雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昨日は

2011-12-16 06:41:06 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★昨日のブログは、確り書いた。

自分の一生のテーマである『仕組みづくり』に関してだったからである。

Facebook の方でいろいろとコメントなど頂いたりした

Facebook は、まだホントにちゃんと、使えてははいないけれど、いろんな人と繫がっていろいろ面白い。

 

昨日のこのブログのアクセスは、1085にもなった。ビックリした。

ツイッターの影響もあるけど、Facebook の影響が大きいのだろう。

 

 

 ★昨日は、我が家に2冊のバイク専門誌が送られてきた。

1冊は別冊モーターサイクリスト

これは昨年の3月の『カワサキの想い出、そして未来』以来ずっと送って頂いている。

 

 

もう1冊は内外出版社のビッグマシン編集人河村聡巳さんからである

これは先日の袖ケ浦のマル耐の記事が載っていて、

その写真の真ん中に載っているのがのが、

『兵庫県三木から参加の板東聖悟』さんとそのフィアンセと、このビッグマシンの編集長河村さんとの即席チーム3人の写真なのである。

 

この記事紹介にあるように、このマル耐は最高だった。

『レース未経験者、サーキットビギナーでも楽しめるよう、あらゆる規則が初心者向けに設定されたマル耐。まず予選はコース下見を兼ねたランニング競争。・・・・・・・最大の特徴は250以上のバイクは全コースの半分以上が追い越し禁止と言う点。これにより排気量差、速度差、経験差にによる抜かれる際の恐怖心が随分軽減された。

終わってみれば、どのエントラントも笑顔でマル耐は、初回にして大成功を収めたといえる。』

 

三木から遠路はるばる袖ケ浦まで愛車を運んで、フィアンセと一緒に走った全くの初心者コンビに付き合って頂いた、ビッグマシンの河村編集長ご自身の記事である。

こういう楽しいイベントが、二輪のイベントの中心でどんどん展開されたら、日本の二輪市場ももっと活性化するに違いない。

 

このマル耐の総合優勝は、『チームイワキ』  そのマシンはKawasaki だったのも嬉しかった。

昨日はそのチームイワキのマネージャー Yasuo Takagi さんから、連絡が入って、

『片山敬斉さん』と 『・・・・』と言うイベント(まだ公表できないが)を計画しているのですが、 如何ですか? 

 

とか、

関東のNPO The Good Times グループが、

『カワサキの想い出、そして未来』の第2弾として、今度は東京で、出来たらホンダさん主体で、何か面白くやりたいと計画がスタートしそうである。

その中心メンバーは、先日袖ケ浦に集まったNPOのメンバーたちなのである。

勿論カワサキもいるのだが、ホンダさんの錚々たるメンバーもおられるのである。

 

★上の写真に載っている袖ケ浦を走った坂東聖悟さんは、三木市の市会議員さんなのである。

今は『粟生線の未来を考える市民の会』を立ち上げて、神戸電鉄粟生線問題を市民の力で支援しようと頑張っている。

そして今、共感してこの会に参加する発起人のような人たちを、

Facebookページで募ってちょうど100人を超えたので正式にスタートしたのである。

この100人のメンバーの中にも40人近くがNPO The Good Times の会員さんなのである。

 

いろんな分野で、NPO The Good Times もいろんな活動に期待されて、お声が掛るようにまでなってきた。

そして昨日は、夕方神戸電鉄の本社を、『粟生線の未来を考える市民の会』の世話人代表の山本先生たちと表敬訪問してきたのである。

ご挨拶をした会場には、

サンテレビのクル―や毎日や神戸新聞の記者の方たちの取材が待ち受けていてビックリした。

神戸電鉄さんも、『粟生線の未来を考える市民の会』と言う文字通り市民のメンバーの会への対応だったので、終始和やかにいい会合になったと思う。

 

そこには、初心者」ライダーから、三木の市議会議員さんに戻った坂東聖悟さんの素顔があった。

こんな会議報告をFacebookになさっています

 夜9時のサンテレビのニュースには、ホントに流れた。

 

 記事の裏話はこちらに書くことにする

いろいろあったが、昨日は記憶に残る師走の一日であった。

 

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『橋下人気』に想うこと

2011-12-15 05:46:41 | 大阪維新の会、橋下徹氏

★新しい大阪市長橋下徹さん、マスコミに引っ張りだこである。

一昨日は10チャンネルに出たと思ったら、

昨日は、「ミヤネ屋」にも、「キャスト」にも、報道ステーションにも、生出演である。

 

大阪都構想、教育問題などなど、どこもここも、具体的なことばかりを追っかけたがるが、

橋下さんがやろうとしているのは、『トータルの政治行政の仕組みの創造』が目標で、個別の問題はそんなに大きい問題ではないのだと思う。

『大阪都構想』なども、その大きな目標のキャッチフレーズとして使われたきらいがある。

 

橋下さんが狙っている最終目標は、大阪府と大阪市と言う従来の二重行政や、補助金の仕組みや、その他いろいろ、

『従来の政治の仕組み』を壊して、『新しい今後の日本の政治に通ずる仕組み』に組み替えたいのだと思う。

最終目標は、道州制だろう。

 

★長年続いた政治構造の仕組みを、『新しい仕組み』に変えたいというタダ一つの目標のために行動しているのである。

 コメンテーターや、学者先生がよく具体的な個別問題を取り上げて、橋下さんの手法を批判されるが、そんな個別問題はそんなに大きな問題ではないはずである。

 

世の中で『新しい仕組み』を造られた経験がある方、そんなチャンスに巡り合えた方は、そんなにいないのではないだろうか?

あなたはそんなチャンスに巡り合えましたか?

更に、それらを組み合わせた少し大きな仕組みを造るチャンスなど滅多に巡ってこないから、経験がないので、橋下さんの言っていることが理解出来ないのだと思う。

 

★私自身は、このブログでもずっと『仕組み』の問題を取り上げている。

NPO 法人The Good Timesの理事長を務めているが、

この法人自体が『仕組みそのもの』で、法人自体はなんにもしないのである

ただ、ただ、『仕組みの構築、改善』だけをやっている。

具体的な活動は、全て共感して参加されている会員さんが、いろいろやりたいことを自由にやっておられる。

その仕組みの中で動けば、

『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しくいい時を』会員さんが『過ごせる』ような仕組みに既に仕上がっているのである。

と言ってもなかなか理解して貰えないのである。

 

仕組みについて、服部吉伸さんは、(もう20年前の私の現役時代だが)

システムとは手続き通りに仕事を進めてゆけば、意図した目的が実現できる仕組みでなければならない

現在のシステムは単なるデーターのアウトプット体系に過ぎない。

仕組みを造るのは、非常に高度な仕事である。

仕組みを造らずに放たらかしの形にして、創意工夫してやりなさいというのは酷である。損なやり方である。

 

と言われている。

現役のころ非常に共感して、服部先生とは現実にいろんなことでお付き合いもしたのである。

実業の世界に通じていて、言葉が正確であり正しいと思っている。

 

 

★たまたま、二輪事業と言う分野にいた。受注産業のような注文者のいない業界なのである。

テレビや自動車などよりは、数段趣味趣向性が強く、消費者が求めているものを掴むのはなかなか難しい。

どんな機種を、何台ぐらいの規模で、どこの地域のために、開発、生産し供給するのか?みんな自由で、自らが決定しなければいけない。

開発も、生産も、部品補給も、販売ルートも、全て個別のシステムの上に成り立っている。

そしてその経営トータルシステムも、全て仕組みの上に成り立っている事業である。

 

ただ、時代の変化にそれらの仕組みが、最適のモノになっているかどうか?

その判断が難しいし、現存する仕組みを壊して、新しい仕組みを造ることはリスクもあるしなかなか簡単ではないのである。

そんな業界にいたものだから、

現実の業務の中で、その時代時代で、仕組みの構築をする機会も多かったし、極端に言えば『仕組みの構築=会社時代の仕事』であったようなサラリーマン生活だったのである。

そんなことで、何となく橋下さんのやろうとしていることは理解できるのである。みんなが問題にする具体的な個別問題は仕組みの中の一つで、別に橋本さん自身がやらなくても専門家や担当者が大きなコンセプトの中でやればいい話なのである。

極端に言えば、橋下さんは仕組みを造るだけで、何もしないのである

だから大阪都が出来てもその都知事をやる積りはない、誰がやっても企図する目標が実現しなければ、造った仕組み自体が間違っていたのである

 

 ★橋下さんの仕事のやり方は、今回も間違いなく『目標が実現する方向』で進むと思う。

コンセプトが明確で、そのコンセプトに従って仕組みを造って、その中で実務をやるのは橋本さんではなくて、適任の担当者なのである。

その担当者を、適切ないい方が選べるような仕組みを、例えば区長公募と言う形で造ろうとしているのである。

 

仕組みは造るが、橋下さんは何もしない、そんな具体的な事項を自分でやろうとするから結局何も出来ないのである。

仕組みさえできて、それが成功すれば、国がその仕組みを採用さえしたら、日本の国自体が変わるのだろう。

 

★今の仕組みは、橋本さんは明治以来の国の仕組みと仰るが、

私は戦後である意味明治以降の仕組みは、農地改革などいろいろ、結構変わったので、

民主国家になってからの戦後60年の護送船団方式、その構築に大きく力になった霞が関の優秀な知恵が造り上げた政治の仕組みを、

新しいものに変える方向だと思うが、これは既得権の放出だから、現実には大変な反対になるだろう。

 

これを突破できるのは、民衆の知恵と力だと思う。

今回の大阪の投票率が60%を超えたから変えられたのだと思う。

今後の選挙も、従来の組織票が機能しないような高い投票率になれば、正しい方向に動くと思う。

 

大阪の橋下人気が、全国で政治への関心を呼び、60%以上の投票率になれば、日本の政治も変わるかも知れない

 

 
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2年という歳月は長いか短いか

2011-12-14 06:40:47 | 発想$感想

2年前の12月のブログを読み直してみた。

『2年と言う歳月は、長いのか短いのか?』

『私は十分に長い』と思っているからである。

 

もう20年も前の現役のころからそう思っていた。

『6ヶ月あればひと仕事出来る』と思っていたし現実に半年あったらいろんなことは出来た。

『半年かかって出来ない』と言う人は『10年掛っても出来ない』のかも知れない。

 

昨日、札幌での2年間と言う期間を区切っての仕事のことを書いた。

いろんな想いがあったのだが、2年間で120%出来たとと思っている。私の心の中の想いだから、外には言っていないが・・・・

 

★2年前の12月、

世界の英語の一番の流行語が『Twitter』だった。

『Twitter』をこの月にスタートしている。

Twitterがはじめられません』などと言うブログを2009年12月10日に書いている。

 

そんなツイッターが2年も経つと、196000人のフォロワーを擁している。

 

この年の漢字は『新』だった。

 

ちょうど三木の市長選で、生まれて初めて選挙で人を応援した。稲田三郎さんに初めて出会った。

 

『注目の街、三木と武雄』とぼっけもん修さんがブログに書いている。三木市長が若し変わればと思われたに違いない。

 

潮流発電』を一生懸命追っかけていた。

 

NPOに明け暮れた。この年の1月28日、ひょこむのなかにプロジェクトを立ち上げて、設立申請作業をスタートさせている。

 

この月に、初めてbunCさんにネットの世界で、出会っている。ちょうど2年経ったのだ。

 

★いろんなこと、思いだしても、2年もあると随分と変わるものである。

NPOも当時思っていたものとは、様変わりしたと思う

Twitterが私にとっても、NPOにとっても、全く新しいツールとして登場した。

今、周りが当たり前のように使っているFacebook なども、私の周りには『影も形も』もまだなかったのである。

 

そんなスピードで、世の中は動いているのに政治の世界だけは、一般的には動いていない。

この時、民主党は鳩山さん時代である。それから進歩など見かけられない。

三木市長は薮本さんが当選したが、この2年間何も変わったりはしていない。

この2年間で、大阪は変わった。当時の大阪知事は大阪市長になっている。

橋下徹さんを知事になるちょっと前、まだ批判の方が多かった時代から、注目して追っかけだした。

世の中の評価も変わるものである。

政治の世界もこれくらいのスピードで動けばオモシロイ。

 

★2年前、話題にも上らなかった神戸電鉄粟生線問題。

今年は私の周りで『粟生線の未来を考える市民の会』が今立ちあがっている。

そして今朝は、『がんばれ!粟生線』と言うグループと接触した。

 

この12月、『孫文を語る会』もスタートした。

2年後、この二つのプロジェクト、どんな姿に化けてるのだろう。

 

2年もあれば時代は変わる。

若し、『2年前と同じ』と言うあなた。

それは『時代から取り残されている』と言うことに他ならないのだろう。

 

私は今年から、12月をスタートの年にしている。

もう残された年月も、若い人に比べて少ないから、1ヶ月のフライイングスタートぐらい大目に見てもらおうと思っている。

 

 

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札幌での仕事、自分史

2011-12-13 05:54:09 | 自分史

★昨日は札幌の2年間、毎年50回以上のゴルフをしたという話を書いた。

確かにゴルフもしたのだが、遊んでばかりいた訳ではない。当然のことながら仕事も私流ではあったが、それなりにちゃんとしていたのである。

と書いたが、『じゃ何をしたのですか?』と正面切って聞かれると、困ってしまうようなレベルの仕事ぶりだったかも知れない。

当時のメンバーは多分、まだ北海道川重建機で、中枢として活躍されているはずだし、ひょっとしてこのブログを読まれるかも知れないので、あまりいい加減なことも書けないのである。

それでも書こうとするところが、私の厚かましいところで、それをお許し頂いて、思うところを纏めてみることにする。

 

★私自身は、会社勤めの殆どの期間をカワサキの二輪事業の企画、マーケッテング、広報、レースなどの分野を担当してきたので、この分野については、そこそこのプロだと自認している。

そんなことから、『マーケッテングの専門家』を認めて頂いて、川崎重工業で初めての『事務屋の技監』の地位を頂いたのである。

建機事業など全く解らないし、特に技術分野には弱いので、今更新しい商品など覚えてみても、中途半端になることは目に見えていた。

従って敢えて一切建機の専門的な分野は覚えないことにしたのである。2年間いたが商品が何機種あるのか?その名前は?その価格は?などと聞かれても一切答えられない社長だったたのである。

最初に思ったのは、200人近くもいる従業員を覚えきることも難しいだろうが、

『兎に角従業員からは信頼される』=『社長としての発言を信頼して聞いて貰える』ようにならぬと、どうもならないと思ったのである。

そのためには、この会社のオピニオンリーダーは誰なのか?  オピニオンリーダーとは、別に職位の高い人ばかりではないのである。何となく『その人』の言うことは世の中で『正』として、受け入れられる『人』はどこの世界にも存在する。そんな人たちは、極端に言うと社外の人でも、社内の人に影響力を持つ人ならいいのである。

そんな目で見つめると1ヶ月もすれば、いろんな候補者が見つかった。そんな人たちと雑談をして納得して貰って仲良くなると、噂はどんどん広がるはずである。

ましてや、『今度来た新しい社長は?』はサラリーマンにとって格好の話題のはずである。

そんなマーケッテングの広報=PR=Public Relation=いい人間関係づくり は私の専門分野なので、2ヶ月で大体社内では私の意見は聞いて貰える雰囲気にはなったと思っている。

 

★全くの私流で押し通した。建機の話は殆どせずに、二輪車のことばかり話していた。経営の管理手法も徹底して二輪車流に切り替えた。

それが出来たのは、経営の諸管理システムも、部品の管理システムも、マーケッテングも、二輪車業界の方が間違いなく進んでいたからである。

経営数値などもすべての資料をトレンドの解る移動値方式に切り替えたが、それは管理担当の佐藤君がホントにその気になってくれたから出来たのである。

幸運もあった。

この会社には川重の建機事業部から営業の役員で花房君が出向してきていたのだが、彼は大学の後輩で、それも野球部の後輩だったのである。初めて会っても野球部の後輩となるとこれは遠慮なくモノが言えたし、花房君もそれなりに応えてくれたのである。

この会社は道内に15か所近い営業所があって、そこを統括しているのが営業部なのである。その営業部のNO2の位置に彼がいたので、営業のことは各地に聞かなくても彼に聞けば大体解ったのである。

当時、この会社を切りまわしていたのは専務の中本さんで、この人が実質社長みたいなものだった。独特の雰囲気を持っていたが、会社の内容の把握は他の追随を許さぬ高いレベルだった。設立当初からいる『北海道川重建機の辞書』みたいな人だった。

数カ月はずっと中本さんと行動を共にするように務めた。幾つもの営業所を訪ねたが、そこまでの車中での中本さんとの会話は、最も貴重な情報源だったのである。

北海道は広い。

殆どの移動がクルマだが、函館や道東の北見などには、女満別の空港まで飛行機だった。

従来社長が独りで移動する時は、空港まで車で出迎え、北見営業所から、釧路営業所などへの移動などは、両営業所の所長が美幌峠まで送迎して、社長の受け渡しをするなど大変なのである。

このあたりも二輪車流儀に改めた。海外出張でも空港でレンたーカーを借りて自分で運転して行動するのは常識なのである。

初めての北見と釧路への出張も空港などへの出迎え不要、レンタカーを借りて自分で行くと言ったら、それだけでビックリしてくれるのである。6月初めだったが、釧路に行ったら、朝ストーブを焚いていたのには、こちらがビックリした。

 

★まあこんな具合で、北海道川重建機の人たちとオモシロく付き合えた。特に中堅クラスの若手所長クラスとは直ぐ懇意になった。

そんな中に、一人異色の方がいた。札幌の開発局から来られた松田さんである。

営業部に所属していたが、地位も高く勿論給与もそれなりの待遇なのである。

建機の中でも除雪機械は主力商品で、毎年秋口には全道あちこちでの開発局扱いの除雪機の納入がある。この配分台数や価格やその他いろいろ、松田さんがおられるだけで上手くいくようである。その内容は私は一切覚えなかったので解らないが、どこの会社にも松田さんのような方はいて、現役の開発局との連絡等一切を切りまわしているのである。営業と言うより一種独特の専門分野なのである。別に営業に居なくても川重建機に松田さんがおられたら、機能するのである。

 

15もある営業所の管理は、営業分野が大半ではあるが、そのほかにも総務も経理もいろいろある。

扱う商品が大きいから地方の営業所と言ってもなかなか立派で広大なのである。

そんな営業所などの統括も含めて、会社の企画総務機能が貧弱だった。

企画部門を新設して、その長を松田さんにお願いしたのである。

開発局から来られているから、資質は十分なのである。企画部門が出来てから、人事総務も事業計画も従業員の賃金体系なども従来のモノがダメだったわけではないのだが、手抜けになった部分が全て繕われて会社らしくなったと思っている。

松田さん自体も、お持ちになっている能力を十分に発揮されたのだと思う。私が2年間でやれた仕事で幾らか形にして残したのはこんな事だったかも知れない。

開発局から来られた方は、『こんな仕事』という従来の考え方を、人はその能力、その資質にあった仕事をと言う当然の『常識的な発想』は建機の素人ゆえに出来たのかも知れない。

 

★そのほかにもいろいろあったが、2年の期間の後、私の後を引き継いでくれたのは、単車時代アメリカで田崎さんの番頭役を務めた高田さんである。

2年経って、私の後任を決める時には、そんなに難しいこともなく決まったはずである。

そんな体制、組織運営が出来る会社になったことが、私の2年間の仕事だったのだが、それが北海道川重建機にとってホントによかったのかどうか?

その評価は、北海道川重建機の株主や、役員さんや、従業員が評価なさることなのである。

 

ただ、この2年間の間私自身は、川崎重工業のためにではなく、第一に北海道川重建機のために諸施策を行ってきたことは間違いない。

幾らかは、その点も認めて頂いて、たった2年の勤めだったのに、

退職後3年間も顧問として厚遇頂いたし、九州への社内従業員の旅行には声を掛けて頂いてご一緒させて頂いたりしたのである。

大滝さんからも、松田さんからも、私の前の社長さんからも、その他何人かの方たちから今でも年賀状が届く、そんな懐かしい北海道川重建機の2年間だったのである。

現役、最後の2年間であったが、私なりにチャレンジングな仕事が出来たことが、幸いだったと思っている。

 

あと何回か、また北海道での自分史として会社のこととは関係なく思いだす事を書いてみたい。

 

 

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札幌でのゴルフ、自分史

2011-12-12 05:23:03 | 自分史

★札幌の2年間、結構ちゃんと仕事もしたと思うが、人生で一番頻繁にゴルフもした期間でもある。

年間ゴルフの回数が50回を超えたのはこの2年間だけなのである。

 

40年間勤めた二輪業界は、日本の企業の中での交際費の比率が極端に少ない業界ではなかろうか?

川崎重工業の他の事業部の交際費の使い方を見てビックリすることも多かった。

私が現役のころは、一般に今よりは交際費については、緩かったし、確かに社内での飲み食いも交際費で落とすことも多かったが、その頻度も行き先も大したことはなかったのである。

ただ、交際費の費目で処理されるデ―ラ―ミーテングなどは何百人もをホテルに集めて行うので一晩で国内でも何千万円、アメリカなどでは億の単位で掛ったりするのだが、所謂日本的な交際費の額はしれていたのである。

 

札幌の新しい会社に行ってビックリした。

まず、タクシーのチケットを1冊渡されたのである。タクシーのチケットなど使ったことはあるが、多くても月に1、2度ぐらいのことであった。

クルマはトヨタ2800ccの4輪駆動の新車を準備してくれていて、自分の足は基本的に大丈夫なのに、タクシーのチケットが1冊も要るのかと思ったが、私だけでなく役員さん達はみんな1冊単位で持っていたようである。

会社で殆どの人が社用車をあてがわれているのだが、それでもタクシーのチケットが要るということは、それだけ夜飲む回数、機会が多いということなのである。それが普通の業界であった。

札幌には有名な歓楽街、『すすきの』があって、いつも賑やかだったが、そこへ通う頻度も毎晩と言うのもそんなに珍しいことでもないようなのである。

更に、ビックリしたのは、定時まで会社にいたら『3時ゴロでどうぞお帰り下さい』と言われたりしたのである。

これにはビックリしたが、このあたりが幾つもの会社の社長をしているオーナー社長は、朝から晩まで同じ会社にずっと居たりはしなかったのかも知れない。

以前の社長さんもそうされていたようである。

会社の社長室も誠に立派であった。

そんなに事務所自体は大きくないのに、社長室の広さは事務所の半分ほども締めていて、役員会など社長室の中で十分できるのである。

 

 

★業界が変われば、或いは自前の会社のトップとは、こんなものかと驚いたものである。

2年間、飲み歩いたりはしなかったが、ゴルフだけは週に3日の割でやっていた。

初めて出た会社の役員会が、朝からのゴルフでスタートしたのである。役員さんとの初顔合わせはゴルフ場だったのである。ゴルフがそこそこ出来たから、役員さんがたも一目置いて頂いたそんな感すらあったのである。

 

ただ、札幌のゴルフのシステムは、非常に上手く出来ていて、毎日ゴルフをしていても大丈夫のようなシステムなのである。

札幌は支店長文化が発達した町である。国の出先の開発局などもあって、まだ当時はそのあたりとのゴルフも、すすきの接待も大ぴらな時代であった。

北海道のゴルフは、本土と違って朝スタートすると18ホール回ってしまうアメリカスタイルである。従って12時ごろまで上がると風呂など入らずに直ぐパ―ティー、まちに近いゴルフ場が多いから2時ごろには出社できるのである。

だから、毎日ゴルフをしていても支店に戻って決裁印などは大丈夫なのである。

企業や団体がメンバーのゴルフ会が幾つも形成されていて、その会には年会費の名目で会費が、例えば3万から5万円が納入されている。

そして会員企業主催のゴルフコンペが次々に開催されるのだが、主催者はゴルフ場のセットとと案内だけで、参加者はプレーフィーは全て自己、自社負担、ただ商品代はゴルフ会に支払われた年会費でそこそこ賄われるようである。だから参加しないと年会費を払う意味がないのである。

そんなゴルフコンペが週に何度もあるので、それに出席していたら年間50回を超えてしまうのである。そして賞品は商品券の場合も多いので、ゴルフで遊ばせて貰って小遣いを貰っているようなものである。

11月から3月まで冬の間は、そのゴルフも出来ないので、4月から10月のシーズン中のゴルフに懸ける意気込みはとても本土とは比べ物にならない熱っぽさなのである。

★この写真は、樽前カントリー、背景の山が樽前山である。

川崎重工業系列のゴルフ場で、当然メンバーになっていたし、よくプレーをさせて頂いた。

OBをするのが難しいほど広い、且つ長い。

 

北海道の芝は独特で柔らかいから、ボールが沈んでしまう。リプレースしてもボールが浮いた形には決してならない。

アイアンはきっちり打ち込む本来のスイングでないとボールは上がらない。だからかも知れぬが北海道の方は総じてゴルフは上手い。

コンペの成績表もグロスが3ケタが殆ど居なくて、2桁ばかりが殆どなのである。

当時はまだ、80台が普通で、たまには70台も出るゴルフだったから、結構賞品も頂いて、いい思いをさせて頂いたものである。

 

冬は、コースには出られないので、みんな練習場に通う。練習場はどこも満員だった。

練習ばかりではオモシロくないと、遠征ゴルフの計画が組まれる。本土に行くよりはグワム辺りの方が安上りとの理由で、グワムへのゴルフ旅行にも連れて行って貰った。

そんな計画は、社長決裁ではなくて、当然のように計画され、当然のように行われるのである。

そんな協働関係が、上手く業界の間で出来あがっている北海道であった。

 

★国の管轄でも、北海道と沖縄だけが特別である。

北海道の開発局とは建機業界は密接に関係がある。

各社当然のように、開発局からの『天下りの方』が来ておられる。

今は、どうなっているのか知らないが、

二輪業界でも自動車学校の中枢には警察から必ず人が入っている。

仕事をせずにタダ大金を貰っている高級官僚の天下りはともかく、私が知っているレベルの方たちは、やはりそこに居て頂くと、日常の仕事がスムースなのは間違いない。

 

北海道川重建機にも、そんな方が一人おられた。その辺の話は次回に。

 

 

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北海道札幌の2年間、平成9年(1997年)6月から

2011-12-11 07:32:58 | 自分史

★昭和32年(1957)川崎航空機に入社以来、ちょうど40年間、カワサキの二輪車を中心に勤めてきたサラリーマン生活もこの年の6月で退職卒業をした。

この年の6月から2年間と言う約束で、札幌に単身赴任と言う初めての経験で赴任したのである。

この時の身分は、川重は退職しているからフリーである。

確かに川重の関係会社ではあるのだが、子会社ではない札幌の地元資本の会社である。そこの経営をと言われると、どの立場でどのようなスタンスで臨むべきか?

なかなか難しかったのである。

 

北海道川重建機、こんな会社である

このホームページの写真にあるような建機の販売会社なのである。

昭和44年設立で、札幌の南、北広島市にある。

従業員は約200名、道内15か所に支店があり主として川崎重工製の建設機械の販売に当たっていた。

 

この会社の設立、オーナーであった丹野さんが亡くなった後、社内から社長を引き継がれたのだが、その方が退かれてその社長を川重に求められたのである。

自前の独立会社の経営は、いろいろと歴史も社風もあり、メーカーの単純な子会社とはちと違うのである。

役員の方々も、この会社の経営者であると同時に株主でもある。

 

現在、代表取締役をされているお二人、丹野さんと、大滝さんは、その当時も役員としておられた方である。

一言で言えば、優良会社である。

優良会社であるがゆえに、メーカーの子会社になっていないとも言えるのである。

 

そんな会社で、ちょうど2年間お世話になった。

お世話にもなったが、ちゃんと自分なりに、自分なりの経営をさせて頂いた。

全く未経験の分野であったが、私なりの行き方を貫いて、何とかなったからオモシロかったとも言えるのである。

 

★いま代表取締役をされている大株主の丹野司さんからは、就任してすぐ『社長は何年やっていただいてもいい』などと言って頂いたが、単身赴任であったし『約束通り2年で』と言うことでスタートしたのである。

単身赴任も初めて。

札幌も、北海道も初めて。

二輪一筋だったので、建機などの業界は初めて。

自前の会社の経営も初めて。

と言う『初めてづくし』で大変と言えば大変であったのだが、2年間と言う期間でもあったし、

初めから、勉強などしていたら、勉強期間の内に終わってしまうと思ったので、新しいことは全く勉強しないことにして、全て『私の流儀で』押し通したのである。

 

『私の流儀』とは、『世の中の常識で普通に考える』ことである。

『北海道では』『この業界では』『北海道川重建機では』と世の中でよく言われることは、自分に都合のいいように言っていることが多くて、そんなに正しくないことの方が多いものである。

二輪の世界にいた40年間も、そんな風習みたいなものを全部ひっくり返して、新しい仕組みを造り続けてきたのである。そのベースは全て『常識で考えた』のである。

だから、それで、通用するはずだと思っていた。

2年間、建機の世界にいたが、取扱商品の機種や名前や仕様などは極力覚えないように努めた。

個別の営業取引などにも一切口を出さなかったし、よほどのことがない限り取引先なども訪問しなかった。

 

じゃ何をしていたのか?

と言われると困ってしまうが、何となく気分よく過ごしてきた2年間であったが、社内の空気はちょっと変わったはずである。

私の次に、また川重から社長がスムースにやれるような雰囲気にはなったはずである。その後実際に2人の社長が川重から出たのである。

そんなに、煙たがられたり、嫌がられたりせずに、楽しく過ごせた2年間であった。

考えてみるともう10年以上も前のことだが、いまだに年賀状も頂くし、想い出多い札幌の2年間だったのである。

 

★たった2年間ではあったが、いっぱい経験したし、北海道で感じたこと、札幌ならではのこといっぱいある。

このブログの中にも、

『北海道&建機』と言うカテゴリーを作って、15回ほどいろんなことをアップしている

今回の『自分史』も時系列に言えば2年間だけだが、

2年間の内に感じたこと、思ったことなど、『自分史』の立場で書いてみたい。

何回になるのかよく解らない。

思いつくままに、いろんな観点から、書いてみたい。

 

★まず、『雪国』 『北のまち、北の国』のことから、

子供の頃、小学生6年の冬まで、朝鮮京城、今のソウルにいた。

冬は寒いのが当たり前であった。その寒い冬を経験できるということに不思議な期待感があった。

 

その後若いころ、30代の頃、仙台に4年いて東北の冬は経験した。

この4年間も、想い出多い4年間だし、更に寒い北海道の冬、まさに雪国での生活は、ソウルでも仙台でも経験したことのない初めてのモノだった。

6月に赴任した時に、北海道の広さと夏の爽快さにあこがれて、一戸建ての社宅を希望したら『トンデモナイ』と反対されたのである。

札幌の雪は、経験してみてそれは大変であった。

マンションだから『雪かき』は不要だが、これが1戸建てなら、毎日雪かきするだけで終わってしまうほど雪が降るのである。

その除雪がまた徹底していて、そのために雪かきの建設機械が北海道中で必要なのである。

そのために、国の予算で各地で建機の注文が入ったりするので、北海道川重建機の経営は、本土のあたたかい地域に比べて圧倒的に有利なのである。

 

北海道の除雪のエネルギーは半端ではない。札幌のまちなど幾ら雪が降っても、メイン道路に雪はないぐらいの除雪なのである。

東北での4年間も雪道走行はイヤと言うほど経験した。

雪道走行では怖い思いを何度もしたが、この札幌ではそんな経験は全くなかったのである。

4駆のクラウンの想い出』と既にブログをアップしているが、

クルマの性能も、タイヤも30年の年月では、想像できないほど進歩するものである。

 

札幌の冬は寒い。寒いというより外は刺すように冷たい。

然し部屋の中は、逆に無茶苦茶温かい。

2年間、殆どオーバーを着ることなく生活できたのも、外にいるのはクルマの外にいるときだけだからである。

2年間、冬に外を歩き回るという経験は殆どしなかった。

 

冬になると、人生3度、寒地で過ごした冬が懐かしいのである。

 

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徳島県のIT戦略

2011-12-10 06:28:30 | 発想$感想

★NHKの番組で、過疎地の徳島にIT企業がやってきた。

という報道が流れた。

 

この写真は、NHKの松山放送局

「IT企業 農村へ向かう」

~「ひかり王国」徳島の実験~

過疎に悩む徳島県の山村が、東京のIT企業から注目を集めている。神山町には企業向けのシステム開発を行うIT企業が、サテライトオフィスを開設した。実は意外にも徳島県の山間部は、全国の中でも際立ってインターネット環境が充実しており、それを求めてわざわざ都心から企業がやってくるのだ。なぜ四国の山間部に充実したネット網が整備されているのか、さらにIT企業の進出によって地域はどう変わるのか、その展望を探る。

 

 川で仕事をする、神山町に進出した東京のIT企業社員

 

★この番組そのものではないのだが、この報道の延長を夜の9時台の全国放送で、取り上げたものだと思う。

昨日のの番組では、確かに川でパソコンを開いている写真もあったが、

古民家をオフイスにしてそこにいっぱい社員が仕事をしている姿が報道されていた。

検索の仕方が悪いのか?  

2011年11月4日(金) 19:30~(再)5日(土)10:05~

に放送された、このサイトはは見つかったのだが、昨日の番組の古民家がIT企業の事務所になっている記事や写真はみつからなかった。

 

ネットの世界は、どこにいても同じだというのは、実感としてよく解る。

東京の高いオフイスで仕事をするのも、徳島でやるのも同じだし、光のネット網が徳島県には張り巡らされていて、都会のように混まないのでスピードが断然速いなどとも言っていた。

調べてみたら、多分この記事の会社だろうと思う。

 

 

徳島県神山町とはこんな立地である。その位置から見ても間違いなく過疎だろう。

 

 三株式会社のサテライトオフィス「神山ラボ」

三三株式会社は“名刺から新たな価値を引き出し、働き方に革新を起こす”という理念を体現するべく新しい働き方への様々な取り組みを行っています。

その1つとして徳島県神山町の古民家を再利用したサテライトオフィス“神山ラボ”を開設。2011年8月より正式運用を開始しました。

2010年10月にスタートしたトライアル期間以降、エンジニアをはじめマーケティング部、管理部の社員等延べ20名以上が「イン神山」し、新しい働き方として注目を集め、町おこしに貢献しています。

■ 神山とは
徳島県の徳島市から西へ30Kmほど山に入ったところにある、すだちと梅が特産の町。四方は山々に囲まれ、おいしい空気と水、そして温泉のある町です。
徳島県屈指のパワー&ヒーリングスポットといわれており、とにかく空気と水がおいしい。徳島市内からもそんなに遠くなく(車で40分位)田舎暮らしビギナーにはもってこいの場所です。

と紹介されている。

 

★上の記事は、この会社の情報発信だから、よく書かれているのは当然だが、

過密と過疎の現状は、ちょっと行き過ぎているし、このような取り組みは、一つの解決の方向であることは確かである。

更に、日本のIT化戦略としてはベースがあって、徳島県はそれを一つの方向として取り組んできた成果のようではある。

IT化は、もはや避けては通れない世界の方向である。

ならば、全ての行政はより積極的なIT化を進めるべきではなかろうか?

 

佐賀県武雄市のようなところもあるが、一般に役所も、企業もIT化に及び腰である。

未だにFacebook すら見ることのできないオフイスがいっぱいある。

解放したら、従業員が仕事を放り出してそちらの方に行ってしまうという性悪説からなのだろう。

従業員も信頼できないようなトップの下では、例え優秀な従業員でも実力発揮など出来ないだろうと思う。

川の中がオフイスと言うのは、ちと極端かも知れぬが、どこにいてもちゃんとした仕事が出来る世の中に変わりつつあるのは確かである。

 

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昨日は、昼寝をしました

2011-12-09 06:12:03 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★最近昼寝などしたことはないのですが、

昨日は3時半ごろから、寝てしまいました。

前日、神戸に慣れぬバスと電車で往復して、夜は三木であった『粟生線の未来を考える会』で遅くまで熱心な議論をしていましたので、疲れたのか寝不足になったのだと思います。

 

昨日のFacebook は賑やかでした。

一つは『粟生線の未来を考える市民の会』がめでたく共感賛同者100名の目標を達成して、準備会から正式にスタートしたからです。

『粟生線の未来を考える市民の会』ページはこんな賑わいでした

世話人代表には、山本医院の山本篤先生に決まりました。

事務局はe-音楽@みき の小巻健さんが引き受けてくれました。

お二人ともNPO The Good Timesの団体会員さんです。

ちなみに、100名の賛同者の30%ちょっとがNPO The Good Times のメンバーです。

 

もう一つ

『笑売繁盛株式会社』関連も、Facebook 上でいろいろありました

 

いろんな現実にあった事柄の反応がどんなものだったのか。

何となく感じられるところが、ネットのよさだと思っています。

Facebook 上で新しいトモダチも沢山増えました。

 

松崎由さん、一昨日夜、『粟生線廼…』の会合で、初めて出会いました。

たまたま私の隣の席で、初出席でしたから発言は遠慮気味でしたが、発言のベースにある発想には共感するところ多かったので好感を持っていました。

会が終わってから雑談していたら、音楽、でギターをやってるというものだから、

『甥っ子が元町でTONE BLUEと言うギター専門店をやってる』と言ったら、『TONE BLUE知ってます。好きな店です。』などと仰るものだから、

NPO The Good Times にお誘いしたら、直ぐ入会されました。

TONE BLUE もNPOの団体会員です。

そして昨日、Facebook でも友達になりました。まだ、20代の好青年です

 

 

★一昨日は、ホントにいろいろな出会いがありました。

昼は西元町の『笑売繁盛株式会社』夜は『粟生線の未来を考える市民の会』でしたので、往復とも公共交通機関を遣いました。

往路は神姫バスと三宮から阪神電車。 こちらは640円と120円。時間は1時間。但しバスは無料券を持っていますので実質120円でした。

復路は、神戸電鉄に乗ってみました。

40年間近く三木に住んでいますが、神戸電鉄に乗るのは多分5回ぐらいです。特に神戸から三木はこれで2回目ぐらいかも知れません。

全く初めてみるような光景でした。

昼間と言うこともあって、乗客はこんな程度です。

社内にはこんあな中づり広告も見られました。

この中にあるように

『クルマやバスの代わりに少しずつ粟生線を利用・・・・』と言う趣旨にはあったのだと思います。

西元町から緑が丘まで運賃は660円。家までの時間は1時間半でした。

 

そんなことで、珍しく昼寝などしたのかも知れません。

 

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笑売繁盛株式会社の事務所でお会いした3人

2011-12-08 07:59:04 | NPO The Good Times

★昨日の朝、もうひとつのブログでこんなことを書いている

昨日の1日いろんなことがあった。全部繋がっているいようで、独立した話でもある。

昼間は、神戸に、橋本英明さんを訪ねた。

訪ねた会社が『笑売繁盛株式会社』でその事務所で2時間ばかりお話をした。

橋本英明さんだけではなくて、笑売繁盛株式会社の代表取締役の桶下真理さんもおられたし、

途中から、東京から来られた『コンサート&イベントプロダクションの代表Director の南出 卓さんも加わって、

主としてこちらからNPO The Good Times に関する話をあれこれとさして頂いたのである。

 

★橋本英明さんとは、Facebook で繫がったのだが、その真ん中に武雄市長の樋渡啓祐さんの存在があったのは確かで、お会いさえすれば多分意気投合するであろうことは、カンで間違いないと思っていた。

場所は笑売繁盛株式会社でと仰るものだから、その会社のことも一応はチェックした。多分桶下真理さんともお会い出来るものと思ってそのあたりも・・・・・昨今の検索はよく出来ていて、殆どのことがネットで調べられるのである。

 

★まず最初に話題に出たのが、武雄のレモングラスである。話はよく聞いて知っているが、現物を見るのも初めてである。袋は3つあって、『どれがいいですか?』と仰るのである。

確かもう一つの黄色い袋のモノを開けて、そのお茶をご馳走になった。味の方よりも値段が気になって『お幾らぐらいですか?』と聞いたらもうひと袋と大きな予備袋みたいのがあって5000円ぐらいとか仰っていた。 

値段のことなので、ちゃんと調べてみたら3つセットで2000円となっていた。

 

NPO のカードなどに非常に興味を持たれて『これは具体的に進むな』と確信したものだから、

予定を変更してNPO The Good Times のシステムのことや、いま動いている『粟生線の未来を考える市民の会』などについても、どんどんこちらからお話ししたのである。

 

まず、『100人の共感者を集めよう』としている『粟生線問題』を持ち出したら、3人とも1000円の入会金を即座に出して入会頂いたのである。

 そんな雰囲気だったので、NPOのシステムについても、団体会員に入会、且つ特別プロジェクト申請が出る展開になる前提で、どんどん話を進めたのである。

 

★そんなに詳しくは聞かなかったが、桶下さんや、橋本さんが展開しておられるプロジェクトは、ネットがベースだし、NPO The Good Times のシステムを利用されることで、

よりスムースに、より大きく展開出来ることは間違いないのである。

 

神戸では、『孫文を語る会』が既にスタートした。

ぼっけもんの修さんの『KANSAI GENKI! PROJECT』 も立ちあがったし、『CUSTOM INFECTION』のネットのプロ綿谷さんも神戸である。

橋本英明さんは『神戸ランチ学会』を主宰されている。

『笑売繁盛株式会社』は神戸である。

 

今まではどちらかと言うと三木などでの活動だったが、来年は『神戸進出』が一つのテーマになるかも知れない。

 

★お会いした3人

橋本英明さん。 こんな方である。

頂いた名刺には、『笑売繁盛株式会社 ちゃれんじ課』とあった。

樋渡啓祐さんが学会長を務めるツイッター学会の神戸での代表みたいなこともおやりだし、

神戸ランチ学会』を主宰されている

 

途中から参加された、東京から来られたコンサート&イベントプロダクションの代表Directorの南出 卓さんは、

今月17日に、神戸で、Bloom の関西デビューを果たされるとか。

神戸ランチ学会のウォームに紹介されている。

 

今年6月にスタートしたばかりの笑売繁盛株式会社の代表取締役の桶下真理さん始め

3人ともNPO The Good Times の個人会員にまず参画頂いたので、そのカードをお渡ししてきた。

 

 

 

また、新しい強力なオモシロイ仲間が加わった。

来年の神戸が楽しみである。

 

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平成9年(1997)前半、川崎重工業勤務最後の5ヶ月 64歳

2011-12-07 05:11:08 | 自分史

★この年64歳、6月で川崎重工の技監の職は退任で、あとどうなるかは解ってはいなかったが、不思議なほど気にもならなかった。

当時まだ4つほど仕事を持っていたのだが、

二輪車専門の自動車学校の設立は、1月末に大型免許の認定が下りてそれ以降は生徒の申し込みも多く忙しい毎日で順調だった。阪神ライディングスクールの有馬社長に援けて貰っての学校免許の取得であったが、この免許取得は普通ではとても取れない難しさである。多分これ以降日本で取得したところはないのではなかろうか? 二輪専門学校の免許をこれ以上出さないために造られたようなハードルの高さなのである。

関東のサーキット松井田は、3月10日に松井田町の議員総会も通り、川重サイドは3月19日の経営会議で26億円の建設予算とともに許可になり、一応の区切りも付けた。

ジェットスキーの関連でのヤマハさんなどとの業界団体PWSAの会長職は3月末を持ってヤマハの三浦さんに引き継いだ。

 

★もう一つ、ホンダの宗国さん(のち自動車工業会会長、当時副社長)や水島さんたちとで立ちあげてきた、二輪ユーザーが主体の団体二輪車協会(NMCA)も1月に設立され、動き出していた。この設立には結構力を入れて、何度もホンダの青山で、ホンダの企画の人たちと打ち合わせなどしたものである。水島さんには特にお世話になった。

いまはちょっと設立の趣旨とは違って『ユーザー主体の動きにはなっていない』のは残念に思っている。

NMCA のホームページの『設立の理念』にはこう記述されている。

人々の暮しが、豊かになるにつれ、時間的ゆとりや、心の解放、自然への関心が急速に高まっています。
二輪車は本来、便利な生活の道具としてばかりではなく、人に近く、また地球にやさしい遊びや文化としての楽しさを兼ね備えています。
このような時代だからこそ、人と社会に、二輪車の「夢」と「素晴らしさ」、「楽しさ」をもっと伝えたい。もっと分かちあいたい。

私たちはそう考え、国内二輪車4メーカーが発起人となって、1997年1月、NMCA日本二輪車協会を設立しました。
二輪車ユーザーと二輪車に関心を持つ人、二輪車販売店、卸、メーカーが一体となり取り組む、それがNMCA日本二輪車協会です。

二輪車の遊びや楽しさ、利便性や有用性、使い方の可能性を追求し、販売環境や利用環境の整備、社会へのイメージアップ、そして省資源や環境保護などへの対応、社会貢献、といった二輪車を取り巻くさまざまなテーマに取り組み、広く社会のお役に立ちたいと考えています。

いまNPO The Good Times では、二輪の分野ではこんなコンセプトを引き継いで、活動している積りなのである。

カワサキの想い出、そして未来』や、先日の『袖ケ浦のマル耐』などは、どちらもユーザーが主役のイベントだった。いつの日にかNMCAのお手伝いができたらと思っている。

 

★こんなことで、最後まで忙しかったのだが、

3月19日、東京で経営会議があって、松井田のGOが決まったその晩に、高橋鉄郎さんから家に電話があったのである。 

『建機の北海道の販社を2年ほど見てくれないか?』 と言うことだった。

当時、高橋さんは副社長で単車と建機を見ておられたのである。電話だったし突然の話だったので、中味もよく解らぬし、札幌に行くなら単身赴任と言う初めての経験でもあったので、その日は即答をしなかった。会社ではいろんな職場を歩いたが、いままでは言われたことは全て即答で『Yes』と応えているのである。

翌日から、いろいろ聞いてみると、6月からは田崎さんが単車と建機を見ることになり、建機事業の再建のために特に生産部門は単車から藤浦さんが行き、事業部長を大学の野球部の後輩の原田君がやるようである。

北海道川重建機と名前だけは子会社のようだが、子会社ではなくて地元資本の自前の会社なのである。どんな状況なのかよく解らぬが、これはなかなか難しそうなのである。昔は二輪も自前の販社はあちこちにあったが、時代は変わって販売会社は全てが直販子会社だから、自前の代理店など扱ったことがない人ばかりなのである。

自前の会社と言うだけで、非常に興味があったし、『原田君が是非』と言うので、数日後高橋さんには『行きます』とお引き受けしたのである。

『ホッと』されていたようだった。 

 

環境が変わると、直ぐそれに反応して、そこにハマってしまうのである。

4月からは、殆ど建機の販社に行くための準備に掛った。

札幌の会社は5月末の役員会で議決し、6月からと言うことだったので、それに向けてスケジュールを組んだ。

6月に退任したら、海外旅行でもと思っていたが、それも出来そうにないので、

5月の連休明けから12日間、ヨーロッパ旅行を計画して、帰ってから1回現地を見て、5月末からは札幌に行くということにした。

 

★会社を退職するのは初めての経験だが、そんな手続きは全て総務に任して、どのような形で仕事をするのかと言うことだけを考えていた。

北海道川重建機はオ―ナ―の社長が亡くなって、そのあと社長はおられたのだが、何故かその方が退任されるので、そのあとにと言う話なのである。

勿論、専務も常務もおられて、役員には川重から出向の取締役もいるのだが、専務、常務はタダの役員ではなくて株主でもある。そのほかに株主がいっぱいいて、強力な発言もあり、なかなか運営が難しそうなのである。

これはむしろ面白くて遣り甲斐があるなと思ったのは事実である。

高橋さんはそのあたりのことを心配されて、4月ごろには『技監のままで行くか』などと仰って頂いたのだが、むしろ川重は離れて、フリーの身分で行く方がいい思ったのである。

結果は、退職時期を1ヶ月早めて、5月末とし、初めての単身赴任経験となったのである。

 

なぜ、川重建機が、川崎重工に社長要請をしたのかは聞いていないのでよく解らないが、待遇は非常に手厚くして頂いた。

不思議なことだが、給与は川重の技監時代より多くなったのである。

クルマはトヨタ2800ccの4輪駆動の新車を、『運転手を付けましょうか』と仰るので、それは『お断りをした』  クルマは自分で運転するものと思っていたし、運転は好きだったのである。

家は札幌は支店長などの単身赴任者いっぱいのまちで、そんな人専用の2食付き24時間大浴場の風呂が沸いている豪華マンションを用意してくれたのである。

駅や繁華街も直ぐ近くの最高の立地であった。

『運転者を付けましょうか』と仰るのもよく解った。出勤時間には、マンションにはお迎えのクルマが列をなすのである。そんな人たちばかりが住んでいた。

 

5月末まで、実際の勤務までにそんなことぐらいは解ったが、会社の中身などは全く調べずに現地に行ってからと言うことにしたのである。

 

★そんなことで川崎重工の明石工場での最後の5カ月間は、結構バタバタして実質明石に出社したのは4月末までで、

二輪車の最後の会議は、東京での二輪車協会の会議が最後となった。宗国さんが気を遣って頂いて、最後に挨拶の時間を取って頂いたのである。

サラリーマン40年間の殆どを二輪事業の中で過ごしたが、その最後が自ら起案した二輪車協会での会議で最後の挨拶が出来たのは、ホントに自分らしくてよかったと思っている。

40年間の殆どを、自分の思うことが出来たのは、サラリーマンとしては最高に幸せであった。

そして、そのほとんどの期間が、『経営』に関することだったのは、二輪業界と言う世界の各地で事業を展開するビジネスだったからである。

規模はともかく、ずっと経営者をやってきたようなものである。これは私だけではなくて、当時の人たちはみんなそんな環境だったし、『係長の社長』はそんなに珍しくはなかったのである。

 

★家では、娘に2番目の子供が1月に生まれたりした。

早産になるかもと一時入院などして心配したのだが、無事生まれて何よりであった。

5月4日、世の中はみんな連休で帰国ラッシュの最中に、ヨーロッパ12日間のツアーに出発した。家内との海外旅行は2度目だったが、ツアーは初めての経験であった。

前回のオーストラリアは、レンタカーを借りて、自分の行きたいところを地方まで見て回ったのだが、ツアーは予定通り、イギリス―イタリアードイツースイスーフランスとのんびりした旅であった。初めての国はイタリアだけだったのだが、イギリスも、ドイツもスイスもフランスも名所、旧跡はこの旅で初めてのところばかりだった。

何度行っても、仕事での出張では、なかなかいいところには行けないものである。

 

この年前半の5ヶ月、何かばたばたしているうちに過ぎてしまったのである。

6月からは、札幌で全く新しい経験が始まったのである。

 

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モトショップシロタ & MJP

2011-12-05 16:01:04 | NPO The Good Times

★先月からNPO The Good Times の団体会員にカワサキモータースジャパンのOBの人たちの入会が続きました。

きっかけは、Facebookです。実名ですから直ぐ繋がります。Facebookのトモダチでは最近だけでもカワサキ関係の人たちと10人以上も繋がりました。

城田賢一さんも、そんな中のお一人です。

ご本人とは面識はありませんが、お父さんの城田さんとは慶睦会の東京で一度お会いしていますし、お店の方にも多分」伺ったことがあると思います。

先日、城田賢一さんから、Facebookのメッセージが届きました。

・・・・・うちの親父からのお願いで、ぜひ古谷さんにメッセージを送ってくれと言うことで、代筆させて頂きます。
うちの親父はスパナとドライバーの使い方は知っているのですが、パソコンの方はサッパリで、最近ようやくブログ等を見ることはできるようになりました。

親父が古谷さんの雑感日記を読んでいて、本人もカワサキの群馬営業所で営業マンをしていて、その後群馬県で販売店を開いたもので、時々ブログに出てくる、松井田サーキットの話では、当時のことを自分にもよく話してくれます。

また、そこで走らせる予定だったX11の方も親父はとても期待をしていたらしく、幻となったX11を何年か前に東京の藤木さんの所にあった物を譲り受け、今うちの姉妹店、セコンドマーノと言うカワサキの販売店に置いてあります。
その店も実はカワサキの群馬営業所の跡地で、営業所を閉める時にうちが譲り受け、建物はそのままで改装して、その中に展示してあります。
ご報告させて頂きました。
 

松井田も懐かしかったし、X-11はFiscoでクラッシュしたとばかり思っていましたので、現物があるとはビックリしたのです。

いまの現役の方は、ご存じない方も多いと思いますが、X-11は

ZX1100ccのエンジンを使用、排気量1052cc、最高出力160PS/10500rpm、
全長8000、全巾1640、全高1057、車重409kg
元F3チャンピオン佐々木氏は『限りなくF3に近い性能』と評価している。

などとかってのブログで紹介している。音もよかったし性能も抜群でした。当時TIサーキットなどで、走っていたのです。

このマシンの開発に携わっていたのが、山田浩平君で、そんな関係で若いころの山田君をよく知っているのです。 TIやSPA直入によくご一緒しましたし、運転させてもらったこともあります。山田浩平君、いまは川崎重工業の二輪部門の技術本部長をされています。そんなことで親しくさせてもらっていたので、彼はNPO The Good Times の会員さんでもあるのです。

 

 

★城田賢一さんに電話して、いろいろ伺って、NPOにお誘いしたら直ぐに入会されました。

モトショップシロタ、手広く国内4メーカーも外車も扱っておられるようですし、レースも通販もブログもお持ちです。

すでにブログなどは、NPOのシステムの中で毎日紹介していますし、ツイッターや、Facebook ページなどおやりのなれば更に活発に動きますし、

出来れば、特別プロジェクトを立ちあげられたら更に具体的に応援できると思っています。

 

先日、関東のNPOのメンバー達は、袖ケ浦のマル耐にThe Good Times Racingチームを組織して、参加したりしましたが、

来年は、更に活発な活動を目論んでいます。

モトショップシロタも、その輪の中での活動とともに、NPOのシステムを利用した独自の展開をされてはと思っています。

まずX-11の写真がみたいものです。

 

 MJP株式会社、貴宝石と言う石を扱っている会社です、

経営しておられるのは元KMJにいた、植村武君です。

植村君ともFacebookで繋がりました。

現役時代、直接関係は少なかったのですが、聞いてみると仙台にいたり、ジェットスキー関係もやられていて、私のあとを追っかけていたような職場だったようです。

そんな関係でいま、NPOの関東総括をやってくれている村島さんもよくご存じで、先日のマル耐にお誘いしたら、気軽に参加されて、1日お付き合いをしました。

 

これがNPO The Good Times Racing チームのメンバー達ですが、結構有名人もいます。

後列一番左が、NPO の関東総括の村島さん、ご存じインターナショナルトレ―デイングムラシマです。右から二人目が植村武さんです。そして一番右はかってのホンダファクトリーでNS500を担当したり、ホンダがMXを始めたころ吉村太一君がスズキからホンダに移籍したころチームにいた渡辺さん、今春の「カワサキの想い出そして未来」以来の再会です。

前列一番右は、雷神マッハの蘇原さん、このレースの言いだしべえです。そしてその隣は全米総合格闘技チャンピオン久保田武蔵さん。この日にNPOに参加されました。

3人目は90年代の鈴鹿8耐を何度も走った松島裕さん、NPOのホームページを担当してくれています。隣はTeam Green のかっての名監督平井稔男さん、そして私です。

このレースを主催したWIth Me の丸山浩さんも、NPOの団体会員です。

関東もいいメンバーが揃ってきました。来年はまた新しい仲間も増やして、オモシロイ展開が出来ればいいなと思っています。

 

カワサキの方もいいのですが、

どちらかと言えば丸山浩さんや、渡辺さんのようにカワサキ以外の方をむしろ大歓迎です。

先日のマル耐ではホンダ技研の現役岡部さんが参加されました。

コンセプト通り『異種、異質、異地域』の方、大歓迎です。

 

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樋渡啓祐さんの公演会

2011-12-05 07:18:54 | 樋渡啓祐さんのこと

★昨日は神戸元町、私学会館であった『樋渡啓祐さんの講演会』に行ってきた。

会合そのものは神戸リメイクプロジェクト主催で、樋渡さんをゲストスピーカーに招いての会合だったようなのだが、

私自身は、樋渡啓祐さんにお会いしたかったのと、この会合があることをFacebookで教えて頂いた橋本英明さん、にお会いしてみたかったので、

KANSAI GENKI! PROJECTを担当しておられる藤田修司さん(ぼっけもんの修さん) をお誘いして出かけたのである。

樋渡さんには久方ぶりにお会い出来てお話も出来たし、藤田さんを、樋渡さんにご紹介出来たので、それはそれで良かったのだが、

Facebook で「ふたばUST」という秘密の会(承認制の会)を主宰されている橋本英明さんにお会いできなかたのは、誠に残念であった。

 

会の後、藤田さんともお話が出来たし、目的の70%は達成できたと言うべきだろう。

 

 ★、樋渡さんに藤田さんと言ってもお解り頂けないのだが、『ぼっけもんの修さん』と言えば直ぐ思いだされたようである。

ブログで繋がっていて『武雄に遊びにいらっしゃい』などと確かコメントされていたような気がするのである。でも私とぼっけもんの修さんが繋がっているとは流石にご存じなかったようである。

名刺交換された後の写真だが、ぼっけもんの修さん、藤田さんも背が高い。殆ど、樋渡さんと同じなのには驚いた。

 そのあと、3人で写真を撮って頂いたが、ご自身の本、首長パンチを手にして少しかがんで頂いた樋渡さん、お陰で私もそんなに小さく見えずにすんだ。

これは、樋渡さんの講演会が終わってからの時間だったのだが、昨日の講演会の内容はどんなものだったのか、私なりに纏めてみたい。

講演会と言うよりは、『樋渡啓祐さんの公演会』と言った方がアタている楽しい1時間だったのである。

この3人、NPO The Good Times の会員さんで繋がっている。

私は、0001番だし、、樋渡さんにはNO.1118番をずっと取っておいたのを、今年さるとるさんが武雄旅行の時に届けて貰ったのである。そして、ぼっけもんの修さんにはご希望のNO.0524(確かお誕生日)の番号を差し上げているのである。終身会員だから、樋渡さんがどんなにエラクなられても、ずっと会員さんなので大丈夫なのである。

 

 

★樋渡さんの公演は、行政の長のモノとは、とても思えないものであった。。

用意された演台で話されることが殆どなくて、舞台を歩き回って喋りまくる『公演』そのものなのである。

 まず飛び出したのが、こんな数字である。1797 日本の市町村の数だそうである。

『日本には1797人の首長さんがいる』と言うことである。

その首長の権限は絶大で、首長が頑張れば『そのまちは間違いなく変わる』 まちが変わらないのは『首長がぼんやりしている』と仰りたかったのだと思う。

途中からは上着を脱いでの熱演になった。

どんどん取り組み、実行する、 反省しない、振り返らない。 前進あるのみ。

『反省しない』と言うのはオモシロかった。私の現役時代に1回だけ受けた性格テストで、『反省が足りない、反省しない』が極端に出て、そこだけが大きなマイナスだったのだが、、樋渡さんも同じなのかも知れない。こんな有名人と同じでよかった。

兎に角、行政も、大企業も計画ばかりに時間を使い過ぎると思う。いいと思ったらスタートする。走りながら考える方が実戦的である。樋渡さんと、極端に近い大阪の橋下徹さんも、同じタイプなのである。

物事が単に実現するのではなくて、『目指した目標、目的が実現する』やり方は、『走りながら考えるのがMUST』だと思っている。

物事の実現、例えば組織を作る、建物を造るなどは権限や予算さえあれば、さほど難しくなくて殆ど実現するのだが、

世の中で、『目指した目標、目的が実現することは非常に少ない』のもまた事実なのである。

大阪は目指す目標を実現するために、橋下さんは知事から市長になったのだと思う。

橋下さんの話もいっぱい出たが、私は二人のファンである。樋渡さん、折角神戸まで来ておられるのだから、雲隠れ中の橋下さんとお会いになればいいのに・・・・と思ったりした。

 

ここからはFacebookの話になった。

1000点の商品を平均10万円トータル10億円を売り上げようという、F&B商品の話は、非常に興味がある。

 

ほんのちょっとの雑談だったが、

武雄と三木は折角繋いで人事提携まで行ったのに、いまは切れてしまった。行政の間で繋がることはまず無理だが、『三木の商品でまた、繋ぎましょう』と言ったら『OK』だったのである。

そのうちに1000点の商品の内にわが町三木の商品も加わるように動けばいいなと思っている。

1000点は目標で、いま現実には2点しか商品はないのに、もうスタートしてマスコミがいっぱい広報してくれているのである。まさに走りながら考えているのである

 

★『時間がちょっと余ったので』、とこんな画面が出てきてビックリした。

2日前のこのブログで取上げた『瓦礫処理』と言う私のブログを、樋渡さんは直ぐFacebookでタグ付けして紹介頂いたのである。

古谷錬太郎さんの雑感日記から。多くの皆さんが、私が提案した「震災瓦礫の 受入」に関して賛否両論をブログ等であげておられますが、その中 でもやっぱり鋭い。
blog.goo.ne.jp
★ 昨日は『瓦礫処理』について半日ぐらい考えていた。 なかなか難しい問題で、解決の方法は確かに大変である。意見がいろいろあることも解る。 解っていないことは言わない方がいいのかも知れぬが、思ったこと感じたことを率直に 述べてみたい。 スタートは、樋渡啓祐さん...

 

そのページをわざわざ取り上げて、めちゃ褒めて頂いたのである。

私がこの会場に来ているのは、百もご承知で、わざわざ『時間を造って』私のために説明、紹介して下さったのである。

 このあたりは、『阿吽の呼吸』みたいなところもある。

『瓦礫処理』の問題では、樋渡さんに対する非難も大変で、私はよく解ってはいなかったが、どちらかと言うと応援演説をしているのである。翌日、この会があることも解っていたし、『これは書くべし』と半日私なりにいろいろ調べて纏めたものである。

橋下さんも『瓦礫』受け入れ賛成である。難しい問題ではあるが、日本全体で引き受けるべき問題だと思う。勿論放射能が拡散しないことは大前提なのである。福島から300キロも離れた岩手県の瓦礫まで放射能にまみれているように言うのは、如何にも感情が先走っているように思うのである。

最後は、樫野孝人さんとのお二人のお話しで終わったのである。

 

会はその後も進行したのだが、私と藤田さんとは退席して、樋渡さんとの写真など撮ったりして、会場を後にしたのである。

楽しい『樋渡啓祐さんの公演』会であった。 

 

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ローカルディスクC,D

2011-12-04 06:21:35 | 発想$感想

★私の1日の時間の中で、パソコンに向かっている時間は相当なものである。

ネット関係も、ブログ、ツイッター、SNS、タンブラー、Facebook、などなど結構こなしているので、

どなたも私はネットについては相当詳しいと思っておられるようである。

然し実際は、パソコンも、ネットの世界も技術的なことは皆目ダメなのである。

 

そんな私だが、パソコンは多分いちばん新しいWindow7の富士通のモノを持っている。

それも電気屋さんで、店頭に展示してある現物を買ってきた。展示品で安くなったこともあったのだが、『初期設定』がすでにしてあるので『不要』と言うことが一番の理由であった。

パソコンを使うと言っても、ブログを書くこと、検索でいろいろ調べること、メールの授受、いろんなネットシステムを使うこと、写真の保存、ぐらいでその他は一切使わない。

 

★そんな程度だから、富士通のお客様相談室は、非常に頼りにしているのである。

パソコンを買った時も、旧いパソコンからのデータ―の移動は全てお客様相談室のお世話になったのだが、昨今はだんだん世知辛くなって1年経つと相談が有料になるのである。 たとえ有料でも聞く場所があるのは、非常に心強いのである。

実は昨日は、このお客様相談室のお世話になった。

素人と言うのは、不安になるとどうにもならなくなるものである。

 

昨日、写真を撮ってきて、メモリーから取り込もうとしたら、『ローカルディスク』のサイトが現れて、その空きスペースが表示されているのである。

いままでもこのサイトが現れることはあったが、殆ど気にせずに消していたのである。これが現れる時もあるし、出てこない時もある。

いままでは気にしていなかったのだが、ひょっとして『空スペースがない』のではないかと思ったのである。棒グラフが出ていてその濃い部分が極めて少なかったのである。それが空きスペースなのか?使用スペースなのかはよく解らないのだが、気になりだすと『ひょっとしたらもう空きスペースに余裕がないのでは?』と思えて途端に不安になったのである。

検索で調べてみると『空きスペース』が無くなったらこうするとか、Dスペースを使うとかいろいろ書いてあるのだが、どうするのかさっぱり分からぬし、もう一度表示されたサイトを見ようとしても、どこをどうすればそのサイトが現れぬのかさえ解らないのである。

 

★そこで、富士通の『お客様相談室』に電話をした。これは意外に慣れているのだが、有料になってからは繋がる前に支払いの方法や、クレジット払いならカード番号など必要事項を全部処理しないとオペレーターに繋がらないのである。

オペレーターに繋がって、言われる通りのすると、簡単にサイトは現れて、チェックしてみたら空きスペースがないのではなくて、余裕があり過ぎる状態で何の心配も不要なのである。

ほっとして『よかった』と思ったら、オペレーターが

『技術的な相談なので有料となっているのですが、お客様の場合は単なる空きスペースのお問い合わせだけなので、私の方で無料扱いとしておきます。』と仰るのである。

電話をかける前までは、不安でどうなるのかと思っていたのである。

聞いてみると、空きスペースは大丈夫十分あり過ぎるほどで、何のことか解らなかった『ローカルディスクC,D』のことも何となく解ったし、有料を当然と思って掛けた技術相談が、こんなのは技術相談の範疇には入らないとタダになって大儲けをした心境なのである。

こんなレベルは、パソコンをやっている人なら、殆ど常識のことなのだろうか?

 

『保存先』がどこがどうなのかもよく解っていなかったが、それも聞けて何となく解った。

解ってしまえば、何のことはないことなのだが、解らなくて不安に思いだすと不安はどこまでも広がるものである。

その不安もなくなって、非常に満ち足りた気分になっている。

 

今日、保存しようとした写真は、こんな写真です。

1300年前の古代の窯を忠実に再現した窯で焼き上げたものです。

場所は三木アネックスパーク。モトクロス場と言うのもオモシロイでしょう。

 

 

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瓦礫処理

2011-12-03 06:26:48 | 発想$感想

★ 昨日は『瓦礫処理』について半日ぐらい考えていた。

なかなか難しい問題で、解決の方法は確かに大変である。意見がいろいろあることも解る。

解っていないことは言わない方がいいのかも知れぬが、思ったこと感じたことを率直に 述べてみたい。

 

スタートは、樋渡啓祐さんのFacebook からである。

 今日は無念な気持ちでいっぱいです。

私に対して「ぶっ殺すぞ!」 という意見もたくさん頂きましたが、・・・・・・・私は信念を持って仕事に当 たってきましたので、私には良い。

しかし、この言葉を市民や職員 に向けてはいけない、絶対に。

そして、あれだけ、放射線を含まない瓦礫のみを運ぶ、私たちが通 常出している廃棄物と同じだと説明しても、「瓦礫=放射線まみれ」ということで議論の余地も無い方々も。

なぜ、苦しんでおられる東北の皆さんの背中から重荷を下ろすことに手を貸さないのか。被災地が一番今望んでいることの1つが、この瓦礫の撤去なのに。
・・・・・
ともあれ、震災瓦礫に関して最も責任を負うべき国に、スキームの提案をしなくては。気持ち切り替えて頑張ります。応援よろしくお願いします。

 

私はその通りだと共感して、『いいね』を押して、

そのあとブログ武雄市長物語も、そこにリンクされていた議会での樋渡啓祐さんの話も、Ustでちゃんと聞かして頂いたのである。

 

★特に樋渡啓祐さんの議場でのUstは、その話を聞けば、そのトーンを感じたら、それは心の底から出た、行動だってことはよく解る。

『日本国民は何故、東北がこんなに困っていることを、みんなで援けないのか?』と率直にそう思ってしまうのである。

 

そのあと、検索で『瓦礫』とか『瓦礫処理』とかを調べてみた。

東京都はすでに受け入れたことをニュースで知っていた。それに対しても、住民から反対意見がだされたようである。

兵庫県はどこも賛成していないのだが、新潟県の三条市などは受け入れの方向なのである。

 

受け入れについても、賛成、反対いろんな理由があるのだと思うが、

『瓦礫受け入れ』には、立地的な要素も含んでいるのだろうが、一般市民が反対するのは『放射能汚染』がアタマにあるのは間違いない。

 

『瓦礫』で検索すると、武田先生の『瓦礫受け入れ反対』というこんなサイトにも出会った。

多くの自治体で瓦礫を引き受けることになり、心配が拡がっています。瓦礫を引き受けるのは自分たちの住む場所が少しずつ汚染されていくことであり、必ず阻止しなければなりません。でも、「瓦礫はあまり汚染されていないので大丈夫」と言われますから、その反論を以下に書きました。

こんな文章をそのまま読むと、瓦礫は危ないと思うのも無理からぬ話である。ただこれは多分に福島の瓦礫のことを言っているのだと思う。

 

★以前にも一度東日本大震災の対応について、

● 地震や津波による被害対策 と

● 福島原発被害とは  全く異質なものだから、完全に分けた対応をするべきだ

と書いたが、どうしても一緒に考えられてしまっている。

 

瓦礫についても福島の瓦礫と、宮城、岩手の瓦礫とは全く性格が異なるものだと思う。

まず最初に、福島の瓦礫はともかく、宮城、岩手の瓦礫には、『放射能汚染』の心配があるのかどうかを、明確にしたうえでの論議が必要だろう。

私の素人の発想では、宮城、岩手の瓦礫には、放射能は含まれていないと思っている。

過去に仙台に4年ほど住んで東北6県は熟知している。その広さはちょっと想像以上である。

仙台の隣が盛岡だが、その間の距離は200キロ、関西で言えば神戸ー名古屋間に匹敵して、兵庫、大阪、京都、滋賀、岐阜そして愛知県と6県先のことなのである。

そう言う広さで言えば、岩手や福島は面積では大県だから、処理する場所も多いと言えるもかもしれないが、瓦礫処理にはどんな場所が一番適切なのだろうか? 海岸の埋め立てなどには使えないのか?  

 

東日本とか東北と一言で片付けることなく、もう少しはっきりと分類して、物事を考えるべきではなかろうか?

そのうえで、この瓦礫処理は、安全な瓦礫を、日本全体で分担して処理するのは当然のことである。

そう言う整理整頓をして、国が明確なリーダーシップを発揮しないから、おかしなことになってしまうのだと思う。

 

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父の絵

2011-12-02 05:53:30 | 自分史

★なぜ突然父のことを・・・・

父は明治32年生まれであった。 母よりもちょうど10歳上だったから、もし生きていたら112歳になる。

52歳の時、亡くなったので、もう60年も前だったのである。 私が高校3年の1月のことで、いま思えば18歳の時であった。

 

いま時の親子と違ってと言うのか、私が変わっていたのか、

妹たちは父によく食事などに連れて行って貰ったなどと言うのだが、私は友達と遊ぶのが忙しくて、一緒に行った経験など殆どない。

そんなことで、私自身、父とそんなに沢山の会話を交わしたこともない。

ただ、何となく私は父が好きだった。

それは周囲の人たちが父のことをよく言ったからだと思う。周囲の人がアレだけよく言うのだから、いい人に違いないと信じていたのである。

 

★昨日、2番目の妹が、2年ほど前に亡くなった義弟の衣服がいっぱいあるので、貰ってくれと言うのである。

義弟の体型に合う人が少なくて、普通の人には合わない、端的に言うならそんなに肥えているいる人が、周りにいないのである。

そんなことで、神戸の北鈴蘭台までその衣服を貰いに行ったのである。

家はよく知っていたが、家の中に入ったのは初めてである。

そこに、父の生前書いた絵を見たのである。そんな絵があることも知らなかったし、戦後父の描いた絵を見たのは初めてである。

東京の親戚にあったものを貰ってきたのだという。

そんなことで、60年前に亡くなった父のことを突然思い出したし、子供のころはよく見ていた父の絵を見ることが出来て嬉しかったのである。

★戦前、子供の頃、ソウルにいた。

そのころ父は会社勤めなどはしていなくて、何するとなく絵など書いている悠々とした生活だった。

そんな絵を描いている父をヨコで見ていたものである。

戦後引き揚げてきてからはそんな生活はしていないので、この絵も戦前ソウルの家で描いたものを親戚に差し上げたものだと思う。

 

この二つの絵の構図は、橋本関雪の絵を模写したものであることは間違いない。

自分の写生した絵も描いてはいたが、絵の多くを家にあった関雪さんの絵を手本に写していたことも多かった。

『橋本海関に書を習い、橋本関雪に絵を習った』というのが父の自慢でもあった。明石藩の橋本海関さんは遠い親戚だという。

そんなことで父の号は『素雪』と称していた。

絵も書も、素人で玄人ではないのだが、結構熱心にはやっていた。

橋本海関さんはともかく、その息子の橋本関雪さんは、京都に有名な記念館もある著名な画家である

 

私の手元には、父のモノは一つもないので、絵があったことも大発見だったし、それが見ることが出来て本当に嬉しかったのである。

義弟の衣服も遠慮なくいっぱい貰ってきたし、

昨日はなかなかいい1日であった。

 

絵も書も、ブログで一般にお見せできるのも、時代である。

展覧会などにはよく出品していたので、このような形でお見せできるのも、

殆ど親孝行など出来なかった父への、せめてもの供養のような気持ちなのである。

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