雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

田崎さんが送ってくれた写真から

2017-06-17 07:18:12 | カワサキ単車の昔話

★私は、いろんな記録は持っているのだが、現役時代の写真は殆ど持っていない。

先日来、田崎雅元さんが、いろいろと写真をいっぱい送ってくれてるので、その中から旧いものを並べてみたい。

 

 

 

 まずこの写真、多分 MCFAJの富士の裾野の朝霧高原であった全日本モトクロスの写真ではないかと思う。

 山田熙明さん、当時は技術部長のころだが、髙橋鐵郎さんは解るが、田崎さんその間かな? メカニックの福田・藤森さん、など何となく解るがあとはよく解らない。井出哲哉さんと松本博さんかも知れない。

 

  

 

 これは鈴鹿アマチュア6時間耐久、カワサキが初めてレース監督大槻幸雄・副監督田崎雅元と監督を指名したレースで、ロードレースはこれが2度目、会社が認めたロードレースとしては初めてのレース、1962年6月13日。

その1ヶ月前の5月13日、鈴鹿ジュニアロードレースに、会社には内緒で初めてロードレースに出場し、山本隆がホンダに次いで3位入賞を果たしたので、一気にロードレース熱が盛り上がったのである。このレースにも、私と田崎さんは密接に関係しているのだが、現場には行っていない。3位入賞など『夢のまた夢』の話が現実となったのである。

カワサキが初めて鈴鹿を走った日     http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63

 

この6時間耐久レースには、3台のマシンで、加藤・飯原のテストライダーチーム、岡部・梅津のカワサキコンバット、歳森・金谷の神戸木の実クラブの3チームで出場した。

山本隆は、1か月前のジュニア・ロードレースに出場したので、『アマチュア』の資格がなかったのである。そんなことで歳森康師が急遽連れてきたのが金谷秀夫で、金谷はこれがカワサキの初めてのレースである。

多分、一番手前が歳森康師、真ん中が岡部能夫、一番右は加藤か、飯原だと思う。途中歳森・金谷組も、加藤・飯原組もトップに立ったりしたのだが、両者とも転倒、岡部は1周目トップグループでスタートしたのに、『スプーン・カーブ』に水があってトップグループが何台か転倒などと言う派手なレースだった。

カワサキも、スズキも、ヤマハも当時のモトクロスライダーがいっぱい出場していた。

 

 

    

 

カワサキのアメリカ市場・開拓当時、そのリーダーの浜脇洋二さんが名付けた『7人の侍』がいたと言われている。

そのうちの6人が揃って写っている、貴重な写真である。

田崎さんがアメリカに渡ったのは、『鈴鹿6時間耐久レース』のあった年の8月、その年大槻さんもドイツ留学が決まって、8月10日にレースチームで二人の送別会をやっている。

浜脇さんの本によるとブラジル市場調査の帰り、アメリカによって、アメリカには二輪の市場があると思ったのは1964年3月のことで、ここからアメリカ市場開発が始まっているのである。

この時点ではすでに、川崎航空機では単車再建の方針が決定して、広告宣伝課なども創られ、私はそれを担当したりしているのだが、市場は国内だけだったのである。浜脇さんは社内でアメリカ市場への進出を提案し9月に本社企画から輸出課長となっている。

アメリカ市場の開拓は、ここから始まっているのである。浜脇さんがまずアメリカに連れて行ったのは企画に一緒にいた渡辺くんだと思う。彼は私の大学の後輩なので、『アメリカに行きます』と挨拶に来てくれた。

そして、その次にメンバーに加わったのは、トーハツにいてアメリカ市場にいた杉沼浩さんで、濱脇さんがどこからか見つけてきたのだと思う。これが1964年の末か65年の初めだと思う。

私も国内のことはきっちりと記憶があるのだが、アメリカの話は、何となくしか解っていなかったのに、ごく最近田崎さんがいろんな話や写真を送ってくれるので、時系列に改めて整理できることになったのである。

田崎さんがアメリカに行ったのは、明石工場としては第1号で、その任務はサービス・エンジニアだったという。それが1965年9月でその赴任地はシカゴだったのである。そして、サービスをやるには部品はMUSTということで、シカゴに部品会社を立ち上げることを提言し、それがAKMとしてできたのは1966年のことで、そのために部品の担当者の黒田くんをアメリカに呼び、会社の経理をやるために、私と同期の久保勝平くんが、アメリカに渡り、さらに明石から種子島経さんが加わって『7人の侍』となったのだろう。

この部品会社AKMが、後の販売会社KMCの母体になっているのである。

 

 

 これは1973年とあり、岩城さんも顧問となっておられるが、KMCの初代社長は当時の川崎航空機常務であった岩城良三さんだった。 そして右端は、7人の侍の一人で、上の写真には抜けている杉沼浩さんなのである。

 

 田崎さんからの写真、他にもいっぱいある。

 

  

 これはIKS20周年 ということであれば、多分89年以降だろう。IKSには直接関係のない、私がいるのはよく解らないが、ひょっとしたら記念講演のスピーカーとして呼ばれた時だったのかも知れない。

左から3番目が山田晴二さん、この時はIKS社長だが、濱脇さんの次のKMC社長でもある。私の右は同期の鈴木啓司さん当時はIKSにいたと思う。後列のメンバーも、皆さん懐かしい顔ぶれである。

 

 

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プロ野球 ベストナイン  雑感

2017-06-16 06:40:29 | 発想$感想

 

★長嶋茂雄が選んだ『プロ野球ベストナイン』という記事が載っていた。

  https://www.j-cast.com/2017/01/10287686.html?p=all

 

      

 

イチロー、山本浩二、松井秀喜の外野手を手始めに、一塁・王貞治、二塁・高木守道、遊撃・広岡達朗、捕手・野村克也、投手・金田正一の順に披露。

最後に残った自らの守備位置の三塁はあえて、西鉄で活躍した強打者の中西太を選んだ。

 

 とある。

 

イチロー・松井秀喜を除いては、昔の選手ばかりで私自身の年代の方も多いし、そのスター性については、異論をさしはさむ余地もないのだが、ホントにベストナインか? と言われるとなかなかムツカシイ面もある。

野球でも、水泳でも、サッカーでも昨今の日本のスポーツのレベルは、昔に比べて格段の差があって、水泳のようにタイムが出るものは、その差は歴然とするのだが、野球などの評価は、もう一つよく解らないのである。

この中で、イチロー・松井秀喜は、大リーグでもその実力を認めらて世界に通じる実力だから問題ないだろう。その他では金田正一は飛びぬけていて今でもやはりナンバーワンだと言えるのだろう。

 

私は1933年の生まれなのだが、1932年が広岡33年に金田・中西 野村35年、長嶋36年と同じ年代の選手が並んでいて、広岡・長嶋・王が巨人に入団したころは、明石球場で春季キャンプをやってたので入団当時の3人をこの目で見て、当時の実力は何となく解っている。

広岡の守備は当時から華やかだったが、ショートの守備だけで言うなら、今の現役ショートは当時の広岡・吉田クラスはザラにいて、今の現役諸君のほうが格段上手いのではと思ってしまうのである。

 

    

 

広岡と並び称された吉田義男さんは京都山城高校なのだが、夏の甲子園のあと1950年、豊岡市の市政発足記念に京都山城高校。米子東高校・明石高校が招待されて試合をしたりしているのである。

 

         

 

 金田正一も同年代で、国鉄スワローズに入団したころは、伯父の楠見幸信が総監督をしていて、甲子園の家族切符など貰っていたのだが、一度だけ入団1年生の金田正一が球場の入口までその切符を届けてくれたことがある。特に話もしなかったが、めちゃくちゃ背が高いなと感じたのを覚えている。

金田は1950年3月、3年生になる直前の時点で、設立されたばかりの国鉄スワローズにスカウトされ、3年夏の予選で敗退するとすぐに高校を中退し、シーズン途中に国鉄へ入団』とあるので、多分入団早々のことで、私は高校3年生だったと思う。

金田はその後何度も球場でそのプレイを見たのだが、一番印象に残っているのは。『体の柔軟性』で相撲取りのようなまた割をウオーミングアップの時に楽々とこなしていた。

今でこそ、スポーツ選手のストレッチは常識だが、当時そんなことができる野球選手は、見たことがなかったのである。

 

打撃で言うと、当時、巨人がキャンプを張った明石球場も、甲子園球場も当時の打撃力では球場が広すぎて、ラッキーゾーンがあって、今の球場のフェンス(当時は旧フェンスと言ったりしてたが)を超える打球は珍しかったのである。

巨人の練習を見ていても、ラッキーゾーン越えは兎も角、旧フェンス越えは珍しかったのである。最近は高校生でも軽々と越えてしまうのである。私は、高校の時も大学でも、ラッキーゾーンのあった明石球場で練習していたのだが、旧フェンス越えなど、考えられないことだった。

 

     

 

 王も長嶋も野村も、大選手であることは間違いないのだが、当時の実力が今のプロ野球の選手たちより、上を行ってるかどうかは、よく解らない。

 

    

 

 逆に、今の現役選手は、スマートすぎて、昔の選手のような『迫力』がないのは確かである。

 

 

       

 

 そんな中で、この二人は、やはり別格かな と思う。

 金田正一 を加えてこの3人が実力的には、とび抜けているように思うのだが・・・

 果たして、ホントはどうなのだろう。

 

 記事はこんな言葉で結ばれている。

察するに、長嶋氏は自らが監督としてこのメンバーで日本代表を編成し、大リーグ選抜軍と試合をしたいのだろう、と思う。野球を語る長嶋氏はさすがに魅力がある。騒ぎになるのかどうかはこれからだが、長嶋氏のお説に表だって異議を唱える野球人はいないと思われる。長嶋茂雄はそういう存在なのだ。

 

 

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共謀罪法成立  雑感

2017-06-15 17:14:36 | 発想$感想

★今日のニュースは『共謀罪法成立』に明け暮れた。

どうも、法律という難しいものは嫌いだし、積極的に理解しようとも思わない。

だから、世に言われている『テロ共謀罪』の法律の中身もよく解っていないし、解ろうとしても無理だから最初から諦めている。

 

朝日新聞の夕刊が来て、その中味はすべて『共謀罪』に関するもので埋められている。

朝日新聞は、中身は兎も角、今の『安倍さんのすること』には殆ど反対であるから、勿論この『共謀罪』についても反対である。

 

 

      

 

 ただ、世論調査の結果は、大勢が賛成となっているが、賛成に投じた人たちがホントに法律の中味を解っているのかと言えば、これは『解っていない』けど『賛成』と言ってる人が殆どではなかろうか?

庶民とは、大体そんなレベルだと思う。

世界のいたるところで、テロが起こっている。

テロが起こってしまってから、犯人を捕まえるのではなくて、そんな『共謀』をした段階から犯人を摘発して、『テロを未然に防ぐ』ということなのだろうから、普通に考えると『賛成』するほうが普通だと思う。

然し、朝日などの論調を見ていると、『監視・密告広がる』とか『市民運動も対象』だとか、いろいろと考えすぎで、政府を信頼していないのである。

野党も、同じような論調なのだろうが、世論は一応は国を信頼して、『そんなひどいことにはならないだろう』それよりは『テロは起こって欲しくない』 サリン事件でも『起こる前に摘発できていればよかった』というような、『政府自民党』を信じてる人のほうが多数だから、世論調査の結果もこうなるのだろう。

 

★私自身は、バカみたいな『性善説派』だから、安倍さんを信じて、『そんな無茶なこと』をしたら、『ちゃんと対処をするだろう』と思って、今の政治家に任しているのである。

この法律の『審議は十分だったか』との質問には『十分でなかった』となっている。

 

   

 

野党の質問も、国民に理解させるような質問ではないところが問題だし、今もABC放送が『反対のための反対』の議論を展開している。こんなことだから、『マスコミもダメだ』と言われてしまうのだろう。

野党もマスコミも『反対のための反対の理論』を展開するから、結果的に『安倍政権に票が流れてしまう』のだろう。

野党は、『一般の大衆の普通の心理』を理解できていない。

どんどん結果的に『安倍さんを応援している』ようなものである。

 

 

 

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Z1会 第60回記念コンペ

2017-06-14 18:15:24 | 発想$感想

★昨日は Z1会第60回記念コンペだった。

2000年に技術部の7人でスタートしたこのコンペは、今では春2回、秋2回の年4回の開催となって、17年の長きに亘って続いている。

一度も雨に降られたことがないというこのコンペは、昨日も梅雨の最中の快晴に恵まれて賑々しく開催されたのである。

 

   

 

昨日は、カワサキフランスの社長を務めた 遠藤治一さんも参加して ルマン24時間に入賞した塚本昭一くんを入れての記念撮影である。

 

  

 

一緒に回ったメンバーは、メーちゃんこと 山本信行さんと、Facebookでも毎日繋がっている髙橋芳延さん。Z1会のメンバーは、結構レースに関係してた人が多いのが、その特徴とも言えるだろう。

 

 

 
久々に参加した 梁 明 くんが優勝だが、私も最近では珍しく100が切れて、準優勝ということになった。
 
ずらーっと並んだ名前は、GPライダー的野くんも、古川さんもいるし、カワサキの創世期初代レース監督の大槻さんも、当時のメカニック藤原良さんも、W1で全日本モトクロスを走ったメーちゃんも、世界の耐久レースを制したカワサキフランスの遠藤さんも名前を連ねているのである。
 
 
     
 
 
   この二つの写真、昨日一緒に回った 高橋芳延 さんのFacebook から、頂いてきた。
 
 梁 明くん  見事優勝である。
 
 
     
 
 
 
 
スタート前から、コンペの表彰式まで、こんな雰囲気なのである。
 

 

最後の大槻さんのご挨拶にもあるように、このコンペを支えているのは、ずっと幹事を務めてくれている、仲さんや藤原良さん、中村さんなどが『縁の下』となって確りと支えてくれている賜物なのである。

次回は9月13日、最終戦は11月8日と既に決まっている。

是非、参加したいと思っている。

 
 
 
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84歳 いまからどう生きるか?

2017-06-13 14:36:51 | 私の生き方、考え方&意見

★先週末はカワサキの東地区のOB会で東京に行っていたのだが、メイハツの大先輩で、今年96歳という矢崎文彦さんにお会いして大いに元気を貰ってきたのである。

 

  

 

  

 

 最近は、外で私より年長者にお会いする機会は少ないのだが、矢崎文彦さんとても96歳とは思えない。

 頂いた名刺は『東京葛飾バイコロジー推進協議会会長』とあって、まだ現役の長としてご活躍なのである。

 バイコロジー (bikecology) とは、bike(バイク=自転車)とecology(エコロジ-)を合成した造語で、運転時に排出ガスを発生させない自転車を利用することで大気汚染などの公害を防ごうという社会運動である

 

ただ単に永く生きるのはもう一つだと思っていたのだが、

かくいう私も84歳、それなりに元気であると自負してはいるのだが、96歳、あと12年先にもし生きていても矢崎さんほど『しゃんとして』OB会に出席できる自信はないのだが、あんな風に生きれるのなら、『長生きしたい』と本当にそう思ったのである。

 https://www.youtube.com/watch?v=lnpA37mUKJo&t=129s

どれくらい、『お元気』なのか確かめたい方は、この動画をどうぞ。

 

 

★私自身、いま84歳。こんなに生きるとは思っていなかった。

いつまで生きれるかは『』だと思っているので、自分の思う通りに『やりたい』ように『生きたい』と思っているのだが、73歳からの10年間は結構立派に生きれたと思っている。

この間に、パソコンを覚えたし、ブログもツイッターもやりかけたし、体力も10年前の74歳といまと比べて、全然衰えていない。むしろ、今のほうがダッシュをしたら、比較にならぬほど速く走れる自信がある。

私の生き方の基本は、若い頃から『差別化』である。 人とはちょっと違った、ちょっとだけ『いい生き方』をしようと思っていたし、それがほぼ100%できている。

現役時代もそうだったし、引退後も間違いなく、一般の方とは『差別化』できた生き方ができている。

その一つが8年前に立ち上げた NPO The Good Times   http://www.thegoodtimes.jp/  というカワサキの二輪事業の理念を引き継いだNPO法人としての『トータルシステム』だが、これがほぼ思い通りに『仕組み』として完成して『異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時』が過ごせていると思っているのだが、これから先についてはこの8年のように華々しくは無理かな、と思っていた矢先なのである。

ただこれは、本当に頑張って使ってみようという方が現れたら、間違いなく120%機能するように、すでに完成している世界でただ一つの『仕組み』だと自負している。

 

★いま、『カワサキの40年』を振り返って『カワサキの二輪事業と私』という自分史も書いていて、80年代からは、川重の社長も務めた昔の仲間田崎雅元さんも手伝ってくれているのだが、今が1987年度だから、あと約10年はこの夏あたりまでで完了すると思うし、一区切りついたらどうしようかなと思っていた矢先なのである。

私は、若い頃から、自分がめざした目標は『実現しないと意味がない』と思っていたし、結構ムツカシイ目標をめざしたのだが、その殆どは『実現出来て』いて、実現できなかったのは『松井田のサーキット』ぐらいなのである。

84歳のいまも、今からの目標は『頑張れば実現できる』ものでないと、ダメだなと思ってたのだが、果たして何年生きられるのか、その辺が不安だったのだが、先週矢崎さんを見て、こんな元気な96歳がいるのなら、『何か目標をちゃんと見つけたい』と思っていたのである。

そんな目標は、頑張れば今より立派に成長するものでないといけない。そしてそれは世の中で、ちょっと『差別化』出来てないとダメだと思って考えていたのだが、もう一度ちゃんと薔薇を育てることにした。

薔薇』は普通の庭仕事と違って、結構努力はいるし1年中頑張らないと『いい花』は咲かないのである。

薔薇を始めたのも70歳代になってからで、やり始めて5年ぐらいまでは見事に咲いていたのだが、NPO関係など忙しくなってからは、サボってしまって咲くには咲くのだが、自分が思うようには咲いてくれなかったのである。

それが、昨年あたりから、またちょっと頑張ってみたら、今年は結構ちゃんと咲いたし、何よりも今に時期、来年の主枝になる『シュート』がいっぱいなのである。

 

 

 

 

 

シュート』とはこんな新しい強力な枝のことで、普通に育てたのでは発生しない。そしてこれは来年の主枝として、立派な花をつけてくれるのである。

こんな『シュート』がいっぱいなのは、昨年から今までの努力の成果で、この数年はお目に掛らなかったのである。

 

薔薇をもう一度ちゃんと育てよう』と思ったもう一つの理由は、

この4月から始めた Instagram   https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja   である。

 

  

 

まだ2ヶ月しか経ってはいないが、フォロワーの数は4000人に近いし、写真に対して頂く『いいね』の数は400に近く、これはもうすでに、結構な水準なのである。

これも、私独特の『差別化』した取り組み方の結果で、普通ではなかなかこうはいかないのである。この調子で行けば、1年経つころは、Instagram でも間違いなく『トップレベル』になるだろうと思っている。

 

 

 

 そのためには『被写体』がまず立派であることが求められるので、薔薇を綺麗に咲かせることは、条件の一つになるのだろう。

 

 そんなこんなで、これからまたちょっと、『庭の薔薇』を生き方の一つの目標とすることに決めた。

 こうして、『ブログに宣言』しておけば、サボりよけになるだろう。

 ついでにもう一つ、『近くの公園での50メートルダッシュ』も筋力保持のために続けたい。

 

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その58 昭和62年(1987)

2017-06-13 07:39:51 | 自分史

★昭和62年(1987)は、地価の異常高騰、銀座で1坪1億円を突破などの記事もあるが、俳優・石原裕次郎が死去とある。石原裕次郎、私より一つ下、こんなに早く亡くなっていたのだ。

この6年間カワサキの二輪事業の再建の中枢であった企画室に籍を置いて、一筋に『カワサキ単車の再建を』願ってやってきた6年だった。それがいろんな方たちの協働で実現し、この年には新しく単車と発動機が合併して、高橋鐵郎本部長のCP事業本部がスタートしたのである。

CPとは、Consumer Product 末端消費者向けの商品を造る事業部という意味で名付けられたのである。

 

この年のことを振り返って、田崎雅元さんはこんなメッセージを寄せてくれた。

1987年3月に帰国した私は、41日付で、2度目の単発合併後のCP事業本部企画室副室長に就任している。企画室長は、柏木さんだった。二人で今度は失敗しないように、充分に話し合いをしながら、お互いの悪口は言わない、という方針で行こう、という事にした。

 元々単車は、発動機の中にあってメイハツ工業にエンジンを提供していたのがそのスタートなのだが、1960年代単車事業部として分離独立し、1970年代に一度発動機事業本部として統合されているのだが、その時点でも既に単車事業のほうの規模が大きくなっていて、何となくぎくしゃくしたこともあったので、田崎さんはその時のことを反省してこのように、発動機から来られた柏木さんと話されたのだと思う。

私自身は、企画から営業総括部の担当に異動して、この年からはいろんな実務展開を担当することになるのである。

まずアメリカKMCについては、百合草新社長体制となっているのだが、順調に推移してこの年で大目標としていた『38百万ドルの累損の消去』も目途が立って、国内カワ販から逆出向していた富永・日野君も8月には帰任することになるのである。

ヨーロッパ・国内については二輪車というよりも、新事業のジェットスキービジネス新しい仕組みの構築が一番大きな課題であったのである。

ジェットスキーはもともと、発動機のエンジンをアメリカに送り、リンカーン工場で組み立てて、KMCで販売するという事業であったために、明石の単車事業部は一切関係がないというちょっと異質な形になっていて、KMCの経営悪化の一因となったスノーモービルも同じ形態であったため、ジェットスキーを事業本部の本来のビジネスとすべく、数年前から鶴谷将俊さんがJS担当として、企画室内でいろいろとやっていたのだが、この新職制で初めて営業総括部内に『ジェットスキー部門』が出来て、鶴谷課長も一緒に異動してきたのである。

そしてこの年国内市場では、レース協会JJSBAの充実強化と共に、ジェットスキー専門販売網を創るという方針でスタートするのである。

この販売網の専門店政策は、当時ボート屋さんで年間200台ぐらいしか売れていない国内市場で『果たして専門店が成り立つのか?』という疑問もあったのだが、JSはボートとは全く違うレースが中心の商品だからボート屋とは違った専門店を創らないと成功しないと信じて、3月には神戸にJSプラザを直営のような形でスタートさせ、6月には福井昇くんが明石に実質第1号店をスタートさせるのである。

ちなみに、神戸の店はカワサキOBの吉田純一さんに店を貸して貰ってのスタートだったのだが、大きくて見栄えもよかたので、その後に続く専門店網もスムースに出来たのだと思っている。数年後には国内で7000台を売るまでになるのである。

 ヨーロッパについては、オランダにJS専門販売会社 Kawasaki Jet Sky Europe をスタートさせたし、アシックスと提携してジェットスキー専門シューズの開発を図るなど、Jet Sky ビジネスの専門化・本格化をめざしたのである。

 

 

★営業総括部門は、結構順調に推移したのだが、企画部門はいろいろとあったようである。

この年あったという田崎さんがメールしてくれたこんな話も、全くの初耳なのである。

 当分は、順調に進むと思っていたら、6月に入って間もなく、厄介な問題が出てきた。本社技術研究所の所長で副社長の中村さんの一人一件の新事業を!の掛け声で生まれた、ホバークラフトをCPの製品に加えろ、と言って400CCのエンジンを搭載した一人乗りの試作品を造り、評価を求められた。騒音と操縦の不安定で、アメリカのP/L対応は難しく、マーケットも限られている、とネガティブな対応をした。中村さんは、高橋さんに、「これは君と僕との職を賭けた戦いだ!」「CPがやらないのなら、日商にやらせる!」などと激昂した。高橋さんも、手を焼いていたが、アメリカのリーガル部門、販売部門の意見も取り寄せ、抵抗しているうちに、何時しか立ち消えになった。

 大庭本部長の時代から、明石の技研とは密接に繋がっていたから、こんな話も持ち込まれたのだと思うが、全然私の耳には入っていないのである。

 

 

7月13日には直入町の岩井町長が来社して、二松荘で接待した。毎年のように、工場建設と雇用問題の契約不履行の補償金の話だった。来社して、工場建設と雇用問題の契約不履行の補償金の話だったと思う。

 

こんなことも書かれているが、直入町のテストコース問題は、旧く昭和49年(1974)にテストコース用地として購入し、農業振興地域の指定解除の条件として、雇用規模200名などが契約で義務付けられていたのだが、その後事業本部の経営状況はとてもテストコースなど建設できる状況ではなく、直入町と契約した諸条件が不履行になっていて、直入町長以下が年に何度も来社してムツカシイ交渉がずっと続いていたのである。

私の企画室時代は、具体的な案件が大分工場の人員雇用問題だったので、この担当は生産関連部門だったのだが、発動機との合併で組織変更があって、企画担当になったのだと思う。

この対応は大変だったのだが、翌年ひょんなことから、SPA直入の建設と、ジェットスキーゲレンデを創ることを私が提案して、営業部が担当することになるのだが、トントン拍子に話は進んで、『直入問題』は解決するのだが、その話は83年度に譲ることにする。

 

1030日には、クライスラーの一行を川崎山荘で接待し、翌日に明石工場での視察、会議を行った。

クライスラーとの提携話は、前年から話があって第1回の明石訪問があったのだが、その時はまだ企画だったので会議にも出席している。大事な話だからと『同時通訳のできる女性』を高額だが雇ったのだが、英語での大事な話は少々高くてもこのような専門通訳を雇うべきだとその時、そう思った。この年の会議の写真の女性も多分『同時通訳の方』だと思う。

 

  

 

  

 

  工場もカワサキの4輪もご覧になってるようである。

 

  

 

  

 

 このクライスラーとの小型スポーツ4輪話は、KMCの百合草社長が直接担当されていたのだが、実現しなかったのは、両社にとって本当に残念なことだった。

実現しなかった理由は、クラスラ―社内のホントにトップ、アイアコッカ会長とこのプロジェクト推進者であったスパーリック社長の間の何かの行き違いみたいなものだったようである。

 

こんな CP事業本部スタートの1年目で、いろいろあったが田崎さんも私も、この年の12月末に理事昇格と言われて、退職金を頂くことになったのである。

 一応川崎重工業の従業員としては、一つ目の区切りになった年でもあったのである。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 https://www.facebook.com/1126074024157186/

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Kawasaki Robostage 訪問

2017-06-12 07:41:37 | 発想$感想

 カワサキのOB会に出席のため久しぶりに東京に行ったのだが、

2日目はお台場にある Kawasaki Robostageを訪問した。

お台場のユリカモメからも見下ろせる絶好の立地にそれはある。

 

そのホームページには、このようにそのコンセプトが書かれている。

 https://robotics.kawasaki.com/ja1/robostage/index.html?_ga=2.60719534.2064419043.1497095167-1081886385.1489739111

 

 

 

 「Kawasaki Robostage」は、「人間の創造力」と「Kawasakiの技術力」が出会い、人とロボットとの新しい関係を予感させる場所として、「人とロボットの共存・協調の実現」をメインコンセプトとし、これから到来するロボット社会に向けた、人とロボットの共存・協調のありかたを提案するという、東京・お台場にある川崎重工業によるロボットのショールーム。

川崎重工が持つロボット分野の最先端の技術とノウハウを見て触れて体験してください。
「人とロボットの共存・協調の実現」をコンセプトとした、新製品のロボットをいち早く見ることの出来る空間です。

 

そんな東京での1日を こんな動画に纏めてみた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=LWhWqRSlEqQ

 

 

   

 

 そこにお勤めのこんな若い方ともいろいろお話が出来てよかった。

 

  最近のロボットは、溶接ロボットのような工場にあるようなものばかりではなくて、

 こんな寿司を握るようなものもあるようだ。

  

 https://www.youtube.com/watch?v=z-0HbeFBgEU

 

 こちらは先日、西神戸にある工場のショールームを訪ねた時の動画だが、

    https://www.youtube.com/watch?v=mluuLu_YRzk

 

 やはり一般のお客様には お台場の Kawasaki Robostage は最高だと思う。

 より上手な 広報戦略をたてられたらいいと思った。

 

 

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カワサキ東日本OB会

2017-06-11 11:39:50 | カワサキワールド

★カワサキの東日本のOB会があり関初太郎くんからお誘いもあったので、久しぶりに関西から独り参加した。

 

   

 

会社側からは清水常務も参加された。

 

   

 

今はKMJ 、その前が『カワ販』その前が『カワサキ自販』その前は。、メイハツやメグロなど、国内のカワサキの販売会社は長い歴史があるのだが、いろんな会社の集まりでそのOB会はなかったのだが、もう25年以上も前に、私が国内を担当しているときに、当時の先輩の田中誠さん、苧野豊秋さんなど諸先輩に頼まれてOB会なるものを創ろうということになったのである。

その時の『基本コンセプト』はこのようなものだったのである。

 

普通一般には、OB会なるものは、最後までその会社に在籍していたことが条件になっているのだが、この会社、当時の『カワ販』の現状を見ても、販売店を開いた人、川重から出向して来て川重に戻った人、メイハツやメグロの方で『カワ販』には籍のない方などいろいろと複雑なので、入会の資格や、運営を次のような形にしたのである。

●まず『入会の資格』は、1日でもこの会社のグループに所属していればいい。その後辞めても、販売店でも資格あり。

●入会金とか、年会費は取らない。

●全国どこでも、幾つでも会は作れて、希望者はどの会にでも『当日の会費』さえ払えば出席できる。

 

というような、非常にフリーなルールで、スタート時は明石・東京のほか九州にも仙台にも会があって、複数のOB会に出席する方もおられたのである。

そんな一番ベースのコンセプトが確りと残って運営されているのが、この『カワサキ東日本OB会』でメイハツの方も、メグロの方も、販売店も、KMCにおられた杉沼さんも、関西から私も、当日の会費さえ払えば参加OKなのである。

昨日はメイハツの96歳の矢崎文彦さんも出席されてたし、メイハツの金町や神田岩本町の事務所にいた女性の方なども参加されていて和やかだった。

会長の石塚さんは出身はメイハツだし、副会長の佐藤さんはホンダからカワサキだがお二人とも現役時代私とは一緒にいろいろやった仲間なのである。

明石も当初は同じようなコンセプトだったのだが、途中から『入会金』を取ったりしたものだから、当初の『コンセプト』を知ってる連中が入会していないし、何となく雰囲気が普通一般の会社のOB会になってしまっているのである。

 

   

 

 昨日は、現役の清水常務も出席だったが、なかなかいい雰囲気の中で、昔の『清水君』がそこにいたように思った。

 一番左は、アメリカのKMCのスタート時、トーハツからカワサキに転じて、濱脇洋二さんと田崎さんよりも種子島さんよりも早くアメリカ開拓をされた杉沼浩さんである。FBもおやりだし、MFJ 常務理事もおやりになって、レースの世界でもご活躍だったから、ご存じの方も多いだろう。

真ん中は、メグロの出身で、東京営業所などもおやりになった千葉さんで、いつもは出席しないのに、今回私が来るからと、一番右の関君が引っ張り出したようである。

 

   

 

 このメンバーたちも、懐かしい。いろいろ関係のあった仲間だが、私の右は初対面だったが、メイハツの96歳の矢崎さん、私より10歳も上、まさにお元気で『元気を頂いた』のである。

 

 3分ほどの動画に纏めているが、締めの挨拶を私が『矢崎さん』に突然ご指名したのだが、『96歳の矢崎さん』にしかできないようなご挨拶をされたのは流石である。 動画をご覧になると、その雰囲気はすぐ解る

 https://www.youtube.com/watch?v=lnpA37mUKJo

 

 こんなメンバーで二次会もやった。

そこには、私が上京するということで、村島邦彦さんが顔を見せたし、群馬から金井紫朗ご夫婦が飛び入り参加だったが、結構楽しかったのである。

 

   

 

これが、昔のカワサキの雰囲気だと思う。

会長と副会長の石塚くん、佐藤くん、纏めている武田くんなど、現役時代一緒にやった仲間が多いので、なかなかいい。

 

カワサキ』というブランドを核に、

異種・異質・異地域の人たちが繋がって、楽しいひと時』が過ごせることが、最高なのである。

そんなところが『カワサキの良さ』なのかなと私は思っているのである。

来年は、25周年だという。

今年は明石には出席しなかったが、来年は『ぜひどちらにも』出席したいと思っている。

 

 

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2日間、東京に行ってきた

2017-06-10 20:20:41 | 発想$感想

★2日間、東京に行ってきた。

東京には毎年何度かは行ってるのだが、いつもはみなさんに羽田空港のホテル東急のロビーまで来て頂いて、そのまま日帰りするというズボラな東京行きが多いのだが、

今回は、浜松町の貿易センタービルでのカワサキの国内販社のOB会に出席し、

そのあと浜松町で二次会、そのあと品川プリンスで7時まで村島さんと。

そのあと8時過ぎから川重の岩瀬さんと川崎由美子さんご夫婦と会食。

翌日はお台場の ロボットのショールームを見せて頂いて、そこの若手と会談などして三木には6時に戻ってきた。

結構、昔の現役に戻ったような、スケジュールだったが、ぴりーっとしてよかった。

体重も1キロ減ったし、体重計に乗ったら、年齢はなぜか69歳と出た。いつもは70歳代の前半は出るのだが、60台が出たのは初めてである。

一つ一つの感想はまた別途、纏めたいが、ざっと写真で、纏めてみる。

 

   

 

 こんなメンバーが集まった。 関西からは私だけだが、久しぶりに昔の仲間と会えてよかった。

 

  

 

 会の途中で、一番左は、カワサキのアメリカ市場開拓時代の文字通りの先駆者杉沼浩さん、田崎さんよりも種さんよりも、この人が先なのである。後年MFJの常務理事もされたし、今はFacebook で繋がってる。

真ん中の千葉ちゃんもメグロ出身、久しぶりの出席で、私が出席したから出てきたのだと思いたい。その横の宮松(宮本松夫)も懐かしい。

 

   

 

 これは、そのあと昼間の二次会。

 右端は村島邦彦さん、左端は金井紫朗さん、このお二人はFacebook で毎日繋がってるが、これは私に会いにわざわざOB会の終わるころやってきて二次会に合流。この2次会も大いに盛り上がりました。

金井さんは群馬からご夫婦で、村島さんとはこのあと3次会を『品川プリンス』で。

 

そのあと8時過ぎから川重の岩瀬さんと川崎由美子さんご夫婦と会食は、品川プリンスの38階で、寿司と天ぷら。

残念ながら、写真がないのだが、まさに『いい時間』が過ごせたのである。

 

明けて、翌日は、こんなお台場にある

   

 

   

   

   カワサキのショールームに岩瀬さんに案内して頂いて、

   

 

   

 

   こんな若手と、結構面白い 高次元な話をしてきたのである。

 

   

 

  そして4時のフライトで戻ってきた。

 

  なかなかの中身があった2日間だったので、それは明日でもまた別途纏めることにして、まずはご報告まで。 

 

 

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今年のプロ野球

2017-06-09 05:16:24 | 発想$感想

 ★今年のプロ野球は、なかなかオモシロい。

オモシロいというのは、『予想外のこと』が起きるからである。

昨年の日本シリーズの覇者は、確か『日ハム』であったはずである。

今年はその『日ハム』の連敗記録がまず気になった。大谷がケガで戦列を離れてるのも、その原因の一つだろうが、なぜこんなことになるのだろう。

 

それに巨人である。 こちらもシーズン開幕5連勝でスタートしたのに、今は球団記録更新の『12連敗』である。

こんな風に書かれている。

 

プロ野球の巨人が7日の西武戦で敗れ12連敗となり、球団ワースト記録を更新した。

いま将棋界では7日時点で公式戦23連勝と快進撃を続ける藤井聡太4段(14)に注目が集まる。対照的な状況は巨人ファンにとって何ともやるせないだろう。だが、勝者がいれば敗者もいるのがスポーツの世界だ。視野を広げればさらに長い泥沼にはまり込んだ例がいくつもある。巨人ファンはうつむく必要はない。

 

     

 

確かに各球団の連敗記録を見ると、12球団みんな経験のあることだから、『うつむく必要はない』のか知れない。

 

★予想通りというか、広島は快進撃である。

広島という球団は、そんなにお金を使っているとは思わないのに、『選手を育てる』ということでは、間違いなくトップレベルである。

今の主力も、みんな広島育ちだし、阪神を『戦力外』のような形で移籍した『新井』が去年はセの最高殊勲選手になってびっくりした。こんなのは『予想外』の最たるものである。

 

  

 こんな選手が突然現れて、『10打席』で4ホーマー、彼が出てこなかったら、多分今頃、阪神が首位の座にいたのだろう。

 

サビエル・バティスタ(Xavier Batista)

 1992年1月18日生まれ、25歳。ドミニカ共和国出身。2009年から13年までカブス傘下のマイナーでプレー。カープアカデミーを経て、16年3月に広島と育成契約。今季は2軍戦39試合で打率.363、14本塁打、38打点の好成績をマーク。今月2日に支配下選手契約を結んだ。1メートル89、115キロ。右投げ右打ち。年俸約4万7000ドル

年俸47000ドル とは500万円ほどだから、その辺のサラリーマンと一緒である。2試合で4本もホームラン打ったら、それで充分かも知れない。

 

 それにしても、阪神は『予想以上の頑張り』である。

 金本さんの昨年からの『若手起用』がよかったのか、ホントに『よく打つ』ようになった。

 この調子なら『ひょっとしたら、ひょっとするかも』知れない。

   

      

  

 

     

 

  交流戦が終わるころは、どんな形になっているのだろうか?

  交流戦、今のところセントラルも頑張ってる。

  両リーグの、上位2チームの対戦がまだ残っているので、その結果が楽しみである。

 

  余談だが、サッカーのように1部、2部制にすると、もっと真剣になってオモシロいのではと思っている。

  巨人が2部でプレーするほうが、話題性があっていいのでは・・・・そうしたら、もっと頑張るかも。

 

 

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梅雨入り

2017-06-08 07:15:18 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

気象庁は、「近畿地方が梅雨入りしたとみられる」と発表しました。
7日の近畿地方は梅雨前線が東へと進み、湿った空気が流れ込んだ影響からほとんどの地域で雨が降っています。気象庁は午前11時ごろ、「近畿地方が梅雨入りしたとみられる」と発表しました。梅雨入りの時期としてはほぼ平年並みだということです。

また「中国・四国」「東海」「関東甲信」でも7日、梅雨入りが発表されました。大阪管区気象台の長期予報によりますと、6月から7月の降水量はほぼ平年並みから多くなるということです。

 

 

   

 

 

近畿地方も昨日『梅雨入り宣言』がでた。 

 

         

 

 

梅雨と言えば『あじさい』だが、我が家の『あじさい』は、まだ花開いていない。

これは、鎌倉の『長谷寺のあじさい』である。

 

 今年は、この辺りでは 桜も、薔薇の開花も、遅かった

 あじさいも、 少し遅れているようだが、 梅雨は平年通りやってきた

 

 少し時期の遅れたバラは、いま 見ごろである。

 

   

   

 

   

 

   

 

   

   

   

 

 

   京鹿の子 も もう少しで満開である。

 

   

 

  ちょっと肌寒いが、梅雨明けの頃は、もう『真夏』である。

 

  

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毎年の6月7日

2017-06-07 17:20:02 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 ★ コレ、Facebook からの コピーですが、一般の方ご覧になれるのだろうか?

 

https://www.facebook.com/onthisday/?source=promotion_feed_story&story_id=1217430211600944

 

 Facebook にコピーしたら、どのようなことになるのだろう。

 少なくとも、私は見ることができるのだが・・・

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カワサキの二輪事業と私 その57 昭和61年(1986)

2017-06-07 06:36:31 | 自分史

★昭和61年(1986)4月20日 マラソンの瀬古利彦選手(エスビー食品)がロンドンマラソンで初優勝の記述もあるが、あまり大した出来事もなかった年のようである。

カワサキとしては、アメリカのKMCの新社屋が完成し、カワサキの長いアメリカでの歴史の中で、最も華やかに輝いた年だと言っていい。

旧く1965年にサービス担当者として、明石工場からの第1号派遣者としてアメリカに渡った田崎雅元さんが、翌66年に、部品会社AKMを5万ドルで立ち上げたのがKMCの前身でありそのスタートであるのだが、それから丁度20年の歳月を経て、カワサキ二輪事業再建のために来られた大庭本部長3年目に新しく新社屋の落成を見たことは、ホントに象徴的な出来事だったのである。

これはカワサキの二輪事業だけでなく、無配に陥っていた川崎重工業にとっても、二輪車の主力市場アメリカKMCの再建は大事業だったので、その『開所式』並びにKMCの『20周年記念』には、川崎重工業の長谷川社長も出席されて、自ら鏡割りをなさっているのある。

 AKMにも関係した田崎さんは、そんな縁の持ち主かも知れない。

 その田崎さんが私に送ってくれた写真なのである。

 

   

 

 まだこの時は、田崎さんも川重の『部長職』なのだが、

 長谷川社長ー大庭社長ー田崎社長と このあと川崎重工業の社長も務められた3人の記念すべき写真なのである。

 

   

  

大庭さん、高橋さんも、アメリカ人達も、みんな笑顔いっぱいである。

 

 

★ カワサキの二輪事業の長い歴史の中で、1981年から3年間が一番苦しかった時代であった。

83年7月からは大庭浩さんが再建屋として単車事業本部長として旗を振られて、実質3年間で見事単車事業再建を果たされ、86年からは高橋鐵郎本部長となり『新しいカワサキ』の時代となるのである。

この6年間その中堅として支えたのが私と田崎さんだし、後半の3年間は百合草三佐雄さんが次期kMC社長として参画されるのだが、この時期の対策は、主として本社財務が絡んだ資金対策など財務対策が中心であったことから、この間の事情をご存じの人はホントに少ないのに、『鐵郎さんと宏さんhttp://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/e8e92c4fe9f4335e70411c0ee1b0188d   という両高橋さんも逝かれてしまって、限られてしまっているのである。

明石の企画を担当した私とアメリカKMCを担当した田崎さんとのコンビを中心に、本社財務の方たちが協働して頂いて、文字通り川崎重工業の総力を挙げての対策だったと言えるし、『成功への道の6年間』だったと言えるのである。

 

この6年間を改めてざっと振り返ってみる。

●1981

この年8月に高橋鐵郎・田崎雅元コンビがアメリカに渡って、種々対策が始まったが、この年のKMCは大赤字で、事業部も赤字、それが川重本社の経営にも影響して、本社財務部門がその対策に乗り出したのだが、KMCの赤字は止まらなかったのである。

●1982

この年4月にKMC再建委員会が本社財務・経理メンバーを中心に形成され、その総責任者には単車出身の山田熙明専務が当たれることになる。7月に山田専務から私に『KMCは立ち直ると思うか』と聞かれて『大丈夫です』と答えたものだから『企画に戻れ』と、カワ販常務を兼務のまま10月からは企画部長になり、高橋鐵郎さんに企画室長に戻って頂いて、具体的対策がスタートするのである。

●1983

10月からの3ヶ月で海外販社の事業計画を明石企画主導で立案することとし、83年度事業計画はKMCをはじめ、全販社黒字計画を組み上げたのである。企画室内に関連事業課を創り、KMCと本社財務を繋ぎ、本社からは小川優さんや松岡京平さんが事業部に異動して援けてくれた。7月からは大庭浩本部長体制となるのだが、大きな対策方針の方向は山田専務が創られていて、その旗振りを強力におやりになったのである。

●1984

この時点で企画部長として私が建てた目標は、KMCの『累損38百万ドルの消去』という大きな目標を立てたのである。この目標は『田崎・百合草KMC社長時代』に達成できるのだが、この年度がその消去1年目となるのである。同時に、人員整理や経費削減などの対策ばかりではと田崎さんと秘かに話していたのが、4か所に散らばっている事務所の統合計画だったのである。

●1985

この新社屋話は、85年1月からスタートし、秋には川重本社の承認もとれるのだが、『累損のある販社が新社屋??』などと言う監査役などからの当然の指摘も一時はあったのだが、それが『前向き』に進んだのは財務でKMCを直接ご指導頂いた松本新さんなどのご理解があったからである。そういう意味でも、この時代の単車再建は文字通り『全社の総力』を挙げてのものだったのである。そしてこの年から、次期KMC社長候補として百合草三佐雄さんがKMCに出向することになるのである。

●1986

そしてこの年、昭和61年(1986)には、7月からは髙橋鐵郎本部長となり、大庭本部長は副社長で川重本社に復帰され、私自身も企画室長に昇格するのだが、10月には百合草KMC社長体制となりこ、アレだけひどかったカワサキの二輪事業の再建の目途は立ち、発動機を吸収合併した新しい時代に入っていくのである。

 

 

   

 

この年6月の 開所式兼KMC20周年記念 の鏡割りの酒樽を 四輪バギィ車 で運んでいる田崎さんはこのプロジェクトについてこのように振り返っている。

 

1983年の終わり頃になると、次の課題は、電算センター、R&Dセンター、西部支社兼部品センターと本社の4か所に分散されている機能の集約、新本社ビルの建設であった。

本件は、古谷さんとは内々に話し合っていた。1月早々に、とても良い土地が見つかったというのですぐ下見をした。素晴らしい環境で、一目で惚れ込んだ。この新しい土地は、当時保有していた土地社屋と、おおむね等価交換できるものだったので、こんなチャンスを見逃してはならないと、KHIには事後承認をとることにして、すぐ手付をうった。新社屋が完成したのは、1986年の4月である。

1985年5月の地鎮祭、1986年4月の竣工と移転、6月のKMC20周年記念を兼ねた開所式(Grand Opening)と順調に進み、現地の新聞にも地鎮祭(Ground Breaking)と紹介された。新社屋の完成は、古谷さんを含め、多くの人達に支えられたKMC再建の大きな区切りとなった。 

1981年8月に45歳の新米部長で就任したKMC社長の私も、すでに51才、大庭本部長に「田﨑君、本当によかったな!奥さんもさぞ喜んでいるだろう」と言われ、何となく帰国の日も近いかな? と感じていた。

 と書かれている。

 

 

次のKMCの社長の百合草三佐雄さんには、『KMCの累損消去』を重々お願いし、その達成までカワ販から出向していた『富永・日野』くんにも頑張るよに頼んだのである。この目標は88年に見事成就して、神戸で大西・山田副社長以下 本社と単車事業部の当時の関係者 が集まって祝杯を上げたのを思いだすのである。

この年の6月初旬には、KMCの百合草さんが、クライスラーとのスポーツ4輪車の話を持ち込んで、クライスラーのメンバーたちが第1回の明石工場訪問があったりしたのである。

百合草さんは新しいことには『前向き』で、私は何となくトーンがあって、レースでも、ジェットスキーの開発でも、 KMCの累損消去でも、短期間ではあったが、いろいろ手伝って貰ったのである。今、アメリカのKMCの中心商品である『4輪車』もこの時期の『ポニープロジェクト』がそのスタートで、その推進をしていたのが『百合ちゃん』なのである。

KMCから戻られた後は、本来やりたかった『航空機の世界』ジェット・エンジン部門を担当されたのだが、その時期にもよく一緒にゴルフなどしていて、今でも Z1会で年4回ご一緒していたりするのである。

 

 

★ このようなKMC体制の動きがあった年なのだが、そのほかにも色々と新しい時代に向かっての動きが始まった年である。

なによりも、大庭浩本部長が副社長として本社に戻られ、この年の12月末の経営会議では翌年7月からの川重社長昇格も決まり、山田副社長の退任も決まって、髙橋鐵郎単車事業部本部長が実現した、本当に新しい区切りの年となったのである。

従来アメリカだけでの販売であったジェットスキー鶴谷将俊さんが担当して、ヨーロッパの新会社の設立、国内ではレース組織のJJSBAがスタートして苧野豊秋初代会長が実現した。1月にはヤマハがこの業界に参入されるということで小宮常務が明石まで挨拶に来られるなどの動きがあった。

 販売会社の経営は全世界が順調に進んだのだが、明石の事業部の損益は急激かつ大幅な円高でその対策は大変だったのである。春先170円台まで進み、5月初旬には161~162円を記録していて、『コストのドル化』対策などが検討されているのである。

そんな時代の新しい構造対策として単車・発動機の合併も検討されたし、殆どの方がご存じないと思うが、製造部門の子会社化計画が当時の大西副社長のところまで上がっていてほぼ承認の方向だったのである。

なによりも、大庭浩本部長が副社長として本社に戻られ、この年の12月末の経営会議では翌年7月からの川重社長昇格も決まり、山田副社長の退任も決まって、本当に新しい区切りの年となったのである。

 

   

★その大庭本部長が明石に来られてから実質3年間、企画部長・企画室長という番頭役として、殆ど毎日事細かい指示も頂いたし、それに対する率直な提言など申し上げてきたのだが、私が現役で40年間務めた中で、『最も私の意見』を取り上げて頂いた上司は『大庭浩さん』なのである。

大庭さんは怖い』という印象が一般的にはあるのだが、全く経験のない民需大量生産販売の『単車事業』に来られて、『まず単車の世界』を気に入って頂いたし、『ズケズケ下がモノを言う』単車事業部も『大いに気に入って』頂いたのである。

7月に単車に来られて、2か月後の9月には、川重本社の会議で『単車は思ったより確りしている。将来川重の柱になる事業になるだろう』と発言されていて、社長になられてからは高橋鐵郎副社長の登用・田崎社長の登用など、川崎重工業の重工業体質の中に、民需・量産事業のノウハウなど取り込まれた功績は大きいと思うのである。

単車事業部だけでなく、川崎重工業の中に、『単車独特の知恵』が注入されるというそんな年だったと思っている。

 

 最後に、田崎さんが86年には、こんなこともあったという話をメールしてくれているので・・

1986年、独禁法違反の容疑で米国司法省の調査が入り、1982年、1983年の手帳などを差し押さえられた。7月にはオハイオ州で23人の陪審員による大陪審(Grand Jury Testimony)が行われ、野田、冨永、田﨑が喚問された。日本4社の戦争終結のプロセスに疑義あり、というのである。 

日本のマスコミ報道が引き金になったようだ。現地日本4社の幹部が召喚され、私が最後の1人になった。誰がどういう話をしたのか全く知らされず(情報交換は厳しく禁止)、話の食い違いによる偽証罪のリスクを抱えての登壇になった。

 受けた質問、回答のエピソードとしては、

1)業界紙主催の業界のパーティの席上、Y社の社長がH社の社長にたいし「Unconditional Surrender(無条件降伏)」と発言したというのは本当か?

2)貴方はY社 社長の表敬訪問を受け彼の話に頷いていた(Nodded)という証言があるが、何を同意したのか!

1)については、Surrender  という言葉はあったように思うが Unconditional と言ったかどうかはわからない。

2)については、日本人の癖で、例え同意しなくても、聞こえていますよ、という意味で頷くことはよくある事だ。などと証言しながら、陪審員達を味方にするようにつとめた。

 米国の商習慣にくらべて日本の業界の慣習は、疑われてもしようがないところがあるのだが、状況証拠ばかりで確たる証拠が出なかったという事で本件は無罪放免となった。 弁護士からはKHIのVIPは、この期間米国にこないほうが良い、過去に入管で捕まり喚問された日本人VIPもいた、などと警告を受けていてまさかとは思ったが少々困惑しながらKHIにリスクを連絡した。

さて、1986年10月にKMC社長職を百合草さんにバトンタッチ、私は会長になった。そして翌1987年3月に帰国し、2度目の単発合併後の、CP事業本部企画室副室長に就任した。1981年8月から 5年8か月にわたる2度目の駐米生活であった。

 確かに、そんなことがあってこの問題が片付くまで、アメリカ出張を抑えていた時期があったのだが、それがこの年だったのである。

 

★懐かしい想い出いっぱいのアメリカKMCだしその社屋だが、最後に行ったのは数年前のZ1の40周年の時、寺西社長時代である。

 今は、新しいところに移転している。 その時のKMCでの写真を幾つか。

  

  

   

   

  

    

 

   

 

   

  

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 https://www.facebook.com/1126074024157186/

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鎌倉 雑感

2017-06-06 06:10:14 | 発想$感想

 

★ 現役の頃、カワサキの二輪の国内を担当した期間が長かったので、国内については結構知ってるし、沖縄を除いて全都道府県を自分で運転もしたのだが、鎌倉は行ったことがなかった街である。

そんな鎌倉の由比が浜に 息子一家が居を構えてからは、何回か訪れているのだが、そんなに詳しく『鎌倉』を意識したこともなかったのだが、今回一泊2日の小旅行をして、鎌倉についてちょっと調べてみた。

人口が17万人もいるという。 『鎌倉市』をWikipediaで検索するとこのように書かれている。

 

鎌倉市は三方が低い山で囲まれ海に面する地であり、かつては幕府が置かれ政権の要の地であった。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「古都」である。1923年(大正12年)9月1日におきた関東大震災は鎌倉も大きな被害がもたらされた。昭和に入ると、作家や文人の一部が鎌倉へ移り住むようになり「鎌倉文士」という言葉が生みだされた。

1936年(昭和11年)、松竹が撮影所を蒲田から大船に移し大船撮影所が開設されるようになると、映画関係者で鎌倉に移り住む者が増えていった。1930年(昭和5年)の横須賀線列車の電車化以降、戦前・戦後を通じて大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。

とりわけ、高度経済成長期の大規模開発の波は「昭和の鎌倉攻め」とも形容される。この時期に起こった鶴岡八幡宮裏の「御谷」開発中止を求める、作家大佛次郎を中心とした市民運動は、古都保存法制定の契機となり、異論はあるが日本におけるナショナル・トラスト運動の嚆矢ともいわれている。

 

 

 

 三方を山に囲まれた、この辺りばかりしか知らないのだが、大船も鎌倉市にようだから、実際はもっと北にも開けているのである。

今回も由比ガ浜を中心に、この辺りを歩いてきた。

 

 

 

 息子のマンションがちょうど由比ガ浜4丁目の角なのでそこから斜めに江ノ電由比ガ浜駅までの細い道のヨコに、蕎麦処『松風庵』もあるし、一泊お世話になった『かいひん荘 鎌倉』もある。

そこから長谷寺まで、街を散策してみたが、道は『狭い』し、曲がりくねっているのだが、そこに建ってる家々は、屋敷と言ったほうがいい広さのところが殆どなのである。この写真をご覧になっても、それはお分かり頂けるかも知れない。

 

   

 

左に 葉山・逗子 直進すると 鎌倉・江の島 という全国区の名前の土地が並んでいて何となくかっこいい。

 

   

 

 この看板があってすぐ右が『浄明寺』『石窯ガーデンテラス』である。

 

   

   寺の中に、こんなレストランがある。 

   予約を取らないということは、そんなことしなくても客は来るということか?

   

 

  そこから鶴岡八幡宮のヨコに出て左折すると一転こんな『広い道』に出るが、こんな道があるのは、こだけである。

   

 

  そこを右折して、旧いまちに入り『江ノ電』の踏切を渡ると、車1台だけが通れる狭い道だが、並んでいる家はみんな『お屋敷』と呼んだ方がいい広さである。

 

   

 

 この道の先が、『由比ガ浜4丁目』 その左に息子のマンションがある。

   

 

  マンションのベランダから眺めた『由比が浜』である。

  夏は、人で埋まるらしい。今その小屋造りが始まったところである。

 

    

 

    

 

   これは一泊した 国の有形文化財の『かいひん荘 鎌倉

   すぐ近くにある。

   前の道は狭いのに、中はこんなに広い。かっての富士製紙社長村田一郎邸だという。

 

    

 

  そこからすぐ横に、江ノ電 由比が浜駅がある。

 

     

 

   そして、振りかえるとこんなバスが通る『大通り』だが、普通の道と思えばいい。

 

   

 

  両側には、いろんな店が並んでいる。 駐車場もあるが1時間600円以上もする。

 正面が長谷寺である。急斜面に建っているのがお解り頂けるだろう。

 『あじさい路』は、さらにその上の斜面なのである。

 

   これがその『境内図』である。

 

  

  

  正面の 長谷寺

   

 

  その左上に広がる『あじさい路』 中国からの観光客が多かった。

   

 

 

鎌倉市の人口は17万人だという。

それは別に大したこともない普通の都市だが、年間訪れる観光客は『延べ2300万人』だという。

江ノ電が満員になり、カッコいい店があって、物価が高いのもよく解る。

 

  長谷寺の 『あじさい路』から見た、由比ガ浜 と 鎌倉旧市街地である。

   

 

   

    週末の夕方近くになると、由比ガ浜の人も ちょっと変わった感じになる。

    

    

 

 

    そして蕎麦屋に。 蕎麦屋と言っても 鎌倉の蕎麦屋はちょっと違う。

    

    

 

    これは、『かいひん荘鎌倉』の朝食。

 

     

 

    『かいひん荘鎌倉』の庭 と 鯉

     

    

 

    2日目は孫のダンスを観に、藤沢市に。

 

   これは 大仏殿を通り過ぎて、 このトンネルを過ぎると、一転 新しい鎌倉市 が広がる。

 

   

 

  

  これまでの写真は、すべてこの動画『鎌倉のまち』から切り取ったものである。

 幾らかでも「鎌倉」に興味を持たれた方は、この3分27秒の You Tube をご覧になることお勧めである。

 

   https://www.youtube.com/watch?v=FjC5l8hsTms

   

 

   

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鎌倉の旅

2017-06-05 05:55:41 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★金曜日から2日間、鎌倉の息子のところに遊びに行っていた。

毎年6月の第1週の週末に、慶應義塾のダンスクラブ W+I&S が SPRING SHOW を開催するのだが、孫がOBとして参加するので、それを観に行くのが一つの目的だったのである。

日帰りで行くというのに、何を思ったのか息子夫婦が1泊で来いという

わざわざすぐ近くの『かいひん荘 鎌倉』をとってくれるというので、1泊2日の鎌倉小旅行となったのである。

だんだんと夫婦で旅することも少なくなるので折角の機会だったし、なかなかの内容だったので自分のためにその詳細をちゃんと纏めて残しておこうと思うのである。

二人とも、すでに80歳を超えているし、残りがそんなに長い人生でもないので、想い出がいっぱい残ったいい2日間だったのである。

往復の飛行機も、宿泊も食事代もみんなお世話になったので、掛った費用は伊丹空港の駐車代5000円弱だけだったのである。

 

 

    

 

 家を金曜日の7時半に出た。9時の伊丹発に乗って10時過ぎに羽田着。

 こんな格好の息子が迎えてくれた。

八丈島まで魚釣りに行っていて、ちょっと前の便で羽田に戻ってきたらしい。子供の頃私が教えた釣りの結果がこんなことになってしまった。 週末は日本国中あちこちで釣り歩いているようだ。

 

 空港からそのまま、鎌倉の浄妙寺にある『石窯ガーデンテラス』での昼食。

ここは予約は効かないようで、息子の嫁のノンちゃんが、現地に先乗りしてテーブルを取ってくれていた。

 

 こんな浄妙寺の境内の山にある、レストランである。

 鎌倉でも、食事のできるお寺は、ここだけだという。

 

    

  

   お寺の境内とは思えない、こんなレストランである。

  

 

   

 

   

 

  花、いっぱいで綺麗だった。

 

  食事を済まして、息子宅に行く。

  鎌倉の由比ガ浜の真正面、海がすぐそこに見えるマンションに住んでいる。

  家からの眺めである。

 

   

 

   

 

  いつもより少し風が強い。

  砂浜から、道を挟んでこんなところに位置しているマンションなのである。

   

    

  夜はすぐ近くの有名は蕎麦屋 松風庵を7時に予約して、

その前に息子が八丈島で釣ってきた かんぱちのコドモの『刺身』を食うことにして6時に息子宅にもう一度来ることにする。

蕎麦屋が200メートル、そこから50メートルほどに泊まる『かいひん荘 鎌倉』がある。

 

    

 

  こんな『栄作』の銘がある書があったが、やはり『佐藤栄作』の書であった。

  

 

    

    

全体は純和風なのだが、この一角だけが洋館になっていて、その部屋をとってくれたので、景色もいいしなかなか快適だった。

 

    

 

 チェックインして、6時までちょっと時間があったので、私一人で、長谷寺の『あじさい』を観に行った。

 長谷寺は2度目だがなかなかいい。

 

  長谷寺だけの動画を纏めてみた

 あじさいはまだ3分咲きだったが、長谷寺とはこんなところである。 外国人の方がいっぱいだった。

なかなか険しい『あじさい路』は、多分普通の80歳代の方は無理だと思う。

それくらい勾配は厳しいいのだが、そのあたりも動画で感じていただけけるし、鎌倉のまちも一望できるのである。

 

 

 

 こちらが長谷寺で、『あじさい路』はこの裏山に造られている。

 

  

 

  6時少し前に、息子宅に行った。

  

 こんな『かんぱち』のコドモを料理して、

  

    

 

 

  こんな刺身と、焼き魚に、息子自身が、調理して食わしてくれたし、ビールも特級品を飲ましてくれた。

 

    

 

    松風庵 こんな風情である。

 

    

 

   いかにも鎌倉らしい。

 

   

    

   

   ワインを飲んで、もりそばを食ってきた。

 

   

 

 鎌倉での結構長い、盛りだくさんな1日が過ぎた。

そんな『鎌倉の1日』を動画で纏めている。

鎌倉とは、こんなところである。

昔、鎌倉幕府があったというが、間違いなく『天下の要塞』ともいうべき地形で山に囲まれ、前は海。

今は観光地で賑やかだが、道は狭いし、物価は高い。 確かに『いいところ』なのだが・・・・

息子夫婦は『気に入っている』ようである。 『住めば都』とはよく言ったものである。

 

        https://www.youtube.com/watch?v=FjC5l8hsTms

 

      

 

 

 二日目は、藤沢市で行われた 慶応大学の W+I&S の春の恒例のダンスショーを観に行った。

土日に3回公演の、本格的なものである

 

 

 

 公演前に、アメリカから留学中の娘のほうの孫、門野力也とも会えた。

 彼も慶応大学の、同じ学部でいま就活中だ などと言っていた。

 

  

 

  

   

  

こんな感じのダンスなので、ぜひご覧になってみてください。

 https://www.youtube.com/watch?v=jQLbhucykpM&t=16s

 

 

 

 

   

 

今回の鎌倉旅行』 スタートから帰りの飛行機まで、こんな感じでした。

 

https://www.youtube.com/watch?v=1782vUCawxU

 

    

   

 

  息子のほうの孫、古谷 仁

  ダンスを見ただけで、殆ど話も出来なかったけど、このブログを見て下さい。

  纏めるのに、まる1日掛った労作です。

 

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