるか。ニューギニアの高地人がそのような食生活をしているが、皆、妊婦のようなお腹になり、特に女性に顕著で、腸にガスが溜まっているだけでなく、腸内残留物も溜め込んでいるようでもある。現地人はずっとそうした食生活に慣れているから平気であろうが、日本人が急にこの食生活に入ると、3日目にはダウンすると、朝日新聞調査隊の本多勝一氏が言っておられる。
 お腹が張るというのは、とても健康体とは思えず、極端に芋に偏食した場合は、代用食の不適正さが顔を覗かすと考えてよいかもしれない。しかしながら、次節で紹介するが、彼らの「イモぢから」には驚かせれるから、すでに順応しているのかもしれない。

第2節 動物食の弊害
 人の食性の最大の特徴は、動物食を始めたこととと、食べ物の火食を始めたことの2つである。
 これは、類人猿にない食性である。もっとも、チンパンジーは狩りをして動物を食べ、ゴリラもチンパンジーもアリ食いを行うが、食べるといっても、動物狩りは月に1回程度であり、アリは食べたうちに入らない程度の量にしかならないし、アリは飲み込むだけだから大半が未消化のまま排泄される。
 人の場合、動物食がチンパンジーより少ないケースも多々あるが、おおかたは圧倒的に勝る。
 この動物食について、まず考察してみよう。
 動物食は体をうんと温め、寒さをしのぐには、まことに都合がいい。体を温める食品の代表格であり、風邪を引いたら卵酒というのも当たっている。もっとも、酒は体表面の血行を良くし過ぎて、体熱を放散するので、ほどほどにしなければならないが。
 動物の肉は蛋白質の塊と言え、これを摂取すると筋肉が増強され、骨もその2割が蛋白質であるから背も伸びて、男にとっては見た目の体型が良くなることは確かであり、女性を引き付けるのに好都合である。肉食が絶賛されるのは、唯一これだけであろう。
 もっとも、ヒトの体は筋肉に限らず、全体が蛋白質でできていると言っていいほどに蛋白質が最重要なものである。蛋白質は各種のアミノ酸から合成されるものであり、蛋白質を摂取すると胃と腸で消化され、アミノ酸に近い形に分解されて吸収され、体内でアミノ酸にまで分解される。体内で合成できるアミノ酸もあるが、それが不可能なアミノ酸が20種類あり、これを必須アミノ酸と言うのだが、この必須アミノ酸を摂取しないことには体に必要な蛋白質を合成できないし、植物性食品だけでは不十分になりがちな必須アミノ酸があり、肉でその不足分を賄わなければならない、と通常言われている。
 たしかに肉を食べるのが手っ取り早く必須アミノ酸を手に入れる方法ではあるが、動物性食品を全く摂らない民族が健康に暮らしているということは、肉を摂らなくても必須アミノ酸が足りている証拠でもある。
 生き物は新陳代謝を繰り返しており、つまり、体内の細胞は、若いときであればそのほとんどが3か月もあればすべて作り直される。そのとき蛋白質は分解されてエネルギー源になるものも多いであろうが、アミノ酸に戻されるものもでてくるであろう。これを再利用すればいいのである。(ブログ版追記 このシステムを解明されたのが2016年ノーベル生理学・医学賞を受賞された大隅良典氏のオートファジーである。)
 こうしたリサイクルシステムは全ての動物にあるはずであり、これを円滑に働かせることは何も難しいことではない。食糧から得られる必須アミノ酸が常時不足していれば、このシステムはフル稼働する。逆に、必須アミノ酸が摂取する蛋白質から常時賄われ続けていると、このリサイクルシステムがさび付いて働かなくなるだろう。こうした状態において、毎日たっぷりと肉食していた者が完全な植物食に切り替えると、必須アミノ酸不足になり、必要な蛋白質合成ができず、様々な障害を引き起こす。だから、毎日蛋白質を補給せよと言われるのだ
が、それは肉食傾向にある者に対してだけのことである。
 室町時代から江戸時代の初めにかけて、また、幕末から明治時代の初期に日本を訪れた欧米人の本国への通信文には、いずれも日本人の類まれなる健康と持続力そして馬鹿力に驚きをあらわにしており、雑穀と芋に野菜、時々少々の魚の干物という粗食で、どうしてこうなるのか不思議がっている。
 なかには人力車と馬とどちらが速いか江戸から日光まで競争させ、人力車が買ったことに驚愕し、その人力車夫に肉を食わせればもっと速く走るだろうと実験したら、人力車夫が、これでは力が出ないから肉はもう止めにしてくれと言ったという記事もある。
 これは昔の日本人に特有なものではない。今日でも、ニューギニアの高地人は毎日ほとんど芋しか食わないが、30kgもの荷物を担いでいても小走りするように山道を登っていき、何時間も走り続け、その間に全く休憩を取らなくてもケロッとしているそうだ。何と恐るべき「イモぢから」。空身であっても彼らに着いていくのがやっとであった、と朝日新聞調査隊の本多勝一氏がおっしゃっている。
 こうしたことは、なにも文明の遅れている地域に限らない。最近のアメリカでも当てはまる。1993年46歳で大リーガーを引退したノーラン・ライアン投手は、引退の年でも160キロ近い剛速球を投げた。彼の栄養指導者が肉と油脂を大幅に制限しつつ、肉食によって失われがちなミネラルを計画的に摂取させて選手寿命を長持ちさせたのである。このように分子生物学者・山田豊文氏がおっしゃっている。
 以上の例からも、肉を食べないほうがいかに健康を向上させ、持久力や瞬発力を付けてくれるかがお分かりいただけよう。
 しかし、人は植物性食品の極端な不足を補うために、動物性食品を代替食糧としてきた歴史を持つ。通説では、その歴史は古く、人類発生のときからというもので、これが支配的である。今日、西欧でも特に肉食中心のゲルマン人の胃袋は体付きと同様に頑丈であり、日本人の胃袋の3倍の厚みがあるという調査報告もある。当然に蛋白質消化酵素の出も日本人よりうんといい。それでも、彼らは生活習慣病にずっと苦しんできた歴史を持つ。今日の人類で肉を多食する民族は欧米人をはじめ数多いが、皆同様に苦しんでいる。動物を丸ごと食べず、筋肉の部位だけを食べるからミネラル不足にもなり、なおさら体を害する。
 人にとって、動物食は、まだ
代用食の域にあり、動物食であっても健康体を維持できるようになるには、この先少なくとも百万年単位の時の経過を要するであろうし、1千万年経っても困難かもしれない。なぜならば、霊長類わけても類人猿は雑食性から植食性に純化する方向へ何千万年か前に進化を果たしたと思われ、もはや逆戻りは不可能に近いと思われるからである。

第3節 蛋白質過剰摂取の毒性
①光化学スモッグの体内発生
 蛋白質の過剰摂取は、第一に次の問題を生ずる。
 蛋白質はヒトの栄養素のなかで唯一の窒素を多量に含有する化合物であり、いずれ体内で燃やされてエネルギーに変換されると同時に猛毒の窒素化合物を発生させる。光化学スモッグの主成分の窒素酸化物と同質である。なお、卵の黄身は硫黄を多く含んでおり、これも最後には猛毒の硫黄化合物となり、光化学スモッグのもう一つの主成分と同質である。
 こうしたことから、蛋白質の過剰摂取は筋肉に炎症を起こし、スポーツ選手の選手寿命を短くすると、前述の山田豊文氏がおっしゃっているし、ノーラン・ライアン投手の選手寿命が長かったのは、食事療法が良かったからである。蛋白質のエネルギー化に伴って生ずる猛毒の窒素化合物は、肝臓や腎臓で比較的害の少ない尿酸などに作り替えられるが、瞬時に完璧にとはまいらず、全身の細胞や臓器にかかる負担は大きいし、血管に傷を付けて動脈硬化の原因ともなる。そして、尿酸そのものが痛風を発症する原因物質だ。
 ニホンザルなどはかなりの昆虫食をしているので、蛋白質の摂取は多くなり、尿酸の生成も多い。そのため、そうした食性の霊長類は尿酸酸化酵素を持っており、血中の尿酸量が高くなることはない。それに対して、低蛋白食を長く続けたヒトそして類人猿は、尿酸の発生が少なく、薄ければ何ら害がないので、あえて尿酸を酸化させる必要がなくなり、その酵素が退化して機能しなくなり、尿酸は尿中へ排出するだけとなった。
 この尿酸酸化酵素は、実は優れものなのである。これを十分に働かせている肉食動物などは、尿酸をアラントインという物質に変換する。この物質は、人間用の医薬品や化粧品の有効成分として配合されることが多い。皮膚の保湿、消炎作用が高いほか、新しい正常な皮膚組織の再生を助長する働きを持っており、皮膚の傷を速やかに修復する効果がある。よって、痔の薬に必ずと言っていいほど配合されているし、唇の荒れ、歯肉炎、髭剃り後の医薬品や化粧品に配合されることが多い。
 動物たちが行う狩猟に怪我は付き物であり、肉食動物は生傷が絶えないであろう。彼らはその治療薬を体内合成しているのである。彼らは、猛毒の窒素化合物を最終的には有益な物質に変換するという離れ業をやってのけるのである。それに対して、尿酸酸化酵素を失ったヒトをそして類人猿は、皮膚の怪我を治療する有効な方法の一つを捨ててしまったのである。狩猟を止めて(昆虫を食うことも含めて)植食性に純化したことと、尿酸酸化酵素の喪失は、セットになった生態変化なのである。
 これとよく似た逆の例として、多くの霊長類のビタミンC合成酵素の喪失が挙げられる。これは、植物性のものを多く食べるようになって、毎日十分なビタミンCが食べ物から供給され、これを体内合成する必要がなくなって、その結果、その酵素を失ったのである。
 尿酸酸化酵素とビタミンC合成酵素の喪失は、霊長類の食性変化の長い歴史のなかで、原猿類の昆虫食から、順次植物食を取り入れ、多くの霊長類が植食性に純化した結果、用不用の法則が働いたのである。一度失ったこの機能は、もはや復活させることは不可能であると言っていい。
 肉食動物とて、動物食に適合できる十分な生理機能を獲得しているとは言い難い。それを補完するのは、断食である。肉食動物は、腹が空かないかぎり狩猟を行おうとはしない。どの肉食動物も、そう易々と獲物が手に入るものではなく、よって、何日も獲物にありつけずに、したくもない断食を度々経験せざるを得ない。
 断食は優れものである。断食することによって、体中の有害物質を排出させ、あらゆる臓器や器官をオーバーホールし、リフレッシュさせ、全身の細胞をよみがえらせるという絶大な効果を生み出すのである。こうして肉食動物は、絶えず断食を繰り返し、健康体を維持していると言えよう。ちなみに、野生のライオンは1週間に1食が普通だというし、動物園では週に1日断食させると言う。
 肉食傾向にある現代人にあっても、断食の効果は抜群と言われる。なにも野生肉食動物のような長期断食でなく、動物園のライオンのように週に1日の断食でもけっこうな効果があるようだ。

②肉食によるミネラル不足
 2番目に、蛋白質の過剰摂取はミネラル不足を引き起こす。蛋白質が分解されて生ずる窒素化合物は、体内のミネラルを尿といっしょに排出させ、恒常的なミネラル不足に陥らせる。
 生命活動の基本となる化学合成・分解は、各種酵素が受け持っており、酵素の核となる元素がミネラルであり、ミネラル欠乏は命取りとなる。鉄分不足は貧血を起こして酸素供給が不十分となるし、微量ミネラルの亜鉛不足は新陳代謝を遅らせるし、亜鉛とセレン不足は免疫力を大きく低下させることなどが分かっている。
 動物性食品を口にしようとするならば、筋肉にはほとんどミネラルがないから、ミネラルを多く含む内臓を食べ、鉄分が多い血をすすり、カルシウムが多い骨までかじらねばならないのである。肉食動物が獲物を捕獲したとき、真っ先に内臓から食べることがよく知られており、骨もどれだけか食べる。彼らの体はそれを要求しているからである。そして、肉食動物の腎臓は、ヒトよりもミネラルを逃がさない機能に優れていると思われるのであるが、それでもミネラルの多い部分を好んで食べ、さらに、塩分の多い土を見つければ、その土をなめる。
 動物の筋肉だけを好んで食べる先進国の現在の食文化は、ここに大きな問題があり、恒常的なミネラル不足をきたす。加えて、塩は湿気を吸わないように各種ミネラルを取り去った精製塩つまり塩化ナトリウムの単体が使いやすいから、これが多用されて、ミネラル不足に拍車をかける。
 なお、塩に関して付言しておくが、食品加工においては、雑菌による腐敗防止のために塩化ナトリウム単体が多用される。ミネラルがなければ雑菌も生きていけないからである。ミネラルを多く含んだ粗製塩を使うと腐りやすい。また、外食産業では、各種ミネラルが含まれないほうがすっきりとした味が出せ、塩化ナトリウム単体が重宝される。なんといっても、こちらのほうが安価であるから、それを使うことになる。
 ついでに、加工食品に使われる食品添加物についても、ここで言っておこう。経済もまた生き物であり、自己増殖する。人の味覚の嗜好に合いさえすれば、どんなことでもする。ミネラル不足になろうが、そんなことは知っちゃあいないし、毒を盛ることも平気でするのであり、人の健康などどうでもいいのである。食品添加物がいい例だ。その規制はあることはあるが、それは経済という生き物が作った物差しであり、一添加物単体での急性毒性を防げる安全値以内としているだけで、怖いのは慢性毒性であるが、そんなことは知ったことではない。そして、慢性毒性は、幾つかの添加物が複合して起こすことが多いようであり、犯人を特定できないから質が悪い。こうして、食品添加物は、野放し状態になっているのが現状である。

③肉食による腸内環境の悪化
 蛋白質の過剰摂取は3番目に腸内環境の悪化を招く。
 豆類や穀類にも蛋白質が含まれるが、炭水化物や脂肪そして食物繊維と混ざり合っており、咀嚼すれば微細になり、その蛋白質は胃と腸で完全に消化吸収される。魚肉は蛋白質の塊と言ってよいが、筋肉が層状になっていて簡単にばらばらになり、適量であればこれも完全に消化吸収される。それに対して、哺乳類や鳥類の肉は筋肉繊維結合が強く、その塊を微細にすることは難しく、未消化の蛋白質が大腸に入りやすくなる。
 ヒトの腸内には百兆個の腸内細菌(重量は1.5kg)が生息することによって健全に保たれているが、大腸に蛋白質が入ると、その生息環境が一気に悪化し、善玉菌が減少し、悪玉菌が増殖する。すると、ミネラル吸収が阻害されるし、ヒトに有用なビタミン類や各種有機酸の生産が落ちるばかりでなく、ヒトの免疫力を落としてしまう。ヒトの免疫の源は、腸内細菌の活動によって生み出される面が大きいからだ。
 肉食によって便秘するほどに腸内環境が悪化すると、大腸内の蛋白質が腐敗し、毒液や毒ガスが発生し、それが血液を通して全身を回り、健康を害する。加えて、腸が荒らされて、腸壁からの微生物の体内侵入を許し、ますます免疫力をなくさせるし、これは近年増えてきた難病の原因となる。
 なお、住みついている腸内細菌は5百種類とも言われ、宿主の種によって種類が異なり、また、個体によっての違いもあって、これは誕生後まもなくしてそれぞれの個体ごとに固定されてしまい、容易には変わらない。よって、整腸剤のなかには、腸まで届く生菌を謳い文句とするものがあるが、生菌はよそ者として排除され、住みついている腸内細菌によって全て殺され食べられてしまう。もっとも、住みついている腸内細菌にとって、生菌にしろ死菌にしろ、これは彼らの活力剤となり、腸内環境の改善に大いに役立つ。
 こうした宿主と腸内細菌の関係から、エスキモーなど肉食に特化した食生活を長年続けている人種は別として、雑食性の人種わけても肉をあまり食べない人種ほど、限度を超えて肉(特に哺乳類)を食べるとなると、その未消化物によって、たいへん深刻な問題が起きるのである。
 こうした腸内環境の悪化の対応策として編みだされたのが、発酵食品である。発酵食品には、発酵菌とその生成物が多量に含まれている。発酵菌と腸内細菌は類似の細菌であり、腸内細菌は生息場所がヒトの腸内というだけのことであり、腸内細菌はヒトが消化できない食物繊維などを発酵させて、幾種類もの生成物を作り、それがヒトにも有用なものとなっている。
 発酵食品を摂ると、生きた発酵菌が含まれていれば、それは胃酸で死滅し、その生成物のうち酵素などは胃酸で変性して活性を失うが、腸に入ってから発酵生成物が吸収されて、ヒトの生命維持に役立つのみならず、悪玉菌の増殖を抑える効果もあるようだ。死滅した発酵菌は、これが腸内善玉菌のかっこうな餌となり、腸内善玉菌を活性化させ、その増殖にも資するのであり、腸内環境を改善する。
 今日、発酵食品として欧米ではチーズやヨーグルト、日本では漬物や味噌そして納豆、韓国ではキムチなどが有名だが、こうしたものを積極的に摂取すれば、肉食の弊害をかなり食い止めることができよう。
 これら発酵食品がまだ開発されていなかった時代、動物食を取り入れていた先人たちは、どうやって肉食の弊害を防いでいたであろうか。それは簡単なことである。獲物とした動物の腸内残留物を糞も含めて食べれば、事足りるのである。それでも腸の具合が思わしくなければ、そこらじゅうに落ちている天然の整腸剤である動物の糞や人の大便を食べればよいのである。糞食をする動物がかなり多いのも、これを知っているからである。もっとも、先に述べたように先人たちが糞食までしたかどうかは不明だが。

④有害物質の蓄積
 人が食用にする動物は、食物連鎖の上位に位置するものが多く、有害金属が濃縮される傾向にある。特に、海生動物の場合は、太古の昔から火山噴火で吐き出された火山灰などに含まれる有害金属が少しずつ海に流れ出て順々に海水に濃縮されてきているから、より有害金属を体内に残留させている。
 加えて、古代文明以降、人類は水銀や鉛など有害金属を地上にまき散らしてきており、近年になって有毒な合成化学物質をすさまじい勢いでまき散らしにかかった。
 これら有害物質が、人が食用にする動物にも当然に蓄積されてきている。有害物質の排出は、断食に効果が大きいことは先に述べたが、これの体外への排出は、もう一つ、脱毛によって行われるところが大きい。抜け毛にはかなりの有害物質が含まれていることがそれを証明している。
 ところが、
ヒトはわずかな髪の毛だけが頼りで、解毒はどれだけも進まず、有害物質が蓄積しやすい動物だ。体毛を失くした海生動物は、脱毛の代わりに季節の変わり目にべらべらと皮がむける種が多い。彼らはこうして有害物質を排出しているのであろう。
 ヒトも、断食をすると、皮膚から盛んに有害物質を排出する。短期の断食であっても、体が臭くなるし、プツプツと小さな湿疹ができたりする。これは有害物質の排出の証である。ただし、もともとヒトは有害物質が濃縮された動物を食べていたわけではないから、脱皮するまでには至っていない。
 なお、動物が長期断食をすると、つまり、長期間にわたって獲物が得られないと、飢餓に備えて体内に備蓄していた脂肪(大半が内蔵脂肪)を燃焼させてエネルギーを発生させることになるが、幸い有害物質の蓄積は脂肪に偏在しており、このときに大量の有害物質が排出されて、クリーンな体に戻ることができる。
 そのとき、当然にしてはっきりと痩せる。アフリカのサバンナに乾季が訪れたとき、ライオンなどの猛獣は、大型の草食動物が移動し去ってもその場にとどまり、わずかな小動物で飢えをしのいでいるのは、長期断食をすることによって健康体を取り戻している、と言っても過言ではなかろう。
 ヒトは、この点でもハンディを背負っている。ヒトが長期断食しても、皮下脂肪率が一定値より下がると、それ以降はなかなか落ちず、筋肉を痩せ劣らせる方向に働き、生命を維持しようとするからである。ヒトの皮下脂肪は何のためにあるのかと言いたいほどである。近種のチンパンジーには皮下脂肪がほとんどなく、彼らが太るときは内臓脂肪として蓄えるのであり、太り方がまるで違う。人類進化の奇妙さがここにもある。

 以上、本節において「蛋白質過剰摂取の毒性」について「光化学スモッグの体内発生」「肉食によるミネラル不足」「肉食による腸内環境の悪化」「有害物質の蓄積」の4項目について概説したところだが、肉食動物とて蛋白質摂取の害を完全には克服しているとは思えず、ましてやヒトにおいては蛋白質の多食はかなりの害毒になっていると言わざるを得ない。

第4節 動物食中心の民族の知恵
 最後に、ヒトの食性から大きく逸脱した食習慣を持つ民族について考察することとしよう。
 人類は、1万年前には画期的ともいえる新たな代替食糧を開発した。それは、山羊の家畜化とともに起きた。山羊の「乳」を飲むことを覚え、その後、牛の家畜化で、乳を飲む量を大幅に増やした。
 哺乳類の乳児は、乳の主成分である乳糖を主たるエネルギー源とする。でも、離乳年齢に達すると、乳糖消化酵素の活性を失い、乳糖を消化できなくなる。人(乳児以外)は当初、乳糖が消化できなくても、乳に含まれる脂肪や蛋白質を栄養にすることができた。消化できない乳糖は、当初は下剤の役割しか持たなかったであろうが、長年飲み続けることにより、やがて腸内細菌叢が変わり、腸内環境を整えるに至る。
 これが幾世代にもわたって繰り返された結果、たぶん100世代(4千年)程度の経過で、離乳後も乳糖消化酵素の活性が失われることがなくなったのであろうし、かつ、それが遺伝するようになったのであろう。
 どういうわけで離乳年齢に達すると乳糖消化酵素の活性を失うのか不明だが、幸いにも乳糖消化酵素の封印遺伝子は、離乳後の乳の継続飲用でもって簡単に解除されたのである。これを乳糖耐性という。
 お陰で、新しい食への適応には通常百万年単位の時間がかかるのだが、乳の場合はあっという間に可能になってしまった。加えて、どんな哺乳類の乳児も、離乳初期には通常食に対する消化能力は未完成であり、消化不良などで健康を害する傾向にあるが、人の乳児が離乳する時期には家畜の乳を与えれば、好都合である。家畜の乳に含まれる乳糖以外の脂肪や蛋白質とて、通常食に比べれば消化吸収しやすい。
 現在、家畜の乳を常飲する北方系人種や乾燥地帯の遊牧民族は9割程度の人に乳糖耐性がある。このまま推移すれば、数千年もすれば100%乳糖耐性になる可能性が高いであろう。
 一方、家畜の乳を飲む習慣のない民族の乳糖耐性を有する割合は極めて低い。日本人の場合、その割合は5~10%しかない。その少数者は遊牧民族の血を引く人の可能性が高い。ところで、乳糖耐性は有りか無しかと、はっきり分かれるものではなく、アルコール耐性のようにどれだけかは分解できるというケースもあって、各種調査データにけっこうばらつきがある。よって、日本人の場合も、牛乳を飲むと完全に下痢するという乳糖耐性が丸でない人から、200ml程度ならおいしく飲めるという人が多くいたりする。
 こうして、家畜の乳は離乳後の子どもも大人にも便利な代替食糧になったのだが、想わぬ落とし穴もある。というのは、乳は乳児の急成長に極めて適したものとして作られているから、ミネラルバランスもそうなっている。乳児は骨の生長
を急がねばならず、乳にはカルシウムが突出して多い。成長が止まった成人がこれを多飲するとカルシウム摂取過剰となり、なんと骨粗鬆症を引き起こすのである。骨にはカルシウムの他にマグネシウムもどれだけか貯蔵されている。カルシウムとマグネシウムは対になって生体の生理機能を担っており、カルシウム過剰で体液中のそのバランスが崩れると、骨を溶かしてマグネシウムを体液中に放出せざるを得なくなるのであり、余分なカルシウムは血管などへ沈着させ、別の疾患まで誘発するのである。世界で最も牛乳を消費するノルウェー人に骨粗鬆症が非常に多いのは、これが原因しているのではないかと言われる。
 乳及び乳製品には、ほかにも害がある。乳糖不耐性の者がこれらを多飲すると、若年性白内障を生ずることがアメリカで判明した。乳糖が消化されないまま一部吸収されて、眼球の水晶体を濁らせるようだ。日本人の視力が世界一悪くなり、老人の白内障がずいぶん増えてきているのは、学校給食などで絶対的に不足しているとされるカルシウム補給のために、毎日牛乳を飲ませられているからであろう。
 実際にはカルシウムは戦前の摂取量で十分に足りているのに、戦後において間違った理論が横行しているから困ったものである。ちなみに、乳糖耐性、乳糖不耐性に詳しい欧米の栄養学者は、なぜに乳糖不耐性の日本人がああも牛乳を飲むのか理解に苦しむと言っている。
 こうした問題を際立たせているのは、先進国の乳牛は多量に牛乳が出るように品種改良され、本来の牛が出す天然の牛乳とは中身が大きく変わってしまった、人工牛乳とでも呼んだほうがいい代物になっているからである。一方、遊牧民の山羊や羊の牧畜は野生に近い飼育であるがため、その乳は天然ものに近く、カルシウムは相対的に少ないと思われ、問題はさほどのことはない。
かつ、乳糖もチーズやヨーグルトに加工する段階である程度分解され、これを主に摂るようにしているから、乳糖は完全に消化できよう。
 乳や乳製品に頼り過ぎる食生活で、大幅に摂取不足となるのがビタミンCである。モンゴル人は、それをお茶で補給している。モンゴル人のたびたびの南方への侵略の理由は、お茶の安定した供給ルートの確保のためであると言う学者がいるほどである。

 ところで、日本人は昔、牛乳を飲んでいたであろうか。醍醐天皇の時代に、貴族が牛乳と乳製品を諸国から貢物として献上させていたとの記録がある。貴族の美食文化の一つであったが、その後すたれた。
 幕末に興味深い逸話が残っているので、それを紹介しよう。
 アメリカが下田に領事館を置き、初代領事のタウンゼント・ハリスが幕府に牛乳の提供を申し出たが、幕府は「牛は農耕、運搬のためにのみ飼い置いており、養殖は全くしておらず、まれには子牛が産まれるが、乳汁は全て子牛に与え成育させるがため故」と理由を説明し、「牛乳を給し候儀一切相成り難く候間、断りおよび候」と拒否している。そこでハリスは自分で搾るから牛を飼わせてくれと申し出たが、再び「一切相成り難く候間、断りおよび候」と拒否している。
 人が母乳で乳児を育てるのと同様に、牝牛も子牛を牛乳で育てる。その乳を人が飲むという行為は、生を受けたばかりの生き物を飢え死にへ至らせる“かすめ取り”以外の何物でもなく、これは鬼畜の行いと考えたのである。もっとも、その1年半後、ハリスが高熱を出して重体となり、何としても死なせてはならぬと、あれほどハリスが望んだ牛乳であるから病にどれだけか効果はあろうと、幕府は牛乳を差し入れたのである。
 幕末における、牛乳に関するこの捉え方は、食というものはどのようなものであるかの、欧米人と日本人の考え方の大きな違いによるものである。欧米人は、食というものは単なる栄養としか考えないのに対し、日本人は生き物の命をいただくという考えを持っている。動物のみならず植物に対しても、そう考えるのである。食前に「いただきます」と言い、食後に「ごちそうさまでした」と言うのは、まさにその現われである。この言葉が使われるようになったのは、明治になってどれだけか経った後に、全国的に広まったようであるが、学校または軍隊での教育なのか、どこかで自発的に起きたものが広まったのか、調べても分からなかったが、世界に誇る美しい言葉である。食べ物に投げかける、この言葉は日本にしかない。
 我々日本人は、この美しい言葉をいつまでも大事にしたいものである。なお、「もったいない」という言葉も、これと一体のものであり、これも世界に誇れる美しい言葉である。

 完全な動物食である、もう一つの食形態がある。それは極北のエスキモーであり、アザラシなどの動物しか食べない。ほとんどが蛋白質である動物の筋肉つまり肉だけを食べていたら、とっくに絶滅してしまったであろう。彼らが常食しているアザラシやクジラは皮下脂肪がことのほか厚い。肉食というより脂肪食と言ったほうが当たっている。
 陸生哺乳動物は皮下脂肪がないに等しく、筋肉も霜降りであることは決してない。一方、海生動物は体熱の放散を防ぐために皮下脂肪を極度に発達させている。昔の欧米の捕鯨は、クジラの皮下脂肪を灯明の原料にするために行われていたものであり、世界中の海に出かけ、はるか日本近海にまで来ても採算が合うほどにクジラには皮下脂肪が多い。
 脂肪は消化に骨の折れる化合物であり、相当量の脂肪消化酵素や胆汁酸が必要となるも、エスキモーたちは長年の間にそれらの高分泌能力を獲得してきているのであろう。
 ビタミンC不足の対応もうまくいっている。食べられる所は全て食べるという「一物全体の法則」にのっとり、海生動物の胃腸に残っている半消化物の海藻までを食べることによって、これを解決しているのである。表面的には完全な動物食であっても、実質は雑食である。こうして、極北のエスキモーは何万年か同じ食生活をし、生き長らえてきている。
 エスキモーの食は、モンゴルなどの遊牧民以上に蛋白質と脂肪を過剰摂取しているが、大きく健康を害することはない。その秘訣は、しばしば断食をしているからである。好んで断食するわけではないが、彼らが獲物にするのは大型の哺乳動物であり、恒常的に獲物が得られるわけではない。幾日も獲物にありつけないことが度々あり、その間、断食せざるを得ない。
 極北の地の利を生かして獲物が多いときには大量に捕獲して冷凍保存すれば飢えずに済むのであるが、彼らはそうしようとはしない。本能的に肉食動物と同じように、繰り返し断食をしなけれな健康体を維持することができないと感じ取っているのであろう。特に、獲物の脂肪には、食物連鎖によって有害物質が濃縮して蓄積されているから、断食は必須である。
 その彼らも現代に至っては先進国の同化政策が進み、船外機付きのボートと猟銃によって狩りはいたって容易となり、断食をしなくなったようである。もっとも、同化政策によって定住し、野菜や果物を毎日食べるなど、食生活が様変わりし、肥満が増え、先進国同様の生活習慣病が蔓延するようになった。

第5節 火食の弊害
 次に、火食について検討してみよう。
 「生き物は生き物によって生かされている」と、よく言われる。これは、食べ物を大事にしろという訓示ではあるが、別の捉え方もできる。殺した動物も生(なま)であれば個々の細胞はまだ生きているし、植物は切り刻んでもその断片組織はかなり長く生き生きとしている。生きているそれらをそのまま生で食べよ、というふうに捉えてもよかろう。
 なお、生のものを放置しておくと、その生き物と共生していた細菌群がその生き物を分解し始め、分解生成物や合成化合物を作る。一般的には、空気中に浮遊している雑菌が加わり、腐敗ということになってしまうが、雑菌が入らずに分解生成が始まり、これが有用なものになれば、通常それを発酵という。発酵による生成物とその細菌群もまた生である。
 生のままで食うのと、火を通したものとでは、根本的に違いが生ずる。食べ物は胃酸によって変性するものがけっこうあるが、火を通すと炭水化物や蛋白質は熱変性し、胃酸の場合と変性の仕方が違うようである。ところが、熱変性により、なかにはそのほうが消化が良くなるものがあり、また、消化の段階で最終的にブドウ糖やアミノ酸などに分解され、化学的には生のものと火を通したものとの差は全くなくなる。
 しかし、火を通した野菜ばかり食べていると体に変調をきたし、生野菜を積極的に食べるようになると健康体が取り戻せたりする。なぜ、そうなるのか、その原因はいまだ科学的には全く解明されていないが、これは明白な事実だ。
 一因として、火を通すと、生き物に含まれている様々な酵素が熱で破壊され、その機能を失うことが挙げられたりしているが、しかし酵素は胃酸でその効果をあらかた失うことが分かっており、また、その酵素は消化酵素で分解されてしまうものが多いから、これを原因とする根拠は甚だ弱いものとなってしまう。
 のちほど「水の不思議」について述べるが、ブドウ糖やアミノ酸その他の栄養素も、全て水の分子と緩い結合をして働いているはずであり、その水が高温にさらされると結合の仕方が変わったり、結合が解かれてしまって、本来の働きが十分にはできなくなってしまうのではなかろうか。
 ビタミンCがいい例だが、生野菜や果物から生で摂取した場合と、物理的化学的に全く同じ構造を持つ合成ものを摂取した場合とでは、天然もののほうが断然効き目がいいと言われる。ベータ・カロチンともなると、天然ものは大丈夫だが、合成ものを大量に摂るとかえって有害になることも判明している。これは、水分子の結合の仕方がまるで違うからではなかろうか。

 水そのものも、そうである。生水と湯冷ましは同じ水でありながら、湯冷ましばかり飲んでいると、体に変調をきたし、生水に替えると健康体が取り戻せたりすることが、これまた経験則で分かっている。
 水に含まれるミネラル化合物が熱変性して吸収されにくくなるからだと言われもするが、水に含まれるミネラルは極めてわずかであり、たとえ全く吸収されなくても通常のミネラル摂取量からすれば誤差範囲に収まるから、これはピント外れな説明だ。こちらも、その原因はいまだ科学的には全く解明されていない。
 小生の推測を述べよう。
 水の分子は、水素原子2個と酸素原子1個が結合してできているが、液体の状態においては、幾つかの水の分子が緩く結合し、さらにブドウの房状になった塊の集合体が形成されていたり、平板状に何層かの集合体が形成されたりしているとか言われている。
 その状態のところへ熱を加えるとなると、そうした緩い結合が外れたり、集合体の形状が変化したりし、体に優しい形から、体に良くない形に変化してしまうのではなかろうか。
 深層水が体に良いと言われることがある。これは、水の分子の結合の仕方や集合体の形が地表のものとは異なっているからではなかろうか。生命が誕生したのは深海の奥深くからマグマによって生じた熱水が噴き出している所であるとの説が有力である。これにしたがえば、全ての生命にとっての生まれ故郷である、深海底の高圧な状態の水の形状が、生命活動をするうえで最も適したものなのではなかろうか。
 生命活動というものは、極めて小さな一つ一つの細胞の中で、幾多の化学反応が同時に進められて成り立っているものであり、水の物理的性質が少しでも変われば、それに伴って微妙に化学反応のズレが生ずることが予想される。これが大きな原因になっているのではなかろうか。
 その深層水も、地上に汲み上げれば1気圧の状態となり、早速に飲まねば効果は薄いであろう。もっとも、塩分が濃いから、まず脱塩せねばならず、その工程で水分子の結合変化を生じて地上の水に近づいてしまう可能性が大であるから、深層水を飲んでどれだけの効果があるか、疑問視される。

 水は互いに緩い結合をして集合体を作っていることのほか、各種ミネラル・イオンとも結合して働いていたりするし、各種酵素の働きも水分子が関与しているであろうなど、水は不思議な存在だ。
 また、誰でも知っているところの、水は4℃で比重が最大となったり、固体(氷)になると大きく膨張するという、他の物質にはない不思議な挙動をすることについても、原因は未解明である。

 以上、火食に関連して幾つかの問題点を挙げたが、いずれも未知の領域にあり、我々が知り得るのは経験則からだけであり、良い面(これは少ないが)もあれば悪い面もある、という程度のことしか言えない。
 火食はまだごく最近になって人だけが取り入れたものであり、30数億年の歴史を持つ地球上の生物が初めて体験することであり、生命の誕生とその進化のなかで想定外のことであるから、生体生理上、何らかの不具合が生ずるのは必然である、ということになろうか。
(ブログ版追記:
 ここで、少々お断りしておくが、湯冷ましが決して体に悪いとは言い切れない。世界最長断食記録はインド人が行った411日間であるが、これを行った人は、毎日、生水ではなく湯冷まししか口にしていない。湯冷ましであったから、こんな離れ業ができたのかもしれないのである。)

第6節 人の代替食糧となった三大栄養素の代謝の問題点(本節はブログ版で挿入)
 ウシが栄養を確保する方法は、前胃で細菌の働きにより草を発酵(前胃発酵)してもらっているのだが、霊長類にも前胃発酵で栄養を確保している種が多く存在する。細菌の働きを利用する別の方法として、後腸発酵という方法がある。ウマがそうだが、霊長類ではゴリラがそうで、大腸や盲腸で草を発酵(後腸発酵)してもらうのである。これにより、蛋白質を合成するために必要な各種アミノ酸やエネルギー源とするための各種短鎖脂肪酸を得ているのである。
 
チンパンジーの共通の祖先から分岐したヒトは、その後、チンパンジーより体型が大きくなったが、これは大腸の発達によるものであり、ゴリラのような巨大な盲腸までは手に入れなかったものの、大腸において、けっこう後腸発酵できる能力を持っている。
 現代人においても、完全生菜食で「葉菜類・根菜類だけで、豆・芋・穀類さえ食べない」という、初期のヒトと同様な食生活に切り替えると、だんだん腸内細菌がそれに適したものに変わり、生まれ変わった腸内細菌叢(腸内フローラ)が盛んに発酵を始めてくれる。
 
こうした食生活は、難病を患った方の治療や完治後の健康維持のための食であって、一般人にはとても真似ができるものではないが、ヒト本来の食性であるからであろう、難病が見事に治癒するのである。もっとも、葉菜類・根菜類を口で咀嚼するだけでは食物繊維がどれだけも細密にはならず、腸内細菌もそれを発酵させるのに苦労するので、ミキサーで泥状に細密化して口にするという方法が取られる。

 しかし、人は幾度もの食糧難から脱するために、今まで述べてきたように、芋から澱粉を、動物食から蛋白質と脂肪を、穀類から澱粉、蛋白質、脂肪を、といった具合に、代替食糧を開発し、それを消化吸収する能力を得たところである。
 それによる問題点を今までにいくつか挙げたが、完全な消化吸収や解毒ができればそれで問題が解消するものでもない。三大栄養素(炭水化物[=澱粉]、脂肪、蛋白質)はあくまでも代替食糧の範疇にあり、消化にずいぶんとエネルギーを消耗するのであり、つまり体力を消耗するのである。
 三大栄養素の摂取で、どんな無理が掛かるかというと、これが消化のために、膨大な量の消化酵素の産生と胃腸の蠕動運動を盛んにせねばならす、これに
かなりのエネルギー量を必要とするからである。
 ヒトのエネルギー消費は、通常、基礎代謝:約60~70%、生活活動代謝:約20~30%、食事誘発性熱産生:約10%とされている。このなかで、食事誘発性熱産生とは、三大栄養素が消化されたときに発生する分解熱のことで、食後に体が温まるのはこのせいであるが、これをヒトのエネルギー消費とすることには違和感を感じる。もっとも、ヒトは体温維持のために体内熱を作り出さねばならず、食事誘発性熱産生でもってこれを充てるということにもなるが、完全な生菜食にすると後腸発酵が盛んとなり、大きな熱産生が伴うから体温維持に大きく貢献し、摂取カロリーをその分減ずることが可能となるのである。
 それはそれとして、注目すべきは基礎代謝(生命活動をする上において必要最小限のエネルギー)であり、その割合は次のようだと言われている。
 <骨格筋:22%、脂肪組織:4%、肝臓:21%、脳:20%、心臓:9%、腎臓:8%、その他:16%>
 このなかで、三大栄養素の消化・分解・再合成に必要とする代謝(エネルギー消費)は、肝臓とその他(胃、膵臓、小腸その他臓器)における過半を占めるであろうから、少なく見積もっても基礎代謝全体の30%にはなるであろう。つまり、ヒトの現代の食事(ほとんどが代替食糧で占める)では、消化酵素産生をはじめとする食物代謝のために、かなりの労力を強いられている、ということになるのである。
 食後に眠くなるのもそうであり、食後は活発に動きまわるのがおっくうになるのもそうである。加えて、たっぷりと睡眠時間を取りたくなるのもそうである。
 
難病治療で完全生採食生活を長く続け、完治後もそれをずっと続けておられる方は、体に無理の掛からないヒト本来の食性に適合した食になっているからであろう、極めて小食で済むのであり、睡眠時間も3時間ほどですっきりした目覚めが得られるのである。こうした方には、食事をしても三大栄養素の消化酵素の出番はないから、そういうことになるのではなかろうか。
 
現代の飽食時代にあっては、食欲煩悩がために美食の誘惑に勝てるわけないし、また、強固な意志でもって完全生菜食に慣れきった体に体質変換を果たしたとしても、その後に宴席などの付き合いで少しでも美食を摂ると、消化器官はビックリして消化不良を起こすし、腸内細菌叢に大打撃を与えてしまい、翌日以後の後腸発酵が著しく滞る危険性も生ずるようである。 
 なお、現代人が通常食を取る場合においても、野菜中心で肉や魚が少量であれば、けっこう後腸発酵してくれもするようである。少なくともミネラル吸収においては、後腸発酵が少しでもあれば吸収効率はアップするのであり、戦前の1日400mgのカルシウム摂取であっても全然カルシウム不足が生じなかったのは、これによるところが大きいのではないかと思われる。
 5百種類、1兆個(1.5kg)にもなる腸内細菌とヒトとの共生は、ヒトの生命維持に思いのほか重要な要因を幾つも持ち備えており、これを無視することはできない。

つづき → 第10章 美食文化の功罪

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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漢方養生法「五味」、冬の巻(三宅薬品・生涯現役新聞バックナンバーN0.201)

2020年11月10日 | 当店発刊の生涯現役新聞バックナンバー

 毎月25日に発刊しています当店の「生涯現役新聞」ですが、これをブログアップしたのは2014年陽春号からです。それ以前の新聞についても、このブログ読者の方々に少しでも参考になればと、バックナンバーを基本的に毎月10日頃に投稿することにした次第です。ご愛読いただければ幸いです。

当店(三宅薬品)生涯現役新聞バックナンバーN0.:2011年10月25日発行
表題:漢方養生法「五味」、冬の巻
副題:冬の食事は、安心して「塩味」を楽しんでください

 ↓ 画面をクリック。読みにくければもう1回クリック。

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食の進化論 第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明

2020年11月08日 | 食の進化論

食の進化論 第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明

 動物は、その生息限度いっぱいまで数を増やし、どれだけかの増減を繰り返しながら安定した個体数を維持している。ある年、気候条件に恵まれれば食糧が豊富となり、普段以上に体に栄養が蓄積され、メスは妊娠しやすくなり、子育てもうまくいき、一時的に生息限度を超えた生息数となる。翌年、気象条件が悪くなれば、食糧が十分得られず、メスはやせ細って妊娠できなかったり、子が産まれても乳の出が悪くて餓死させたりして生息数を減らす。また、恒常的に食糧が乏しい地域にあっては、通常毎年出産するメスが隔年でしか出産しなくなることがある。ニホンザルにもそうした群が過去にはあった。こうして、生息数には自ずと上限が定まり、限度を超えた生息数は決して維持できない。
 人の場合、採集狩猟民は飽食することなく、質素な食生活でもあり、また、授乳期間が長くて3歳まで乳を与える所もあったりして出産間隔は4年になる場合もあり、かつ乳幼児死亡率も高く、人口はほとんど増加しないのが普通である。もっとも、近年は先進国の医療援助や食糧援助が彼らの社会にまで及び、急激な人口増加をみている所が極めて多くなってきているが。
 中期旧石器時代(約4万年前まで)は、動物一般と同様に、人社会もその人口は限度いっぱいまで生息数を増やし、どれだけかの増減を繰り返しながら安定した人口を維持していたに違いない。それが、後期旧石器時代(約4万年前から)に入ってから人社会にじわじわと人口増加が起こってきたのである。動物にはあり得ない生息数の増加、動物界唯一の例外となった人であり、それはどうしてか、そこで何を新たに食べるようになったか、それを本章において推察することとしよう。
 そして、後期旧石器時代に続く中石器時代(約2万年前から)と新石器時代(約1万年前から)さらに古代文明の発生(約6千年前)とその後についても併せて記述することとする。

第1節 後期旧石器時代の訪れ
 時代は大きく進み、最後の氷期であるビュルム氷期に入った。この氷期の中頃の約4万年前には、新人と呼ばれる現生人類のサピエンス人がアフリカから中東を経由してヨーロッパへと進出していった。彼らのことをクロマニヨン人と言う。クロマニヨン人は一段と進んだ石器を持つに至った。アフリカや中東そしてアジアにおいても同様に約4万年前から石器が急速に発達し始めるのである。
 後期旧石器時代の訪れである。世界各地で同時に石器が発達しだしたとも考えられるし、地域交流があって技術の伝搬があったとも考えられる。なお、自然環境の相違により、地域ごとに少しずつ特徴が違う石器が開発されていった。
 さて、後期旧石器時代の訪れは何を意味するか。サピエンス人が獲得した優秀なる頭脳によってもたらされた、というものでは決してない。彼らは、約20万年前ないし約15万年前にアフリカ大地溝帯で誕生したことは間違いない。彼らはヨーロッパへの進出に先立ち、約10万年前には西アジアへ、約7万年前にはアジア全域とオセアニアに進出をはたしているが、その誕生当時から約4万年前までは中期旧石器時代であり、遅々として石器の発達をみていないからである。
 それが、約4万年前に突如として石器を発達させ始めたのであり、併せて骨で作った釣針なども発明するに至る。これは、約4万年前から、どこもかもがだんだん今までのようには容易に食糧が調達できなくなったことを意味している。釣針で魚を釣るなどというやり方は、遊びなら別として、極めて生産性の悪い方法であり、これが一般化したということは、それだけ獲物が捕れなくなったことを意味していよう。
 中東や西アジアでどれだけかの人口増加があって、過疎が解消され、集団と集団との間の無人地帯が消滅していったと考えてよいであろう。この段階で、これらの地域では、狩猟対象動物の生息密度が急激に低下したに違いない。ために、草食動物がそう容易には捕れなくなり、狩猟技術の高度化で対応したのであろうし、不足分は魚を釣ることでしのぐことにしたと考えられる。また、草食動物を追う肉食動物をも、危険を冒して狩猟の対象にしていったことだろう。罠と槍の改良で対応できる。
 人はこの生息密度を解消せんとして、縁辺部のまだ過疎である地域への移動を活発に行い、瞬く間にユーラシア大陸全域にわたって進出を果たし、過疎が解消されたことであろう。
 人は、これまで自然生態系の一員として、環境を変えることなく暮らしてきたが、ついにそのバランスを崩す第一歩を踏み出してしまったのである。
 人以外の動物はその動物に固有の食糧が減少すれば必ず生息数を減らし、それが恒常化して種全体の存亡の危機となれば代替食糧を開拓するという、自然生態系の摂理に従って生きている。
 それに対して人は、代替食糧を求めるという自然の摂理にはどれだけか従ったが、人に固有のものとしてしまった動物食を従前どおり維持しようとして「神の手」(親指対向性という手の器用さ)
を使って効率よく食糧を得られる道具を作り、自らの生息数を決して減らそうとはしなかった。
 人は自然の摂理に歯向かう道を選んだのである。その第一歩が、後期旧石器時代の始まった約4万年前であり、これ以降、急速に段階的にこれを加速させていくのである。
 約4万年前にヨーロッパへ移住を開始したクロマニヨン人は、先住民のネアンデルタールが住んでいない無人地帯へ入り込んでいったであろう。 そして、先住民と新人は数千年間にわたり共存することとなった。彼らはどれだけかの交流をした痕跡があるが混血したかどうかははっきりしていないようである。(ブログ版補記:最近の遺伝子解析により、現在のヨーロッパ人及び一部のアジア人にどれだけかの混血が認められるとのことである)。その後、先住民のネアンデルタール人は約3万5千年前に忽然と姿を消してしまう。その原因は何か。歴史時代においては、寒冷化が数年も連続すれば、民族大移動が起きて、それに伴う戦争で大量殺戮が行われたが、それと同じことがこの当時にも起こったであろうか。でも、そのような痕跡は全くないし、決してそのようなことは有り得なかったであろう。ネアンデルタール人の絶滅の原因については、のちほど考察することとする。
 その後もヨーロッパでは人口が増え続け、過疎地も順次無人地帯を減らしていったであろうが、中東、西アジアを含めて、まだまだずっと後の時代まで飢餓に苦しむ事態までには至っていなかったと考えられる。もっとも、盛んに狩猟をすることになるから、動物は人を極端に恐れ、人を見たら一目散に逃げるようになって、狩猟がやりにくくなり、男の労働時間は少しずつ増えていったであろう。女子どもが中心であったであろう採集作業も時間がかかるようになったに違いない。
 そのクロマニヨン人も秋には飽食を味わった。河川にサケが遡上するからである。捕り放題、食べ放題である。北海道に住むヒグマも、捕り始めはサケを丸ごと食べるが、毎日腹いっぱい食べていると飽きがくるのか、終わりがけには卵(イクラ)しか食べなくなる。よって、クロマニヨン人もきっとそうしたであろう。
 そして、クロマニヨン人はついにとんでもない大発見をしてしまったのである。

第2節 性行為=妊娠=出産の連関を知る
 それは「性行為=妊娠=出産」の連関を知ってしまったことである。これは本能で知っていることでは決してない。性行為だけを捉えても、類人猿はそれを学習によってのみ知り得るのであり、人の場合もそうである。現に、中世キリスト教社会にあって厳しく育てられた貴族の子息が、結婚しても性行為をすることなく赤ちゃんの誕生を願っていたという事実が記録に残っている。これは例外ではなく、人は性行為の方法を教えられなければ、それを行うことは不可能なのだから。
 ましてや、性行為と出産との連関は知る由もない。動物全てがそうであるように、人もこれを知らなかったのである。何らかの方法で性行為の方法を知ったからといって、それを行なえば妊娠し、やがて出産することがどうして分かるのか。それは本能であるとの一言で説明されるが、小生は腑に落ちない。
 そもそも本能なるものがあるのか、それ自体が疑わしいし、あったとしても極めて単純な衝動的行動を取らせるだけであって、その行動が何かをもたらすかなどとは一切考えもしないのが本能であろう。
 通説では、動物のメスには優良な子孫を残したいという本能があって、そのためにはオスと性行為をせねばならないと考え、メスは精子を提供してくれるオスを吟味し、優良なオスが見つかれば、そのオスの精子をもらい受け、これで良い子孫が残せると喜ぶ、と。そんなことを動物のメスが思うわけがなかろう。
 複雄複雌群を形成するチンパンジーがいい例だが、メスは複数のオスの性を受け入れるのが一般的であるし、ゲラダヒヒのようにオスが群を乗っとる
単雄複雌群であればメスに選択権はない。メスがオスを選択できるのは、基本的に1雄1雌のペアで子育てをせねばならない鳥類などに限られる。
 メスにはそんな本能はないが、オスにはあるという見解もあろう。オスには自分の子孫を多く残したいという本能がある。よって、多くのメスと性行為をして自分の精子をメスに渡さんとして、オス同士で熾烈な闘いをせねばならない。これがオスの宿命である、と。こんなことをはたして動物のオスが思うであろうか。
 オスというものは、メスが発情期を迎え、フェロモンをまき散らしにかかると、射精時のオルガスムスを味わいたいがために、狂ったようにメスを求め、他のオスを排除しようとするだけのことである。
 類人猿のなかには発情期がはっきりしないボノボの例(常時発情と言っていい)があるが、人は女性が全く発情しなくなってしまった、非常に珍しい種である。また、女性は性行為をしてもオルガスムスをまず味わえない。加えて、人社会は、古代文明の頃からと思われるが、多くの鳥類のごとき1雄1雌のペア社会に変化した。人は、そういう極めて特殊な種であるし、太古の昔から一夫一婦の家族で暮らしていたという大きな誤解があるから、優良な子孫を残したいという本能があるなどと錯覚しているだけである。
 動物一般にメスに発情期があり、オスがそのフェロモン匂に惹かれてメスに接近し、オス・メス両性ともに性行為によってオルガスムスを味わおうとして狂う。そして両性に瞬間的に大いなる快楽が与えられて、しばし至福の時を過ごす。性行為とは、ただそれだけのことであり、ただそれだけで完結する。
 一方、出産という現象については、メスの体が大人に成熟すれば、自動的に出産というものが始まり、メスの一生が終わるまで、これが定期的に繰り返される、ただそれだけのことだ、と動物は思うのである。
 性行為と出産との間に連関があるなどとは、露とも思っていないのが動物である。そう断言できる。

 さて、イクラを食べたクロマニヨン人は、その連関をどうやって知ることができたかを考えてみよう。
 サケを捕らまえてイクラだけを食べようとするとき、半分は外れで白子しか腹に持っていない。彼らはイクラを食べ続けることにより、すでにサケは人と同様にオスとメスの両方がいることを知っていた。メスが産卵するやいなや、そのメスを追い回していた何匹かのオスたちが一斉に白子を放出する。そのとき、両性ともに体を震わせ、口をあんぐりと大きく開ける。
 この時代の人社会は、複雄複雌群(それも男どもが他の複数の群の女たちの所へ集団で出かけていく通婚)であったことに間違いないから、サケが自分たちとよく似た行動を取っているなと思ったであろう。違いは、サケが水中に射精することと、性行動と同時に産卵することである。
 これを幾度も観察していた好奇心旺盛な若者、人類史上で最も偉大なる無名の生物学者がついに登場する。彼は、その好奇心のあまり、白子なしでイクラが孵化するかどうかの実験を開始するのである。サケを何匹か捕らえてきて腹を裂き、イクラを取り出し、サケが遡上しない谷川の石に付着させる。対比実験として、その下流に白子をかけたイクラを同様に処置する。そして、孵化するかどうか観察するのである。
 何日か後、彼は歓声を上げる。分かった! 我々男どもは女に言い寄り、性交し射精する。それは単なる快楽だけではなかったのだ。その行為により、女は妊娠し、そして出産するのだ、と。
 動物のなかで「性行為=妊娠=出産」の連関を知っているのは人だけであり、それも、この時点で初めて知ったことであろう。後期旧石器時代に入ったところでの、イクラを好んで食べ始めるようになったであろうクロマニヨン人が、初めてそれを発見したと、小生は思うのである。サケが群をなして大量に遡上し、白子で白濁した川を見ないことには、こんなことはとても思いつかないであろうから。
 

第3節 第二文化大革命の嵐 
 この史上最大の大発見により、人社会は従前の通婚式複雄複雌群の婚姻形式を急激に変えてしまうような「第二文化大革命」の嵐に遭遇することになったに違いない。男は「夫」となり、「妻」と「息子や娘」を持つという、新たな概念を生み出させ、今まで考えもしなかった意識を芽生えさせたのである。それは、男どもに「父性愛」という観念を持たせたことである。この父性愛は類人猿にはなく、この大発見以前の人にもなかった。
 これによって、男どものこころに「自分の生まれ変わりを作りたい」という欲望を芽生えさせ、それまでは抑えられていたであろう、チンパンジーに顕著にみられる特定のメスの独占を巡るオス間の闘いやオスの順位付けという動物の本性があらわになろうとしたことであろう。そして、特定の女とその子どもの囲い込みをしたいと思うようになったことであろう。
 男どもが、その欲望のままに突き進めば、早々に家族の発生であり、これは今まで営々として築き上げてきた平穏な人社会をぶち壊す由々しき事態の発生である。しかし、こうした「第二文化大革命」は一瞬の嵐として収まり、従前どおりの平穏な社会を取り戻したに違いない。
 ここまで、一方的に男の立場から物を言ってきたが、この「第二文化大革命」の嵐は、実は女たちから巻き起こったものと考察される。それを静めたのが、男どもが新たに作り出した精神でもある「平等」思想ではなかったかと小生には思われるのである。この経緯については、かなり長くなるので、別立てブログの「人類の誕生と犬歯の退化 第5幕 ヒトから人へ」を
ご覧いただくこととして、話を先に進めることとする。
 男どものこころに、まだ「やさしさ」と「思いやり」と「気配り」が十分に残っており、この難局を乗り切るために、男どもは「平等」思想を新たに醸成することに成功したことであろう。人が科学して知った「性行為=妊娠=出産」の連関から生ずるところの男の欲望を抑え得る倫理観は「平等」思想以外にないからである。
 「愛」と「平等」は相反する観念であるが、男どもはこれを両立させることによって、不安定要素を抱えながらも、人社会を平和的に維持し続けたことであろう。なお、そうできたのは、まだこの時代には「私有財産」という観念が男どもには全然生じていなかったからである。マルクスの遺稿を元にしてエンゲルスが晩年に書き上げた名著「家族・私有財産・国家の起源」における原始社会の考察からして、これは間違いないことである。
 ここで、少々エンゲルスに物申しておきたい。この3つの発生の順番が違うのである。本来は「私有財産・家族・国家の起源」でなければならない。順番が違っては誤解を生むじゃないか。
 さて、男どもが抱いてしまった「父性愛」は、思わぬ現象を引き起こす大きな原因となってしまった。というのは、これがその後における人口爆発の序章となったのである。男どもが食糧採集するなかで、そのまま口にすることができるおいしいものを発見したとき、今まではその場で自分一人で食べてしまうだけであったが、男どもが父性愛を持つに至ると、決してそうしなくなる。そのおいしいものを持ち帰り、それを一部の女子ども(はっきりと特定はできないものの、子どもの顔が自分に似ていれば、自分が蒔いた種でできたと察しが付こうというものであり、息子や娘とその母親つまり妻)に、こっそり食べさせたいという感情が湧きだしてくる。
 しかし、それは平等思想に反するからダメだとブレーキが掛かり、ために、おいしいものが見つかれば、これから訪れるその集落の皆にいきわたるよう、こまめに探し歩いて多めに収穫するようになるであろう。こうした行動は、今日の採集狩猟民のなかにいまだに残っている風習(自集落の皆への手土産)である。
 すると、今までとは違って、皆がどれだけかの過食となり、ために女は妊娠周期を短くし、どれだけかの出産数の増加を見る。増加といっても、ほんのわずかの微増にとどまろうが、これはのちほど計算例を示すが、累乗で利いてくるから、千年、万年と経過すると無視できない値となる。そして、ある程度人口が増えると、食糧不足となり、子どもたちがひもじい思いをするから、父性愛でもって男どもは狩猟や食糧採集に精を出すようになって子どもたちを飢えなくし、人口は下支えされて減ることはない。
 こうして、その後に生ずることとなる人口爆発に、この時点で黄信号を点したと考えられるのである。
 なお、クロマニヨン人のこの大発見は、周辺地域へも伝えられ、早々に全人類が知ることになったであろう。長い人類の歴史を眺めていると、どの時代も技術や文化は思いのほか速く伝搬するものである。

 話は食性と随分外れてしまったが、ヨーロッパ情勢はこれにとどめ、他の地域の状況変化も見てみよう。
 ヨーロッパよりも人の生息密度が早くから高まっていたであろう中東と、ここに気候が類似する西アジア、東アジア北部での食生活はどのようであったであろうか。この地域は、ヨーロッパに比べて降雨が少ない。森林は一部の地域にとどまり、恒常的に草原が広がる地帯が多い。
 こうした地域でも、植物性の食糧は季節的な変化はあるものの年中どれだけかは得られる。しかし、芋の自生地は少なくとも現在の中東にはないようである。初めからなかったのか、採りつくしたのか、どちらか分らないが、植物性の食糧がさほど豊かな地域ではなかった。
 生息密度が低い時代には、それでも事足りたであろう。今日のサバンナに住むチンパンジーは数十頭で構成される一集団の遊動域が数百平方キロメートルにもなることはざらにあり、食糧はほとんどが植物性である。ところが、中東はアフリカで誕生した人のユーラシア大陸への通り道になっており、一集団の遊動域をそれほど大きくは取れなかったであろう。植物性の食糧だけでは絶対的に不足し、草原には草食動物がたくさんいたであろうから、不足分を動物食で補ったに違いない。
 中東における人の生息密度はヨーロッパより一歩先に進んでいたであろうから、草食動物が数を減らす時期も早かったに違いない。石器で代表される狩猟技術の発達も、まず中東から進んだことだろう。そして、ヨーロッパの大陸内部ほどではないにしても、動物食がかなり恒常的になっていたと思われる。
 一方、南アジアや東アジアの中部と南部では状況が丸っきり異なっていたと考えられる。南アジアや東アジア南部は、熱帯や亜熱帯であり、一般に湿潤気候である。こうした地域では、果物、芋が容易に手に入り、植食性の食生活が続けられ得る。でも、動物食の味を知った人であるからして、定期的に動物食パーティーが行われていたであろう。
 温帯に属する東アジア中部には常緑樹林帯が広がっており、果物は少ないものの木の実がふんだんに採れ、また、山芋や里芋の原産地であり、芋が容易に手に入ったであろうから、南アジアと同様な傾向の食性を保ったに違いない。
 本家本元のアフリカはというと、広大であるがゆえに地域によって寒暖・湿潤がバラエティーに富んでおり、様々な様式に分かれるであろうが、今までに述べたどれかの様式に当てはまると思われる。

第4節 氷期が終わり、間氷期に入る
 今から約1万5千年前に氷期が終わり、温暖な気候の間氷期(後氷期)に入った。これは現在も続いているのだが、氷河は大きく後退し始め、草原に代わって森林が順次広がっていった。植物相が豊かになり、植食性の食糧が増えたものの、草原の縮小により草食動物が減って、動物食に偏重していた地域では、初めて本格的な食糧危機がやってきた。
 後氷期になって絶滅に追い込まれた動物の種が非常に多いのである。これは、明らかに人による狩猟のし過ぎによるものである。最後の一匹まで捕り尽くさなくても、動物が生息数を減らして地理的分断が生ずると、その種の存続に必要な最低個体数を割り込むこととなる。近親相姦により子孫が残りにくくなるし、また、近親相姦は一般的に回避される傾向が強いからである。こうなると、狩猟の有無にかかわらず、その集団は短期間で絶えてしまうのである。こうして多くの動物種が絶滅していったと考えられる。
 動物が生息数を減らすと、代用としていた魚だけでは食糧が不足する。そこで、この頃に弓矢が発明されたのであろう(ブログ版で訂正:弓矢の発明は約6万4千年前)、森林に生息する動物の狩りが比較的容易となり、また、鳥もターゲットにされた。石器は、約2百万年にわたった旧石器時代が終わりを告げ、すでに中石器時代に入っていた。道具の一段の発達をみたのであり、これは狩猟が一段と難しくなった証である。
 後氷期の温暖化の始まりに伴って少しずつ海進が始まるが、シベリアとアラスカを分けるベーリング海峡にかろうじて陸橋が残っていた時代に、人は最後の処女地アメリカ大陸への進出を果たす。北方の草原で動物食主体の食生活をしていた者たちが、森林の拡大に伴う草食動物の減少により、獲物を求めて東へと進路を取り、滑り込みセーフで陸橋を渡り得たのである。その後すぐに陸橋は水面下に没し、海峡となってしまったから、移住できた人はさほど多くはなかったであったろう。
 先に、アメリカ大陸へ移住した彼らのその後を簡単に紹介しておこう。
 彼らは、たったの千年でアメリカ大陸の南端まで行ってしまった。驚異的とも思われる移動速度であるが当然でもある。アメリカ大陸の太平洋側には巨大なロッキー山脈とアンデス山脈が眼前にそびえ立っているから、容易には山越えできない。彼らはひたすら南下するしかなかったのである。狭くてどれだけも平地がない海辺や延々と続く切り立った崖を南へ南へと進むしかなかったのである。
 彼らは狩猟民族であったから、ひたすら動物を求めて移動したに違いない。そこにいた動物たちは人を警戒するということを知らないから、いとも簡単に狩りができる。多少開けた地域があれば、そこにとどまり狩りをする。わずかな労働で食が満たされるから、人口はあっという間に増えてしまう。やがて獲物が減ってくるから、一部の者たちがさらに南下していく。こうしてあっという間に大陸の南端にたどり着いてしまったのである。その後は、獲物が激減した地域から順次山越えをして山脈の東側の平原や森林に進出していく。
 外来種は、その食性に合った獲物がふんだんに存在すれば、あっという間に大増殖し、生息範囲を大きく広げる。日本に入ってきたアメリカザリガニがいい例だが、アメリカ大陸に移住を果たした人も同様である。
 新大陸へやってきた人は動物食主体であったと考えられる。新大陸では、こんな頃に短期間で絶滅してしまった動物種が数多くある。獲物が激減しても動物食への欲求が強く残っていて、植物性の食糧をあまり摂ろうとしなかったのであろう。現在の新大陸の採集狩猟民はアジアやアフリカの採集狩猟民に比べて動物食の嗜好が強いように感じられるのも、その食文化が根強く残っているのではあるまいか。

 ここで、日本列島への新人の進出にも触れておこう。
 考古学者たちは、証拠はないものの4、5万年前に南北両方向から入り込んだと考えているようだ。新人のヨーロッパへの進出時期と同時期であり、極東へも人口圧力が働いたのは必然であるからだ。
 当時は氷期にあり、海面は今よりずいぶんと低く、大陸、日本列島ともに陸地が大きく広がっていた。南は、琉球列島に2、3万年前の人の化石が幾つか見つかっている。大陸とは地続きにはなっていなかったが、浅瀬を筏で渡ることができたと考えられている。でも、そこから九州へは広大な海があって容易には進出できない。対馬は九州や本州と陸続きであったが、朝鮮半島との間に海峡は残っていたから同様である。この両方とも当時、筏で渡るまでの技術があったかどうかは定かでない。
 一方、北は、シベリア、サハリン、北海道が陸続きとなっており、北海道には2万年前の北方系石器が発見されている。北海道と本州はつながっておらず、津軽海峡があったが冬季は凍結して渡ることが可能であった。
 この時期に本州にも新人がやってきたのであろうか。静岡県で1万8千年前と言われる人の部分化石が見つかっているが、日本列島は酸性土壌であるがゆえに骨は溶けてしまって化石がなかなか残らず、発見例はこの1例のみであり、はっきりしたことは言えない。石器なら残るのであるが、北海道以外には古いものが発見されておらず、出てきたのは、かの有名な捏造品ばかりである。
 こうしたことから、本格的な日本列島への進出は、後氷期に入ったばかりの時期である約1万5千年前のことであろう。氷期の終焉とともにアジア大陸で、よりいっそう人口圧が生じたのであろう。筏での航海により、眼前に広がる大きな大陸、そう思えたであろう日本列島への渡来である。そして、これが縄文文化の幕開けとなった。併せて、津軽海峡を渡っての北方からの流入があったのかもしれない。諸説入り乱れており、詳細は不明である。

 話を元に戻そう。氷期が終わって2千年ほど経ってから、温暖化に伴う一つの大きな事件が起きた。1万2千8百年前の出来事である。それは北米大陸で起こった。氷河が溶けて大量の水が溜まり、五大湖とその周辺を含む地域に巨大な湖が成長し、その縁辺の低い山を越水して削り落とし、とうとう決壊して未曾有の大洪水が起きた。そして、真水が北大西洋上を広く覆って、深層海流を止めてしまったのである。
 深層海流は、7つの海の海溝という深海の「川」の流れであり、所々で上昇して表層の海流に変わり、熱帯を冷やし、寒帯を暖めるという重要な機能を担っているのであるが、北大西洋上の表層が真水で覆われると、真水の比重は小さいから、いくら冷やされても海面下へと下降してはくれない。自ずと深層海流の流れは止まり、これは千年ほど続いた。その影響で、温帯や寒帯に寒の戻り「ヤンガー・ドリアス」が訪れたのである。
 突然として世界中を同時に襲った異常気象ではあるが、北大西洋周辺地域では激しかったものの、太平洋周辺ではそれほどではなかったようでもある。
 この事件以降は、温暖な気候が現在まで続いている。もっとも、決して安泰した気候で推移したわけではない。小規模ながら小刻みに寒冷・温暖とそれに伴う湿潤・乾燥を繰り返して現在に至っているのである。
 そのなかで特筆すべきものは、新石器時代(約1万年前~)に入ってしばらく経った約9千年前から約6千3百年前までの約2千7百年間も続いたところの(期間の取り方は諸説あり、約8千年前~約5千年前とも言われる)気温最適期「ヒプシサーマル」である。現在よりも平均気温が2~3℃高く、海面も現在より2~3mは高かった。そして、陸地の多くで十分な降雨があった。特筆すべき現象として、サハラ砂漠は一面の草原となり、一部には森林までが生い茂った。あの広大なサハラ砂漠にも草食動物がいっぱい生息し得たのである。砂漠の中の岩肌に描かれた動物壁画がそれを物語っている。
 現生人類にとって、気温最適期「ヒプシサーマル」の訪れは、どこもかもが豊かな自然環境であふれかえり、豊食を楽しむことができた、一時の、そして最後の楽園であったことだろう。

第6節 農耕の始まり
 氷期が終わった約1万5千年前以降、現生人類は極めてゆっくりではあるが、人口増加に伴って徐々に食糧不足に陥ったものと思われる。ただし、それに伴う食性の変化は地域により千差万別であり、ここからは最も早く開けた中東を中心に話を進め、他の地域の特性については、のちほど補足することにする。
 人口過密が一番最初に訪れたのが中東であり、それに伴って社会変化も一番先に進んだ地域であって、その変化が周辺地域へも順次波及していったと考えられる。
 J・ローレンス・エンジェルの調査報告によると、3万年前の成人の平均身長は、男177cm、女165cmであったのが、1万年前の成人のそれは、男165cm、女153cmと、かなり低くなっている。このことは、栄養が不足しだしたことを物語っているようにみえるが、そうではないようである。3万年前の人はかなりのウエイトで動物食をしていたと考えられ、これによって身長が高かったのではないかと思われる。高蛋白食は背を高くするのである。その後も続く積極的な狩猟によって動物が数を減らし、減った動物食に相当する分をやむなく穀類に置きかえた、その結果の身長の低下、そう考えられる。
 1万年前には狩猟はどれだけもできなくなり、穀類が自生する地域では、穀類の種の貯蔵を通して、種蒔きによる穀類栽培が始まっており、これにより高収穫の安定した食糧確保が可能になったと考えられる。
 なお、穀類を食糧にすることは、すでにもっと昔から行われていた。2万3千年前のイスラエルの遺跡で、麦を磨り潰すための石皿と生地を焼いた炉が発見されている。自生している麦を採集し、調理していたのである。
この時に、人は偉大なる調理法を発明し、初めてパンを焼くことを覚えた、と我々は思いがちだが、決してそうではない。こうした方法を取れば、穀類が食べられることをすでに知っていたが、口に入るまでに相当な労力を必要とし、面倒だからそうしなかっただけのことである。しかし、食糧不足ともなれば、やむを得ずこうするしか致し方ない。だからパンを焼いた。ただそれだけのことである。
 もう一つの方法として、穀類を煮る調理法があるが、この時期の土器は中東では発見されていない。土器の発明は縄文人が最初であり(ブログ版で訂正 その後ヨーロッパでもっと古い時代のものが発見される)、1万5千年前のことである。日本人の巧みの技の原点がここにありと絶賛したがる傾向にあるが、これもそうではない。毎日のように焚火で調理していれば、泥が焼ければ硬くなることぐらいは誰にでも分かる。泥をこねて成型し、焼いてやれば土器ができることぐらいは、とうの昔に知っていたであろう。
 そのような煩わしいことをしなくても、もっと簡単な調理法で事が足りていたから、そうしなかっただけである。また、麦を煮てみたりもしたことだろうが、まずくて食えないから土器を作らなかっただけであろう。縄文人の場合は、グツグツ煮なければ食用にならないものを主食にせざるを得ない事情が出てきたから、土器を作っただけである。クリ、カシ、シイ、トチなどの木の実が豊富な日本列島であり、麦も米もまだなかったから、止むを得ず土器を作って、これらを煮ただけのことである。当時の人類と現代人の頭脳の差は全くない。かえって当時の人のほうが感性が豊かであり、自然観察力は現代人より格段に優れていたに違いない。
 そして何よりも暇があり、好奇心が絡めばいくらでも発明・発見ができる。これは遊びの世界のことであり、実用化とは無縁のものである。実用の必要性に迫られたら、おもむろにこんな方法があるんだがどうだ、となってすぐさま実用化されていく。そういう至ってのんびりと時間が流れていた時代であり、まだまだたっぷりと余裕がある時代でもあったであろう。
 中東では麦の自生地が多く、時代が進むにつれて、穀類に比重を置いた食生活が顕著なものとなっていく。毎年麦穂を全部収穫したとしても、原種であるからしてかなりの量の種がこぼれ落ちるから、麦の自生地が絶えることはない。加えて、運搬途中でもこぼれるから、より自生地が拡大するというおまけも付いてくる。穀類はこうして優れた食糧供給源となっていったのである。
 そして、これだけでは食糧が不足するようであれば、類似した環境の所に種をばら撒いたであろう。そうすれば、種が芽を吹き、やがて穂が実ることぐらいは当然に知っている。また、麦を本格的に食糧にするようになると、粉挽き用の臼が必要になり、これも約1万年前(ちょうど新石器時代に入った頃)に開発された。農耕一歩手前の麦栽培は、約1万年前には広範囲に行われていたに違いない。彼らはこうして食糧不足を回避してきたと考えられる。
 この間も狩猟は続けられ、動物はどんどん姿を消していく。ますます麦に頼らざるを得なくなり、麦は貯蔵が利くという大きな利点があるから、年中麦が主食となり、穀物倉庫も作ったであろう。
 穀物栽培は、すぐに次の段階に入っていく。農耕の始まりである。農耕といっても、雨が少ない地域では、灌漑だけで穀物は育つから、水路を掘りさえすれば事が足りる。多少とも雨が多い所では、一緒に雑草も生えるから、これを除草してやれば実りがうんと多くなる。当時の人は、この程度のことは分かっていたであろうから、穀物栽培はかなり古くから始まっていたであろうと、人類学者の今西錦司氏(故人)らがおっしゃっている。
 さらに収穫量を上げるには、土を耕すしかない。石器による鍬の生産が始まり、ここに本格的な農耕が始まるのである。約9千年前から約6千3百年前までのヒプシサーマル期に、ここまで進んだことであろう。

第7節 羊・山羊の家畜化
 ヒプシサーマル期以前に羊や山羊の家畜化が始まったようである。牧畜文明の誕生である。これは、半
砂漠地帯のオアシスにおける麦栽培とほぼ同時に始まったと考えられている。
 ミュッケの自家家畜化説が有名であり、栽培穀物を食べにきた羊との馴れ合いである。羊は栽培穀物がうっそうと生えているのを見つければ、当然にそれを食べにやってくる。それを一部認めてやる代わりに、人は何頭かの羊を捕獲して食べる。羊の群はリーダーの絶対の統制の下に動き、リーダーが逃げなければ他の者も逃げない。それゆえに、羊は群ごとごっそり人に帰属することになる。羊と行動を共にすることがある山羊も、それに従ったのではなかろうか。羊にどれだけか遅れはするものの、山羊も羊と同様に家畜化が完成したことは確かであろう。
 これが、ミュッケの自家家畜化説の概要である。他にも家畜化については諸説あるが、いずれにしても羊や山羊はかなり早い時期に家畜化された。牧畜が始まっても、最初から大規模ではあり得ず、家畜のオスをするにしても、狩猟が容易だった頃のようには口に入らない。安定した食糧供給は依然として栽培穀物が大半を占めていたことであろう。
 人が動物の乳を飲むようになったのは、いつからかは定かではないが、家畜化が完成して間もなく始まったのではなかろうか。家畜の子が産まれてすぐに死んだ場合に、たまたま母乳の出が悪い母親がいたとすれば、自分の子にその家畜の乳を搾って飲ませようと試みたであろう。こうして、子どもから始まり、母親が飲み、ついには皆が飲むようになったことだろう。

第8節 農耕と牧畜の広域展開
 農耕と牧畜は、採集狩猟に比べて格段に労働時間を必要とし、これは男どもの仕事となる。現在の採集狩猟民が農耕を取り入れたとき、最初は男が従事することが多い。家畜の世話も同様であろう。男どもは、ここに初めて「らしい労働」をするようになる。女たちは、定職に就いてくれた男どもにきっと感謝したであろう。しかし、これが、後に彼女たちに大きな悲劇をもたらすことになろうとは、知る由もなかった。
 牧畜は急速に広まっていったであろうが、狩猟は当然にして続けられた。よって、哺乳動物はどんどん姿を消し、魚介類や鳥類も以前よりは捕りにくくなり、動物食のウエイトは向上しなかったと思われる。
 いずれにしても、約1万年前には、農・畜産業の原型ができあがったであろう。そして、麦栽培と牧畜が、地中海沿岸部と西アジアそして東アジア北部へと伝わっていった。穀類の自生がない所では先進地から種を持ち込み、牧畜は家畜化の方法を学び取って進めたことであろう。
 なお、穀物栽培は単に収穫だけを繰り返していると、土壌がやせてきて収穫量が減少することがあり、家畜や人の糞尿を土壌還元してやれば高収穫が期待できることも知る。彼らは長年の栽培経験のなかからそれを知り、そのノウハウも伝授したであろう。
 ヨーロッパでも食糧不足となれば、穀物栽培を試みようとしたであろうが、栽培適地は少なかった。降雨が適度にあり、森林が多かったからである。そこで、牧畜が先行したと思われる。森の入り口には草が生えているから、それを食べさせればよい。住居づくりなどのために樹木を切り倒せば、若芽が吹いても、羊や山羊がそれを食べてくれるから草地で安定し、やがて切り株が朽ちはてて、そこが穀類栽培の適地に生まれ変わる。
 こうして、ヨーロッパでは中東から少しばかり遅れたものの、地中海沿岸部から順次内陸へ向けて、牧畜と穀類栽培が順次広がっていったことであろう。ただし、大陸奥部では歴史時代の訪れまで採集狩猟生活が続いたようであり、アルプス以北は深い森で覆われていた。
 西アジアや東アジア北部は、中東と気候が類似している地域が多く、中東にどれだけも遅れることなく、同様に進んだことであろう。降雨が適度にある地域では地中海沿岸と同じ方式で進んだろうし、降雨があまり期待で出来ない地域では牧畜の比重が増し、より乾燥した地域では牧畜のみとなっていったことであろう。

第9節 芋と米の栽培
 南アジアと東アジア南部は、様相を全く異にした。湿潤気候のもと湿地帯が広範囲に広がっていたからである。ここには芋が自生し、バナナもある。どちらも株分けしてやれば増えていく。芋については、ヒトの祖先がこの地に入ってすぐに知ったであろう。葉や茎を見ただけで地下に芋ができていることぐらいは、彼らの観察眼からすれば容易に察しがつく。なんせ、そもそも芋を求めての移住であったのだから。
 芋の自生地が居住地と離れていれば、収穫が面倒だからと、居住地近くの湿地に収穫した芋の一部を放り投げておくことぐらいはしたであろう。今西錦司氏らもそのようにおっしゃっておられるが、小生も百姓をやるなかでそうしたことをたっぷり経験している。里芋、これぞ南方産であるが、その収穫のとき、くず芋を畑の堆肥場や田んぼに放る。すると、翌年の初夏にはちゃんと芽吹く。ヒトの祖先とて、あまりに小さな芋であれば放ったであろう。放ったことにより、芋の自生地が自然と広がっていく。芋はそれを期待し、そうされることによって、彼ら芋たちは初めて生息域を大きく広げられるのである。
 芋たちのこの欲求は、アンデス原産の芋を作る植物に特に強いと思う。ジャガ芋、サツマ芋、ヤーコン芋ともにそうである。動物に土を掘ってもらい、芋を蹴散らしてほしいと願っているのである。蹴散らされたなかで大きな芋は動物の餌として提供するが、小芋は周辺に広くばら撒かれることを期待している。そうとしか考えられない芋の付き方である。
 南アジアや東アジア南部の人口が増えて過疎が解消されると、自ずと交流が盛んとなり、近隣地域に自生している異なったより良い芋を導入するようになる。種芋を湿地に放っておけば自然に育つのだから、簡単である。さらに人口が増えて、芋の収穫を増やす必要が生ずれば、小芋を湿地帯に広くばら撒けばよく、また、大きな雑草を抜いてやれば収穫量があがることも当然に知っていたであろう。
 バナナもそのうち株分け法を開発し、順次近隣へと広まっていったと考えられる。
 ここまでのことは、最初にアフリカからやってきたジャワ原人(180万年前の前期旧石器時代
)たちがすでに身に付けていた農法であろう。後期旧石器時代に入っても、当面はこれでしのいでこられた。しかし、中東で小麦栽培や牧畜が行われだした頃、この地でついに米が登場する。米は東インドの高地アッサム地方が原産と言われる(西アフリカにも原産地がある)。アンデスもそうだがヒマラヤも大昔の造山運動で低地が大きく隆起した場所であり、大粒の穀物や大きな芋を付けるようになった植物がけっこう多い。
 米は、脱穀した後に、蒸したり、粉にして焼いたりと、小麦同様に調理が面倒であり、直ぐには広まりをみせなかったものの、芋が不足する地方では、そうするしかない。なお、日本など東アジアで現在作られているジャポニカ米のように煮て食べる品種は、もっと後の時代に誕生した。
 米の栽培も、稲穂を収穫すれば麦と同様に種籾がこぼれて自生地は自ずと広がる。この米作を最初に大規模に取り入れたのは中国長江の中下流域のようである。1万2千前年の大規模な米作遺跡が発見されている。この地域は温帯であり、芋は里芋と山芋があったが、河川の氾濫原に自生する芋はなく、あるのは穀類の一種である稗(ヒエ)程度のもので、これはいかにも粒が小さく、食用にするには労多くして利なしであり、見向きもしなかったであろう。
 しかし、先に述べたヤンガー・ドリアスの到来で、急に寒冷化して芋の収穫量ががくんと減る。そうなると、稗でも食べざるを得ないが、西に連なる山脈の向こうに大粒の穀類「米」があることを伝え聞き、それを導入する。こうして、あっという間に米作が定着し、収穫した稲の運搬用に小舟を造り、通行しやすいように水路も掘る。米作農業の完成である。もっとも農業と言っても、収穫時に籾がこぼれるし、稲が生えていなかった所には籾をばら撒くだけですむし、定期的に洪水があって上流から肥沃な泥を運んできてくれるから、施肥も必要としない。いたって簡単なことであり、単なる穀類採集とどれだけの違いもない。
 この地域も動物食の要求があったであろう。狩猟によって哺乳動物が当然に少なくなっていたであろうが、米作地帯の水路には魚がいくらでもいる。簡単にこれは捕れるから、魚を食べればよいのである。
 魚では満足できなくなったら、野生豚を捕えることになるが、数が激減しており、これを飼育するようになったであろう。豚の家畜化である。くず米や野菜くずそして人糞を与えればすくすく育つのが豚である。
 牛を家畜化して農耕に役立たせるようにしたのは、ずっと後の、まさに農耕という本格的米作農業を行わざるを得なくなってからのことであり、これは中東あたりからの麦作栽培に始まり、順次南アジアや東アジアの麦や米の栽培地域に広まっていったと考えらている。

第10節 人口爆発の始まり
 約1万年前あたりから洋の東西を問わず、食糧不足は安定して収穫できる栽培穀類で補い始めた。手間がかかる収穫作業や脱穀そして面倒な調理を強いられながらも、これなしでは生きていけない。
 しかし、この代用食糧には思わぬ落とし穴があった。澱粉質の塊である芋類は今日、ダイエット食と言われることが多いのであるが、同様に穀類も澱粉質が主成分であるも、蛋白質、脂肪そしてミネラルがけっこう含まれており、高栄養の食糧なのである。芋を主食にしている限りはさほど過栄養にならず、出産間隔が開くので人口増加はさしたることはない。それに対して、芋に代えて穀類を主食にすると、同量の食事でありながら過栄養となるのであり、必然的に出産間隔が短くなって
人口増加を引き起こすことになるのである。
 これに拍車を掛けるのが動物食の減少である。動物食のウエイトが高いと、これも芋類と同様にダイエット食になるから出産間隔が開くのであり、人口増加はほとんどない。しかし、これまでの人口増加で狩猟は難しくなってきているし、牧畜による羊や山羊でそれを十分に代替できるのも限られた地域しかなく、多くの地域は穀類食の比重がだんだん大きくなり、過栄養が顕著なものとなる。じりじりと人口は増加しだす。
 後期旧石器時代以降、先の述べた父性愛がもとに人口圧が掛かりだしたのであるが、穀類栽培を始めた初期の頃は、まだ飢えが恒常化するようなことはなかったに違いない。男どもがちょっとだけ野良仕事に精を出せば、必要な穀類は十分に得られたであろうから。よって、人口は増え続けることになる。
 過剰なカロリーは全て皮下脂肪として蓄えてしまうのがヒトの特性である。たいていの動物は皮下脂肪をほとんど持たず、内臓脂肪として蓄えるのであるが、ヒトは皮下脂肪に蓄えるのである。そして、ヒトのメスの生殖は、皮下脂肪が一定の値以下に減ると、生理が止まり妊娠できなくなる、という大きな特徴がある。
 旧石器時代の前期や中期は、ぎりぎりの皮下脂肪率であり、出産とそれに続く3、4年間の授乳期間は皮下脂肪率の低下で妊娠することはなく、人口は自然に任せて増えたり減ったりしていたものと考えられる。食糧が豊富すぎる状態が何年も続けば、食糧の採集時間が短くなり消費カロリーが減る。その分、皮下脂肪が増えて出産間隔が狭まり、人口が増える。逆の時代が訪れれば、皮下脂肪率が一定の値を割り込み、なかなか妊娠せず、人口が減る。こうして、安定した人口に調整されていたことであろう。
 しかし、穀物を食べ始めたことにより、どうしても過栄養となって妊娠周期が狭まるのであり、極端な場合には皮下脂肪率が一定の値を常時超えてしまい、授乳中に妊娠することも起こり得る。ここに多産が始まる。多産といっても現代の子だくさんとは違い、この当時はわずかな出産増ではあるが、世代を重ねて継続されると、累乗で利いてくるから大変な値となる。
 1人の母親が1.02人の娘を成人させ、同じ率で次世代の母親も娘を成人させていくと、40世代つまり概ね千年後には人口が2.2倍になる。人口増加率が年0.08%でそうなるのである。中東の人口がこの当時の4千年間で32倍になったとの推計があるが、概ねこの程度のわずかな人口増加率でもそうなってしまう。これは人口爆発であり、人の異常発生である。
 穀類食の採用は、もはや後戻りすることができない人類の悲劇の幕開けとなってしまったのである。人口爆発ほど恐ろしいものはない。その悲劇の始まりを一時先延ばししてくれたのが、約9千年前から約2千7百年間続いた気温最適期「ヒプシサーマル」である。これにより人の生息可能域が大幅に広がり、食糧資源も増えたであろうが、人口圧力を吸収できたのは千年ともたなかったであろう。
 人口は再び飽和して食糧不足が訪れかけたが、穀類栽培地を増やし、穀類を増産することによって、しのぐことができた。男どもがなにがしかの労働追加をすれば、まだまだ対応できたのである。
 それがために、女の皮下脂肪率はそれほど下がらず、繰り返し妊娠してしまう。よって、人口はさらに増え続け、男どもの労働時間はますます増え続ける。男どもは、長時間労働という苦痛から逃れようと、労働生産性を上げるために穀類栽培技術を発達させた。石器を磨き、農作業しやすい道具を作り、それをぐんぐん改良していったのである。必要は発明の母である。
 この人口圧によって、科学技術は進歩の度合いを速めていき、石器は極めて精巧なものがどんどん作られるようになり、今日の技術でもってしても同じものが作り得ないものであふれかえった。その新石器時代も早々に幕を閉じ、約6千3百年前に青銅器時代つまり古代文明にバトンタッチするのである。
 
 前期旧石器時代は250万年前から始まり、20万年前まで続いた。通算して230万年の長きにわたり前期旧石器時代は続いたのであり、その間、石器を作る技法の進歩はわずかでしかなかった。アメリカの考古学者A・ジュリネックの言葉を借りると、それは「想像を超えた一様性」だという。それが、20万年前から時代は中期旧石器時代に、4万年前には後期旧石器時代へと足早に入り、そこからは忙しい。中石器、新石器、青銅器そして鉄器へと次々と時代は移り変わり、技術革新はものすごい勢いで進展していくのである。

第11節 古代文明の発生
 約6千3百年前(諸説あり定かでない)に、広大な範囲に飽和状態にして人を住まわせていた気温最適期「ヒプシサーマル」が終わりを告げる。地球全体が一気に寒冷化した。サハラの森林や草原は再び砂漠に戻り、そこに住んでいた人々は餓死したか難民となったであろう。ヨーロッパは寒冷化し、中東、西アジアおよび東アジア北部は寒冷化と同時に乾燥化に見舞われた。広域にわたる終わりを知らない大飢饉の発生である。
 人類は、これまでに短期的な小さな飢饉を幾度か経験したことはあったであろうが、餓死するまでには至らなかったと思われる。しかし、このとき初めて、そしてこのときから現在に至るまでずっと、餓死するほどの食糧難に度々苦しめられ続けることとなったのである。
 ほんの一時の楽園を人々に堪能させてくれたヒプシサーマルは、巨大なツケを人類にもたらしたのである。こうした前代未聞の大飢饉の大きな嵐のなかから、中東及びその周辺地域の各地で、次々と古代文明が誕生し始めるのである。この危機を乗り越えようとして、農業の生産性向上のための科学技術が飛躍的に発達し、土木工事を行って開墾も進む。また、単位面積当たりの収量を大幅にアップさせようとして、男たちが農地に人手をたっぷりかけ、あくせく働くようにもなる。
 すると、どうしても、重労働である水路の掘削や農地の耕運を真面目に行なう者と、そうではない者が目立つようになり、軋轢が生じて集落共同体としての強い絆が崩れ始める。行きつく先は、共同所有財産であった農地や収穫物を分割して個人所有とする私有財産制度への移行である。こうなると、「能力に応じて働き、能力に応じて受け取る」という、動物的一般原則に戻ってしまい、その結果、男ども皆が競うようにして懸命に働くようになり、生産性をさらに向上させ、食糧難からの解放をひたすら目指すようになる。
 かくして「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産主義体制はあっけなく崩壊したことであろう。併せて、共産主義のベースとなっていた、エゴを抑え、我慢し、耐え忍ぶという不断の努力から育まれていた「やさしさ」と「思いやり」と「気配り」が消えていってしまったのである。加えて、男どもは「平等」思想をも当然にして放棄してしまった。
 私有財産制度は、エゴを極限にまで高めてしまう。そして、男どもの「こころ」に残ったものは、自分の生まれ変わりである息子に対する「愛」だけとなってしまった。私有財産は、主に労働した男どもの財産になるのは自然の流れであり、愛しい息子へと私有財産を相続させるのは必然である。
 これにより、社会形態が大きく変化し、ここに初めて家族が誕生する。つまり男が家長となる一夫一婦の永久婚の始まりである。地域社会は、これにより大きく変革していくことになる。私有財産は不可侵のものとして守られねばならないし、貯蔵食糧は他部族からの略奪を防がねばならないのであり、内に警察、外に軍事という機能を備えた社会制度が求められるようになる。
 そして、人は、ついに「国家」という法人を作りあげてしまったのである。国家は、その民が食糧難になると他部族が持つ余剰食糧の収奪のため、必然的に略奪行為つまり戦争に打って出る。国家は戦争に勝つために、すさまじいほどに科学技術を発達させていく。これにより、その軍事技術が民需にも反映され、食糧の生産性を一段と高めたものの、あまりにも穀類食に比重を置きすぎたがために、人口圧力はよりいっそう強くかかり続け、余剰食糧はすぐさま底を突く。悪循環の始まりであり、とうとう人が作った国家という法人が暴走を始めてしまったのである。戦乱の時代の幕開けとなってしまったのである。
 これだけに止まらない。国家がその軍事力の維持増強のための重い課税は、家族が食べていくだけの食糧さえ手元に残らなくしてしまう。そこでどうするか。それは嬰児殺しである。ただし無差別ではない。男は重労働の担い手として、また国家の要求で戦士として必要だから必ず残す。決まって女子殺しである。当然だ。女というものは子を何人も産み、ために生活が苦しくなるからである。その罪悪感が逆に働き、極端に女性蔑視するようになり、女は忌み嫌われ、そして、女の人権は剥奪されるに至るのである。
 生態人類学者マーヴィン・ハリスは、人口増加があった後期旧石器時代から嬰児殺しが頻繁に始まったと考えているが、小生は、国家の発生に伴って起きたと考える。人は、如何ともし難い事態に追い詰められないかぎり、かような嬰児殺しという非人間的かつ非動物的、極悪非道な行為に手を染めることなど決してできないと思うからである。
 こうして誕生した古代文明をどう評価するか。
 人類の英知でもって科学技術の花を咲かせ、文明社会の幕開けとなったと高く評価されている。しかし、それは、あくまで法人である国家の立場で、国家と国家の間で互いに優劣を評価し合うものにすぎない。
 法人というものは、生の人ではないがゆえに、一切の人間性を持たない。ゆえに、国家という法人は、生の人から一切の人間性を捨て去るよう、洗脳に洗脳を繰り返し、これは今に至っても続けられており、いまだ古代文明を高く評価させ続け、我々はそれを素晴らしいものだと信じ込まされており、そして信じ込んでいる。
 なんとも哀れな話ではないか。

第12節 永遠に続く食糧危機
 ヒプシサーマルが終焉して以降の、つまりそれを契機として誕生した古代文明から今日に至る約6千3百年間の歴史は、人の食性とは無関係ではない。恒常的な食糧不足という情勢の下において、科学技術の進展は戦争を行うための武器の開発ということに目が向かいがちであるが、民意でもっていかにして食糧難を解消するかということに最大の焦点を置いて進んできたと言いたい。開墾・干拓工事や水路・ダム建設工事はもとより、食糧となる未利用資源の開発や発酵食品をはじめとする高度な食品加工のための諸技術を格段に進歩させてきたのは、この間の時代のまさに人類の英知によるものである。
 今日の我々日本人は幸いかな、こうして進んできた高度な科学技術の恩恵を満喫できる、ほんの一時の良き時代に暮らしていると考えねばならないだろう。
 これまで見てきたように、地球温暖化は決して危機ではない。逆である。それは歴史が実証しているではないか。“もっと暑くなれ、サハラに雨を! そして温暖化よ、永遠なれ!”と、世界は今、願わねばならないのではなかろうか。
 今現在の温暖化はヒプシサーマルほどには温度上昇が期待できそうになく、遠からず終わるであろう。確率的に再び寒冷化の嵐がやってくるのは必至であり、それは今年からかもしれないし、数十年先には必ずやってくることだろう。なぜならば、温暖と寒冷は数十年から2百年程度ごとに交互に繰り返しており、今は230年(ブログ版投稿時では240年)も続いている温暖期にあるからである。これは過去2千年間で最長不倒の記録であり、日々記録を更新し続けているのであるから、もうそろそろ終わると覚悟せねばならぬ。
 さらにその先には氷期が待ち構えている。数千年先にやってくる確率は5割を超える。そうした大小の寒冷化が訪れる前に、人類が早急に手を打たねばならないことが山積している。当然にして、食糧問題が第一であり、今の間氷期に入ってからの過去1万5千年間にわたる付け焼き刃的な方法ではなく、人の食性に適合した本質的な解決法を見いださねばならない。

つづき → 第9章 ヒトの代替食糧の功罪

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

コメント

食の進化論 第7章 ついに動物食を始める

2020年11月01日 | 食の進化論

食の進化論 第7章 ついに動物食を始める

 芋の火食が定着した後、どれだけか経って、とうとう動物の火食が始まってしまったと考えられる。火の利用についても、同様に消極的な表現をしたが、芋の火食は共産主義体制を確立するという偉大な成果を生み出したものの、動物の火食については、のちほど述べるように歯止めが掛からなくなり、人間性を喪失する元になってしまうという悲しい出来事につながるからである。
 なお、本章はあらかた小生の想像をもとにして記述していることを最初にお断りしておく。

第1節 最初は遊びとしての動物の捕獲
 原人のずっと前の猿人やその前の時代から、実り豊かな季節には食糧採集はすぐに終わり、暇は持て余しすぎるほどにあり、好奇心の強い若い男子たちは、走り回る動物を捕らまえて遊ぶことがあったであろう。今日にあっても、よちよち歩きの幼児を原っぱで好きなように遊ばせておくと、動くものに興味を示して、昆虫を見つければ捕まえる。この動くものは何だろうと、足をちぎったり、体を潰して遊ぶ。
 生き物とは何かを独学しているのである。幼いながら、ぼんやりと生き物の生死を知り、命を敬う「こころ」を醸成していくのである。名前は忘れたが、ある高齢の昆虫学者がそのようにおっしゃっていた。
 肉食動物の子どもも、親に教えられなくても、当然にして小動物を追いかけまわし、捕らえてじっと観察する。すると、小動物が逃げ出してしまい、再び捕らえて観察する。その繰り返しのなかで、時には小動物に大怪我をさせて動けなくしてしまう。でも、食べることを知らない。肉食動物の子どもとて、たまたまそのとき腹を空かせておれば、母親が食べ方の手本を示してくれ、初めてそれを学び、狩猟と食の関連を学習するのである。
 人の祖先たちも、若者になれば、鹿を追いかけまわして捕らえたものの、鹿が逃げようとして暴れるから首の骨を折ったりして殺してしまうことがあったであろう。こんなことはまれであったと思われるが、何かに驚いて骨折して動けなくなった動物をしばしば見かけることがあった。自分たちだって、仲間が骨折して動けなくなることがある。この動物の骨折の具合はどんなだろう、そしてこの動物の体のつくりはどうなっているんだろう。と、好奇心でもってしげしげと覗き込んだであろうが、観察が終わればその動物をその場に放置して行ってしまうだけである。
 現生のチンパンジーと違って子殺しと共食いを決してしなかったであろう人の祖先(犬歯の退化が非暴力のこころを養った、と小生は考える。)であるから、その動物に対してかわいそうだなという感情を抱くことがあっても、もっけの幸いとばかり、その動物を食べてやろうなどとは露とも思わなかったに違いない。

第2節 火という生き物は動物も食べる
 しかし、ここで再びドラマが生まれる。決して自分で食べることはしないが、たまたま見つけた小動物の死体を火という生き物のために、焚火に放り込むという悪戯好きな若者がいても不思議ではない。火という生き物は動物も食べるのであろうか。きっと食べるであろう。食べるとすると、どのようにして食べるのか。それを観察したいという好奇心が若者のこころの中に必ず生じる。
 植物とは大きく違った、異様な臭いを強烈に発し続け、骨だけが残るという不思議な現象を目の当たりにする。大人たちから、何を火にくべたのかと叱られ、以後このようなことは止めさせられたであろうが、気づかれなかった場合も有り得る。その場合には、興味本位にこれが繰り返される。

第3節 間違って動物を食う
 手足が短い、死んで間もない小動物を焚火に放り込んだ、その悪戯好きな若者が、たまたま用足しか何かで焚火から離れることがある。タイミング良くそこへ腹を空かせた誰かがやって来て、火を突いて、何か柔らかいものを発見する。これは何だろうかと思いながらも、新種の芋か何かと勘違いして一口食べてみる。未知の味であるが、食べられないことはない。どうしたものかと考えていると、その小動物を焚火に放り込んだ者が戻ってきて、それは動物だと告げる。食べた者はびっくりして吐き出そうとするが時すでに遅し、である。
 知らずに食べた者は、とんでもないものを食べてしまったと恐ろしくなり、毒がありはしないかと心配するも、時間が経ってもいっこうに体調は悪くならない。それどころか、かえって元気が出てきたような気がしてくる。不思議な気分を味わうことになる。
 こんなことは1回きりで終ってしまうであろうが、時として好奇心の塊のような悪餓鬼が登場し、動物と知っていて二度三度とこれを繰り返し行い、幾度も動物を食べてみようとする横着者が出てきてもおかしくない。すでに、人は火という生き物を家畜化し、人以外の生き物に対するおごりを無意識のうちにも持っていたのであろうから、そうした行動に走らせてしまうことになる。
 でも、動物は植物とは大きく異なり、異様な臭いを発するから、皆が気持ち悪がり、彼を変人奇人扱いする。まして、動物は人と同じように動きまわる生き物であり、拘束すればいやがって逃げようとするし、悲鳴を上げるし、最後には恐怖でブルブル震えている。人の本性である「やさしさ」と「思いやり」そして「気配り」を持ち合わせているかぎり、動物を殺して食うなどということは決してできない。
 現に、今日、日本人の男のお年寄りは、鶏肉が食べられない方がけっこう多い。一昔前までは、鶏を飼っていた家が多かった。そこで、卵を産まなくなった老鶏は一家の長がそれをつぶして家族の皆に食べさせていたのである。その経験から鶏肉が食べられないのである。人の本性をしっかり持っていれば、必然的にそうなるのである。
 また、この頃の人はすでに犬歯を退化させており、それによって男たちが女の獲得を巡って殴り合いや殺し合いで血を見るようなことは決してなかったに違いないから、なおさらである。
 こうした背景からして、動物を食べるということには、非常に強い抵抗感が伴ったのは確実であろう。
 しかし、若い男子には、皆に注目を浴びたいと思う気持ちがけっこう強い。早くいっぱしの大人になりたいからである。そこで、変人奇人扱いされると、よけい調子に乗り、それを繰り返す。そうした横着者は、えてして餓鬼大将となり、後輩の面倒見がいい。最初は誰もその真似をしなかったが、おっかなびっくり彼に従う若者がでてくる。ここに不良少年の小集団ができあがる。
 餓鬼大将の指揮のもとに、そのグループで小動物の狩猟を行ない、それを大将が焼いて、うまそうに食べるのを見ながら、他の皆もそれを恐る恐る食べる。口に入れ、飲み込むときに精神的興奮はピークに達するであろうが、肉は優れた強壮剤であり、また体をグーンと温める働きがあるから、しばらくしてから精神が異常に高揚してくるのを実感する。肉というものはそういうものであり、本来は虚弱体質の改善や病中病後の滋養強壮のための薬なのである。
 よって、不良少年グループは、単なるものすごい刺激的な遊びとして行なった動物の火食が、副産物として今までに経験したことがない精神的高揚を生み出したことを感知して、狂喜したに違いない。
 現生のチンパンジーたちが行う動物の生食パーティーと同様に、皆が異常な興奮状態に陥ったことだろう。

第4節 動物の火食パーティー
 こうして動物の火食は一部の少人数の若い男子の遊びとして始まり、順次若者の大多数が加わっていく。若者たちは暇を持て余したときには、皆で動物狩りを行ない、刺激的な興奮を求めて動物の火食パーティーを時々開くようになり、これが若者文化として定着し始める。
 これは昭和40年代から特に欧米の若者が盛んに行ったマリファナ(大麻)パーティーに似ている。暇を持て余した若者が刺激を求めて大麻をタバコにして持ち寄り、マリファナパーティーを開いて大きな社会問題となった。これと同じで、動物の火食は、その強烈な臭いと相まって破廉恥極まりない行動として、このときばかりは長老たちから厳しく叱られ、動物の火食は禁止されたことであろう。動く生き物を食うとは何事ぞ、である。
 しかし、若者たちには、もはやこの刺激的な遊びを止めることはできない。
 この頃はまだ火をおこす方法を知らなかったであろうから、若者たちは集落の焚火から火種をこっそり持ち出し、住居とは遠く離れた場所で、隠れて動物の火食パーティーを頻繁にやったであろう。それも、やがて大人たちに見つかる。でも、若者たちは場所を変えてそれを繰り返し、決して止めようとはしない。
 今日、ヨーロッパや北米の一部の国や州では、大麻はさほどの習慣性はなく、止めさせようにも止めさせられず、暴力団の資金源にもなっており、禁止したほうがかえって社会問題を大きくすることから、大麻は合法化したほうがよいという考え方に変わり、正々堂々とマリファナパーティーが開けるようになってきた。
 それと同じように、動物の火食パーティーも長老から渋々許されることになったであろうが、大人たちは今の若者はどうしようもない奴だと軽蔑したことであろう。
 文明は文化の変化をもたらし、世代間で衝突するという歴史を繰り返す。大人は保守的であり、若者は新たに覚えた行動を通して革新的になる。火の利用という大きな文明の開化によって生じた文化大革命は、動物の火食によって第2段階に突入し、世代間の衝突を想像以上に激しいものにしたかもしれない。しかし、この革新的な行動も2世代進めば、これを始めた若者たちが長老となり、その集団の習慣として認知され、集団の全員が動物の火食パーティーに加わるようになってしまうに違いない。当然にして幼い子どもも加わる。
 もっとも、決して毎日のように行うわけではない。マリファナパーティーと同じように、動物の火食は「麻薬」と同列のものであり、あまりにも刺激的な遊びであるからして、そうしょっちゅうではくたびれてしまうではないか。現生チンパンジーが行う動物食パーティーと全く同じレベルの感覚である。生活の余裕なり、何かの衝動といった内的要因が生じないことには動物の火食はしなかったであろう。現生チンパンジーとて多くても年間十数回しか動物食パーティーを行なっていないのであるから。

第5節 祭事の食文化として定着
 人の祖先も、何かあったときに動物の火食パーティーを皆で行い、初めは年に数回程度のことであったろう。それは何かというと、宗教なり呪術に関連して行われる祭事ではなかろうか。この時代に、すでに宗教なり呪術が発生していたと考えてよいからである。
 今日の世界にあっても、普段はほとんど植食性の食生活をしていても、祭事には皆が集まって動物の火食を行う民族がけっこう多いのである。熱帯や亜熱帯の湿潤気候の地域で文明が進んでいない所にそれが顕著であり、豚の丸焼きがご馳走として出されるのが一般的である。文明化した社会にあっても、昔の歴史を紐解くと、そのような習慣があった所が多くある。 
 動物の火食は、世代を重ねるに従い、祭事という宗教なり呪術という精神的な高揚の場づくりに欠くことができない必須行事として位置づけられ、祭事に付随する食文化として定着していったことであろう。長い長い年月の経過により、動物の火食が持っていた麻薬的な刺激は、いつしか宗教なり呪術が持つ精神的高揚そのもののなかに飲み込まれてしまい、それによって、動物の火食の麻薬性が覆い隠されてしまう。
 そして、いつしか動物の火食は麻薬性を完全に失うに至ったのである。人のこころから麻薬であるという意識が消えるだけで済めばまだしも、残念ながら積極的な狩猟という、おぞましい行動を身に付けてしまった。
 これは何を意味するか。
 これによって、平和的な人の社会が崩壊することはなかったであろうが、人がこころのなかにずっと包み隠し続けてきたところの「凶暴」性と「残忍」性を大きく揺さぶることになったのは間違いなかろう。
 芋の火食で最高潮に達したであろう人間性は、これ以降、少しずつ醜さを増していったと考えざるを得ないのである。もっとも、人は狩猟を行うなかで、そのこころの変化に気づいたであろう。そこで、自らのこころを恐れるようになり、動物神の信仰を持つに至った。獲物とする動物を崇めることによって、こころの野蛮さにブレーキを掛けようとしたのである。多神教の世界では、現在もこれが生き続けている。日本列島では今もそれは根強く残っている。

第6節 火食は第三の食
 動物の火食が祭事の食文化として定着し、麻薬性を失うと、「食」を「植物食」と「動物食」という区分とは別に、「生食」と「火食」という区分で捉える考え方が自ずと生まれ出てくる。そうして、「火食」は「火」という「生き物」によってもたらされた「第三の食」であり、「火食」は「生食」とは姿形や味が全く異なった別の食べ物であると認識するに至る。
 ここに、「火食」に適するものは「火食」にして食べるという「第三の食」を展開することになり、植物と動物という垣根をとうとう乗り越えた考えに至った。これにより、様々な動物が火食の食材に加えられ、ついには抵抗感なしに動物を楽しんで食べるようになってしまう。
 特に、狩猟に加わらない子どもが動物の火食に慣れ親しんでしまうと、当然にして大人たちが行う動物の解体作業を見ており、大人になって狩猟に加わったときには動物を殺すことの後ろめたさが弱まっていて狩猟に対する抵抗感が薄らいでしまう。
 こうなると、祭事の前には意識的に様々な動物を捕獲するようになり、祭事に本格的な動物の火食パーティーが催されることが恒常化し、それを皆が楽しみにし、動物の火食が最大のご馳走となるに至る。
 火の利用を知ったであろう数十万年前には、鋭い刃先を持った石器が作られるようになった。動物の解体を行い出したのである。
 なお、動物の生食も、火食が一般化すると、すぐに始まったことであろう。動物の火食をするなかで、生焼けのものが少なからず生ずる。初めはそれを口にしても吐き出して焼き直したであろうが、生のほうがうまいものもある。動物の生食文化も若者が開拓していっただろう。スリルを求めて、限りなく生に近い、血が滴るような生肉を食べる若者が必ず登場し、生食文化も一般化の道をたどる。
 いずれにしても、この段階に至って、植物性のものも動物性のものも格段に食域の幅を広げ、豊食へと進んだことは間違いない。ただし、調理が面倒な穀類にはまだ手を付けていない。毎日必要とする食材は、植物であろうと動物であろうと周りに幾らでもあり、それが簡単に手に入った時代であったと思われるからである。
 この時代は、人類の歴史上、最初で最後の最も幸せな時代であったことであろう。特に男どもにとっては最高であったに違いない。なんせ狩猟は当然にして暇を持て余した男どもの遊びであったのだから。

 この時代(概ね中期旧石器時代:約30万年前~4万年前)、人はどんな生活をしていたであろうか。通説によれば、昼は休みなく食糧を探し求め、夜は猛獣に包囲され、居心地の悪い洞窟に身を寄せ合い、恐怖と不安の時代であった、というものであり、一般にそう思われているが、今ではこれを否定する学者が多い。
 現在の採集狩猟民は、主に女子どもが採集に当たり、実働時間はせいぜい3時間程度である。大人の女は、それ以外に家事雑用が2、3時間で、小さな子どもがいれば子守が家事として加わるも、年長の女子が相当部分を受け持ってくれるからさほどの負担にはならず、日長ぼんやり過ごす時間がけっこう長い。
 男たちは何をするかというと、狩猟という遊びに惚けているだけであり、週に2、3回程度、気が向いたときにふらっと出かけて、獲物一匹捕れなくても平気な顔をして帰り、時には気の合った仲間と1か月も連れだってどこかへ出かけ、家を留守にすることもあるという。
 それでも、女たちは何一つ文句を言わないし、また、男どもは決して家事を手伝うわけでもなく、女たちに食わせてもらっている、まさに「ヒモ」の生活をしているのが実態である。そういう採集狩猟民がけっこう多いのである。男にとっては1年365日、遊んでばかりで暮らせる理想郷であり、まさに男の天国である。
 もっとも男どもにも多少は仕事がある。食糧が十分に得られる所へ定期的に移住せねばならず、住まい屋の建設、補修がそうである。また、猛獣に襲われそうになったときには果敢に立ち向かわねばならない。現生のゴリラが天敵であるヒョウに襲われたとき、群のボス・ゴリラが素手で立ち向かい、格闘しながら群からの引き離しを図り、命を落とすこともしばしばである。採集狩猟民の男どもの場合、こうした命を張った行動が唯一の取り柄ではあるも、今は多くの所が文明社会との交流があって、彼らにも近代的な銃なり、少なくとも鉄製の槍などが普及し、その任務も格段に楽なものになってしまった。
 オーストラリア原住民のアポリジニの多くは採集狩猟民であり、彼らのなかには今でも「労働」と「遊び」を使い分ける言葉を持たない部族がいる。彼らの観念としては、「労働」イコール「遊び」なのである。男どもが行う狩猟はまさしくそうであろう。女たちが行う採集行動も同じ感覚で行われているかもしれない。そうでないとしても、採集や調理や子育てを、敢えて「労働」という一括りの概念で示し、石っころでのお手玉や泥人形づくりを「遊び」という言葉で対比させなくてもすむほどに、実に単調な生活をずっと送ってこられたからであろう。

 一般に、飢餓と隣り合わせの状態にあると思われている採集狩猟民の食生活は、たしかに質素なものではあるが、決して飢えることはなく、季節折々に採れる旬の食材と男どもがときおり捕ってくる獲物だけで十分に堪能しているのである。
 彼らの食事の食材は、芋が4割、その他の植物性のものが4割、動物性のものは2割といったところが一般的である。なお動物性のものには、女たちが採集してくるものも含まれる。
 はるか昔の中期旧石器時代の人も同様な生活であったに違いない。今日との違いと言えば、動物食がうんと少なく、火食の頻度もさほどのことはなかったのではなかろうか。そして男どもの狩猟も満月に合わせて行うといった程度であったろうから、普段は男も遊び感覚で気が向くままに採集に加わったのではなかろうか。
 高度科学技術の恩恵をたっぷり受けている先進国の我々男どもは、たしかに毎日世界中の様々な食べ物を飽食することができ、少なくとも毎日テレビを見る程度の娯楽も楽しめる。そのために週の5日を残業もいとわず懸命に働き、わずか2日間の休息日をもらう。その休息日も半分は雑用やなんやかやで消えてしまう。それでも、今どきの男どもは、これが最も余裕ある生活であると信じている。採集狩猟民の彼ら、そして中期旧石器時代の人々に比べ、何とも哀れな生活ではないか。
 経済学者E・F・シューマッハ(1911-1977)は言う。「ある社会が享受する余暇の量はその社会が使っている省力機械の量に反比例する」と。けだしこれは的を得た名言である。

第7節 動物食が主食となる
 話を元に戻そう。通常であれば、この動物食文化は祭事限定のものとして、せいぜい月に1回程度でずっと続いていったことであろう。チンパンジーの動物食パーティーと同程度に。現にそういう民族も多々ある。
 しかし、寒冷化や乾燥化が進むと、森林は後退し、草原が広がってくる。温帯においてはこれが顕著なものとなる。すると、草食動物が生息数を大幅に増やし、肉食動物もそれに伴って数を増やす。かたや食用となる植物は大幅に減ってしまい、人は主要なカロリー源を失う。こうした事態になると、植食性の食生活を維持することが難しくなる一方で、動物食を行なおうと思えば、いつでも可能となる。
 そこで、植物性の食糧の入手が少なくなる時期には、動物食が祭事限定の枠から外れてしまい、毎日とはいわないものの、普段の食事の代用食として動物食を取り入れるようになる。
 いったんこの代用食を採用すると、歯止めが掛からなくなてしまう。寒冷化や乾燥化が長期化し、植物性の食糧がさらに希少となった地域では、人類の歴史から見れば瞬時ともいえる短期間に、一気に代用食である動物食が本格化してしまい、ついに動物が主食の座を占めるに至る。
 以前は人と動物が共存していたから、動物はそこら中にそれこそウジャウジャいた。人が動物の火食パーティーを始めてからは意識的に捕えるようになっていたので、動物は人を恐れて人を見かけたら逃げるようになっていたであろうが、なんせ数が多いのだから、幼稚な道具であっても十分に役立ったことであろう。この時代に特別に狩猟用の石器などが進化した形跡はないのだから。

第8節 氷河期に生きる
 動物食に親しんでしまったのは、どこに住んでいた原人たちであろうか。その筆頭に挙げられるのがヨーロッパである。数十万年前から約4万年前までの旧
石器時代(前期旧石器時代の終わりがけから中期旧石器時代まで)の状況を見てみよう。
 この時代には、ヨーロッパには火の利用を知っていたであろうハイデルベルゲンシス原人が数十万年前からいたし、その後、約30万年前からは旧人のネアンデルタールが希薄な密度ではあったろうが広範囲に生息していた。時代は氷河期であり、氷期にはアルプス以北まで氷河に覆われていた。その南は広大な草原が広がっており、地中海縁辺の山々は森で覆われていたようである。
 氷期の後に間氷期が訪れて温暖化し、氷河は後退して順次草原に変わり、草原であった所は次第に森林と化していく。北から氷河、草原、森林と東西に帯状の配列となり、氷期、間氷期という氷河の前進、後退に伴って植物相も南北に移動を繰り返した。氷期と間氷期は不規則に訪れたが、氷期が8~9万年続いて、間氷期が1~2万年続くというのが大雑把な期間間隔である。また、寒冷化、温暖化の程度はバラバラであり、草原化、森林化は極端な変化もあれば、そうでなかったこともあったと考えられている。
 ヨーロッパへ入ってきた原人やその後の旧人たちは、温暖な間氷期に地中海沿岸沿いの森林からまずまず得られる植物性の食糧を求めて入り込んだのであろう。間氷期にある今日の地中海沿岸の山々はほとんどがハゲ山になっているが、これは古代文明の発生の少し前から、片っ端から木を切りだし、その後に芽吹いた若木を家畜が食べつくした結果であり、当時は平坦部を含めて豊かな森が連続していたのである。
 原人あるいは旧人たちが、この植物性の食糧がまずまず豊かな土地に定着して間もなくすると、寒冷化が訪れて長い氷期となる。地中海沿岸部の植物相が貧弱になる一方で、内陸部へ一歩入り込めば、まだそこには針葉樹や広葉樹が生い茂り、シカなどの草食動物がいて、その生息密度は草原に比べて格段に低いものの、狩猟は十分に可能である。
 こうなると、今までのような植食性の食糧を中心とした採集生活は困難になるから、必然的に狩猟の頻度が高まる。特に冬場は植食性の食糧が得られにくく、狩猟が中心となり、必然的に動物食に慣れ親しんでしまう。加えて、動物食は体を内から温めてくれ、寒い時期には好都合である。
 こうした地域においては、採集狩猟エリアを広げざるを得ないが、各集団間のエリアの間には、今日の採集狩猟民の多くにみられるような無人のエリアが設けられていたであろうから、必要な食糧は十分に確保できたであろう。採集狩猟エリアの拡大で、労働時間が多少は長くなったであろうが、食生活はまだまだ余裕があったと思われる。そして、こうした狩猟を続けていても、無人エリアがあれば草食動物が生息数を減らすには至らなかったことであろう。なんせこの時代の人の生息密度は極めて低かったのだから。
 もし仮に、この時代に動物の生息数がどんどん減っていったとすると、獲物が捕りにくくなり、それがために狩猟技術が発達するはずであり、狩猟用の道具としての石器の改良も行われるはずである。しかしながら、この時代、数十万年にわたって石器の発達はほとんど認められない。このことは、まだまだ安泰な時代がずっと続いていたと考えるしかなかろうというものである。
 氷期の訪れとともに森林は北から次第に姿を消していき、代わって広大な草原が南下してくる。彼らが生息していた地域の森林は消え、草原だけになってしまう。そうなると、この地域の草原には芋の自生はなかったと思われるから、植食性の食糧は皆無に近い状態となる。一方、草食動物はそれこそわんさと出現し、捕りたい放題の状態になったに違いない。ここに動物食に大きく偏向した食文化が生まれ出る。
 間氷期には草原は北上し、それに伴い草を求めて草食動物は移動する。人はまだ定住していない時代であり、それに合わせて人も北上する。こうして寒帯に居住し、もっぱら狩猟に頼る人集団が誕生したことであろう。

第9節 魚や昆虫を食べたか
 動物食の対象となるものは、人がそれを覚えてからずっと哺乳動物だけであったと思われる。鳥については、前に述べたように神様扱いで手を付けにくかったろうし、飛んで逃げていくから狩猟効率が悪い。
 それ以外に可能性として考えられるのは魚介類であるが、好んで食べることはなかった感がする。水生生活にわりと馴染んでいる現生のボノボは小魚取りをして遊ぶことがある。ボノボよりもっと水生生活に馴染んでいた原人たちであったろうから、当然にこうした遊びはしたであろう。魚は逃げてつかみにくいが、乾季には干上がってきている所が必ずあり、子どもでも容易につかみ取りができるし、貝であれば逃げはしない。小生は貝の刺身には目がない。刺身にして塩水で洗えば、こんなうまいものはない。周りを海に囲まれている日本人であるからして、そう思うのだが、一般的にはどうもそうではない。生魚を決して口にしようとしない民族が多いのである。
 原人たちははたして魚介類を食べていたであろうか。魚の骨は分解して残りにくいであろうが、貝殻なら残りやすい。哺乳動物の骨はずいぶん昔の遺跡からやたらと発掘されるが、魚の骨や貝殻がまとまって発掘されるのは、やっと十数万年前からであり、魚介類を食べるようになったのは比較的新しい食文化と言わざるを得ない。その頃には地域によっては哺乳動物が数をどれだけか減らしてきて、狩猟で走り回るのは面倒だからと、ずっと楽な方法である魚介類の採集を行う地域が所によって現れてきたのであろう。
 もう一つの可能性が昆虫食である。日本人はイナゴの成虫やハチの子を食べ、東南アジアでは様々な昆虫の幼虫やゴキブリの成虫さえ食べるなど、世界各地で昆虫食の風習が数多くある。これはいつ頃から行われだしたのであろうか。遠い遠い祖先である原猿類は昆虫食であるから、その生命記憶が呼び覚まされたとすれば、草原にはバッタの類がたくさん生息しているので、人の祖先がサバンナへ出たときにすんなり昆虫食に入ったはずである。でも、乾燥したタンザニアの灌木地帯で暮らすチンパンジーは各種の哺乳動物の狩りをときどき行うものの、昆虫にあってはアリ(通常、アリ食いは蛋白質の補給と言われているが、小生は関節痛の薬として食べていると考える。)以外は食べない。人も全く昆虫を食べない民族も多い。こうしたことから、人の昆虫食の風習も随分と新しい食文化と言えるのではなかろうか。
 簡単に欲しいだけ哺乳動物というおいしいものが手に入れば、捕るのに手間が掛かったり、小骨があったり、小さすぎて食べにくいもののは見向きもしなかったに違いない。魚介類や昆虫はその類である。加えて、まだまだ食に保守的であった時代であろうから、ゲテモノ食いにはそうそう走らなかったことであろう。

つづき → 第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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