雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車物語50年 その14  単車事業の危機ー2

2013-06-17 09:16:07 | カワサキ単車の昔話

★ここに至るまでの経緯は、『その13』以前にも書いた通りで、

カワサキの単車事業からの撤退が、ホントに真剣に川崎重工業の社長以下トップ並びに財務部門で検討されていたのである。

多分、問題はこんなところにあったのだと思う。

 

● 当時は造船部門が好調で、単車事業本部だけの赤字額なら、造船部門の利益の中で十分相殺も出来るし、経営会議などでの検討の枠内なのだが、その外にある海外販社の赤字は、販社経営の経験者など殆ど居なくて、『どのように解決すべきなのか?』その術が解らなかったのだと思う。その赤字の額が100億円を超えるレベルになると、連結決算で川崎重工業の損益に加算されるので、いろいろ対策を打ち、高橋鉄郎会長、田崎社長体制として、さらに財務部門が100億円の資金を投入したのに、1年目は何の効果も現さなかったのである。事実川崎重工は無配に陥ってしまったのである。

● 私はヨコから眺めていただけだが、これはトータルの特に財務、資金のシステムがバラバラのために起こっているので、全体の構造を解決する『トータルシステム』が中央で、創り上げることが出来たら『簡単に解決できる人災』だと思っていた。 これは独り川重だけではなく、日本の個別最適地を集めたら、全体最適地に繋がる。という錯覚のなせる術で、『みんなが頑張ればよくなる型』の発想は、単純な経営なら大丈夫通用するのだろうが、世界展開の二輪事業などではムツカシイと思っている。

●当時の単車事業の最高責任者であった山田熙明専務に突如本社に呼び出されて、意見を聞かれたので『直ぐよくなると思います』と言ったら、お前が『企画をやれ』と言われたのである。その時つけた条件の一つが、『KMC の会長をしている高橋鉄郎さんを企画室長で呼び戻して欲しい』だったのである。

●『トータルシステムの構築』はアタマの中にあっても、それを全軍に指揮するには、それなりの職位、格がナイと機能しないのである。人望熱い高橋鉄郎さん以外ではダメだと思ったのである。

そんな私の要望は聞き入れられて、1982年10月高橋企画室長、古谷企画部長の新企画室がスタートし、そこに集まったメンバーは、北村敏(昭和34年入社)、武本一郎、大前太、五十百寿夫(昭和35年入社)さらに若い前田、佐藤、繁治君など全くの若手たちだったのである。

青野事業本部長の時代で、企画室以外は安藤技術部長、酒井製造担当理事、田村製造部長、桑畑品証部長など、先輩部長が顔を揃えていて、これは高橋鉄郎さんでないと、新米部長では旗が振れないのである。

 

★具体的な仕組みは、直ぐ実行し3か月後には機能し6か月後には軌道に乗った。

全て企画室の数人で検討決定し、世界の販社にそのシステムを適用したのである。特に田崎社長のKMCとは明石側も万全の体制で臨んだのである。

 

その基本的なコンセプトは『中央コントロールシステムの構築』の一語につきると言ってもいい。全ての具体的な計画を明石で組めるように仕組んだし実際にそのように実行した。極端に言うと世界の販社の経営責任を全て明石が担う代わりに、各販社はその方針に基づいた実行責任だけを持たせたのである。

 

●まず、一番最初に創ったのが世界の販社を指揮し管理する『関連事業部機能』である。この組織は今でも存在するが、11月には正規組織としてスタートした。

●従来は、各社の事業計画は現地で創り、それを集計する単なる『ホッチキス機能』だったのだが、大まかな数値、と利益目標などは、関連事業部で策定し、それを現地が検討すると言う方向に、抜本的に改めた。事業全体の数値概要の数値を一番最初に知っているのは明石の本部になるように仕組んだのだえある。

●最も大きかったKMCとの関連は、まず本社財務の若手が現地調査や在庫の状況などを調べて、その対策としてのKMCへの増資、180日ユーザンスの新たな設定を12月末までに行った。

●さらに現地の銀行借入金の削減など、営業外損益事項や、膨大な在庫の含み損の手当てなど、その殆どの対策は全て6ヶ月の間に終了して、今後の新たな損失は発生しない体制が半年で完成したのである。

●KMCの膨大な赤字と言っても、その殆どが営業外で、要はバランスシートの問題なのである。当時はアメリカの金利が20%に近い時代で、300億円近い借入金の金利だけでも60億円にもなるし、膨大な不良在庫なども、その含み損手当てを一括で行ったことにより、逆に売れば利益の出る体制になり、どんどん寝ていた不良資産が現金や利益に変わっていったのである。

 

もう少し単純に言うと、

商売とか販売はどんな規模でも成り立つのである得てして頑張り過ぎて失敗してしまうのである

だから、商売で、販売で赤字になるなどは、全て人災だと思っている

 

 

★単車事業部の中ではホントに数少ない、このようなことが解る数人の経験者によって、このシステムは創られそれが運用されたのである。

そしてKMCの現地には本社の特別対策メンバーとしてこんなメンバーが派遣され徹底した現地調査が行われたのである。

 

(資金部外資課 松岡京平とあるのは今回川崎重工副社長になった松岡君まだ係長当時だったと思う。小川優君は今のNPO The Good Times の監事で手伝ってくれている小川君なのである。)

これら本社チームの調査と。その対策提言が本社中枢部を動かしドラスチックな対策となったのである。

●もう一つ特筆したいことは、高橋鉄郎さんの会長時代に『カワ販も手伝ってくれ』と頼まれて、富永、日野と言う当時のカワ販の最優秀コンビをKMCに送りこんでいたのである。 

川重の事務屋さんは優秀なのだが、販社の実務については経験がないので、全ての対策が、『説明からスタート』なのである。当時のKMCの経営の中枢にいた富永ー日野コンビなら、説明抜きでより高度な展開が可能で、私がちょっと言えば直ぐ理解できたのである。

彼らは田崎社長時代から次の百合草社長時代までKMCにいて、見ごと100億円に近い累損まで綺麗に消去してカワ販に戻ってきたのである。富永邦彦君が田崎さんの九大の後輩であったこともよかったのかも知れない。

 

★このあたりのことは、当事者以外殆どの方がご存じないことである。

私は企画部長ではあったが、その80%はKMCのことをやっていた。

基本的には、私と田崎雅元さんとは、この時期の単車事業の大問題を一緒にかついできた仲で、ホントにひょっとしたら私がKMCにと言う案もあったようで、兎に角援けねばならないと思っていたのである。

このKMC問題は、営業外対策さえちゃんとやれば大丈夫と確信していたので、技術屋さんの高橋さんと、田崎さんにバランスシートを教えた先生は私なのである。高橋さんから『お前の説明はよく解る』とお褒めを頂いたりした。

余談になるが、田崎さんは私の教え子であるのは事実だが、今では私より数段上の財務知識をお持ちである。川崎重工の歴代社長の中で川重のバランスシートの中味を飛躍的に改善したのは、田崎さんなのである。それはあんまり言われてはいないが、彼の社長時代の最初と最後のバランスシートを見ればそれは歴然なのである。

 

 

これは私の日記などから

当時のカワサキの中枢の動きを纏めたものである。

7月1日の朝、突然呼びだされたが、12月末大体の枠組みは出来て再建の目途は立った。

 

ものごと、半年あれば大体のことは出来る。 

半年経っても出来ないものは10年経ったら出来るなどの保証はない。

これは私の哲学みたいなものである

 

 

翌年から、いよいよ具体的な動きに入っていくのである。

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今日は東京です

2013-06-16 04:49:22 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

今日は日帰りで東京です

 

慶應義塾大学SFC Dance Unit W+I&S presents..

2013春公演『Lab.』

 @湘南台文化センター

 2013/6/15(土)13:30~/18:00~

 2013/6/16(日)千秋楽13:30~

Ticket:1000yen

 

 

 

どんな公演なのかよく解ってはいないのですが。

孫の古谷仁 がぜひ観にこいとのお誘いですので、東京日帰りをしようと思っています。

 

 

こんなメンバー達でやるようです。

 

 

★私は日帰りなのですが、家内の方は13日から鎌倉に行って、

 

 

 

 こんなのを食べたり

 

 

こんなのも食べたり、

 

 

昨夜はタイ料理だったようです。 ご機嫌なようです。

 

 

私は昨日が、KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE  の打ち合わせで、どうしてもダメだったので、

今日の日帰りになりました。

でも、お陰さまでKAWASAKI THE JEGENDS & FUTURE の方は至極順調です。 

締めきり人数まで、ホントに残りわずかになりました。

ドイツからのミッキィ・ヘッセ もちょっとまだ名前を明かせない

海外からのビッグネームも参加の

文字通り『Zの、カワサキの真打ち』たちの集いになることだけは間違いありません

 

 

 

 

カワサキZの源流と軌跡』の特別本の発表、発売、執筆者のサイン会も開催です。

この日、この場所で全国書店の発売に先駆けて、7月7日参加者だけに特別の公開発売になります。勿論執筆者たちも多数出席です。

 

 

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川重の社長交代劇のことをアップしたら1423もアクセスが来た

2013-06-15 07:04:16 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

 

★昨日、『川崎重工業、トップの見出しに』というブログをアップしたら

 

 

1423もアクセスがあって、これは新記録だろうと思う。

確かに、昨日の出来事としては話題性もあったし、検索用語でも 川崎重工 や 松岡京平などがトップに並んでいるのだが、それでも多いなと思っていたのである。

 

 

 

 

 松岡京平くんのことなど、ずっと以前にアップした、川重の相信会のことを書いたブログに、こんな風にアップしていたのだが、

ネットの検索は、そんなひとことも見逃さないのである。

 

 

 それにしても1423は多すぎるなと思っていたら、

その理由が解ったのである

 

大西宏さんのマーケッテング・エッセンス と言うブログがある。

 

 

 

そのブログの書き出しはこんな文章で始まっている。

 

 

★それ以下も読んでいたら、

その一番最後にこのように書かれていて、

雑感日記がわざわざリンクされているのである

 

1423もアクセスのあった理由は間違いなくコレである。

 

 

 

 

 ★それにしても、ネットの世界はスゴイなと思う。

1400人を超える人に話しかけるのは、現実の日常ではなかなか大変というか、普通ではまず不可能なことである。

別に大西宏さんと面識があるわけではないのだが、そのブログとは毎朝お会いしているし、

Facebook では、トモダチにもなって頂いている。

 

そして私の1000人を超えるトモダチの中で、この18人の方が大西宏さんと繫がっているのである

 

 

 

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川崎重工業、トップ見出しに

2013-06-14 09:33:06 | 発想$感想

★ 新聞もNHKにも大きく報道された川崎重工業のニュース。

 

 

 

 

★今朝、Facebookにこんな感想をアップした。

 

Facebook にはこんな感想を書いたのだが、

沢山の『いいね』など頂いた。

 

 

 

 

 

★記者会見に臨んだ村山新社長と松岡、高田新副社長

村山さんは存じ上げないが、松岡、高田さんはよく知っている。

この3首脳を見ても かっての造船企業の面影はない

 

川崎重工業は、造船からスタートしている

そのイメージは重工業だった。歴代の社長などトップを務めた人たちについては・・・・

 

砂野仁 さん

川重、川航、川車の3社合併を決めた。私が川崎航空機に入社したころは川崎航空機におられた。伯父と懇意にされていたので、私は砂野さんのコネで川崎に入れて頂いた。  社長と言うよりよく知ってたおっちゃんと言う子どもころのイメージが強く。自分が若かったこともあって社業では殆ど関係なかった。

四本潔さん

四本さんも、入社したころは川航の明石工場、当時は神戸製作所の所長をされていたが、特に直接話もする機会もなかったし、仕事でも関係なかったが、アメリカの単車事業のスタート時には大いに背中を押して頂いた方である。

そのあと歴代の社長やトップの方たちがおられたが、仕事上も雲の上の方たちで、特に何の印象も持っていない。

 

ずっと後になって

長谷川社長、大西副社長、山田副社長の時代に単車事業がおかしくなってから、社長以下の本社中枢部とも何となく身近になっていろんなことが解るようになった。

この時代までは単車も川重にとってはどちらかと言えばお荷物事業だったのだが、大庭事業本部長が本社に副社長で戻られてからさらに社長になられて、本社中枢部に明石の単車からのメンバーが多く参加するようにもなり、面識のある仲間たちがいっぱい参加して、川重の中枢部が非常に身近なものになったような気がする。

大庭浩さんが社長になられてから、高橋鉄郎副社長が生まれたし、そのあと田崎雅元社長、佐伯武彦副社長、さらに三原副社長と続いて、j常務さんあたりはいっぱいだったのである。

みんな若い時からの仲間なので身近で、親しみもあるし、逆に言うと表裏みんな解っている。

おかしなものでそんな若いころを知らない方は、みんな『エラク』見えるのだが、知ってる人は幾ら職位が上がっても、『そんなにエライ』とも思わないのだが・・・・

 

 

 

★今回、松岡京平、高田廣さんが副社長になられた

正直言って、現役時代高田廣さんは知らなかったのだが、この1,2年、大槻幸雄さんに連れられて、明石工場で何度か直接お会いする機会があったし、結構長い時間お話しをする機会もあったのである。

ごく最近は、『カワサキZの源流と軌跡』と言う新刊書の発表会の件でも伺っていろいろ話を聞いたのだが、高田さんなかなかだと思った

あるレベルを超えていると思う。経営者としての資質は十分だと思ったし、その判断とそのあとに続く行動が、技術屋さんのレベルを超えていると本当にそう思った

そんなに器用な方ではないし、弁が立つ訳ではないのだが・・・・

 

松岡京平さんは、係長時代KMCの企画部門にいて、よく知っている。英才である。アタマも切れるしゴルフもうまい。

何となくご縁があって課長昇進時にはSPA直入り近郊で、部長昇格時には関東の松井田の近くで、当時の横山昌行さんと一緒にお祝いのゴルフをお膳立てしたリした。

単車事業についても一番悪かったころ、財務面から手伝ってくれたし、よくご存じである。つい先日もOB会でお会いして、今後の単車事業の方向についても、いろいろお話しをさせて頂いた。こんな話になるとなかなか、話をする相手が見つからないのである。中味をご存じない方とは説明するだけで終わってしまうのである。

松岡さんとはそんな仲なので、もう何年も前に 『NPO The Good Times の会員になれ』と即座に会員になって頂いたのである

 

新しく社長になられた村山さんは、全然面識もないのだが、松岡さんが『リーダーシップがある』と評価されているので、期待出来るのではなかろうか?

もしそうなら、これは川崎重工業にとって、近来にない『実力者内閣のトップ陣』かなと思ったりするのである。

 

正直、今回のニュースは大変な、川重らしくない出来ごと であったことは間違いないが、

今後の川崎重工の経営が、一皮むけた新しい時代に合った素晴らしい展開 になることを期待したいのである。

 

 

 

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鎌倉の孫 & アメリカの孫たち

2013-06-14 05:19:32 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★孫が4人、男の子ばかり、鎌倉に一人、アメリカに3人。

もう小学生の可愛らしい時代は卒業してしまって、普段はおじんのことなど、殆ど思いだすこともない、自分自身が中心の時代 にまでは成長した。

 

今日は家内を伊丹まで送って、先程無事羽田に着いたとの電話、今日から3日間ほど鎌倉の息子宅で過ごすことになる。

息子の嫁のノンちゃん とは至極仲がよくてトモダチみたいだが、それもずっと一緒には住んでいないからだと思う。

 

世の中の嫁、姑の関係はなかなか微妙でムツカシイのが普通だと思う。

ホントは、結婚は養子みたいな関係が一番いいのだと思う。

家内もノンちゃんと一緒に旅行などはしたりするのだが、毎年アメリカの娘のところには1ヶ月も遊びに行くのに、鎌倉は今回が初めてである

『ノンちゃん』もそれを気にして、今回はホントは、来週いっぱいぐらいまで 引きとめようと画策したのだが、なんだかんだと言って日曜日には帰ってくることになったのである。

 

 

   

 

古谷仁慶応の大学生のクセに、ツイッターやFacebookに現れる写真はみんなこんな感じで、慶応の学生諸君も最近はレベルが落ちたのかな?

昔育ちの『おじん』は直ぐ恰好で判断してしまうのだが・・・

 

 

今年の正月は、こんな羽織袴で現れた。  これくらいなら大学生と言っていい。

貸衣装なのか?ひとり息子なのでノンちゃんが張り込んだのか?  一度聞いてみたいと思っている。

 

 

 

今は、高校の時にはやっていた、サッカーを止めて、こんなダンスに夢中なのである

家内が、鎌倉に行ったのも、このダンス公演が土日にあって、それを観にこいというものだから上京したのである。

 

私は15日が用事があるからダメだと言ったら、Facebook のメッセ―ジで『16日の日曜日はダメなのか?』と何度も言ってくるものだから、

日曜日に日帰りで、その公演やらを観に行こうと思っている。

そしたら家内は、その日に一緒に戻ると言うのである

 

 

 

 

 アメリカの孫の長男、門野力也

この9月には日本の大学を受験すると言うのに、この格好もどうもピリ―っとしていない。

特に理数系での アタマはいいと威張っているが、ホントかなと思ってしまう。

 

   

 

 みんな一応はサッカーもしていて、左の写真は長男がコーチをしてる日本人チームが優勝した時の写真で、ヨコにいるのは末弟、

小学生6年生のクセに背だけは兄貴に負けていない。

真ん中の真也サッカ―に浸かってしまっている

プロになりたいらしいが、たとえ叶わなくとも夢は大きい方がいい。

それもスペインに行ってと、高校ではスペイン語を習っている。つい先日まで三木でカブトムシや魚を一緒に取りに行ってたのに・・・・

 

 

 

これは二つとも、昨秋アメリカで撮った写真だが、多分末弟の哲也、今では私より大きくなったに違いない。

 

 

 

これは、今朝の娘のブログから

今年から名門Strikers に入れて貰って、この9月にはスペインに遠征するとか。

そのトライアウトがあるので、一生懸命自主トレしているのだとか。

遠目で、ちょっとわからぬが、デブがちょっとスマートになったような気もする。

背が高いので、キーパーをしている。

 

放っておいても孫たちは成長するし、だんだんと生意気になる。

ダンスを観にこいと誘ってくれるだけ、いいとしなくてはいけないのかな

 

 

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仏事 & 長寿院

2013-06-12 15:04:26 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★昨日は、母のふた七日の法事で、明石の長寿院に行ってきました。

 

 

 長寿院は明石の子午線が通っている明石市立天文科学館の直ぐ南側に位置しています。

 

 

長寿院は旧明石城主松平家の菩提寺で由緒あるお寺です。

先代のご住職には、私が小学生の子どもの頃からいろいろご薫陶も頂いたのですが、今のご住職にはお気軽にお付き合いを頂いています。

 

 

 

今回、母を亡くし49日までの7日ごとの法要も、わざわざ三木までご住職にお越しいただくのも、大変なので長寿院の本堂でお願いできないかとお願いしたら、快くお引き受け頂いたので、その初めての仏事に明石まで行ってきました。

 

立派な本堂ですが、天井はこのようになっています。

 

 

1枚1枚を施主が奉納したものです。

いつごろのことだったでしょうか、私も1枚だけ奉納したのですが、ちょうど座った真上にこんな形で名前が載っていました。

 

 

 

仏事に入る前に、ご住職と30分ほど雑談していたのですが、

その横に、こんな立派な写経の額がありました。

 

 

経とは、仏教において経典を書写すること、またはその書写された経典のことを指す

と辞書には書かれています。

 

 

このような文字がこのような大きさで書かれているのです。

檀家の方の写経だそうですが、これは見ごとです。

 

★雑談の中で、長寿院の今の話になりました。

お寺もいろいろとあるそうです。伯父は長寿院の檀家総代をしていて、戦前は松平家のお殿様のご子孫がお盆に来られたら、伯父の家に泊まられたりしていました。私はそんな昔流儀のお付き合いが嫌で、三木に移ってきたりもしたのですが、

ご住職は、『もう80にもなったのだし、長寿院のことも少しは手伝え』と仰るのです。どんなことがあるのかよく解りませんが、関係のある明石の方のお名前を聞くと、存じ上げている方もおられるので、ひょっとしたら口説き落とされるかも知れません。

もうすぐあなたもお世話になるのだから』と言う意味なのかなと思ったりしました.

 

今のご住職はご養子ですので、戦前や戦後の長寿院のことなど私の方が知っていることが多いのかも知れません。

 

それは、ともかく、

あと1ヶ月、49日の法要まで、墓石への戒名の彫り込みなど、あと少し残っていますが、ほぼ目途が付いて、ホッとしています。

 

 

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台風情報

2013-06-12 05:38:20 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★台風が近づいている。

気象予報などでしきりにニュースが流れている。

 

13日から家内が東京に行くし、私も16日の日曜日に東京への日帰りを予定しているので、天気予報が気になるのである。

最近、台風だとか、雨の予想などは、どうも安全サイドに振れ過ぎているような気がする。

 

今年の梅雨入りは、記録的に早かったというのだが、それ以来一向に雨は降らない。

これは『梅雨入り宣言』が間違っていたのではないかとも思うが、その訂正もない。

 

 

 

これが昨日の情報だが、一昨日に比べてだいぶ右にそれたので、これくらいなら問題ないのでは、と思ってしまうのだが、最初は近畿地方を直撃するのではと言うような内容であった。

台風の場合は進路の東側は風も強いが西側と言うか左側だと殆どひどい風など吹かない場合も多いのである。

 

 

 

そして東京の週間予報である。

 

 

伊丹空港から羽田への空の便なのだが、

13日3時伊丹発、 帰りは16日の夕方だが

この程度なら、大丈夫と思っているのだが、どうなるのだろうか?

 

雨が少なくて、関東は水が足りないなどと言っているので、少し降る方がいいのかも知れない。

 

 

★これが今朝の情報である。

 

 

 

 

これなら殆ど影響ないのではないかと思う。

 

13日からの飛行機での東京行きもだう丈夫だと思う。

なぜ、最初からこんな予想にはならないのだろうか?

 

天気予報に限らず、世の中全般に、あとで文句を言われるのがコワくて、全てが安全サイドに考えている傾向があるのではと思う。

 

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カワサキ単車物語50年  その13 カワサキの単車事業の危機ー1

2013-06-11 06:16:35 | カワサキ単車の昔話

1979年から82年までの4年間、カワサキにとってこの4年間は大変な事業存亡に関わるような大問題を含んだ時期だったのだが、

商品的にはFX400の大ヒットやロードレースの世界ではKR250/350などの華々しい成果を挙げるなど活気のあるいい時代に見えたのだろうと思う。

多分、当時事業部におられた技術や製造関係の方たちでもこの事実をご存じない方が殆どだろう。

 

この事実を知っている人は、むしろ本社財務の人たちや、本社の中枢部の方たち、そして事業本部の中では塚本事業本部長、高橋鉄郎事業部長そして極端に言えば、その渦中に巻き込まれた私と田崎雅元さん(元川重社長)とそれに関与された数人ぐらいと言ってもいいのかも知れない。

まず、アメリカで起こったハ―レ―のダンピング訴訟問題が、国内市場の日本独特の多段階の流通機構からくる経費率問題を解決しないと、KMCでのダンピングが成立してしまって、KMCが成り立たないのである。

そのダンピング問題を担当していたのが田崎さんで、それに基づいて国内の販売会社の構造改革案を本社財務や単車の企画部門などで立案したのだが、なかなか成案にならずに本社との間でもめてしまって、突如塚本本部長から私に『やれ』と指示を頂いたのが1978年の9月半ばのことだったのである

 

★この年の6月あたりから、いろいろと検討がなされていて、カワサキだけがカワサキオートバイ販売会社の本社と言う一段階多い構造なので、その本社を無くそうと言う単純な発想からスタートしていたのだが、なかなかうまく行かないのである。

その案は6月には川重の常務会も通っていたのだが、私が担当して全てひっ繰り返して、小さな本社だが『カワ販を残す』案を策定し、本社の財務担当の堀川さんに説明したら『古谷君が1ヶ月も検討したというのならその案に乗りましょう』と言って頂いて、財務部門も財務担当の大西常務も、当時の財務担当の今井副社長の承認もいただいて、そのままの案で、常務会の承認が取れたのである。

これは常務会の承認と言うことになっているが、堀川運平さんがGOと言って頂いた時点で、事実上承認されたようなものだったのである。

この案で『カワ販』は残ることになり、現在のKMJに繋がっているのだが・・・・・

 

以下は当時の川重常務会の資料の一部である。

 

 

 

従来の川重の役員レベルの田中社長以下のカワ販本社経営陣を極端に小さくして役員を含めて10名程度にしたことと、部品会社を分離することにより二輪車の商品販売からの経費率を除去することで国内の経費比率を圧縮し、アメリカのダンピングに対応出来るように仕組んだのである。

社長、専務、常務、取締役など大先輩がいっぱいいたカワ販本社を無くしてしまって、当時はまだ課長の職位でしかなかった私一人が常務と言う常勤役員で、カワ販グループ約400名の指揮を取ることになったのである。それを実務的に手伝ってくれたのは前田祐作君である。この当時のカワ販経営は、財務対策や資金対策が中心だったのだが、『古谷―前田コンビ』でやったと言っていい。それにカワ販グループのメンバー達は昔からの仲間だったので、万全の協力体制だったのである。

当時のカワ販の田中社長、苧野専務、清水屋常務、加茂常務を始め大きな組織だったカワ販本社を実質的に解体してしまったドラスチックなものだったのである。この案をかっての上司の田中社長以下に説明し、ご納得いただいたのだが、そうしないと『KMC アメリカ市場が成り立たない』と言うことで、仕方がなかったのである。

 

グループの役員構成は下表の通りであった。

 

 

KMSの苧野社長を除いて、どの会社も川重常務の塚本本部長が社長を兼務されてはいるが、実際は非常勤だから★印の常勤役員が実質責任者なのである。

各社の責任者の方は石原専務(川重同期)を除いて全て私より年長者の方ばかりだったが、やるしか仕方がなかったのである。

 

当時のカワ販グループは、販売台数は約2万台、グループ全体で含み損を入れると10億に近い赤字で、銀行借入金は26億円ほどもある赤字グループだったのだが、この健全化計画をベースにこの新体制がスタートすることになるのである。

これらは本社の財務の管理下に入れられてしまって、毎月私は本社の財務担当大西常務に月次で報告することが義務付けられたのである

 

★ずっと若いころの仙台時代から、会社経営については、代理店関係を担当していたし、国内の直営部時代も全て経営を担当していたので、全くの素人ではないのだが、全国の販社を統括するのは、初めての経験だったのである。

大体、人間半分は運で、販社の経営などいい商品の時に担当したら、まず間違いなくウマく行くのである

カワサキの国内のヒット商品と言うと、Z2-400FX-ZEPHYRなどがその代表格だが、3度の国内担当したのだが、この3機種は全て私の担当時の商品なのである。

400FXが発売されたのが1979年の春であった。

このヒットぶりはすさまじかった。400ccと言うこともあってZ2とは売れる台数のレベルが違うのである。400ccの分野ではホンダさんを抜いてトップになったりした。

そして1979年度のグループのトータル利益は930百万円にもなって、たった1年で、グループの含み損も消去して綺麗な会社になったのである。銀行借入金も1年で半減し、取引銀行も沢山あったのを2行に絞ってしまったり、借入金ゼロの販社を作ったりしたのである。

 

このカワ販グループを実質3年9カ月ほど担当したのだが、この期間ずっと順調に推移したので、本社の大西常務などからの信頼も大いに得たのだが、半分以上は『ツキ』だと思う。

大西さんからは累損も含み損も消えた時点で『君は、1年前に計画を出した時にこうなると解っていたのか?』 などと質問されたが、そんなこと解っている訳はないので、『何とかなるだろう』と思っていただけのことなのである。

 

 

★こんな具合に、国内市場は商品に恵まれて順調に推移したのだが、

この期間中海外販社はオーストラリアを除いて非常に厳しい状況が続き、特に主力のアメリカのKMCの経営状況が、年々赤字幅が増大し、その累損が日本円換算で百億円近くにもなる状況が続いたのである。

その理由はいろいろあるのだろうが、

●一つにはHY戦争がアメリカまで飛び火してスズキもカワサキも安売り競争に巻き込まれてしまったこと、

●カワサキ独自のスノーモビル事業が足を引っ張ったことなどが表面の理由とされている。

海外子会社の赤字は川崎重工の損益に連結されるものだから、本社財務も放置することも出来ずに資金的にいろいろ手を打ったりするのだが、なかなかままならなかったのである。

この時期アメリカを明石で担当していたのが田崎さんで、私は国内に掛りきりだったのだが、いろいろ相談は受けたりしていたのである。

1980年ごろから経営がさらに悪化し81年の10月からは、高橋鉄郎さんが会長、田崎さんが社長の二人のコンビで経営を立て直すべくアメリカに渡られたのだが、82年になっても悪い流れは止まらず、このままでは単車事業からの撤退を考えねばならぬところまで追いつめられてしまったのである

この当時の単車事業の最高責任者はかっての単車事業部長、山田熙明専務だった。山田さんは中学校の先輩でもあり、創成期のレースを一緒にやったりデグナ―の契約書などは二人で作ったりして、その後も何かと目を掛けていただいた方である。

 

★私は、当時は国内のグループを担当していて、ヨコから眺めていただけなのだが、

このKMC問題は、いろいろな理由は言われてはいるが、ひとことで言うと『トータルの経営の仕組みが出来ていないこと』が最大の理由で、

具体的に対応出来る『トータルシステムさえ構築すれば』 間違いなく解決すると思ってっていたのである。

 

1982年の7月1日の早朝本社の山田専務から電話が掛り、本社に呼び出されて『意見を聞かれた』のである。

アメリカKMCの経営内容を改善することについて、いろいろ聞かれたのだが、『それは直ぐ解決出来る』と思いますと答えたら、『お前が企画をやれ』と仰るのである。

従来、自分の異動について、条件を付けたりしたことはないのだが、この時だけは条件をつけさせて頂いたのである

 

● 一つは、『技術のよく解るメンバーを一人付けて欲しい』  これは前回企画を担当した時に、技術オンチの私は技術屋さんの諸要求の中身が解らなくて『それがなければ出来ない』などと言われると困ってしまったのである。こんな部類の仕事をやってくれる人が欲しかったのである。これは山田専務は直ぐOK と言って頂いたのである。

● もう一つは、『KMCに行っておられる高橋鉄郎会長を企画室長で明石に戻して欲しい

これについては、山田専務が最初に言われたのは明らかに『NO』だった。『KMCを田崎だけで出来るか?』と仰るのである。『私と田崎さんは1年違いだけだから、田崎さんがKMCが出来なければ、私が企画など出来るわけがナイ』などと言ったら、『考える』という方向でその日は終わったのである。

 

★そんなことから、私は1982年の10月1日からまた単車事業本部の企画部に戻ることになったのである。

そして高橋鉄郎さんも企画室長でKMCから戻られて、KMCは田崎雅元さんが独りで担当することになったのである。

 

結論から言うと、1982年10月から約2年でKMCは勿論、海外全販社が黒字化して、さらにその数年後100億円近くあったKMCの累損は全て消去されて、健全販社として生まれ変わったのである。

どのような新しい総合的なシステムを構築したのか?

当時の単車事業本部の世界の販社を含めた『経営のトータルシステム』は82年10月から6ヶ月でほぼその枠組みは完成したのだが、それが具体的にどんなものだったのか?

その詳細については、次回に詳しく述べたいと思ううが、

 

基本的に単車事業は、全て自らの意思で、開発機種も、生産台数も、販売先も、販売台数も計画出来る、非常に自由極まる事業なのである。

注文者は基本的にいないので、自らが決めねば誰も決めてはくれないのである

4輪に比べてはるかに小型だが結構値段も張り1台あたりの粗利も10万円の単位だから、1000台で1億円になったりする。

頑張れば10億円などの利益は直ぐ出てしまうのだが、逆に頑張り過ぎて売れなかったりすると、在庫金利も値引き額もそのレベルで発生する

事業のベースの台数などを、現地に聞いたりするから間違ってしまうのだと、私は今でも思っている。

世界の事業展開を経営次元では中央でコントロール出来る仕組みでない限り、安定した経営はムツカシイと思っている。

1982年からの数年間、世界の販社の事業計画なども全て明石の中央で全体最適地を求めて策定し、現地販社はその計画に基づいた実行部隊であることに専念したのである。

個別最適値の集積が=全体最適値にはならないのである

 

こんな綜合的な計画は、数人おれば組めるのだが、それを全軍に指揮命令するのには、結構位も要るのである。

私には、計画は組めても全軍を指揮する力は、新米部長では難しかったのである

その旗を振って頂いたのが、高橋鉄郎さんなのである

そのために高橋鉄郎さんには明石に戻って頂くことが、MUST 条件だと思ったのである

 

 

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カワサキZの源流と軌跡

2013-06-10 05:08:12 | NPO The Good Times

★ 今年は、カワサキの名車Zの国内販売40周年に当たる。

それを記念して、 『カワサキZの源流と軌跡』が 三樹書房より発刊されることになった。

リンクをクリックされて現れるサイトから予約出来ます

 

Zの開発に携わった人たちを始め、当時のカワサキを支えた人たちの執筆によるものである。

 

 

 

 

第1章から第14章までの目次と 執筆者のメンバー達である

 

 

 

 

 

私自身は、Zの開発には何の関係もないのだが、Z2が国内に販売された当時は、大阪の所長であった。

Z開発責任者の大槻幸雄さんとはカワサキ創成期のレース仲間だし、当時のレース担当は商品の開発にも色濃く関係していたし、Z2が国内のカワサキ独自の販売網『特約店制度』創設に大きく寄与したこともあって、当時のカワサキのイメージ戦略やレース展開、さらには販売網ネットワークなどの観点から、執筆者の末席に加えて頂いたのである。

そして、今現在KAWASAKI Z1 FAN CLUB (NPO The Good Times の特別プロジェクト)にも参画させて頂いているので、そのあたりのことについても触れている。

 

『カワサキZの源流と軌跡』特別限定版(限定250部)は、 

7月7日、KAWASAKI Z1 FAN CLUB 主催の グリーンピア三木で開催される

KAWASAKI  THE LEGENDS & FUTURE  の会場で、執筆者たちのサイン会として発売開始が予定されていることになっている。

 

 

 

 

こちらは40年前、国内でのZ2発売当時のカタログからである。

少なくとも、カワサキの商品で初めて『バックオーダー』が発生したのはZ2で、私も初めての嬉しい経験だったのである。

 

 

 

 

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○○周年 40周年、50周年、60周年

2013-06-09 05:43:56 | カワサキワールド

 

★世の中に ○○周年 というのはよくある。

昨年秋、カワサキZ1の発売40周年で、アメリカでその記念パ―ティーがあって出席したのだが、

よく考えてみると今年は、40周年が引き継がれていて、1973年にあった出来事は、全て40周年になるのである。

 

そういう意味ではZ1が世界での販売が発表されたのが1972年だったのだが、それは日本の明石工場を出荷されたということで、実際に市場に販売されたのは、1973年のことだから、今年が実質40周年とも言えるのである。

さらに言えば、国内市場向けに開発、販売されたZ2は間違いなく1年遅れで1973年の春のことだから、国内は今年が『Z2 発売40周年』なのである。

 

そんなこともあって、昨年秋、設立したKAWASAKI Z1 FAN CLUB は来る7月7日に、グリーンピア三木を舞台に

KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE と銘打って、Z 40周年の記念イベントを開催しようと企画しているのである。

このようなステッカーと、

このような缶バッチを準備して、カワサキの『真打ち』たちや、熱烈なカワサキのユーザ―たちを集めてのイベント開催を企画している。

 

 

★今朝、こんなブログを見つけた

カワサキのKXが40周年のようである。

そしてこんなステッカーも創られている。

 

 

さらには、こんなブログも見つけたのである

そしてそこにはこんな記述もあった。

 

 

1972年、(昭和47年)は私は大阪の所長をしていた。

山本隆くんが引退した年は従野孝司君と二人だったのだ。

従野孝司君は片山義美さんの弟さんで、私が片山さんのお母さんに頼まれて、中学卒業と同時にカワサキの製造部のラインに1年間入ると言う条件で引き受けたのである。多分1966年のことだと思う。そして67年からモトクロス職場に異動して、ノ―ビスのモトクロスからレースの世界に入って行ったのだと思う。

67年からは、私も仙台の営業部門に異動になったので、東北のモトクロスなどには従野孝司君はノ―ビスで、セニアの連中と一緒に来てくれていたのを覚えている。

 

このブログをリンクしてくれた主は大津信君である。

そしてその中にこんな記述がある。

 

この時期のことはなかなかややこしいが、

 

●この時代特にモトクロスは、MCFAJが主力であった。クラブチーム主体で各メーカーが実質的に資金を出したり、ライダーとの契約を結んでいたのが、城北ライダース(S)やスポーツライダース(Y)で、カワサキの場合はカワサキコンバット神戸木の実クラブの選手の内、契約を結んでいた人たちはファクトリーライダーだったのだと思う。

●青野ケ原はMFJ主催であったから、クラブチームは必要なかったのである。

●青野ヶ原のレースがあって後、カワサキが契約したライダー第1号は歳森康師のはずである。同時に厚木にカワサキコンバットが生まれ、三橋実、と契約したのが1963年のことである。

●そして翌年春 相馬ヶ原のMFJ 第1回全日本モトクロスには、カワサキチームとして出場しているので、ファクトリーチームが生まれたのは、この時点だと言っていい。歳森、三橋のほかに、山本隆、梅津次郎、岡部能夫、加藤清丸などが出場した。チームマネージャーは川合寿一、技術部からは井手、水町さん、製造部は松尾勇さん以下のメカニックが参加したはずである。運営資金は私の管轄下ではあったが、レースには直接関係はしていなかった。

●この直ぐ後、朝霧のMCFAJ の全日本モトクロスのオープン部門で山本隆が優勝を飾ったし、秋の伊豆丸の山では4種目中3種目に優勝した。この時点ではチームにヘリコプターも帯同させたりした大がかりなもので、間違いなくファクトリー体制であった。私自身がレースを初めて見たのが、朝霧である。当時カワサキの現場監督はレースに関しては三橋実だったが、ヤマハなども野口種晴さんが仕切っていたと思う。

●この時代技術部の担当は、エンジン。 マシンに創り上げるのは『レース職場』で製造部の担当。レース運営資金は広告宣伝費からと言うことでライダー契約も含め

カワ販がチーム全体の管理責任者と言う3者の協力体制で成り立っていた。これが前述の1972年まで10年間続いたことになる。

 

そういう意味で、カワサキのファクトリー体制は、

1964年春のMFJ 相馬ヶ原第1回モトクロスからだと言っていい。

 

★従って、カワサキのファクトリーレース50周年は来年だし、青野ケ原をスタートとするなら今年が50周年である。

昨日は国内の販社KMJのOB会慶睦会に出席したのだが、この会の20周年だと言っていたし、

メイハツから数えると創立60周年になると言うのである。

 

今年は国内Z2販売40周年だし、カワサキ特約店制度も40周年になるのである。

個人的なことで言えば、単車部門に異動して単車事業に携わって、昨年が50周年であった。

そういう意味では、今年からいろんなことがみんな『50周年』になるのである。

 

でも、50周年というのは、その当時、それを経験した人たちが主役になるのはなかなかムツカシイ。

40周年がやっとのような気がする。

カワサキの単車事業を引っ張ったアメリカKMCは今が45周年のはずである。この50周年となるとあと5年、その主役であった浜脇洋二さんや田崎雅元さんも80代に突入なのである。

100周年などは、諦めて後輩たちが先輩を忍んでやるものなのだが、

現実には40周年ぐらいが何とかなる、一番いい時期ではなかろうかと思っている

 

 

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カワサキのOB会 慶睦会と・・・・・

2013-06-07 19:38:18 | NPO The Good Times

★カワサキの国内販売会社カワサキモータースジャパンのOB会、慶睦会に出席をしました。

今年が20年の記念OB会であることから、東京、九州から石塚、石司両会長も特別出席するし、今年の4月に浅野新社長を迎えたこともあって、3年ぶりに出席をしました。

 

 

約50名ほどの出席メンバーでした。

KMJ と言う会社は、旧メイハツがそのスタートで今年は60周年になるそうですが、私はその50年前から関係していて3回の出向で、その出向期間は延べ20年を超えています。川崎重工籍ですが川重に復職した時は、KMJから逆出向したような感じをもっていました。

この全員の写真でも川崎重工の常務を務めたお二人が、最後列で小さく写っているのですが、そんなことを全然気にしたい自由なムードがこの会社の一番の持ち味です。川重の他の事業部ではなかなかこうはなりません。OB会の席次を決めるのが大変だからOB会はいやだ と言う他事業部の現役の人の話を聞いたことがあります。

 

大体OB会などと言うのは、その会社に最後まで勤めた人だけが権利があるのが普通なのでしょうが、慶睦会は1日でもKMJに籍をおけば権利ありです。

途中退社で販売店をする人もいますし、川重に復職する人もいるからです。さらにいえば前身のメイハツやメグロの方もOKで東京の慶睦会はそんなメンバーがいっぱいいます。そんなルールを20年前に創ったのはほかならぬ私です。

昨日も6人の販売店関係者の出席がありました。

 

 

スタートはこのように荒木会長挨拶できっちりとスタートしましたが、私の乾杯の音頭あたりから崩れてしまって

 

 

 

長老の西さんが何か喋られたころは、完全に喋り放題で、『もう止めよう拍手』が起こったりしました。

 

 

川崎重工の大前常務も、八尾カワサキの加藤さんにかかっては何十年前の品証の仲間でしかありません。

大前君結構ご機嫌でした。私よりは後輩ですから『君』と呼べるところがいいと思います。

 

 今回、私が出席した役目の一つに今月、来月と開催される二つのイベントへの招待、勧誘がありました。

まず一つは、7月7日のKAWASAKI Z1 FAN CLUB 主催のイベントです。間違いなく出席と言う人を何人か確保できました。

 

●さらに今月25日には、同じこのホテルで、

カワサキZの源流と軌跡』と言う三樹書房の新刊書の発表会があるのですが、その会合への招待です。

この本の執筆者は、浜脇洋二、大槻幸雄さんを始め、稲村暁一、富樫俊雄、百合草三佐雄、清原明彦、山本信行などの開発陣のほか、当時のKMC関係者斎藤定一、野田浩志さんなどのほか生産、販売関係も含めて、私もその一部を執筆担当しています。

 

KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE では本屋では売らない特別本を7月7日に発売開始し、その執筆者のサイン会もイベントでは行います。

さらに国内Z2発売40周年ということは、カワサキ特約店制度スタート40周年でもあるのです。

そんな関係者を一堂に集めて、さらに海外からもZに関してはこの人と言われているドイツ人ミッキー・ヘッセも、まだ公表は出来ませんが、驚きのスーパースターも、参加予定なのです。

カワサキのKMC 歴代社長は大モノ揃いですが、ずら―と並べば壮観だなと私は秘かに思っています。

ちなみにKMCの歴代社長は初代の岩城さん がもういらっしゃいませんが、

浜脇ー山田ー田崎ー百合草ー野田ー鶴谷社長と続くのですが、現在の寺西社長を含めて、山田さんを除く6名が、NPO The Good Times の会員さんですから、脈がない訳でもないのです。

こんなメンバーが揃えば現役の高田プレジデントにも、KMJの浅野社長にもお誘いし易くなるのかなと思っています。

KMJの現役の若手諸君も来ればいいと思っています。

こんな錚々たるメンバーが、仮に顔を揃えても、多分何十年前の昔の仲間に戻っての雰囲気で、カワサキファンの方たちと接することが出来るのが、

『カワサキらしくて』いいなと思っているのです

 

これから1ヶ月、いろいろと最新情報を発信します。

ご期待ください。

 

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KAWASAKI Z1 FAN CLUB

2013-06-07 05:32:10 | NPO The Good Times

 

★改めてKAWASAKI  Z1 FAN CLUB というカテゴリーを創った。

 来る7月7日に、ちょっとした初イベントを開催するのだが、今後もいろいろと続きそうなので、新しくカテゴリーを創って追っかけてみたいと思っている。

 

 

昨年の9月にZ1の発売40周年を記念して、アメリカで Reunion を開催するということだったので、それに合わせて、KAWASAKI Z1 FAN CLUB という特別プロジェクトを立ち上げたのである。

 

こんなホームページになっているし、

Facebook ページでは、世界から1200を超える『いいね』を頂いている。

 

既に幾つもの、Z1クラブが、世界には存在するが、きっちりとした会員カードまで創っての運営は多分初めてだろうと思っている。

NPO The Good Times の特別プロジェクトとしての運営だが、

既に会員になって頂いている方を紹介すると

 

● 開発や当初の商品企画に関係した人たち

浜脇洋二、アラン・マセック、大槻幸雄、稲村暁一、富樫俊雄、多田憲正、清原明彦、山本信行

 

●販売やカワサキの事業に深く関係した人たち

田崎雅元、百合草三佐雄、野田浩志、寺西猛、(歴代のKMC社長たち)平井稔男、北見紀生、古谷錬太郎

 

●Zをこよなく愛する世界の有名人たち

ミッキ―・ヘッセ、グレッグ・ウオ―カ―、岩城滉一、山本隆、和田将宏、金谷秀夫、金森稔(JS世界チャンピオン)

 

 

それにKAWASAKI Z1 FAN CLUB を支えるメンバーたち

 

この方たちは東北、関東、関西と散らばっているのだが、Facebook の中にグループを創っての運営なのである。

 

 

 ★ 7月7日、グリーンピア三木で、このようなイベントを開催することになっている

ドイツからはあのミッキイ・ヘッセがやってくるし他にも海外からビッグネームが来るだろう。

カワサキのメンバー達も、いつものカワサキの開発陣のほかに、Zの販売に携わったメンバー達も、その他いろいろ一堂に会することになるだろう

三樹書房で発刊を企画中の『Zの新刊書』の発表会も、本屋さんには並ばないその特別号は、この7月7日にその現場で発売開始になる方向で検討中で、執筆者たちもいっぱいいるのでサイン入りで手に入れることが出来る。

 

既に申し込まれている方だけでも十分に賑々しいのだが、

もし参加ご希望される方は、こちらの要領で申し込まれたらいいと思います

少々面倒ですが、それなりの価値は十分にあると思います。

 

 今後新しい情報、発表可能になれば順次公開します。

最高のメンバーが集まる会合になるはずです

 

 

★このKAWASAKI  Z1 FAN CLUB の代表を務める渡部達也さんのことが

今月号のカワサキバイクマガジンに載っていた。

 

 

 

 

この本の中でも取り上げられている『特約店制度』も国内Z2と同じ年の誕生なので、『特約店制度40周年』でもある。

当時のこの制度起案者の野田浩志さんも、その推進の中心人物藤田孝明さんとその仲間たちもいっぱい集まる

 

そして渡部達也さん、タッちゃんは 

 昭和41年度(1966) カワサキオートバイ販売定期採用の第1期生なのである。

現役時代から、特約店制度、ジェットスキー、ケイスポーツシステム、九州のオ―トポリスなど新しいことばかりを手掛けて、

今はNPO The Good Times の副理事長をお願いしている。

そして、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の代表も手掛けている。

 

NPOの今年最大のテーマ 『二輪文化を語る会』の活動展開の嚆矢になり得るであろうか!

 

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思い出いっぱい明石のまち

2013-06-06 06:40:24 | 自分史

★昨日は久しぶりに明石のまちを訪ねた。

明石市役所と明石年金事務所に用事があったので、その近くを訪ねてみた。

子どもの頃の思い出もいっぱいである。戦後そこで育った。

本籍も生まれ故郷の『明石上の丸』にそのまま置いているので、『戸籍謄本』を貰いに行ったのである。

 

まず明石市役所に戸籍謄本など貰いに行った。

今市役所が建っているところは昔は海の上なのである。

 

 

市役所の南から眺めた明石海峡。 向こうの島が淡路島である。

二つの鉄塔、右の方が川崎重工、左は三菱重工が造ったのだとか。

 

 

海水がこんなに綺麗だったのは意外だった。

 

 

この通りが昔の『中崎海岸』 この右手は直ぐ砂浜だったのだが、今はそこは道路になっていて市役所はさらにその向こうにある。

 

 

この中崎公園の直ぐヨコに今は明石勤労福祉会館がある。この建物は新しく建てられているが、 

小学生のころ戦前伯父がオーナー叔父が支配人をやっていた『錦江ホテル』があったのだが、

戦時中に軍の宿舎として川崎航空機に接収された。

それが私と川崎のご縁の始まりなのである。

伯父と当時の総務部長砂野仁さんとの間で売買契約書が交わされている。

当時の金で100万円だった。その契約書を川崎航空機に入社し財産課にいたので知っているのである。

 

小学生のころ夏、冬の休みには、朝鮮から戻ってきて、特に夏はホテルから海へ泳ぎに行ったものである。

外人の人たちも来たりする結構カッコいいホテルであった。

 

 

その向こうにあるお稲荷さんのある敷地は、叔父の家だった。 お稲荷さんは子どもの頃からそこにあった。

戦時中叔父も叔母も爆撃で亡くなった。

その屋敷跡は戦後、宇治から明石に来られた辻勝一さんにお譲りしたのだと思う。戦後ここで辻さんは建築業をスタートされた。

昭和20年末、毎日のように伯父と一緒にここを訪ねていた。引き揚げてきて中学校に入学するまでの、数ヶ月のことである。

辻さんは後明石の商工会所の会頭をされたり、砂野仁さんは川重の社長をされたりしたのだが、

私にとっては中学に入るころ、伯父と一緒によくお会いした『おっちゃん』のイメージが今でも一番濃く残っている。

 

 

表にはまだ『辻勝一』の自筆の表札がそのまま残っている。

伯父は長寿院の檀家総代をしていたのだが、そのあとを継いで頂いたのが辻勝一さんである。

その辻さんももういらっしゃらない。

 

市役所を訪ねた帰り、そんな思い出の地を通ってみた。

 

 

 

 

明石年金事務所の直ぐヨコが明石公園である。

このあたりは南側だが、私の生まれたところも。伯父がいたところも、今本家が残っているところも。この明石公園の東北あたりで、明石公園は子どものころの遊び場で、学生時代の野球の練習をしていたのも明石公園の球場なのである。

今はこんなに綺麗に復活したが、

戦時中この明石公園には、明石の人たちが空襲のたびに避難したのだが、そこに爆弾と焼夷弾が無数に落ちて、戦後は木々も見る影もなかったのである。

伯父の屋敷内にも爆弾は3発、焼夷弾は無数に落ちていて、ここは安全と神戸の知人から預かった荷物も含めて全焼し、叔母はそこで亡くなったのである。

 

川崎航空機があったので、明石のまちは空襲を受けたのだろうとは思っている。

そんな思い出いっぱいの明石のまちである

 

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連続5度目のワールドカップ

2013-06-05 19:41:16 | スポーツ

 

★ 日本のサッカーも強くなったものである。

息子が子どもの頃からサッカーをしていたこともあって、もう40年も日本のサッカーを見てきた。

40年も前は、ワールドカップなど夢のまた夢、どこか他国の国の話だと思っていたのだが、

連続5回も出場とは、20年間もずっと出場していることになる。

 

これだけ、強くなったのはやはり J リーグ ができたからだと思う。

日本代表を応援するサポーターのスタイルも、素晴らしいと思う。

全てが、昔とは様変わりの子どもから日本代表まで繫がっているトータルシステムの勝利なのだろう。

 

一足先に、女子が世界王者に輝いたが、男子も出場するだけではなくて、ぜひ優勝を狙っての戦い をやって欲しいと思う。

 

昨日、ワールドカップ優勝を決めた一瞬の写真である。

 

昨日は、ダメかと誰もがそう思っていた時間帯での出来事なのである。

かっては、この逆のことばかりを数多く経験してきた。

その最たるものが、『ドーハの悲劇』だろう。

 

こんな時間帯に追いつけること自体が、日本実力がホンモノになった 証拠だろう。

 

 

香川を始め、海外のトップチームで堂々と活躍する選手達がいっぱいなのである。

香川などは、間違いなく世界のトップレベルだと言っていい。

 

他にも候補はいっぱいいる。

これから1年の間に、もう一段大きくなって欲しい。

 

 

 

会見に臨む日本代表たち。

それぞれがサマになってきたように思う。

 

 

 

選手達も、

 

 

ザッケロー二 監督が特に素晴らしかったと思う。

世界で最速で、ワールドカップ出場を決めた日本、

ぜひ優勝を目指して頑張って欲しい

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団塊世代の終活事情 葬儀の話

2013-06-05 05:42:34 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★『戒名よりも孫を優先?!  団塊世代の終活事情』 というニュースが載っていた。

 

つい先日、母の葬儀をやったばかりだから、なかなかのタイミングである。

喪主を務めることなど、よほどのことがない限り何回もないのだろうが、誰でも1回ぐらいは遭遇しそうである。

ただ、日ごろから葬儀のことなど調べたりはしないのだろうから、まず『無知』に近い

事実、私自身も無知に近かったのである。

 

 

記事にはこのように書かれている。

 

 

★この記事を見て、『なるほど』 と全体としては大いに納得出来たのだが

 

● 『葬儀の費用』とは、 通夜と葬儀の2日間を言うのだろうか?

● 『僧侶に渡すお布施』とは、戒名代も入っているのだろうか?

● さらに、約1ヶ月先の『49日』までの7回の法事代は?

 

さらに言えば、お墓のない方は墓の費用も、仏壇もいるのだろう。

我が家の場合は、墓も仏壇も既にあるから、大要上の3つの項目だけであった。

 

 

★ 葬儀を経験してみての感想を言うと、

葬儀で一番重要なのは、『どんな葬儀をするのか』と言う基本コンセプト 

いろんなことを決めていく 決断力』  この二つでほぼ決まりだと思うし、

全て終えてみて、非常にうまく出来たと、 『大満足』の状況なのである

 

我が家の場合は、母は103歳の大往生だし、全くの身内で、通夜は20人弱、葬儀は12人だったので、

基本コンセプト通りの、『非常に気楽な明るい葬儀』が出来てよかったと思っている。

一番掛ったのが、通夜の飲み代で、忘年会のようなお通夜だったのである。

葬儀は安く出来たと思うが、それでも何十万のレベルになるし、なかなか大変である。

いろんな項目を即決で決めねばならぬのだが、それに直面すると『それは要りません』という言葉が一番難しいのだと思う。

記事にある平均値の半分以下で出来たから安くできたと言っていい。『それは要りません』と言えたからである。

 

 

僧侶に渡すお布施』 これがまた曖昧模糊として見積もりも定価もないし大変である。

明石藩主松平家の菩提寺長寿院は、格式は高いのだが、最近はどなたにでも解放のようである。

 

その渡し方などもしきたりがあるなどとヨコで言うのだが、

そんなことはお構いなく、自分の思う通りのことをはっきりと言ったら、その通りに出来た。あまり経験のある人の意見など聞かない方がいい

我が家の場合は、こんな1ヶ月半にも亘る、10回以上の仏事をその都度いろいろ気を使ったりするのは大変なので、戒名代も含めて、49日法要までの分を6月12日の14日法要に日に一括でお渡しすることで、ご了解頂いたのである。

これは多分普通のしきたりではこうはならないとは思うが、別にそんな 決めごと みたいなものに左右されることはないと思う。

大体、私などは葬儀や仏事の時だけの仏教徒で、普段は何の関係もなく生きている。

こんな時だけ誰かが決めた決めごとに従うことはないと思う。

 

 

★一番訳の解らないのが『戒名』である。

この名前を付けて頂くのに、費用が発生する。

息子などは 『戒名とは何のことか?』などと真顔で聞いたりした。

上の表で、『必要ない』と思う人が、若い人に少ないのは、『戒名が必要』と思っているのではなくて、息子と同じように『戒名の意味』が解らないのではなかろうか?

 

 

 

母の場合は、『私の葬式代』 と生前私に渡してくれていたので、『戒名』だけは、

父と同じ『院号』を躊躇なくお願いしたが、

これは私が決めたのではなくて、多分母は『院号』が付いて当然 と思っていただろうと 思うからである。

 

 

 

★そんなことで、母の葬儀は滞りなく終わったし、49日までの法要も、全て長寿院の立派な本堂でお願いすることにした。

そんなことをしたら高くつくのでは、 そんなことはない。

明石から三木までご住職が来られるよりは、当方が出向いた方が、ご住職にとっても都合がいいはずなのである。7回全て出席しなくてもご住職がちゃんとやっておきますからと、当方の希望通りで決まったのである。

従って、もう全て段取りは終わったようなものである。

ただ、市役所などの諸手続きが結構ややこしい。ちゃんとやると幾らかのお金も頂ける仕組みなのだが、これは役所に行ってちゃんと手続きをしないとダメである。

 

人生80年、 『差別化』を基本に生きてきたが、

母の葬儀も世間一般とは『差別化』された形で終わった。

これで、多分母も文句を言ったりはしないはずである

 

 

 

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