雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

免許を取ってからの最初の遠乗りは・・・

2023-03-16 05:13:12 | 私の運転歴

★免許を取ったのは30歳を超えてたのだが、
 一般の方は当時はクルマなどお持ちではなかった時代で、
 当時としては別に遅かった訳ではなく
 会社では、広告宣伝やレース担当であったことから、
 会社の仕事のために免許を取ったので、
 自分のクルマを運転するための「免許取得」ではなかったのである。

 ライダーたちはいいクルマに乗ってたが、彼らは当時は独身で、
 そんな車が買えるほどの契約金を渡していたのである。
 三橋実は初代の「シルビア」に乗っていた。

 

 

 私はまだ車などは買えるような身分ではなくて、
 専ら運転していたのは社用車で、広告のロケ撮影や 日本国中あちこちで開催されるモトクロスの現地に赴いたし、
 鈴鹿サーキットなどにもしょっちゅう行ってたので、
 普通の方などは走らない「長距離走行」が多かったのである。

 免許を取った6月17日の翌月の7月31日には
 鈴鹿サーキットで開催された「24時間耐久レー」にMFJの運営委員として行っているのが最初の長距離走行である。
 
日本で「24時間耐久レース」などあったのか?と思われる方が多いと思うが、その年1回だけの開催で終わってしまったが、
若いカップルが圧倒的に多くて、夜中の風紀上の問題で翌年からは開催されることはなかったのである。


★今回は「レース」のことではなくて「私の運転歴の話」だが、
 免許を取って1か月後にこんな長距離を走っているのである。

 いまでは明石ー鈴鹿サーキット間も高速道路で繋がっているので、
 3時間足らずで行けるようだが、

 


 当時は西宮ー栗東間だけが「名神高速道路」で、
  それ以外には高速ロードなどなかった時代だから、
 高速道路を走ったことのある人は殆どいなかったし、今のようにいっぱい車が走ってはいなくてガラガラだった。
 ちょっと脱線するが、カワサキ250A1はカワサキが最初に開発した本格的なスポーツ車だったのだが、
 その250A1の開発時のテストは、ガラガラの名神高速で行われていて、
 当時は清原明彦はテストライダーだったのだが、レースの契約ライダーの金谷秀夫歳森康師なども名神でのテストに参加していた。

  
 

 赤のカラータンクになったのはA1が最初で、
 それまでのクルマはみんなメッキの側板が付いていたのである。
 これは多分アメリカ人のアイデアでカワサキが流行の先端を走っていて、
 次に出たマッハⅢからはニーグリップとタンクマークがなくなったのである。

  
   
 


★名神高速を栗東で降りてからは1号線を走って、
 最後は難所と言われた「鈴鹿峠」を下っての「鹿サーキット」だから、
 免許取り立ての新人にとっては大変な難コースだったのである。






 その後何年かのちに、堺に抜ける大きな道が出来てからは、
鈴鹿サーキット」へは大阪周りが多くなった。
 

★ 鈴鹿も大変だったのだが、更に1か月後の8月26日には、
 「伊豆丸の山高原」であったMCFAJ 全日本モトクロスに、
 メカニックの水町さんと二人で交替しながらの運転だったが、
 明石ー伊豆丸の山と言う長距離を走っている。

  

 
 いすゞワスプの社用車でで、明石を夕方の5時にスタートし、
 西宮から小牧までは「名神高速道路」だが
 そこからは1号線の夜中の地道を走って、三島に朝の5時に着き、
 丸の山のロッジに着いたのは朝の7時半だったのである。

 これが私の「はじめての長距離運転」と言ってもいい。





 丸の山高原は伊豆のこんなところにある。
 ここでは2年続けてMCFAJの全日本モトクロスが開催されていていた。


 

 
 

★こんな調子で私の運転歴はスタートしているのだが、
 これからも「運転歴」を記述するが、
 普通一般の方とはちょっと違った「長距離走行」が多いので、
 この何年か後には、仙台赴任となって、広大な東北6県を走り回ったし、
 仙台ー明石・1000kmも、クルマで何回かは往復しているのである。

 そんなことで、クルマの走行に関しては、ちょっと一般の方とは違った感覚になってしまっているのである。

 


 

コメント
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