雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

NPO The Good Times

2012-10-23 04:58:05 | NPO The Good Times

 

★NPO The Good Times の活動が4年目に入り何かと忙しい。

NPO 法人自体は、ネットをベースにしたシステムそのもので、特にイベントなどの主催などは一切やらない。

システムの構築、高度化、高質化以外は何もしないと言った方がいい。

 

そのホームページにあるような、こんなコンセプトのNPO法人なのである。

 

★今回KAWASAKI Z1 FAN  CLUB の本拠が兵庫県三木に完成したのだが、別にKawasaki だけ、バイクにだけに拘っている訳でもない。

 

  

 

これは昨日、このGood Times Plaza  に訪ねてこられた方である。

バイクが綺麗だから、写真を撮りたいと仰る近くのカメラ同好会の方で、NPO 法人の仕組みを説明したら、そのカードの写真を撮っているところである。

 

 

カードだけではなくて、こんな綺麗なバイクの写真も、勿論撮って帰られたのである。

オーナーの登山さんはそのバイクも自慢だが、女の人でも回せるこの回転台が自慢なのである。

 

★昨日のFacebook には東京の千葉良樹さんが

 こんな写真もアップされた。

登山様、古谷様無事にカードが届きました。
これからの会の発展が楽しみですね。
バイクが、KAWASAKI Zが取り持つ縁に御礼です。

 

上からKAWASAKI Z1 FAN CLUB , 二輪文化を伝える会 そして3枚目は、NPO The Good Times の本家のカード、独りで3枚お持ちのようである。

各団体会員さんが提供される特典などは、どのカードでも一つ持っていれば、すべてに適用されるので、特典目当ての入会なら1枚持ってれば事足りるのだが、何枚も持っておられるということは、それぞれの趣旨に共感して『1000円の寄付』をしたそんな感覚なのだと思う。

 

 

★千葉良樹さん、mixi では 職権打刻さん、それからのお付き合いである。

カードを3枚持っておられるとは知らなかった。

 

 

これは私自身が持っているカードである。

独自のカードを発行される団体さんの趣旨に共感して、全て入会させて頂いていると、こんな枚数になってしまった。

 

それぞれの団体会員さんがそれぞれ会員さんを集められるので、合計すると現在7000人をちょっと超えた数になっている。

1人1000円の入会金だが7000人にもなると700万円にもなるのである。NPO法人に700万円も頂いても、使い道もないので、、一生懸命集めて頂いたところには、その活動資金として援助するシステムになっている。

一番多く会員を集められたのは『孫文を語る会』3000人の会員なので300万円入金頂いたのだが、その内の270万円を支援させて頂いている。

残りの30万円は大体カード代なので、殆どを『孫文を語る会』の活動費にお使い頂いているのである。

活動内容が支援するに当たるか当たらないかの判断をNPOの理事会が行って承認認可をしているのである。孫文記念館は兵庫県が管轄するものだから、その活動内容は当然公共性の強いものだから、最高の90%支援(1000円の入会金のうち900円支援)になっている。

 

★世の中にカードシステムはいっぱいあるが、最高に進んだシステムで、今後どんどんよくなる一方なのである。

 ようやくその仕組みがお解りになって、今週末の理事会では、

      

 O's のこんな新しいプロジェクトが仲間に入ることが、理事会で承認される予定でなのである。

 

★NPOというのは一般の会員は入会を希望されると断ることは出来ないシステムなのだが、

この独自のカードを創る『特別プロジェクトシステム』は、理事会の承認なしには実施不可能なのである。

各プロジェクトに対して特別の報告なども求めてはいないので、

ちょっと活動資金を貰ったら、その報告に追い回されるような行政の支援システムとは全く『差別化された』簡単で且つ有効な仕組みに仕上がっている。

どのカードでも受けることのできる特典は、今でもこんな感じなのである。 今後それはどんどん増える一方なのである。

異種、異質、異地域  どんな業種でも、どんなところでも、大きくても小さくても、『やる気のある』ところなら大丈夫である。

 

きっとウマくいく輪』  障がい者の今と未来を考える会  は既に団体会員だが、今プロジェクト参加を準備中である。

 

なかなか、『世界初のシステム』は、お解り難いと思うが、なかなかよく出来ていて、ホントに、社会でいい活動を、積極的にされる方には最適なのである。

みんな繋がって『Good Time 』がホントに共有できるのである。

自分も頑張るが、頑張る人たちが仲間なので、どんどんよくなっていくのである。

 

そういう活動を  『Organizational Synergy  組織的な相乗効果 』というのだろう。

そんなネーミングの 団体会員さんが今週末は参加されるのである。

 

 

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何はともあれ『誕生日おめでとう』

2012-10-22 05:40:33 | 発想$感想

★ 男の子ばかり4人の孫がいる。

鎌倉に一人、アメリカに3人、当たり前の話だがだんだん年をとり大きく成長する。

可愛かった孫たちも青年に近づくと『可愛さ』はどんどん薄れてしまう。

やはり小学校までかなと思う。

そういう意味では、小学校に未だ1人の孫が残っている。

 

 

 

12歳の誕生日だったようである。

左が次男高校生、右が長男、来年は大学受験だという。

次男なども、小学生のころ魚やカブトムシなど獲りに行こうとせがまれた頃の可愛さは全くなくなってしまった。

その点、末弟は雰囲気だけでも、未だなかなかの可愛さを残している。

 

      

 

小学生6年生のクセに、なぜか突然変異のように大きくて、トモダチと比べても柄だけはめちゃ大きいのだが、可愛さは残っている。

サッカーもキーパーもしていて、そこそこなのだが、もう一つ上を目指すなら、『デブはダメ』とはっきりと言われているのだが、

食べることにはメがなくて、サッカーなのか、食い気なのか?

 

   

 

こんなバースデーケーキを自分で作ってご機嫌なようである。

 

 

 

 

★これは先月アメリカに行ってた時に、私と二人で散歩をした時の写真である。 

孫たちも4人もいるが、二人きりになるということは意外にそんなチャンスはない。

後の3人は何となく二人だけで行動したこともあるのだが、この末っ子とはこの時が初めてだった。

 

その時いろんな雑談をしながらの散歩だったが、一番印象に残っているのは、アメリカ社会のマナーに対する気遣いみたいなものを子どもなのにちゃんと身につけているなと思ったことである。

アメリカは人が歩くことが少ないせいか、車の道幅は片道でも2車線とこんなに広いのに、人の歩く道は二人並んで歩くのが精いっぱいというほど狭いのである。二人で散歩していたら前方を歩いていたご夫婦は芝生によけて道を開けてくださった。

ジョッギングをする人たちもいるし、早足で歩く人もいる。そういう人たち、後ろの状況など『しょっちゅう気をつけて』歩くのである。散歩の中で何度も孫にいろいろと『指示されながら』歩いたのが思い出される。

未だ可愛い顔をした小学生だが、『気遣い』は既にちゃんとした『社会人』になっている。そのあたりは、日本が一番弱いところで、いつまでも子どもは子どもで、何をしても『子どもだから』許されるようなところがあるように思う。

 

★孫の名は、門野哲也 12歳、小学6年生。 背だけは167cmぐらいある。

今度はいつ会えるか解らぬが、『可愛い』感じがまだ残っているのだろうか?

みんなに『かわいい』『かわいい』と言ってもらいながら育った『オトンボ』だが、

娘が末っ子にはどうも甘くて、欲しがるだけ『食わす』ものだからなかなか『デブ』が解消出来ないのである。

もう少し『スンナリ』としたキーパーらしい『哲也』もいいのだが、

今のままの『愛きょう』のある『ポッチャリ型』のキ―パ―も、またいいのかなと思っている。

いずれにしても『可愛い孫』でいるのは、もう1年ぐらいだろう。

 

1ヶ月前に、私は初めて『哲也』にキーパーのグローブを買って上げた。

『モノを買ってくれるのはバアチャン』ということになっているのだが、その前例が覆っているのである。

『グローブ欲しさ』に『散歩に行こう』と言ってくれたのかも知れない。

 

何はともあれ『誕生日おめでとう』

 

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ジオパーク 浦富海岸エリア

2012-10-21 06:06:57 | NPO The Good Times

★『ジオパーク』 初めて聞く言葉である。

何のことかなと思いながらバスガイドさんの説明を聞いていた。

昨日は、鳥取県の浦富海岸や鳥取砂丘まで町内会の秋のバス旅行だった。

みんなそれぞれよかったが、一番印象に残ったのが、

2011年9月に日本ジオパークネットワ―クに認定されたという『ジオパーク 浦富海岸エリア』だった。

 

約40分の遊覧船は、こんなカモメの乱舞から始まった。船から投げる餌に群れ飛ぶカモメたちである。

 

 

日本海の荒波がこんな自然の形を創ったのだろう。

 

    

こんな美しい自然美を残している。

この遊覧船の船旅はホントに素晴らしかった。

ジオパークに指定されてから、1年ぐらいなので未だ知られていないようである。

 

  

船を走らせながら、船長さん自らがマイクで解説付きの船旅である。

 

雲ひとつない秋晴れのなぎの日なのに、それでも日本海は1メートルのうねりがあった。

 

 

 

これは逆光でちょっと見えにくいが、海から見た鳥取砂丘の遠望である。

 

鳥取砂丘に行かれたら、是非お勧めのコースである。

 

 

旅の写真はいっぱいあるのだが、砂丘の写真を1枚だけ。

 

その他Facebook の方に全てアップするのでご覧ください

絶好の秋日和、最高の旅行であった。

 

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有終会 傘寿を祝う同窓会

2012-10-20 05:37:10 | 発想$感想

★ 『有終会 傘寿を祝う同窓会』が行われた。

旧制の神戸一中と県一女いずれも最後の学年であることから、この名前が付けられたのだろう。その同窓会である。

みんな既に80歳、傘寿を迎えようとしている。

 

2年ぶりに出席をした。

男女合わせて約70名の出席は、盛況と言えるのかも知れぬが、出席者の2~3割ぐらいしか、確かな記憶はない。

もう、出席する機会も少ないだろうし、今回は神戸高校の同窓会館で開催されるということもあって、一度学校を見ておきたいという気持ちもあって出席したのである。

 

JRの灘駅から、通称『地獄坂』を歩いて通ったものである。

当時は未だ、明石の疎開地でもあった伊川谷から明石駅まで歩いて通ったものである。 今考えると、ホントに毎日よく通ったものだと思う。

伊川谷から明石駅も相当遠いし、『地獄坂』はまさしく『地獄坂』だった。

 

   

校門から振り返るとこんな景色である。

 

  

校門から見る校舎は、色は黒っぽいグレーから、クリームいろに変わったが昔のままの形である。

グランドから阪神間が眺められるし、懐かしい野球グランド、ここで始業前からソフトボールで遊んでいた。

 

       

正面の一部を残して東側は全て新しく建て替えられた新築だそうである。正面入り口とそれに続く一部だけ昔のままで残されたのだという。

階数も1階増えて4階建てになっている。昭和22年(1947)だったと思うが、天皇陛下の関西行幸で校舎の3階の教室が改造されて、陛下はそこにお泊りになった、神戸市内に未だホテルがなかったのだと思う。私のクラスは選ばれて天覧授業を受けたりした。国語の授業だったが、何の事前打ち合わせもなく、授業はやられたのだが、お付きの方たちを従えて、前の方から教室に入って来られて、当時の生徒は舞い上がってしまって大変だったのを覚えている。 天皇陛下に対する考え方が今とは全然違った時代であった。

 

★右の写真は、たまたま卒業記念のアルバムの写真を撮っていた生徒たちである。

先生にいろいろお聞きしたのだが、兵庫県下から優秀な生徒を集めた理数科のクラスで、東大にもいっぱい行くし、そのレベルは最高だと、ご自慢であった。

『最近の神戸高校は優秀なのですか?』という私の質問からそんな話になった。

 

私たちの時代の神戸一中は、これはホントに優秀であったと思う。250人ぐらいいたと思うがその中で50人までを『特』と称し、公表されるのである。

私自身もよく勉強したし、ずっと『特』の中、いい時は『一桁』の中にいた。 これがその後ずっと私の変な『自信』みたいなものに繋がっている。東大だ、京大だなどと言っても『そんなに大したことはない』などと思ってしまうのである。

3年の時に、県一と男女共学になり、特に数学と英語はずっと逆戻りした。そして学区制で、高校は明石に転校した。ここでも数学、英語は神戸一中の2年の時よりも低いレベルの内容だったのである。

そんなこともあって、中学2年生以降はあまり勉強した記憶もないし、特に高校以降は大学も含めて野球をしに学校に行ってたようなものである。高校はともかく大学は全然成績はダメだった。授業も殆ど出ていないし、優が殆どなくて会社の入社試験の面接は、『君は成績が悪いね』から始まったのである。

だから、私自身は学歴は『中学卒』だと思っている。

それ以降に得た知識は、会社に入ってから自分で勉強して得たものである。そんな想い出のある中学生時代がある意味懐かしいし、『旧制神戸一中卒』と言えることに誇りを持っているのである。

会社に入って、近くに神戸一中の先輩が二人おられて『神戸一中の一番最後か』となぜか可愛がって頂いた。 男女共学の神戸高校は、ちょっと違うと思っておられる節がある。『質実剛健』でなければいけないのかも知れない。 

だから、『理科系のクラス』とはいえ、県下で最高のレベルのクラスがあるなど、昔を思い出してよかったなと思ったのである。

『先生は神戸高校ですか?』と聞いたら、『長田です』という答えであった。  いまはどうなのかよく解らないが、長田、昔の三中は優秀だとはよく聞いたものである。

 

 

 

これは総会の最後、県一女と 神戸一中の校歌を合唱したところである。

 

 

ちょっと見えにくいが、これが神戸一中の校歌である。

こんなに最後まできっちり見たのは初めてだし、見てみて読めない難しい字があるのにビックリした。

1番、2番ぐらいまでは覚えている。特に1番は私の結婚式の披露宴で、『何か歌え』と言われて神戸一中の校歌を歌った。

『希望の光輝ける  わが世の春に似たるかな』と思ったのと、家内が神戸高校卒だったので幾らか関係あるかなと思ったのである。

 

 

最後の方で、野球部の連中を中心に写真写してきた。野球部の仲間も二人ほどはなくなっている。

この有終会も、いつまで続くかは解らぬが、『有終会』 と検索すると今でも私のブログが現れてくる。

このブログも、多分1ページ目に記載されるだろう。

 

昨日は、なかなかいい1日であった、

有終会 傘寿の祝いの同窓会  である。

 

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月木博康さんのオモロイ話

2012-10-19 06:18:15 | NPO The Good Times

★月木博康さん。 ご存じTsukigi Rasing のオーナーでもある。

ずっと昔は、いろいろ一緒に遊んだ仲である。

いろんなことをやったが、彼は『思いついて相談に来た時』には既に決心している。

所謂相談ではなく『やりますよ』という決意表明なのである。

 

少し、疎遠になっていたのだが、このところまた、いろいろと密接に繋がっている。 

先日、アメリカでもお鮨屋さんでお世話になったし

KAWASAKI  Z1 FAN CLUB の登山さんとの関係でも、

彼の息子さんが、やろうと張り切っている O's  Organizational Synerzy でも。

みんなNPO The Good Times 繋がりの話ではある。

 

 

★そんな中でも、この話は特別にオモシロそうである。

ちょっと、話が壮大なので、ホントにオモシロそうなのだが、お金も要ることだし実現できるかどうかは解らない。

 

関係するみんなの『協働次第』だろうと思う。

一緒に手伝おう、応援しようという人たちがいっぱい現れたら、大丈夫実現するかも知れない。

私は相談を受けてる段階で、未だはっきりとは決まってはいないのだが、こんなのは『ダメモト』なので、ちょっと反応が知りたくてこのブログを書いている。

別に月木さんに承諾など貰っているわけではないのだが、下の写真は、月木さんご自身がFacebook に昨日載せられた写真なのである。

写真は載せたが、会って何を話してきたかは、彼自身は書いていない。

 

 

★宗和と岩城と月木 。この3人が集まっての話なら、大体想像はつく。

Kawasaki の、それもレースの話なのである。

大体のコンセプトだけだが、ざっとこんな話である。

 

● 来年の8耐のレースに出たい。   これだけだとあまり面白くもない。

● ライダーも決めなくてはいけないのだが、宗和と岩城 が乗りたいと言っているらしい。 ほかはどんなライダーを・・・これはアテガあるらしい。

● どうせマシンを造るのなら、8耐だけでは面白くない。

● 再来年の4月、フランスのルマン24時間に出たい、そして8耐も、さらにその後、ボルドーの24時間も。

 

フランスは月木さん、いろいろコネもあってフランス警察などともずっとレース関係で繋がっている。

宗和はかって多田らと組んでルマン24時間には出場し、入賞も果たしている。確か2位か3位か、表彰台である。

Kawasaki は耐久の世界では、『チームフランス』がチャンピオンの座に君臨をしていたし、知名度抜群なのである。

お金が要るのは解っている。それをどうするかが、これからの知恵なのだが・・・・

そんなの別にいまから詳細に考えなくても、こんなコンセプトで進めて行って、『実現の流れ』が出たらやればいいと気軽にやればいい。

 

オモシロそうだから、NPO The Good Times の基本システムで、ネットを遣って、アタマを遣って考えてみたい。

別に、日本だけでなくていい。世界から協働者、共感者を募ればいい。

Facebook の Kawasaki USA には既に550000人のFAN が集まったりするのである。

 

夢のある話はオモシロイ。

詳細の話は、全然まだ決まっていない。

いまから、白紙からスタートである。

どう思われますか?

 

実現しおたらオモシロいし、仮に実現しなくてもそんなに問題もないように思ったりしている。来年の8耐だけなら誰でもやれる。8耐の結果でまた風向きは変わる。

そんな気軽さが、成功に繋がるのではと思ったりしている。

岩城 滉一 さんはやる気満々、彼が走れば話題性はある。フランスに行けば応援ツアーも組めるかも知れない。そんなノウハウもそんなことぐらい簡単に実行できるメンバーは周囲にいっぱいいる。

NPO The Good Times のメンバーの有力なところが『協働すれば』何でも出来るぐらいに、ネアカに考えている。

 

★11月10、11日、東京でやる『二輪文化を伝える会』 その第1回のスピーカーは、山本隆と私だが、

テーマは、『カワサキの創成期のレース』の話、 

それなら星野一義や、インパルの金子豊や、星野の先輩の岡部能夫に『出てくるように声かけてみろ』と

山本隆くんに言っといたら、3人揃って出てくるそうである。

ダメもとでやらないから。オモシロイ話にならないのだと思っている。

月木さんの話は、幾らでも大きくなりそうでオモシロイ。 

 

 

きっとウマくいく輪』 という団体会員さんもいるのだが、これなども積極的でいい。  未だ名前だけで、中味はなんにも具体的には決まっていない。

 

 

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79歳で考えさせられること

2012-10-18 05:28:31 | 発想$感想

★79歳と6カ月になった。

70代と言えるのも、もう半年間だけである。

80歳は何となく嫌である。

80になるとあんまり頑張っているのもかえってみっともないようにも思ったりする。

いずれにしても、人生は後半もいいところ、『後期高齢者』そのものなのである。

 

 

 

★これは9月に受けた体力測定だが、身体の方は結構大丈夫で『42.8歳』との評価なのだが、

このところ、とみにアタマの方がダメなのである。

昨日もFacebook にそのことに触れて、こんなことをアップした。

 

体力年齢は写真の通り、『42.8歳』と大威張りなのですが、
アタマの方は全くダメです。
免許書き換えの時も、同じテストで同じような成績でした。
昨夜のテレビでの判定は年齢通りの『70歳代』でした。15の簡単な言葉なのですが、なぜ記憶から消えてしまうのでしょう。今のことが覚えられない。やはり年ですね。

ホントに、直近のことが思い出せないのである。

ついさっきも、『後期高齢者』という言葉がでてこなくて、『75歳以上の・・・』と検索したりしなければならないのである。

ゴルフのスコアが勘定し難い。ダボも叩くと、ごまかす気はないのだが、何だか数に自信が持てなくなる。

 

★いろんなことに、『後期高齢者』としての対策をしなくてはイケナイ。

『脳の活性化』には、身体を動かすことがいいらしいから、歩くことも含めて、運動には務めたい。

庭木の選定なども、年寄り向きでなかなかいいと思うのだが、脚立に乗って高いとこを切るのが危ないと思う。

落ちて骨折したなどとも聞いたりする。

 

 

 

そんなことで、昨日は庭木の天、アタマを切ってしまった。

庭木としては一番大事なところだが、高いところの剪定はだんだん危なくなる。

今のうちに切っておけば、そのうちにまた形が出来る。

紅葉も、○○も○○も切ったのだが、その名前が出てこないのである。

ホントにダメだと思う。

まあ、こんなことをブログに書いているうちはまだましかも知れぬ。

そのうちに、家の庭木は幹ばかりが太い、盆栽みたいになってしまうかも知れぬ。冗談ではなしに、本気でそんなことを考えたりしている。

 

鋏でモノを切るのは、なぜか好きなのである。

薔薇は切ることが多いので、性に合っているのだと思っている。

 

★ネットの世界は結構いいと思っているのだが、私がやっているのは、『パソコン』だけである。

携帯電話も、持っていない。 どうも『携帯は性に合わない』 よほど考えが変わらぬ限り、今後も持たないだろう。

持たなくても、『不自由を感じない』のが一番の理由である。

世の中に、そんなに一刻を争うようなことはない。家の電話で十分だと、かたくなにそう思っている。

『思いこみ』かも知れぬが。

 

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ホントに雲一つない絶好の秋の日に野球部のゴルフコンペでした

2012-10-17 05:42:29 | NPO The Good Times

★ホントに雲一つない絶好の秋の日に野球部のゴルフコンペでした。

Facebook にこんな風にアップしたのですが、残念ながらFBおやりでない方は、多分見れないのだと思います。

 

このFacebook に書いたコメントを並べてみます。

写真は一部だけ添付します。

 

空に雲がナイいい天気に野球部のゴルフコンペ (写真20枚)

ひとつない秋の日に、野球部のゴルフコンペ、楽しくやりました。
播磨はかってのホームコースです。よく飛びました。気分良かったです。
 
飛距離だけなら多分今が一番飛んでると思います。パットがダメですね今日も40パット以上もしましたから、ショットの方は過去最高のレベルです。
スコアは46:44の90でしたパットをちゃんとやると82ぐらいのスコアになります。その集中力の無さが年の性かも知れません。
パートナーが3人とも2年上の先輩で、久しぶりにちゃんと年配者に配慮した行動の1日でした。
私79歳、パートナー81歳、それでも93で回られるのは、やはり野球部ですかね。
 
あとは個別の写真で説明します

 

 昨日のコンペ、私のパ―ティーは、3人とも私の2年上の先輩方でした。

 

 私の右3人が81歳の先輩方。

右は学生時代夜のまちを連れ歩いて頂いた鎌田さん、その横、キャプテンの太田さん、そしてマネージャの多田さん。

誰が組み合わせ作ったのか?私でも緊張することもあるのです。

『アレで緊張しとったのか?』と太田さんに言われましたが、カートは殆ど私が運転しましたし、スコアカードも私がちゃんとフロントに出しました。

ちなみに、このコンペ、一番若いのが61歳。80代3人、70代2人、あとは全部60代です。でもみんな結構若いですね。

 

 

 

昨日はホントによく飛びました。

右前にあるのが私の1打です。多田さんが打たれているのは2打です。

 

その4番ホール、右前にあるのが私の1打です。吹き流しが230ヤードですから結構飛んでます。でもここから5打叩いてダボでした。

吹き流しが230ヤードですから、そこそこです。

でもこのホールダボ、そんなゴルフをやってます

 

 

 

 ホントに青い空でしょう。こんな天気にゴルフが出来て幸せです。

 

 

ホントに和やかないいゴルフでした。

ベストグロスは獲れませんでしたが、後輩たちが多い中で、グロスは2番目でした。

 

★ 『80歳になったら目指すゴルフの目標』????

最近のゴルフは、スコアは目標に入っていません。ショットだけを昔以上のレベルに保つのが目標です。それは大体出来ています。今が一番飛んでいると思いますし、球筋も大丈夫です。

かって私のゴルフのスコアの目標は、ショット50、パット32で計82. ハンディ10 でパープレイでした。 これでいい時は70台も出ていました。

現在はスコアは80台は殆ど出ませんし、100以上叩くこともあるのですが、ショットよりもパットが40以上になるのが殆どです。ショットは大体50以下で収まります。

 

ということは、パットをちゃんとやると80台は、大丈夫なようにも思います。

80歳以上になったら「エイジシュート」という、自分の年で回るという可能性はあるのでは?? と思ったりしています。

85歳ぐらいまで生きていて、ゴルフができたらということですが、

運がよければ、『体力年齢』は42歳ですし、『柔軟性が20歳』なので、ドライバーの距離も昔と遜色ないのだと思います。

今のドライバーもアイアンも、もう7年ぐらい前のものですので、80歳になって、ホンキでやる気になったら、新しいものにしたら、もっと飛ぶかも知れません。

そんな夢みたいなことを思っていますが・・・・   バカみたいな夢ですね。

 

 

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年内解散はあるのだろうか?

2012-10-16 07:34:25 | NPO The Good Times

★政治の世界はやっと、ちょっとだけ動いたような感じである。

これが政治だと言われたらそうかも知れぬが、今の世の中の流れから言うと遅すぎる。

『時間が最大のコスト』だという認識が皆無なのである。

 

その点は、『維新の会』というか、橋下徹さんの展開の方が早くて気持ちがいい。

大阪府知事になってから未だ4年は経っていないはずである。この3年半で大阪は間違いなく変わった。いい悪い、賛成、反対は別にして、『大阪が変わった』ということに異論のある人はいないだろう。

中央の政治も変わるのだと思って、みんな民主党に1票を入れたはずだが、結果は変わらずにこんなのが今の現実なのである。

 

★その橋下さんが、中央の政治家、政党に挨拶に行ったらしい。

 

 

安倍総裁ではなくて、安倍総理に挨拶をしに言ったような感覚になるから不思議である。

それくらい民主党の存在感は薄れてしまったように思う。

今更、解散の時期を遅らせてみてもダメなように思う。選挙の結果がどうなるかは解らぬが、新しい形での船出をする方が、日本の国のためだと思う。

 

それにしてもどんな展開になるのだろう。

橋下さんは、石原さんにも会われたようだし、

小沢一郎さんとも、会われたようである。 

挨拶回りだから当然と言えば当然だが、いよいよ政局は動き出す感じである。

 

 

夕方のニュースはこの動きを直ぐ取り上げていた。

挨拶周りも大変である。こんなに政党があることを改めて認識した。

 

 

★実際の候補者の選定が終わり、具体的な顔ぶれが並ばぬと、もう一つピンとこないが、今の正当支持率などアテにならないと思う。

どんな流れが出来るかに掛っている。

 

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Kawasaki ブランド

2012-10-16 06:31:31 | NPO The Good Times

 ★昨日、もう一つのブログでアップした『Kawasaki ブランド』 に対する私の想い。こちらにもアップすることにする。

 
 
 
★Kawasaki が二輪事業をスタートさせてから、50年ちょっとになる。

事業のスタートはエンジン供給からだが、明石で一貫生産を始めてから50年ちょっとなのである。
私がKawasakiの二輪部門に異動してカワサキの二輪に関係し出してから、今年はちょうど50年になる。
結婚してから50年だが、結婚した年から担当したので覚えやすいのである。



当初は『川崎』 
それから『かわさき』そして『KAWASAKI』ー『Kawasaki』―『カワサキ』

と言うような感じで、Kawasaki ブランドは変遷して、今ではKawasakiのロゴは川崎重工業全体のものになっている。




★Facebook に Kawasaki USA と言うページがある

普通『100』の『いいね』を貰えるのはなかなか難しいのだが

このKawasaki USAには、550000人が『いいね』を寄せている。55万人なのである。
中をご覧になってら解るが、Kawasakiの写真がただ並んでいるだけなのに大変な数なのである。

先日私がアメリカにいた時は、54万人だったからこの1カ月で1万人も増えたことになる。
この『ブランド力』こそがKawasakiの強みなのだろう。




★カワサキが二輪事業を始めたころ、私は広告宣伝課を担当した。

カワサキのイメージがなかったころである。
『イメージ』など普通は『ない』ことが多い。 何も発信しなければ『なくて当然』なのである。

以下は『世界の名車 カワサキZ1 開発の源流』という本の企画が進んでいるが、そこに寄せた私の文章の抜粋である。
カワサキのブランドイメージの創造には、初期の段階から深く関係してきたのである。
今もなお、その活動は続いている。



思えば、昭和47年(1972年)Z1が発売されてもう40年にもなる、旧い旧い昔の出来事なのである。
然し、名車Z1の発売に至るまでには、後発メーカーカワサキにとっては苦難の道程が続いたのである。

当時のカワサキの単車事業は明石での一貫生産がスタートしたばかりで、機種はB7やM5、井関の空水冷のモペットなどもあった「実用車のカワサキ」の時代だったのである。

当時の川崎航空機の本社は、単車事業を軌道に乗せるべく、毎年1億2000万円の膨大な広告宣伝費を本社負担の開発費として3年間単車事業に投じてくれたのである。当時のサラリーマンの年収が50万円程度のころだから、非常に大きな額だということはお解り頂けると思う。
その広告宣伝費をベースにモトクロスレースなどを中心に、独自のカワサキイメージの創造に熱心な時代であった。

ただ、そんな実用車のカワサキの時代にも、カワサキ独特のイメージを創りあげたのはレースであったとも言えよう。
赤タンクのカワサキ」として、レースの世界だけでは競合他社に対して互角以上の戦いを挑んでいたのである。当時レース以外に競合他社に勝てるものは何一つなかったのである。

技術部は大槻幸雄、製造部は田崎雅元、そしてマネージメントは広告宣伝の私という若手がその実務を担当をしていたのである。

特にモトクロスでは1964年10月10日東京オリンピックの開会式の当日、伊豆丸の山で開催されたMCFAJの全日本モトクロスでは4種目中3種目を制覇して、赤タンクのカワサキの名を確固たるものとしたのである。

当時は未だ『赤タンクのカワサキ』の時代であったが、その後アメリカ中心に展開されたH1Rを中心とするレース展開は『ライムグリーン』として新たなKawasaki の時代を創りだすのである。

1970年代の後半、当時のカワサキの二輪事業をリードしたのがアメリカ市場であったことは間違いない。
単に販売台数や売上高など事業規模の拡大だけでなく、その事業構造の改革、機能の充実という質的な面でアメリカ市場が果たした役割も大きい。

最も印象的、且つ基本的なのが、Kawasaki. Let the good times roll !! というカワサキの二輪事業の活動基本コンセプトで、新しいカワサキのイメージをアメリカの地に創造したのである。
そのコマーシャルソングとともにアメリカで幾つもの賞を受賞して、一挙にKawasaki はアメリカに定着したのである。

<iframe src="http://www.youtube.com/embed/NbgkkvIvswU" frameborder="0" width="420" height="315"></iframe>

そんな話題のこのGood Times Concept ではあったのだが、歳月がながれて、カワサキの中でも、いつか消え失せてしまっていたのである。
これを全世界のカワサキの基本コンセプトに復活させたきっかけを創ったのは、ずっと後の国内市場なのである。
1990年代ZEPHYR人気に湧いた国内で高橋鉄郎KMJ社長時代に復活し、当時事業本部長として全世界展開をけっていされ、現在もカワサキの基本コンセプトとして展開されている。





Z1が発売されて40年、日本ではその40周年を記念して、日本の熱烈なファン達がKAWASAKI Z1 FAN CLUB をネットをベースに立ち上げたのである。

FacebookページKAWASAKI Z1 FAN CLUB には,世界30数カ国から既に何万人ものZ1ファンからのアクセスや情報が寄せられており、ネット社会独特の展開がなされているし、さらに、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の本拠地兵庫県三木市緑が丘にはGood Times Plaza がオープンし世界へ向かっての情報発信拠点として機能することが期待されている。







 
 
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プロとアマチュア雑感

2012-10-15 05:43:42 | 発想$感想

★昨日の日曜日、久しぶりの午後からテレビをずっと見ていた。

いろんなオモシロイ番組があったので、チャンネルを回しながらテレビを見ていたのだが、その感想は『プロはスゴイな』である。

昨日見てたのは、

囲碁、野球、ゴルフ、そして『たかじんのそこまで言って委員会』である。

 

囲碁も、野球も、ゴルフも私自身一応はやれるというか、そこそこの経験はある。

テレビに出ていろんな意見を言ってるタレントの人たち、話していることは誰でも喋ることぐらいは出来るのだが、あのレベルでテレビで話すのはなかなか難しい。

何ごとも、それで『お金が貰える』ということは、大したことなんだという当然と言えば当然の感想を改めて持った、という至極当たり前の感想なのだが・・・

 

★まず、NHK杯の囲碁、柳ー河野9段の一戦。この碁がオモシロかった。

碁の内容が素人の碁に近かったというか、初めから大石の生き死に、攻め合いになったのである。普通プロの碁は、奥が深すぎて次の手などどこに打つのか解らないことが多いのだが、厳しい生き死にの攻防が続いて、大体の打つ方向は解るのである。

解説をしたアメリカ人のマイケル9段の解説も、適切でなかなかオモシロかった。

途中では河野さんの石は完全に囲まれて目はなくて、周囲の石を獲らない限り勝ちはない。殆どの人がダメだと思ったのに、そこから『コウ』になって、結果は河野さんの勝ちになった。短い時間にそんなきわどい戦いを読んで打つのもスゴイが、解説のマイケル9段の大体言う通りになる。

あの人たちのアタマの構造はどうなっているのだろうか?

アマチュアとは、全然違うなと、ホントにそう思った。普通はあまり厳しい戦いなどは避けて、大局観で全体を見ながら打つのがプロだと、思っていたが、きわどいつばぜり合いをやらしても、それはそれでプロらしく、アマとは全然違う世界の碁があった。

 

★野球は大リーグではヤンキース、イチローが頑張ったのに、ヤンキースは負けてしまった。

日本は西武―ソフトバンクをやっていた。第1戦はソフトバンクと中日が勝って、第2戦もそのまま行くのかと思っていたら、どちらも第1戦を落とした西武とヤクルトが勝って、1勝1敗となった。

プロの世界は、よほどの実力差がないと、ちょっとしたことで、勝敗は別れる。

日本のプロ野球もアマチュアの野球とは全然違うが、大リーグはやはり一段と違うような気がする。

今日は、ヤンキースは勝つのだろうか?黒田が投げている。いまのところ0-0、9人のうち7人を3振。

 

★ゴルフの日本オープンをやっていた。

普通はプロゴルフは、優勝争いはアンダーが普通なのに、軒並みオーバーパーで、何がそんなに難しいだろうと思うが、みんなオーバーパーなのである。コースの設定が難しいのか?

これを入れなければダメという短いパットを外して、久保谷が優勝した。

外した選手の名前がどうしても思いだせないのである。これはプロ、アマの話ではなくて、だんだんモウロクしてきたということか。

あんなパットを外すのを見ると、プロもまた人間だなと思って妙に安心したりもする。

然し、全体の印象は、やはりプロは違うなと思いながら見ていた。

 

★たかじんのそこまで言って委員会はいつもオモシロイ。

そこに登場するコメンテーターは、それが商売だから当然だが、役者や学者など特に喋ることが職業でない人たちも、一芸に達した人たちはちゃんとした自分の考えをお持ちである。

そんな人たちを集めているのは解るが、何に対してもちゃんと喋ることが出来るし聞かせるのである。

昨日のテーマは、日本の技術力、食物力、女子力、映画力、教育力、ジャーナリズム力、モラル力に対してであった。

このテーマに対して『何か言え』と言われたら、困ってしまう問題もある。言うだけなら何とかなるかも知れぬがテレビで話して視聴者を納得させるのは流石、プロだなと思いながら見ていた。

 世の中には、どんな分野にも専門家、プロはいるものである。

 

★私自身は、今まで出来る限り専門家の範疇に入らぬように、意識的に避けて通ってきた。

勝手にそう思っているだけかも知れぬが、『専門家は大変だ』と思っているのである。同じ人生を送るのなら、専門家でない方が気楽なはずだと思ってしまうのは、性格が『いい加減』なのかも知れない。

でも『いい加減』でもないような気もする。

そんなに専門家にならなくても出来るようなことに対しては、結構ちゃんとやれるのである。

例えば20才のある日から突然書きだした日記は、79歳の今まで続いている。

ツイッターで、フォロワーを増やそうとやりだしたら一昨日で250、000人を超えた。

こんな専門家にならなくても、努力でやれる簡単なことならOKなのである。難しいことはダメ、難しいことを継続して極めることが出来る人を、専門家、プロというのだろうか?

そんなつまらぬことを、ずっと考えていた日曜日だった。

 

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ホンダ社長の記者会見 と O's

2012-10-14 06:46:49 | NPO The Good Times

★ 二輪車新聞が届いた。

今回はホンダの伊東社長の記者会見がトップ記事である。最近にない確りとしたメーカーの社長会見のように思った。社長会見のあと鈴木常務が細部に亘って説明を行ったという念の入れようである。ホンダの原点である二輪事業に対しての内容になっている。

 詳細については、記事をご覧いただくとして、発表の内容は久々に夢もあり想いや決意が現れていて非常にいい。

大型二輪車に対しても、国内市場の捉え方についても、その方向は間違っていないと思う。MotoGP マシンの技術をフィードバックしたスーパースポーツバイクの開発に着手したと堂々の宣言である。

先進国市場、特に国内市場の例えばZ1のユーザーの購入単価などは結構高く何百万なのである。『大人の市場』だし、これなどは『新市場』と捉えるべきである。

つい先日、アメリカ市場のKMCを久々に訪ねて、いろいろ伺ってきたが、第1線の現場はまだまだ大丈夫である。ヨーロッパも含めて先進国市場の可能性を見出して欲しいと思うのである。

単に数や売上高を追っかける単純な開発途上国市場と違って、先進国市場の秘められたオモシロさに『二輪文化の再発見』をして欲しいものである。そういう意味でホンダの社長さんの記者会見、非常に興味深く伺ったのである。

大型車の分野ではホンダさんと対等に戦ってきたカワサキも是非負けずに頑張って欲しい。現役の『胡蝶さん』に是非期待したいものである。

今年は世界の名車Z1の40周年、来年は国内販売のZ2の販売40周年なのである。

 

 

 

★これは今月、NPO The Good Times の特別プロジェクトとして立ち上げようとしている。

Organizational Synergy  略して O's 

O'sの意味:Organizational synergy
(オーガニゼーショナル シナジー)
直訳:相乗効果組織
他ジャンル同士の合同イベント等、日々色々オモロイ事を考えている団体です( ̄^ ̄)ゞ

 

他ジャンルの一方には、色濃く『二輪車』が想定されている。このグループの主宰者は20代の月木康人くんとその仲間たちである。

新しい『新しい二輪イメージの創造』 『新しい二輪文化の創造』をとハッパを掛けたら、何となく乗ってきた感じである。

展開のスピードがめちゃくちゃ早い  のがいい。

 

 

 

 

誰が創ったのか?  創って貰ったのか?  2日ほどでこんなネーミングとロゴが現れた。

いい、悪いではなく、そのスピード感が心地いい。

そしてこんな会員カードのサンプルが送られてきた。

 

 

★正規の手続きで言うなら、このO'sのプロジェクト申請は、今月の末のNPOの理事会での承認が要るのだが、その時には既にカードは出来あがる勢いなのである。

早いだけではなくて、そのスケールは基本コンセプトから言って、少々大きなことも実施、実現可能なのである。

ホンダさんの記者発表もなかなかいいのだが、これもそれに負けないスケールで、立派なものである。

もし仮に、このコンセプトをKawasaki がKawasakiの基本コンセプトとして、上手に纏めて発表したら、多分二輪車新聞はトップ記事で報じてくれるかも知れない懐の深さを持っている。

NPO The Good Times としても、ホンキで支えたいと思っている。

 

二輪文化を伝える会』も11月には第1回のトークショーが開催される。続く第2回も既に決まったと聞いている。

KAWASAKI Z1 FAN CLUB は順調に離陸した。先日のケルンショ―でKawasakiの舞台で『カワサキZ』について語ったMicky Hesse も三木にやってくる。 

月木康人さんの父君、月木康博さんも、何かやりだしそうな雰囲気なのである。この人の場合は『雰囲気』が出たらやるということである。

これらを全部纏めて、『二輪文化を語る会』で統括するよう起案中である。これは渡部タッちゃんが受け止めてくれることになっている。

 

全国二輪協同組合連合会の吉田純一会長は、個人の立場だが、O's の顧問にもなってくれたのは、そこに中味があると思ったからだろう。

彼が理事を務めるNPO法人BERTの動きもなかなかいい。今年の5月、三木総合防災公園で大成功だったBERT主催、『笑って遊ぼうミキランド』の第2回は三木市役所の広場を借り切っての開催なのである。この実行委員長はさるとるさん、企画委員長は井上章二さん、マネージャーは陸井薫さんみんなNPO The Good Times の主要メンバーである。

単なる一つ一つのイベントではなくて何となくみんな繋がっているところがいいのである。

 

『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しくいい時を過ごそう』

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秋の庭から

2012-10-13 06:04:04 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★朝、秋を感じる涼しさだった。

 

この数日、

カワサキの創成期のレ―スの話』  ちょっと気負って頑張って書いたので、

今日はちょっとさぼって、のんびりと庭のバラなど写してきた。

 

 

 

未だ咲き揃ってはいないが、咲きだした薔薇たち。

約20日間アメリカに行ってて、放っておいたが季節通りの花をつけた。

 

 

 

こちらはピンボケ、地面のほうにピントが合っている。

その程度の、いい加減な写真である。

 

 

 

 

こちらはホントは、香りの方が素晴らしいのだが・・・・

花がひらく前の 深紅の色もいい。

 

 

 

 

一番秋を感じさせるもの 

それは、ザクロ

今年はいっぱい実をつけた。

 

もう少しすると 『ザクロのように』 割れる。

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カワサキの創成期のレースの話ー2

2012-10-12 06:22:26 | NPO The Good Times

★1965年(昭和40年)

いろんな意味で、新しいスタートの年だったような気がする。年号は未だ昭和で呼ぶのが普通で西暦で年を言う人などいなかったころである。昭和30年代が終わって昭和の年号は40年が始まった。

入社8年目、戦後20年目である。この年の4月1日に岩城常務がが単車事業本部長に就任された。カワサキ自動車販売は、カワサキオートバイ販売に名前を変えて岩城さんが社長を兼務された。

私を始め販売促進部のメンバー達はみんな川崎航空機からカワサキオートバイ販売に出向になったのである。そして広告宣伝課長を命じられた。それまでも実質責任者ではあったが、川崎航空機では未だ平社員で係長にもなっていない入社8年目なのである。兎に角サラリーマンになって初めて貰った職位が課長だったのである。1億2000万円の予算も持っていたし、岩城さんはちゃんと課長として扱って頂いて、広告宣伝の方針や実行状況については直に呼ばれて、直々の指示を頂いたりしたのである。

二輪事業の方は待望の中間機種85-J1の発売などもあり、広告宣伝の実務の方も多忙を極めたのである。さらに、レース関係は青野ケ原以来、ライダーなどチームの面倒を見てきた川合寿一さんが4月に明石営業所長で転出することになり、ライダー契約などを含め、より近いところでのレース対応を余儀なくされたのである。レースの実務運営については、従来通り大西君が担当してくれたのである。

 

前年度がモトクロスの充実強化であったとすれば、この年はカワサキにとって全く未経験の『ロードレースへの挑戦の年』であったと言えるのだろう。

この年の2月6日、ロードレースに対するマル秘の会議が行われたのである。技術部の山田部長、大槻、渡辺係長の3人で、今期からの5年間のGP開発予算申請の話なのである。その3人の秘密会議の中に、なぜか呼ばれたのである。山田さんは、旧制中学の先輩で何かと目を懸けて頂いていたが、大槻さんも渡辺さんもまだ、モトクロスレースには直接関係しておられなかった時期である。私が持っている広告宣伝費が開発費であったのでそんな関係だったのかも知れない。『GPマシンもそんなに大した金額ではないなと思った』とその日の日記には書いているが、どんな話だったのかは全然覚えていないのである。人間の記憶などホントに当てにならない。もし日記がなかったら、そんな話は覚えていないのである。

同じ、2月にレ―ス関連で、ちょっとした事件が発生したのである。神戸木の実の歳森康師と山本隆の二人から辞表が出て、BSと仮契約を結んだというのである。契約担当の川合さんが大変だ大変だと大騒ぎで、この話の中に引きずり込まれたのである。そして神戸木の実の主宰者片山義美さんと、話をすることになったのである。ライダーと言われる人と、ちゃんと話をしたのはこの時の片山義美さんが実は初めてだったのである。

非常に厳しい話も出たが、その指摘は尤もと思われるなことも多かったのである。結論はレースマネージメントを私が直接みるということでほぼ解決し、そのあと西海義治さんと片山義美さんが二人を呼んで『カワサキ残留』が決まったのである。

後で聞いた話だが、BSの契約条件の中にロードレースがあったようで、山本隆君は、ロードレースへの魅力、関心があったのか、5月に開催される鈴鹿ジュニアロードレースに個人で車を買ってでも出場したいと言いだしたのである。当時はレースはモトクロスだけでロードレースについては会社も正規には認めていなかったのだが、レース職場の松尾勇さんにマシンが造れるか?と聞いたら『大丈夫』というのである。

当時、鈴鹿ではしょっちゅうモトクロスが開催されていたので、『モトクロスに出場ということにするか』と出場だけは決めたのである。車は山本が自分で買うと言ったら、当時製造部に居た田崎さんが都合してくれたのである。モトクロスの山本だけでは頼りないとロードを既にやっているのを探したら、後UKに行って、ケン鈴木などとGPレースも手掛けた元UK社長の内田君が当時は北陸にいて、塩本くんを出してくれたのである。そんなことで、山本、塩本の2台でエントリーして、カワサキで初めてのロードレースに挑戦したのである。

結果は、『ホンダ、ホンダ、カワサキと3位に入賞』するという大成果を挙げたのである。然しこれも青野ケ原と同じく、恵みの天の雨のお陰だと私は思っている。

マシンが未だダメだったのか、初めてのロードレースはやはり山本にとって厳しかったのか、予選でのタイムはもう一つだったのである。そんなこともあって当日の5月3日は、連休で私は田舎で野釣りを楽しんでいたら、その夜『ヤマ3、シオ8、セイコウカワ』と現地の川合さんから電報が入ったのである。ホントにビックリした。

山本隆くんの講釈によると、『当日は雨になって全体のタイムが落ちた。滑り易く、モトクロスライダーには有利になった。BSの滋野の後ろにスリップストリームでつけていて、ゴール直前で交わして3位に入賞した。』というのである。『スリップストリーム』などという言葉は初めて聞いた。何のことかも解らなかったのである。

いずれにしても、会社には黙って走った鈴鹿は『大成功』だったのである。

これはつい先月の鈴鹿50周年の山本隆くんの鈴鹿サーキットの通行証である。『カワサキが初めて鈴鹿を走らせた男』 と書いてくれている鈴鹿は流石である。

 

休み明けで戻ってきたら、3位のカップは、モトクロスに比べて大きく豪華だし、兎に角ホンダに次いでカワサキなのである。これで一挙にロードレースに火が付いたのである。

そしてその翌月6月13日に開催された『鈴鹿アマチュア6時間耐久レース』には、正式にマシン3台を揃えて、カワサキがレースを始めて以来監督などいなかったのだが、会社として初めて大槻幸雄監督、田崎雅元助監督という布陣を組んで出場することになったのである。(ちなみに大槻幸雄さんは後カワサキZ1開発責任者、田崎さんは川崎重工業社長などを務めたが、今でもNPO The Good Timesの会員さんとして親しくお付き合いのある仲間なのである。)

3台のマシンにはメーカーのテストライダーチームで加藤、飯原、カワサキコンバットから梅津、岡部、までは決まったのだが、神戸木の実の歳森康師の相手の山本が1か月前のジュニアロードレースでジュニアの資格を取ってしまっているので相棒がいないのである。歳森が『早いのがいるので連れてきてイイですか?』と連れてきたのが、『神戸木の実の金谷秀夫』なのである。金谷は契約も何もなしに、兎に角歳森とのコンビでカワサキで走ることになったのである。金谷は確かに速かった。3分18秒から20秒の間で走っていた。

レースの結果は、一時トップを走ったりはしたが、ダメだったのだが、ここからカワサキのロードレース参戦がスタートするのである。

8月には舟橋サーキットでのMFJロードレースに金谷が出場したがマシンがBSと10秒も違ってとても勝負にはならない状況、翌9月の鈴鹿にも歳森、山本、三橋、飯原らが出場したが金谷は1周目にエンジントラブルなどなかなかロードレースでは結果が出なかったのである。

10月の日本GPにも125ccクラスに安良岡でエントリーしたがリタイア、90ccも金谷が3位には入ったが、モトクロスのように優勝など、とても望めない1年目のカワサキロードレースだったのである。

 

個人的なことで恐縮だが、この年の5月に私は4輪の免許を取得したのである。ちょうロードレースを始めて、マシンの調整などでよく鈴鹿には来ていたのである。このころは金さえ払えばS600で、誰でもサーキット走行が出来たのである。免許取り立てではあったが、運転テクニックを教えてくれる先生は沢山いて、特に山本隆くんからはいっぱい理論も学んだし、サーキット走行でもヨコに乗って貰って走ったものである。この年の想い出の一つではある。

レースに関係したこともあり、MFJの運営委員にもなった。ホンダ前川、スズキ岡野、ヤマハ内藤さんという立派な先輩メンバーの中で、BSの西川さんとともにカワサキは未だ33歳の若手の私が名を連ねていたのである。そんな役をしていた関係で7月31日に開催された『鈴鹿24時間耐久レース』には現場にいて経験したのである。ヤマハの数台以外は殆どホンダ一色だった。

この年はホントにいろいろあった。6月6時間耐久を一緒にやった大槻幸雄さんはドイツ留学に、田崎雅元さんはアメリカ市場に行くことになって8月10日にレースチームのメンバーで、送別会をやっている。そして技術部の大槻さんのレースの後任には安藤さんが担当されることになるのである。翌年F21Mを開発されたのは安藤吉郎さんなのである。(吉郎の吉には人べんがついているのだが)

 

いま私がFacebookの背景に使っている写真である。 『カワサキの想い出そして未来』という平井稔男さんが主宰したNPO The Good Times のイベントに集まってくれたメンバー達である。一番右のホンダの渡辺さん以外は、昭和40年当時からお付き合いで、その時はレース界の新人だったライダーたちである。ホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキ、BS 全てのメーカーに関係のあった人たち、みんなNPO The Good Timesの会員さんである。敢えて名前を記すこともない有名人ばかりである。

 

 

この年モトクロスは、可もなく不可もなく、まず順調に推移した。

三橋実、安良岡健、金谷秀夫の3人がロード部門で、モトクロスには山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫にノ―ビスではあったが星野一義が契約ライダーとして加わわった。前年11月にデビューした星野は4月のMFJ 全日本モトクロスではトップを走りながらパンクでリタイアしたがMCFAJの全日本では見事優勝を飾っている。栗山、西、木村、金子など全国から集まった有望新人がいっぱいで、何人いたのか解らないほどだった。そんなモトクロスだが、安定していてロードレースのような新鮮さはなかったのである。

 

カワサキにとってロードレース以外に特筆することがあるとすれば、『星野一義 と 金谷秀夫 がカワサキでデビュー』したということだろう。

二人のデビューの仕方も、なかなかオモシロいのだが、未だそんなに有名にならぬ新人の頃から『いいもの』を持っていた。二人とも、チームの中で特に年配の人たちに可愛がられていた。何かそんなものを持っている。

二人とも、世の中で有名になったのは、カワサキを出てからだが、二人の故郷は間違いなくカワサキである。星野は東京なのでなかなか会えないのだが、当時カワサキコンバットに居た金子豊と星野インパルで成功しているが、2年ほど前にやったカワサキファクトリーのOB会などでは先輩の岡部などと同部屋になって、先輩の布団を上げたりするようなところは昔のままである。

金谷も今でもカワサキのZ1会のゴルフには顔を出しているし、ヤマハに関係にあったときもSPA直入のオープンや当時のカワサキのレ―スミーテングには顔を出してくれたのである。恩師片山義美の引退パ―テ―の司会を務めたのは金谷だったが、その主賓の冒頭の挨拶を頼まれたのは私である。片山義美さんも金谷もどちらかと言うと、カワサキなど関係ないと思われているのだが、2年前のカワサキのファクトリーOB会にはお二人とも堂々と出席されて全然異和感がないのである。

上の写真で紹介した吉村太一、田中隆造たちがようやく名前が出かかったころだった。特に太一ちゃんは星野のよきライバルなのである。木村夏也はこの年は未だ全くの新人で大阪の赤タンク会に所属していて、翌年四国であった第3回MFJ 全日本モトクロスにノ―ビス部門でいきなり優勝したりしたのである。この会合でホントに久しぶりにお会いできた。

そんな雰囲気が、今記述しているこの1,2年の中で生まれているのである。当時はMCFAJのクラブマンレースが盛んだったからか、メーカーの枠を超えて、レース界に一体感みたいな温かいものがあったような気がする。

 

 

 

★1966年(昭和41年)

この年までで私の広告宣伝課担当、レース担当も終わった。同時に本社からの広告宣伝費の開発費での支援も最後の年となったのである。最も豊かに予算のあった4年間だったのである。

その最後の1年間は、いい年だったのか、悪かったのか? 

ずっとレースのことを書き綴ってきたので、会社の仕事の大部分がレ―スだったのかという印象を持たれるであろうが、この年までの3年間は仕事の70%は本務の広告宣伝の仕事だったのである。新しいマーケッテングという分野を覚えるだけでも大変だったし、各代理店の本社スタッフという英知の塊みたいな人たちに伍していろんな交渉事も含めやっていくのは、傍で見ているよりは大変な仕事であったと思っている。そういう意味ではレースが、いい気分転換の場になっていたと言ってもいいのである。

そんな3年間だったのだが、この年は1年間逆にレースに集中というか、そうせざるを得ないようなことばかりが続いたのである。この1年80%レースのことをやっていた。 大変な1年であったことは間違いない。

 

★年明けの1月5日、初出の日に藤井敏雄くんが突然現れたのである。

何のことかと思ったら契約締結は『古谷のところに行け』と言われたというのである。藤井君とGP関連の契約の話が進んでいるなど全然知らなかったのである。前年度からGPに関しては技術部で開発費の予算は取ってマシン開発は進めていたが、まさかライダー契約が進んでいるとはまさに「寝耳に水」だったのである。

前年暮れのMFJの運営委員会の席上でスズキの岡野さんから『うちの藤井から辞表が出た。藤井は社員ライダーだから・・・』とクレームらしき発言があったのだが『BSさんかな?』と聞き流していたのである。それがカワサキだったのである。

正月早々藤井君との契約交渉に入った。彼は9月まで自分でヨーロッパを転戦しその結果を見てから、日本GPでのライダー契約をして欲しいというのである。本人の希望を入れて、『GPマシンの貸与契約』を結んだのである。マシンの貸与ではあったが、保険などはちゃんと掛けたりもした。

 

★そんな藤井との契約が済むと、前年度はGPテストに専ら従事し日本GPにはエントリーした安良岡健さんを藤井が来たので要らないというのである。

そんなことに殆どなりかけていた。2月12日鈴鹿でのGPのマシンテストに技術部が呼んだライダーは藤井、三橋、金谷で、安良岡は呼ばれなかったのである。鈴鹿からの帰りの車の中で、金谷が『いつ壊れるかも解らないマシンテストに1年間も使っておいて、もう要りません』は、あまりにもふざけていると言うのである。『確かにそうだ』と思った。安良岡健さんとの契約を広告宣伝課で勝手に結んで、1年間延長することにしたのである。

その後、カワサキのロードレースでその初期一番貢献度の高かったのは、安良岡健なのである。あの時金谷がああ言わなかったら、健さんもどうなっていたか解らない。この年の日本GPで外人ライダーも含め一番成績が良かったのは安良岡健だったのである。

 

★その2月には、山本隆が突如結婚するというのである。

それだけなら『おめでとう』だけで済むのだが、、『仲人をやって欲しい』というのである。これには流石にたまげたし困った。わたし自身が34歳、結婚したばかりみたいなものである。大体、格式ばったことは嫌いだし断ったが、どうしても断り切れずにやることになったのである。

山本隆がその後全日本チャンピオンを3年連続でとるような選手になるとも解っていなかったのだが、結果そんなことになって、最近は山本はエラそうに言っても『俺はその仲人だから』としょっちゅう言わして貰っているのである。

 

★そんなことをやってたら、4月には金谷秀夫がずっとずっと以前のちょっとしたことで葺合署に捕まってしまったのである。大したことではなかったのだが、主犯の男はその後もいろいろあって捕まったものだから、金谷も引っ張られてしまったのである。

この時の私の対応は誠に常識はずれもいいところで、神戸地検に検事さんを訪ねて、『いまはいい奴だから何とか助けてくれませんか』と言いに行ったのである。『君はどこに来て、何を言ってるのか解ってるのか』と検事さんには無茶苦茶オコラレて、『ダメですか』と帰ろうとしたら、一言『嘆願書を出せ』とささやいて頂いたのである。

レース職場のあった製造部を中心に何百人もの署名を集めその代表を塚本事業部長にお願いしたのである。塚本さんは快く引き受けて頂いて、この年の11月裁判の法廷には証人で立ったりもした。結果が良くて本当によかったと思っている。

『金谷がいい奴だ』と心底思っていなかったら、幾ら私でもそんな非常識なことはしない。カワサキにいるときはそんなことで海外にも行けなかったのだが、ヤマハに行って『世界の金谷秀夫』なって本当によかったと思っている。

 

★モトクロスの分野では、スズキがRHを新しく造って、小島松久や久保和夫がヨーロッパに挑戦しているそんな時期だったのである。

カワサキも250ccクラスに本格的なマシンを造らねば、置いていかれるという危機感を抱いていた。そんなとき安藤さんがエンジンは238ccまで大きくして対応することになったのである。それを積む車体が造れるか?当時はモトクロスの車体など技術部はノータッチの時代で、全て製造部のレース職場が対応していたのである。所属は製造部管轄だが製造部は無関係で、松尾勇、福田弘美、藤原良弘などのメカニックが、もっと言うなら松尾勇さんが対応していたのである。

大体が技術オンチオでマシンのことなど無関係な私なのだが、この時のことだけはよく覚えている。ヘリコプターでクロームモリブデン」、通称クロモリのパイプを貰ってきて、海岸で砂を取ってきてパイプにつめて曲げ、設計図などなしにべニアに釘みたいなのを打って、松尾さんが1台ずつフレームを造っていったのである。フロントフォークはセリア―二タイプで、車重は90キロを切ったのでは?兎に角軽くカッコいいF21Mが出来あがったのである。

スズキのように2台だけというようなケチなことではなくて、契約ライダーには全員当たるように7台ほど造って、青森も岩木山であったMCFAJの全日本にデビューさせたのである。衝撃的なデビューでそれ以来モトクロスは敵なしの状況が続いたのである。

 

★続いて8月15日には、250ccA1のロードレーサーの制作を決定し、FISCO での日本GPに備えていたのである。

この年の日本GPを新しく出来たFISCOでやる計画が進んでいた。MFJ の運営委員会ではずっとこの議題の検討が進められていた。スズキ、ヤマハは賛成に対してホンダは第1コーナーのカーブの構造が危険と断固反対だったのである。いろいろあったが6月にホンダはこの年の日本GPの不参加を表明したのである。ロードレースに経験のないカワサキとしてはあまり意見も言わずに付いていっただけだが、あの第1コーナーはMFJの運営委員たちが4輪で体験走行もしたのだが、すり鉢の底に吸い込まれるような感じでこわかった。

そんなことで日本GPに備えてのFISCOIでの練習やマシン調整が続いたのだが、8月27日その富士の現場に電話が入ったのである。レースグループの総括責任者のような立場の中村治道さんからだった。

『藤井が死んだ』マン島のプラクティスで転倒し大丈夫のようだったのに容態が急変して亡くなったのである。それからが大変だった。その日のうちに藤井くんのお母さんのところに報告に行きその後の対策に奔走した。

具体的な事項が『待ったなし』の状況である。葬儀をどうするか?保険の処理は?一存で決めるわけにも行かず会議になった。管理畑の方が契約書を見て車を貸してるだけだから『会社は何も関係ない』『保険など払うこともない』『葬式も特に関係ない』などとレースの世界が解らぬ人たちが言われるのを、『そんな対応は出来ない』と強引に押し切って、『カワサキとしての対応』を決めたのである。

マン島で遺体を送りだしてくれたのは、ドイツに留学していた大槻幸雄さんで、私が羽田でお引き受けをした。遺体はCargo扱いで通関があったして直ぐには引き渡されないし飛行場には霊柩車は入れないのもこの時解った。

通夜、葬儀も4メーカーすべてが出席されて行われて、カワサキも面目がたったのである。

 

★それが終わる直ぐ、デグナ―との契約が待っていた。スズキにいた、鈴鹿サーキットに「デグナ―カーブ」とその名を残すあのデグナ―である。

外人ライダーとの契約などやった経験は誰もない。どんな契約内容にするのかも解らない。仕方がないのでホンダのMFJ 運営委員の前川さんに『教えてくれますか?』と電話をしたら『鈴鹿まで来てくれるなら』と仰るので鈴鹿まで教えを乞いに行ってきたのである。いろんなことを教えて頂いた。そしてその英訳は山田部長自らがやられたのである。

デグナ―は9月26日にやってきて直ぐ契約、29日にFISCOで練習中に切れたチェンが巻きついて転倒アタマを打って、最初はどうもなかったのだが、明石まで連れ戻してくると容態急変なのである。藤井くんを失くした直後だから大変だった。神戸医大に移して手術ことなきを得て退院したが、カワサキのデグナ―は実現しなかったのである。

未だ続きがある。デグナ―の契約金を円で渡したのだが、当時は円は持ち出せないのである。日銀に行って『知らなかった』と言ったら『川崎航空機が知らなかったという訳にはいかない』とオコラレタが何とかして頂いたのである。

 

★日本GPは10月16日、FISCOで行われた、GP125には、シモンズ、や谷口尚巳などもカワサキに乗ったが、一番成績gよかったのは7位の安良岡健だったのである。ジュニア250では金谷秀夫がガリーニクソンと二人が同タイムでベストラップを記録するという大接戦であったが惜しくも2位となった。

このレースで歳森康師が転倒し鎖骨を折ったのだが、私が彼に最初に発した言葉は『よかったな』だったのである。鎖骨を折っていいはずはないが、ホントに『鎖骨でよかった』は実感だったのである。

この4年間の最後のレースは10月23日、同じFISCOのモトクロス場で開催されたMCFAJ全日本であった。

250 ノ―ビス  優勝  星野一義

    セニア   優勝  山本隆

    オープン  優勝  山本隆      最優秀選手  山本隆  だったのである。

この年を最後に、翌年からは初めての営業経験で仙台事務所長として東北6県を担当することになるのだが、当時モトクロスが一番盛んな地区が東北で、これ以降何年間かはレースの世界とあまり縁が切れずに居たのである。

 

 

★この創成期から20年以上も過ぎて、25周年記念に行ったファクトリーのOB会である。この4年間の中に名前が出たかたばかりである。

この時既に亡くなっておられた方もいるし、それ以降亡くなられた方も何人かいらっしゃる。

文中では何も書かずにきたが、改めて故人のご冥福を祈りたい。

間違いなく、カワサキのレースの伝統を築いた方たちばかりである。

 

 

さらに20年以上も過ぎて、一昨年(2010年)有馬の泉卿荘に集まったカワサキファクトリーOBの関係者である。少しは年代も若返っているが、青野ケ原の高橋鉄郎さんも、特別に神戸木の実の片山義美さんも出席してくれた。

世界の・・日本の・・もいっぱいだし、ライダー以外もなかなかのOBたちである。

いまKAWASAKI Z1 FAN CLUB 受け継げられようとしている。

 

(一応これで終わりますが、あとで当時の写真などありましたら、追加します。

山本隆くんと一緒にスピーカーを務める、11月10,11日の『二輪文化を伝える会』の資料の一部にしたいと思っていますので、これから山本隆くんに言って、写真や文章を追加したいと思っています。)

 

 

★最後に、山本隆くんから送られてきた、当時の写真の数々を。

 

 60おじさん、山本隆くんが自らこんあコメントをくれました。

ゼッケン17番をつけ、トップで最終ラップ勢いよくフロントUPで谷から上って来てるのは、1964・10・11日MCFAJ第11回全日MX丸野山高原です。

B-8のワークスマシン125cc2気筒エンジンです!まだこの時フレームはプレスバックボーンでした!
このクラスがメーカー対抗の125選手権でした、久保・荒井大先輩に勝った記念する日になりました。

 

 

 

 

 カラー写真も忘れられない、1965/5/3日、鈴鹿ロード初参加3位入賞、栄光のポディウムに立ったあと、水町・藤原・吉田メカ達と喜びを分かち合う場面です!

 

 

これは1988年カワサキファクトリーOB会での写真である。

 

 最後の写真の説明を一言!
これはロードレースグループ集合の掛け声で集まったのだが、私もちゃっかり、いや堂々と納まっている図である!
1枚目はライダー全員集合なのである。
他にMXグループの写真もあるはずなのだが?

 

 

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カワサキの創成期のレースの話

2012-10-11 06:02:00 | NPO The Good Times

★朝早く、平井稔男さんから電話、今書いているブログTeam Greenの中でのレース話なのである。

平井さんの話はなかなかオモシロいのだが・・・・・・・・

平井さんはカワサキで彼より旧い人はいないと思われるほど旧い。旧明発時代から既に担当されていた。

レースの世界でも、そのド真ん中にいて活躍されたのだが、この世界に入って来られたのが、ちょっとあとなのである。

そんなことで最初の頃のことになると、私に電話が掛ったりするのである。

 

来月には東京で『二輪文化を伝える会』で、山本隆くんとカワサキの創成期のレースを語ることになっている。

日本でレースが何となく形に見え始めたのは昭和33年(1958)のMCFAJの浅間火山のアサマクラブマンレースあたりからだと思うが、そのころは未だカワサキは二輪の一貫生産にも入っていない。

カワサキのレースという記録があるのは昭和36年(1961)からである。小関和夫著カワサキ モーターサイクルズストーリーの中にその記述があることと、私自身の耳学問の結果なのである。

カワサキのレースについて、カワサキの中の人たちでこの時期のことを、耳学問でも喋れる人も少ないと思う。100%正しいとは言わぬが、記憶なども辿って年次ごとに纏めてみたい。

私自身は昭和36年12月(1961)から、単車事業部に異動があって、それ以降のことは日記が残っているので、結構正確に記録が辿れるのである。昭和41年末(1966)までの6年間、レース担当の最後の年次まで、カワサキの黎明期のレースについて語ることとする。

何日かに分けての記述になるが、あとで読み難いだろうからずっと続けての記述とする。不詳の部分などあとから解れば修正していきたい。

 

★1961年(昭和36年)

カワサキが二輪事業に本格的に参入したのは、この年からと言ってもいい。この年に明発とメグロを統合した販売部門、『カワサキ自動車販売』が東京神田岩本町でスタートしたのである。メグロの烏山。明発の金町は私は知らないが、神田岩本町の本社はよく知っている。カワサキの人でこの神田岩本町を知っている人は今は殆どいないと言ってもいい。

その年の朝霧高原でのMCFAJ第5回全日本モトクロスに、『東京スリ―ホ―クスの三吉一行、横浜カ―クの三橋実などがカワサキB7で6台、メグロで2台の改造モトクロッサ―を駆り125ccでは予選1組で2位、3組では堂々1位でゴールし、関係者を驚かせた』と小関さんの本に記述がある。

これはまず間違いない。明石の川崎航空機の所謂工場サイドでは、未だレース関係者はいなかったのだろうが、当時のカワサキ自販では広告宣伝を担当されていた小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田寛郎さんの弟さん)や明石工場では井手哲也さんなどが個人的に、三吉や三橋と接触してレースをやっていたのだと思う。

今年7月、浅間火山レースを語る会が東京で行われた際、ヤマハの本橋さんから『カワサキのB7のモトクロッサ―に乗りました』とも『井手さん』のお名前も聞いたのである。井手哲也さん、今でもお元気でZ1会のゴルフでもお会いする。私の知っている限り、川崎航空機で最初にレースに関わられたのは、井手哲也さんだと思う。初期のレースには必ず顔を出されていたし、三吉一行くんなどとも懇意だったのである。

小野田滋郎さんとは、私は特別いろんな形でお世話になった。私が広告宣伝を担当することになったのも、多分に小野田滋郎さんに引っ張りこまれたようなところがある。その小野田さんから『三橋を50万でヤマハから引っこ抜いた』などという話も聞いていたのである。ただそのころはレースのレの字も解らない門外漢だったのである。

 

★1962年(昭和37年)

62年のMCFAJ の第6回大会では『三吉一行が決勝で2位に入って、カワサキ初の表彰台となった』と本の記述にある。この時のマシンもB7であったはずである。川崎航空機の営業部門にはレースのことなど殆ど聞こえてはこなかったのである。

B7のクレームなどもあって、単車事業はいつ止めるのか?などとも囁かれていた時期である。レースどころではなかったのである。この年あたりは、単車営業と言ってもほんの数人、今でいう品証のサービスマン3人を入れて、6人ほどの陣容であった。従って何でも担当していて、8月には、B8の発売準備などもやっているし、9月にはオープンしたばかりの鈴鹿サーキットに広告の看板の件で行っている。未だスタンドは土で、半ば完成という時期であった。少なくともカワサキでは一番乗りであったと思う。

この年の10月4日、鈴鹿サーキットで行われた日本で初めてのサーキットレースに、明石工場の生産部門の人たち中心の『レ―ス見学バス』が出たのである。この企画は中村治道、高橋鉄郎さんら生産部門の若手課長、係長で行われ、このレースを見て、カワサキのレース熱に一気に火がついたのだと思う。

これは私の想像だが、この企画を後ろで糸を引いたのは、兵庫メグロの西海義治社長に違いない。カワサキの影のレース推進者は間違いなく西海さんである。後レース職場をひっぱった松尾勇さんは元兵庫メグロの出身だし、エンジン以外カワサキの初期のマシンは全て松尾勇さんの手造りだったのである。

私は現場には行ってはいないのだが、この時のレースで250cc優勝者が三橋実、350cc優勝者が片山義美と、後カワサキのレースと特にご縁があったお二人だったのである。

このことが翌年、兵庫県青野ケ原でのMFJ兵庫県支部主催のモトクロス出場に繋がる契機となったことは間違いない。

 

★1963年(昭和38年)

この年が、カワサキの単車事業の命運を分けた年だと思う。

B7のクレームなどもあって、この年の前半は、むしろ二輪事業からの撤退の方が雰囲気としては強かった。ト―ハツや富士重あたりもいろいろあったのは多分この時期なのである。二輪事業に進むべきかどうか? 川崎航空機本社はその判断を『日本能率協会』に調査依頼して委ねたのである。これは販売網を中心に非常に大がかりな調査であった。

その最中に行われたのが、『青野ヶ原のモトクロス』なのである。

これは会社が企画したものではない。鈴鹿のレースを観に行った製造部を中心の有志、中村治道、高橋鉄郎さんなどが勝手に時間外にボランテイァでやり始めたレースなのである。車をどのように都合したのか知らぬが、松尾勇さんや何人かで作り上げ、ライダーも工場のテストライダーなど素人なのである。勿論予算などなくて、その時点では勤労部門や企画部門はヨコから難しい顔をして眺めていたのである。

営業部門の小野助治次長だけは応援のスタンスで、かって野球部のマネージャーの経験がある川合寿一さんをマネージャーに、営業部の金の管理などしていた私には『忍術を使って金を都合するように』指示されたのである。そんなに大金を出したわけではないが、残業のパン代ぐらいは捻出したと思う。私のこのレースに関する関係はこの程度なのである。

MFJ兵庫県支部主催になっているが、支部長は確か西海義治さんだったから、レースそのものも創りだしたのだと思う。当時の兵庫県のレ―ス関連は西海さんと確か新明和の○○さんとが仕切っておられたと思う。それに神戸木の実の片山義美さん。

 

 

 

カワサキワールドに飾られている青野ケ原の記念写真である。

その時のメンバーの一部だろう。私の解る範囲でいえば、左から

中村治道さん 当時は生産技術部の課長か? この方がカワサキのレースを引っ張った熱血漢だった。青野ケ原のレースの当日は体調不良で現場監督は高橋鉄郎さんが務められたと高橋さんご自身から聞いいている。このレース後もレース運営委員会で委員を務められたし、1966年のFISCOでのカワサキGP&ジュニアチームが出場の際の総監督でもあった。

高橋鉄郎さん 当時は未だ製造部門の掛長だったと思う。これ以降もカワサキのレースをいろんな形で引っ張った。当初はレース職場が製造部に属していたので、実質的なレース部門の責任者のような立場にあった。

秋原くん  社内従業員のライダーでテストライダーではナイ。当時はB7がクレームで大量の工場への返却があり、その物品税の戻入対策が大変だったのだが、その技術関連の担当でもあり、私とは物品税でコンビを組んでいた。バイクに乗せたら速かったのか?

多賀井くん 生産技術部、中村さんの部下である。 その後はレースには関係していない。後高橋さんが長を務められた東南アジアの市場開発室のメンバーとして活躍した。

加藤さん  だと思う。若過ぎて解らない。当時のテストライダー、一番上ではなかったか?飯原とともにロードレ―ス鈴鹿6時間耐久にも出場、もう現役引退されたが、最後はカワサキの記念車の管理をやられていた。

藤森保さん  名前ど忘れした(フジモリさん?)  後スタート時点のレース職場のメンバーの一員でもあった。と書いていたのだが甥ごさんから「藤森保です』とコメントがあった。

飯原武志くん  加藤さんとともに当時のテストライダー、その後カワサキ当初のロードレースにも数多く出場した。清原明彦くんの先輩でキヨさんも飯さんはちゃんと立てている。現在二人とも、Z1会でご一緒である。私をZ1会に紹介してくれたのが飯さんである。

藤井くん   青野ケ原に関係していたのは、この写真が出るまで知らなかった。当時は生産部門だが後販売部門に転出し、滋賀や明石営業所長を歴任した。その当時は直接関係があった。

???   名前を忘れた。

青野ケ原のレースで関係された方は、生産技術部の川崎さんと営業部門の川合寿一さんのお二人が実質的にチームを纏められたのだと思っている。

 

5月19日当日はカワサキにとって天から恵みの雨が降った。水たまりがいっぱいで他メーカーの早いライダーやマシンはみんな水をかぶって止まってしまったようである。完全な防水対策を施したカワサキのB8だけが完走して、1位から6位までを独占した完全優勝を果たしたのである。

 これがカワサキのレースのスタートとして、語られている。

確かに、明石工場の人たちが中心になってやったレース、これを『ファクトリー』のレースというのなら、このレースがスタートなのである。

これを機に、工場サイドの士気は一気に上がったことは間違いない。日本能率協会のレポートにも末端の士気は衰えていないと、二輪事業再建の方にその舵が切られたのは間違いないのである。

一時は批判的であった企画や勤労部門の長まで一緒に記念撮影に収まる様を見て、カワサキ自販の小野田滋郎さんが『有頂天になって』と漏らした不満を私はよく覚えている。

 

これを契機に、カワサキのレース活動が一気に活発になった。レースマネージャーを務めた川合寿一さんがそのままレースマネージャーとしてライダー契約などがスタートしたのである。

カワサキのレースファクトリーとしてその中心となったのは、三橋実が主宰した『カワサキコンバット』で厚木基地を中心梅津、岡部、加藤などのメンバーが集まり、関西では神戸木の実から、歳森康師、山本隆がファクトリーライダーとして契約し、カワサキのチームとして活動を開始したのである。

そしてこの動きが本格的になっていくのは、日本能率協会が単車再建のための条件として『広告宣伝課』の専門組織を創ることを明示したことである。

単車再建を決心した川崎航空機本社は、本社開発費として年間120百万円の広告宣伝費を3年間二輪事業に投じてくれたのである。当時のサラリーマンの年収が50万円程度の時代だから、その金額がどのくらい大きいか想像してみて欲しい。

その広告宣伝課を係長にもなっていない私が担当することになったのである。普通ではとても遣いきれないような金額なので、そのうちの一部でレース費用やライダー契約の金額に充てたのである。その後も含めて最も潤沢なレース予算があった3年間であったことは間違いない。1年目は7000万円しか使えずに『君らは金をやってもよう使わん』と本社専務にオコラレタリしたのである。

この年がカワサキのレ―スの本格的なスタートになった年であることは間違いない。以降昭和41年までの3年間、私は黎明期のカワサキのレースマネージメントと広告宣伝担当となったのである。

 

★1964年(昭和39年)

カワサキが本格的にレースに取り組んだのも、単車事業に本腰を入れたのも、昭和39年度からだと言っていい。

発動機事業部から分離独立して、単車最優先の基本方針の下、1月早々に新単車事業部がスタートしたのである。日本能率協会の調査結果を受けて、当時の永野社長が決断されたものだが、その対応にはそれなりの覚悟が随所に見られたのである。

神武事業部長がJETの出身ということもあって苧野部長以下桑畑、田村、田崎さんなど後単車を背負った技術屋さんたちが大量に異動してきた。特に生産、品質保証などの分野では、当時非常に先進的であったアメリカ空軍のJETエンジンの生産管理方式などが単車の生産管理システムに持ち込まれたりしたのである。

事務屋は、本社からこれも大量に異動があった。東京からは浜脇洋二、渡辺さんらが直接アメリカ新市場の開拓を始めたし、神戸本社からは矢野部長以下、上路、前田、岩崎、潤井さんなどの本社の精鋭たちが単車の仲間入りをしたのである。明石の各部門からも企画から山下、黒河内、藤田、高橋、山辺、福井、井川、鍋島さんなど大量に異動があったし勤労部門からは藤田孝明、種子島、富岡さんなど、営業部門からは西、野田、川合、大西さんなど、その後カワサキの二輪部門の中枢を支えた人たちが続々と新単車事業部に参集したのである。カワサキの二輪事業に関係のあった方には懐かしい名前もいっぱいだと思う

そして、何と言っても年間1億2000万円という広告予算の威力は絶大極まるものであった。その担当を任されたのだが、広告宣伝など経験のある人は当時は誰もいなかったのである。その予算金額から電通、大広、博報堂など全て本社担当となったのである。広告代理店の本社と付き合われた方はそう多くはないと思うが、これは『広告代』などの金額などのことよりは、『知恵、システム』や『イメージ創造』のソフト戦略分野が中心なのである。マーケッテングやユーザーの心理分析などその高度なレベルに付いていくだけで大変だったのである。ある意味私のちょっと違った発想の原点はこの3年間に身に付いたものだと言っていい。その原点は『差別化』なのである。

カワサキのブランドイメージの創造』が最大の課題で、レース活動も、そうした一貫した総合戦略の中で位置づけられていたのである。

レースがそんな中で明確にきっちりとした形で位置付けされていたのは、カワサキにとってもこの3年間だけだったかも知れない。ホンネでいうとそのような広告戦略を理解できる上司も数少なくて、みんな関心があるのは金の額の方だったのである。当時のカワサキは、未だ『実用車のカワサキ』の時代で、車の特徴もその登坂力だとか、主として性能面ばかりで、確かに耐久性はあったが、ユーザーを惹きつけるオモシロミなどは皆無だったのである。

そんな中で、レースはスポーツの分野だし競争の世界だから、非常に解り易かったのである。どんな勝ちでも優勝は優勝だから説得力もある。他社と差別化したカワサキの独自のイメージ創造のための戦略的素材として、レースは大いに効果があったと言っていい。現実に青野ヶ原のレースに勝ってから以降、カワサキは連戦連勝だったのである。別に強かったわけでもなくて、そんな結果が出るように戦術的にそのように仕組まれていたのである。

営業からの地方レースへの参戦依頼を受けて、勝てそうなところを選んで、ドサ廻りに徹したのである

当時はそんなにクラス分けが明確でなかったので、地方のライダーとの戦いは幾らでも勝てたのである。城北ライダースが参加するようなレースは避けていたと言っていい。そしてその結果は、地方紙を通じてどんどん広報したのである。そんなことでホントに短い期間にカワサキのモトクロスは強いのだというイメージが定着したのである。さらにカワサキの特徴としてタンクを赤にしたものだから『赤タンクのカワサキ』として一挙に有名になったのである。広告宣伝課の『イメージ戦略』としてのレースはその目的を僅か半年で達成したような結果になったのである。

ただ、この年の4月にはMFJの第1回全日本モトクロスが群馬県の相馬ヶ原で行われたが、カワサキチームは、スズキ、ヤマハのファクトリー相手では入賞すらできなかったのである。

そんな結果にも落胆せず、その実力アップに専念した。三橋実が主宰した『カワサキコンバット』に対しては月間20万円の運営費を渡して、『兎に角チームを強化する』目標を与えたのである。カワサキコンバットには全国から優秀なライダーたちが集まって、その中に静岡の星野一義や栗山、秋田の金子豊などもいたのである。そんな意気込みが通じたのか6月のMCFAJの朝霧での全日本には125ccで2、5,6,7位、

オープンで山本隆が念願の全日本優勝を果たしたのである。

 

 

これはアメリカのKMCのMuseumに飾られていた写真だが、先月Z1発売40周年の記念Reunionの際写してきたものである。朝霧高原でのMCFAJ全日本モトクロス時のライダーたちの写真なのだが、素人写真ではなくて大広のプロが綜合カタログを作るべく撮影した写真の中の1枚なのである。

左から安良岡健、三橋実、歳森康師、山本隆、岡部能夫、梅津次郎の契約選手達でヘルメットに「いちの字」があるのはカワサキコンバット、歳森、山本は神戸木の実クラブ所属であった。クラブマンレースだから、所属クラブが優先されたのである。この時期はカワサキは未だモトクロスだけの時代なので、安良岡健、三橋実もモトクロスのみの契約だったのである。ちなみにMFJよりはMCFAJのレースが主流であった時代である。

 

 

この年本職の広告宣伝業務もいろいろなことがあった。私が広告宣伝担当になったのはカワサキで最も早くレースに手をつけた小野田滋郎さん(当時カワサキ自販広告宣伝課長兼総務課長=実質カワサキ自販を動かしていた)が引っ張っていったものだと思う。広告宣伝課の立ち上がりは実質カワサキ自販の広告宣伝課自体の川崎航空機への業務引き継ぎのようなところもあったのである。

その小野田滋郎さんは、この時点でご自身はお辞めになることを決めていたのである。私が40年の会社生活で一番影響を受けた方は、小野田滋郎さんである。『この人だけには敵わない』と思った人など、そんなにはいないのだが、その一人が小野田滋郎さんである。お兄さんの小野田寛郎さんの捜索にフィリッピンに立たれる小野田さんに『あなたのお兄さんなら必ず生きている』と本当にそう思ったほどの人だった。

その小野田さんから広告宣伝とレースを引き継いでこの年新しい仕事に入ったのである。3月30日に小野田滋郎さんの送別会をしたのだが、その時小野田さんが私にくれた言葉、それは『雑音に耳を貸すな』であった。それはそれ以降ちゃんと守っている。カワサキを離れた小野田滋郎さんともその後もお付き合いはあったが、今はもういない。カワサキのレースの仕事、それは小野田滋郎さんの置き土産でもあったのである。

詳しくは知らぬが、『カワサキコンバット』を創ったのは小野田滋郎さんに違いない。三橋実にそんなことをさせることが出来る人は、そんなにいないはずである。神戸木の実の歳森康師も、山本隆も個人的なライダ―としては頑張ったが、カワサキの黎明期のレースを支えた主力は『カワサキコンバット』であり、三橋実だったのである。事実この年のレース活動の現場での実戦の事実上の監督は三橋実君であった。

 

 

この年の9月13日に山梨モトクロスが行われた。このレースは私が初めてレースチームのマネージメントを現場で行ったレースである。

いつもその役をやっていた、川合寿一さんがこのレースは『私に行け』というのである。今から思うとなかなか大変なレースであったことはよく解る。山梨は当時の全国カワサキ会の会長荻原さんの地元でこのレースも荻原さんが絡んでおられた。なかなか大変な大物だったから、話をするだけでも大変だったのだと思う。それに90ccJ1のデビュー戦でもあった。さらに三橋実とは、あまり仲がよろしくないと言われていた三吉一行くんが1種目はカワサキで乗るというのである。もう1種目はヤマハでエントリーするという。そんなことが可能な時代であった。そんなややこしいレースは川合さんも行きたくなかったのだと思う。

私は、何でもそんなに大したこととは思わぬのんびりしたところがあって、直ぐ引き受けたのである。それをお聞きになったのだろう。製造部の高橋鉄郎さんが『技術オンチの古谷では頼りない』と思われたのだろう。メカニック担当で、田崎雅元さんをつけてくれたのである。田崎さんと二人切りのコンビででレースに行ったのは、これが最初でで、最後になった。その時の田崎さんのツナギ姿の写真を5年ほど前にネットで送ってくれたのだが、どこかにいってしまった。

結果は、至ってよかったのである。三吉一行と三橋実は同宿させたが、何の問題も起こらず花札などに興じていた。そしてデビューの90ccJ1は三吉一行がアタマをとって、1~3いまでカワサキが独占する快挙だったのである。125ccは久保和夫と日記に記録がある。三吉一行くんと直接話をしたのはこの時だけかも知れない。カワサキのレースに最初から関わった人と繋がってよかったと思っている。この山梨のモトクロス、荻原さんも大満足で、確かみんなに武田信玄の兜など頂いたのではなかったか?

 

この年の秋、10月10日、東京オリンピックの開会式の当日、伊豆丸の山高原でのMCFAJ全日本モトクロスはカワサキにとって記念すべき日となったのである。

当時の広告宣伝課は私が責任者で、レース関連は川合さんが契約、大西健治くんがレース実務をこなし、マシン制作は『レ―ス職場』で松尾勇さんを中心に福田弘美、藤原良弘くん達が当たっていた。技術部門からは水町さんが担当だった。広告宣伝課は宣伝用のヘリコプターも持っていたのである。下取りの中古のヘリだから大した額ではなかったのだが、パイロットや燃料代などはその都度航空機部門にお願いしてその運営費は広告宣伝費で負担していたのである。この一戦に掛ける意気込みは大きく、現地にヘリコプターも持ち込んで、開会式に空から花束贈呈なども行ったのである。他社のライダーたちにもヘリコプターに乗せてあげたりして、大いにカワサキの顔は売れて行った。当時の城北ライダースの久保和夫君などと仲良くなったのも、こんなことが大いに寄与しているのである。

(この時の写真など多分山本隆くんはお持ちなので、何らかの形で送ってください)と書いたらこんな写真が送られてきた。

ライダーたちの練習の成果も、レース職場でのたゆまぬ性能向上の成果も出て、このレースでは全4種目のうち3種目を制覇し、山本隆が日本選手権か何かの最優秀選手に輝いて、モトクロスにおけるカワサキの地位を確固としたものにしたのである。

山本隆の左右は当時のモトクロス界の両雄久保和夫と荒井市次、一番右は梅津次郎、左は三吉弟?だろう。この写真は、『二輪文化を伝える会』のホームページからだが、写真の提供者は山本隆ご本人のはずである。

 

 

 

(これは当時のことではない。丸の山からは45年も後、名選手荒井市次の最後のレースになったのだろう。MIKI ANNEX PARKでのヴィンテージモトクロス、ON ANY SANDAで山本隆と激走、若手ををぶっちぎって1,2位となった。山本67歳、荒井70歳ぐらいか?3年ほど前のことである。あんなに元気だったのに。ご冥福を祈りたい。)

 

この丸の山高原のレースから1カ月後、舞台を和歌山紀の川に移して、『スポーツニッポン主催の西日本モトクロス』が開催されたのである。

これは広告宣伝課がレースの主管部門であったがゆえに日本で初めて実現したスポーツ新聞主催のレースなのである。当時未だモトクロスの何たるかは、世に浸透していなかったし、幾ら大きなレースで優勝しても、殆ど記事にはならないのである。毎日広告を通じてスポニチ主催のモトクロスの実現を画策したのである。その結果この企画は成功してスポニチ主催の西日本モトクロスはシリーズで開催されたのである。自社の主催だから当然大きな記事になり、モトクロスの記事としても、カワサキの広報としても大成功だったのである。シリーズ第3戦の加古川モトクロスには、スズキなどもその影響力を考えてか、主力城北ライダースが遠く東京から参加するまでになったのである。

この西日本モトクロスでは、90ccは1~3位を独占、その他の種目でも好成績を残したのだが、何と言っても特筆すべきは、『星野一義のレースデビュー戦』となったのである。星野は安良岡を慕ってカワサキコンバットに参加したのだが、未だ実戦は走っていなかった全くの新人だったのである。このレースもコンバットのトラックの運転手として、現地に来ていたのだが、この日の朝の練習でコンバットの岡部能夫が荒井市次と接触して小指を折って走れなくなってしまったのである。スポニチ主催というか、カワサキ主催のようなレースでもあったので、岡部能夫に代わって星野が岡部の名前のままで出場することになったのである。

ところがである。星野は何周目かのジャンプでアタマから落ちて、救急車で病院に運ばれてしまったのである。全くのぺいぺいのことだから、みんなそのことも忘れてしまっていたら、午後戻ってきて、『オープンに走らせて下さい』というのである。それで走ったら6位か7位になった。それが星野一義が初めてレース場を走った日の出来事なのある。

そして翌週の広島モトクロスには、カワサキは出場全種目に優勝をしているが、初めて星野一義の名前でデビューを果たしたのである。星野インパルのホームページにも、『和歌山のデビュー戦は転倒、脳震盪で入院』とだけ記述されているのはこんな事情なのである。

 

 

この年の最後の頃には、カワサキは堂々と先発のスズキ、ヤマハに互角に戦えるまでに成長したのである。

そして常に広告宣伝課のカワサキブランドのイメージ構築と密接に絡めたレース活動だったので、その派手さは他の追随を許さず、『戦略目標』であった『カワサキのイメージ創造』にも大いに貢献したと思っていいのである。

私の本務、広告宣伝の業務の中でも、『モトクロスレース』は大きな比重を占めていた。金額的にも相当の額ではあったが、総額1億2000万円の中では大したことでもなかったのである。ライダーたちはみんな広告宣伝課の嘱託にして、その給料という形で契約金を払っていたのだが、当時のサラリーマンの平均年収50万円の倍払っても100万円の時代だったし、すべての選手にそんなに払うこともなかったので、当時トップ選手は10人ほどだったから、全部カワサキでとったら間違いなく日本一は保てるなど、本気でそう思ったこともあったりした。カワサキコンバットには月間20万円を払っていたので、そこに集まったライダーたちの数はよく解っていなかったのである。

各地方には『赤タンククラブ』が出来出して、だんだんとその底辺も広がっていくのである。

 

 

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ドイツのケルンショーで

2012-10-08 06:12:54 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★新しい情報だから、ニュースという。

現代は、ネットを使って誰でも新鮮ないいニュースを流すことが出来るようなオモシロイ時代になっている。

依然として新聞やテレビだけから情報を得ようとする人たちは、こんな情報社会から取り残されてしまうのではなかろうか?

 

特に、Facebook が一般的になって、その情報量は俄然早くなり且つ豊富になってきた。

時間があったら、Facebook を眺めているのだが、『飽きずに眺めておれる』ほどオモシロイニュースが目白押しなのである。

 

 

 

ニュース、めちゃ早いですね。カワサキのメーカーより早いかも。
 
現在ドイツのケルンでは、世界一有名なオートバイ見本市、INTERMOTO 2012 が開かれています。
現地のカワサキブースには、最新モデル達と共に、Z1 Z1300 Z1000Hが展示されているみたいです。
フェア最終6日、7日の両日には、ドイツカワサキからの要請を受け、
Micky Hesseさんが、KAWASAKI Z1 誕生40周年を記念して、カワサキブース内で、ちょっとした講演をするそうです
 
<form id="ujmfhfx4" class="fbPhotosSnowliftFeedbackForm rhcBody commentable_item autoexpand_mode" style="padding-bottom: 41px;" action="/ajax/ufi/modify.php" method="post">

こんなコメント付きで、Facebookに流れたのは、昨日の朝10時過ぎである。

多分、世界で一番早く流れたニュースだろう。写真だけでなくちょっとしたイベント内容まで紹介されている。

KAWASAKI Z1 FAN CLUB からの情報発信だが、

事務局長の登山道夫さんが、欧州本部長?のMicky Hesseさんからの情報提供で発信されたのか、或いは別のニュース源なのか?

日本は今は3連休中だから、川崎重工業の広報担当の方も、こんなニュースに多くの方たちが『いいね』と拍手を送っているなど、ご存じないのかも知れない。

発売40周年を迎えるZのことなど、Kawasakiの人よりもMicky Hesseさんの方が数段詳しいので、そんな方に講演を頼んだのだろう。果たしてどんなことを喋ったのか?そのあたりも聞いてみたいものである。

 

★これらは昨日の私のFacebook からの写真である。 残念ながらFBをおやりでない方は、ご覧になれないのかも知れぬが、

    

 こんなBERT の阿蘇での会合や、

 

  

SPA直入のイベントや

 

アメリカからのニュースも、みんな入っているし、勿論、KMJ から流されているレース情報なども十分承知しているのである。

 

 

★KAWASAKI Z1 FAN CLUB は、NPO The Good Times の特別プロジェクトとして公認されて最近立ち上がったグループである。

そんな情報発信拠点として、最近スタートしたのが、三木のGood Times Plaza なのである。

ネットの世界の情報発信の拠点は『東京』などではなくて、『兵庫県三木市緑が丘』で十分なのである。

そんなシステムがオモシロイと、産経新聞の記者さんが休み明けにお見えにはなるのだが、一般の単発取材などには一切興味関心はないのである。オモシロイシステムに完成しつつあるので、『同業者』として『協働』頂けるのなら、大いに歓迎なのである。

10月にはドイツから、Micky Hesseさんがやってくるし、11月には小関和夫さんが来られるとか。

みんなNPO The Good Times にとって世界に点在する記者さんのような存在なのである。協働頂いたところには必ず何かでお返しが出来る仕組みも出来あがっているし、自らの情報発信力も既に相当なものになっている。

世界で初めてのシステムは、なかなか理解が難しいのだが、このところ何となくお解り頂いて、オモシロイ展開になりつつある。

NPO The Good Times の動きを是非お見逃しないように、どんどんオモシロくやっていきます。

 

 

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