雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ二輪事業と私 その24  砂野仁さん

2016-11-14 06:49:56 | 自分史

★ 自分の人生に大きな影響を与えた人、一番大きな影響を与えた人は『砂野仁さん』かも知れないなと思っている。

砂野仁、川崎重工業の社長として当時の川崎車輌・川崎航空機の三社合併を遂行された社長なのだが、この砂野仁さんとは私は中学1年生のころに初めてお会いしていたのである。

 

   

 

当時も会社の社長さんだったのかも知れぬが、当時は伯父の親しい知人の『おじさん』だったのである。

明石の中崎海岸に戦時中「錦江ホテル」という伯父が道楽でやっていた結構立派なホテルがあったのだが、戦時中川崎航空機に来る軍の方たちの宿舎として接収のような形で売り渡されたのだが、その時の川崎航空機の総務部長が砂野さんなのである。

 

     

 

伯父は当時は朝鮮の南鮮合同電力、という朝鮮最大の電力会社のオーナー副社長などしていたのだが砂野さんとは気が合ってお付き合いがあったのである。よく本家に来られて戦後の酒のない頃に酒など一緒によく飲んでいたのである。

 

     

 

私が昭和20年朝鮮から引き揚げてきたときは既に中学1年生だったのだが、翌年の4月に神戸1中に入学したのは砂野さんの勧めだったのである。砂野さんの長男の耕一さんが神戸一中に通っておられたからである。

昭和21年4月の入学なのだが、旧制中学の神戸一中の1年生として入学し、翌年からは新制中学がスタ―トしたので、3年生の時県一女と男女共学になるまでは所謂旧い伝統のある男子名門校であった。

 

★私は朝鮮京城、今のソウルの桜ケ丘国民学校ー城東中学校ー神戸一中(神戸高校付属中学)ー明石高校ー神戸商大という一応の学歴なのだが、学生時代に勉強をしたのは、桜ケ丘国民学校の6年間と神戸一中の男女共学になるまでの2年間の8年間だけで、それ以外は『勉強をした』覚えが全然ないのである。

神戸一中の2年間は、本当によく勉強もしたしそれなりに成績もよかったのだが、男女共学になり、さらに学区制で明石高校に入学するのだが、神戸一中の2年間の特に英語・数学などのレベルが高すぎて、男女共学になった中学校の3年生の時も、高校になってからも、特に勉強しなくても復習をしているようなことで、ついて行けたからなのである。

高校になってからは特に野球の名門明石で野球に熱中していたし、父が高校2年のころから脊髄カリエスで病床に伏せてしまったので、高校3年生の時は入社試験などは受けていなかったのだが、伯父と砂野さんとの間の話で、川崎航空機に入社が決まっていたのだが、高校3年の年の1月2日に父が亡くなって、伯父が『もう金も掛からなくなったから大学に行け』というのである。父がもう1ヶ月も生きていたら、私は高校卒で川崎航空機に入っていたと思う。父は私に大学に行かすために『1月2日』に死んでしまったのかと思ったりもするのである。

受験勉強をする期間も2ヶ月ぐらいしかないので『受験科目が少ない』神戸商大を受けたら通ってしまったのである。ただ当時の神戸商大は結構難しくて、競争率は16,5倍と史上最高だったのである。何となく試験はできたのだが『なぜ通ったのかは不思議だった』ので、大学の野球部長の先生に卒業前に聞いてみたら、『君は県会議長が頼みに来たからな』と仰るのである。当時は、そこそこ試験が出来てたらそんな融通も効いた時代だったのである。そんな感じで入学した大学だったから殆ど勉強などせずに野球ばかりに熱心だったのである。

 

★前回の『カワサキ二輪事業と私』で触れたが、大学の3回生の時に伯父も亡くなってその葬儀に来られた『砂野さん』が卒業したら『川崎航空機で面倒見るから』と仰って頂いたのである。

学生時代の神戸一中の2年間の成績は、その後の私の人生で非常に大きな自信になっているのである。社会の出ていろんな方とお会いする機会も多かったが、どんな方にお会いしても『大丈夫太刀打ちできる』と勝手に思ってしまうのは、神戸一中時代の成績のお蔭なのである。

そんな神戸一中を勧めて頂いたのも、川崎航空機に入れて頂いたのも『砂野仁さん』なのである。若し砂野さんがおられなかったら、私の人生はまた全然違ったものになっただろうと思っている。

 

★川崎航空機に入社してからの『砂野仁さん』は『おじさん』ではなく『社長さん』であったのだが、会社の中で結構何回も二人だけでお話をする機会があったのである。

●入社して財産課に配属されて机や椅子などの工具器具備品を担当していたが、当時の机も椅子も木製で特に椅子はよく壊れて、毎週トラックにいっぱいの修理要求が出るのである。当時金属製の椅子の『ネコス』という銘柄が出たのだが高いのだが疲れないとか健康にいいといいうのである。

 

  

 新入社員の分際であったが、砂野さんにサンプルを持ち込んで『意見をお聞きに』上がったのである。 砂野さんが真向法など特に健康には関心があったからだが、想定通り『気に入って頂いてネコスの椅子の採用が決まったのである。 この椅子は絶対にいいと思ったのだが、購入を決めるには、こんな方法が手っ取り早いと思ったのである。

これは当時としては結構高かったが皆さんに好評で、採用されて3年ぐらいかかって順次『ネコス』に替わっていったのである。(それにしてもネットで検索したらこんな写真が現れてびっくりした。)

 ● 2度目は、砂野さんのほうからお呼びが掛かったのである。日記によると昭和34年9月30日に社長室に呼ばれて、何かと思ったら『まあ座れ』と言われて『尼崎の医者の娘で・・・』と縁談の話なのである。その時はすでに家内と付き合っていたので、何と答えたかは忘れたがもやもや言ったのだろう。翌月10月6日に総務部長の岩城良三さんに呼ばれて、いろいろ具体的に聞かれたのである。 とにかく砂野さんはいろいろと義理堅いというか面倒見がいいのである。

● その年の12月、砂野さんは栄転で川崎重工業のほうに異動されたのだが、その時も呼ばれて「35歳までに1人前にならないとダメだぞ」などといろいろと話を聞かされたのである。ご自身が神戸のほうに移られるのでわざわざ呼んで話をして頂いたのである。

● それから何年か経って、私も財産課から既に単車営業に異動して組合関係の常任幹事などをしていたものだから、川崎重工業で組合の会合があったのだが、当時は既に砂野さんは川崎重工業の社長をされていたのだが、昼休みに秘書課に電話して昼休みにお会いしたいと言ったらすぐ会って頂いたのである、昭和37年10月27日のことである。

特に用事などはなかったのだが、折角来たのだからお顔が見たかったぐらいのことなのだが、私はどうしても社長というよりは学生時代の『おじさん』の感覚なのである。砂野さんもお酒が好きで伯父のところで飲んで、伯父に言われて茶園場のお宅までお送りしたことも何度かあるので、何となく親父のように思うようなところもあったのである。

その時は真向法をやれと言われて社長室でやらされて往生したのを覚えている。

●それからは、3社合併が決まった昭和44年ごろに仙台に来られてその時はみなさんおられたのでちょっとご挨拶をしただけなのだが、昭和51年に私が東南アジアの市場開発室にいてタイのバンコックに出張してた時、たまたまタイに来られてホテルでお会いしてお話をしたのが最後になったのである。

その時はすでに川崎重工業の社長も退任されていて、気楽な感じでまさに好々爺だった砂野さんだったのである。

 

★私は大学では全く勉強しなかったので単位はちゃんと取れていたのだが『』ばかりで『』は5つしかなかったのである。その『』も体育理論・体育実技と、中国語の1,2という中華料理店のオーナーが先生で『』をくれるのが定評がある科目と野球部の部長の経済地理で、川崎航空機の入社試験の面接が『君は成績悪いねえ』で始まったのも当然なのである。そんなことで川崎航空機には、砂野さんがおられなかったら間違いなく入社など出来ていないのである

ただ、面接のときに『会社の仕事などで他の人に負けたりはしません』などと言ってしまった手前もあったし、入れて頂いた砂野さんの顔を潰さないようにと、頑張ったのも事実である。学生時代は勉強はしていないが、入社してからは結構ちゃんと勉強もしたのである。最初に手掛けた『減価償却のIBM化』というシステム創造に始まって、全く新しい職種であった本格的は広告宣伝理論のマーケッテングも、代理店営業を担当してからは学生時代取らなかった簿記の貸借対照表の理論も、資金繰りも、結構ちゃんと勉強したのである。

会社にいる間、ずっと頼まれたような『ややこしい仕事』ばかりをやらされたが、結構ちゃんと結果を残せたのも『ちゃんとやった』という評価さえして頂ければ満足で『何になりたい』などとはホントに思ったこともないのである。

そういう風になったのも、『砂野仁さん』と別にお約束したわけでもないのだが、常に面接のときに言った言葉は、自分自身忘れてはいなかったし、励みにもなったのである。

こんな言葉に拘るのは、自分自身の勝手なのだが、これは父が『男は自分の言った言葉に責任を持て』といつだったか言ったのを守っているだけである。

そういう意味で私の人生に一番大きな影響を与えたのは『砂野仁さんと父』で、その砂野さんに繋いでくれたのも、『大学へ行け』と言ってくれたのも伯父なのである。

この3人がやはり私の人生の方向を決めてくれた恩人なのかなと思うのである。

 

★83歳の人生を振り返って、本当に子どものころから『何になりたい』とも思わなかったし、自分の人生の進路というか中学、高校も大学も、就職も、その職種も自分で決めたこともない。

みんな周りの人のいう通りに全てを受け入れて、生きてきたのである。自分で進路を決めたのは『結婚』だけである。

ただ、与えられたその時々、その場所では殆ど指示されることなどなく『自分の思う通りのことが出来た』いい人生だったと思っている。

 今回は『カワサキの二輪事業』というよりも「自分史」の部分が強かったが、これから続く『カワサキの二輪事業と私』の中でどんな二輪事業だったのかを綴ってみたいと思っている。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

雑感日記のEnglish Version です。

 

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