老い、赤秋に生きる
うちは、真宗大谷派、俗に言う“お東”、東本願寺の門徒でして、毎年11月に小冊子「真宗の生活」が配布されます。3分法話が12掲載されているので、これをパラパラッとめくって面白いなと感じた法話を昨年の今時分に紹介しました。それは「“坊主もたまにはいい話をする”と言っては失礼に当たりましょうか。ゴメンナサイ。」にあります。
今年もその配布を受けましたので、早速見てみました。なるほどと感じたものが1つありましたので、まずそれを紹介させていただきます。
「老い」で見える世界(佐賀枝夏文:大谷大学名誉教授)
お釈迦さまは、今から2500年前、現在のインドの小さな国の王子さまとして生まれられました。
あるとき、お城の外へ出かけようと東の門から出ようとすると「老人」に、南の門から出ようとすると「病人」に、また西の門では「死人」にと、人生において逃れることのできない「老病死」に出会われました。そして、北の門ですがすがしい出家僧に出会い、出家されたといい伝えられています。お釈迦さまが29歳のときでした。
「老い」は、そのテーマである「老病死」のひとつであり、人間にとって逃れることのできない、じぶんの意思では叶わないことのひとつです。
「老い」に至る人生の歩みは、どれひとつも「夢」ではなく「事実」です。老いの道中は、「叶わない」「意のままにならない」ことのなかで、苦汁を味わい、また、悲しみのなかで、ひとはみ教えを聞き、正しく観ることを知ることになります。それは、「あきらめ」ではなく、「正しく観る」ことで、他人事ではなく、「じぶん」のこととしてみえてくるのだとおもいます。
ボクは樹木からさまざまな教えを聞いてきました。樹木は、陽春に芽吹き、新芽が育ちます。まるで赤ちゃんが育つかのようです。次第に季節が初夏に向かえば、新緑の葉っぱは立派に育ちます。そして、季節が移ろい秋になり冬に向かいはじめ寒風が吹き始めると、広葉樹の樹木は、錦秋の彩りをみせてくれます。「老い」の輝きが艶やかにさえみえます。ひとびとを、「もみじ狩り」に足しげく向かわせるのは、錦秋の彩りに秘められた多くの物語と出会うからではないでしょうか。その背景には、春の桜にはない、「人生の趣」を感じるからのようにおもいます。
そして、落葉の季節を迎えます。しかし、枯れ葉の後には、すでに新芽が準備されていることは、驚きです。「老い」は単独であるものではなく、「起承転結」のなかにあり、それは、「いのち」の連なりでありバトンタッチのときでもあります。また、大地へ還ることは、「いのち」の源である樹木を肥やす滋養となるのですから、「老い」のはたす役割は「尊い」ものであるといえます。
「老い」もこのように考えてみると、「老い」をじぶんのものと独占していることが間違いであることになります。じぶんの「老い」から、開放されて「つながり」のなかで考えてみてはいかがでしょう。大きな「つながり」のなかに、「連綿とつづく」なかに「いのち」があります。そのなかに、おひとりおひとりの「老い」があるということです。
このように「老い」も、じぶんの手元から開放されてはじめて、「衰えること」から意味が転じて、大きな「いのち」として「よみがえる」という世界がみえてきます。
<『すべてが君の足あとだからー人生の道案内ー』(東本願寺出版)より>
いかがでしたでしょうか。
小生は、この法話の中で2つのことを感じました。
一つは、「自分はやがて枯れ葉が落ちるごとく死にゆき、取るに足りない人生を歩んできたであろうものの、それが、周りの者たち、特に我が子の肥やしに必ずやなっているであろう。樹木の葉っぱのごとく。」であって、導師がおっしゃる『「老い」のはたす役割は「尊い」ものであるといえます。』というお言葉をうれしく感じたところです。
もう一つは、導師がおっしゃる「季節が移ろい秋になり…錦秋の彩りをみせ…「老い」の輝きが艶やかにさえみえます。…春の桜にはない、「人生の趣」を感じる…』という、今や我が世の春という老年生活の捉え方です。これにはワクワクさせられます。
そこで、思い出しました。2つ目に感じたことは、これは「春」つまり「青春」ではなくて、「赤秋」なんだと。この言葉を知ったのは、つい最近のことです。
韓国人キム・ウク氏(86歳)のエッセイの翻訳文で知ったのですが、その一部を紹介しましょう。(出典:ブログ「天安からアンニョン」 ブログ管理人の日本語への翻訳文)
私がこの韓国では一番老いぼれの翻訳作家だと思う。そんな関係もあってかときどき聞かれることがある。「日本語の中で一番好きな表現は何ですか?」。私は躊躇なく答える。赤秋(せきしゅう)っていうことばだけど聞いたことある?って。日本語が朝鮮半島から渡っていったということは多くの人々が知っているけれど、「赤秋」ということばは韓国語にはない。ことばそのまま「赤い秋」という意味だ。何がそんなに赤いといういうのか。紅葉だろうか。あるいは夕日がしばし立ち止まる広大な草原だろうか。
「赤秋」ということばは、日本では高齢者の青春という比喩で用いられている。物質と出世という世の束縛から逃れ、これからは自分の好きなことを自分勝手にやれるという自由を手にしたということなのである。
老年期に差しかかった人なら誰でも共感する話だ。青春が青い春の日だとすれば、赤秋は赤い秋だ。春夏秋冬の四季の中で春と秋は対称をなしている。満開の夏を準備する春が青春とするならば、もう一度土に返る冬を準備する時期が秋、すなわち赤秋だ。冬が残っているからまだ終りではなく、それに結実の時でもある。豊かで美しい紅葉はおまけだ。(引用ここまで)
いかがでしたか。
キム・ウク氏は「豊かで美しい紅葉はおまけだ。」とおっしゃっていますが、「赤秋」の本命はここにあり、ではないでしょうか。
季節はこれから「もみじ狩り」最盛期となります。赤い秋を満喫し、「人生の趣」をじっくり噛みしめ、やがて来る結実そして冬に備えましょうぞや。