雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

なぜ新開地は衰退したのかな?

2023-02-26 05:54:01 | 発想$感想

今の神戸の中心地は「三の宮」だろう。
 私が子どものころは神戸の繁華街は新開地だったし、
 「いいとこいいとこ聚楽館」と言われていた聚楽館はスケートリンクもあって、
 学生時代までは神戸に行くというと「新開地」だったのである。
 かっての中心街の一つの「元町通り」も三越がある神戸駅のほうが賑やかだったのだが、
 いつの間にか東の元町・大丸になり、
 更に元町よりは「センター街」が中心になって
 今は間違いなく神戸の中心は神戸駅よりは三の宮駅なのである。
 
 なぜ、このように極端に東の方に移って行ったのだろう?

 
★ 衆楽館はこんな建物だった。
 そのすぐ横を通っていたのが「新開地通り」だったのである。


  



 当時は、映画を観に行くのは新開地だったし、
 その先の衆楽館は新開地の象徴のような建物で、
 いつも賑わっていたのである。



  
 

 そんなことで新開地の変遷などちょっと調べてみたら、
 こんな風に書かれていた。
 
 神戸・新開地は、1905年(明治38年)旧湊川を埋め立てた跡地に自然発生的に生まれ、
 瞬く間に芝居小屋や活動写真小屋が立ち並び、一大歓楽街となった。
 その繁栄ぶりは、「東の浅草、西の新開地」と謳われた。
 1945(昭和20)年の神戸大空襲で地区は全焼したが、戦後、映画館を中心に次々と娯楽施設が復活。
 1km弱の新開地本通りに20以上の映画館が軒を連ねる有数の「映画のまち」 として大いに賑わったのだという。

★確かに私の大学時代は神戸に行くというと、三の宮よりは新開地だったのである。
 私が就職したのが昭和32年なのだが、
 その1957(昭和32)年に新開地のすぐ北にあった神戸市役所三宮地区に移転してから衰退がはじまったという。
 娯楽の多様化により、映画館への来客数に陰りが見えはじめ、まちを支えてきた名物映画館や演芸場が次々と閉鎖され、
 市電の廃止などでターミナル機能を失い、集客の勢いが失われたという。

 更に、こんな記述があってびっくりした。

 1970年代(昭和50年代)には、毎日大量の来街者を得ていた沿岸部の川崎重工の工場が移転・縮小し、新開地の衰退は決定的になったという
 新開地の衰退に「川崎重工業」の名前が出てくるとは思わなかった。
 確かに当時は本社も造船工場の中にあったし、造船一筋だったのだが、
 3社合併があり、事業の多角化で工場が分散したのは間違いない。

 


 川重の神戸工場新開地は繋がっていて、
 衆楽館は川重からは1km先なのである。

街の中心は時代とともに変わって行くようなところがある。
 かっては銀座が中心だったが、
 最近は「渋谷の話題」が取り上げられることが多い。
 かって渋谷には親戚があって、出張したらいつも泊めて貰っていたのだが、
 その頃の渋谷は今のような華やかさはなかったように思う。

 いろんなことで街も変遷するものである。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする