雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

ラグビー人気は 『にわか人気』か ??

2019-11-04 14:05:42 | 発想$感想


★ ワールドカップ・ラグビーで日本中が湧いたのは、つい先日のことである。

 『にわかファン』なる言葉も、このラグビーで生まれたのだが、実はそうでもなくて、
その底辺では、『ラグビー人気』が着実に盛り上がっているのかも知れない。

 昨日に続いて、今日も三木総合防災公園に走りに行ったのだが、いつも止める駐車場は、すべて満車で止めることが出来ないのである。

 しょっちゅう来ている公園だが、広い駐車場があちこちにいっぱいあるので、こんな状況に出会ったことは一度もないのである。


★何事なのかと思ったら、子どもたちの『兵庫県のラグビー大会』だというのである。

 『サッカー大会』はしょっちゅうあるのだが、こんなことになったことはない。
 写真を撮ってきたが、グランドも、芝生も大変な子どもたちなのである。

  


 



 
 こんな状況は、サッカー大会では『観たことがない
明らかに、サッカーとはちょっと体型の違う、子どもたちがいっぱいだし、
 






 あの『激しい』ラグビーを、『危ない』などと言わずに、小学生の頃から、させる『敢な親たち』も沢山いるのである。
 女の子たちもいたから、『ビックリ』である。
 
 そんな熱心な親たちもいっぱいいた。
 『日本のラグビー』も『にわかファン』だけではなくて、着実にその底辺は確実に育っているなと思ったのである。


    


 
 いつも止める駐車場は、こんな状態で満車だったので、

 こんなビーンズ・ドームのさらに奥にある駐車場に止めて、走ってきた。
  
  


三木総合防災公園は流石に『広い』この駐車場は、まだ余裕もあったのだが、初めての方には、なかなか見つけるのがムツカシイと思ったりした。

 

 
公園に行った目的が『走る』ことなので、少々駐車場が遠くても『ハラは立たない
今日も約6000歩走って、戻ってきたのである。

 
 


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日本のサッカー その環境  雑感

2019-11-04 07:29:38 | 発想$感想


★ 昨今の日本のサッカーのレベルは男子も女子も世界的に相当なレベルにあるのだが、
そんなサッカー界を支えているのは、末端の底辺の広がりや、
その環境設備の充実が一役買っているのだろう。

 
毎週走りに行っている三木総合防災公園にも、
素晴らしい設備のサッカーコートが競技場の中央コートの他に5つもあって、
毎週週末にはいっぱいのサッカー選手たちで埋まるのである。


 昨日はこんな看板が出ていて『兵庫Uー9』の表示があったので、
兵庫県のU-9の優秀選手の強化練習かな?と思ったが
そうではなくて、兵庫県のU-9の底辺を広げるために、
参加する女の子たちを集めてのトレーニングだったのである。

ホントにサッカーを始めたばかりの女の子たちが、こんな立派なコートでサッカーができるのである。


 


ちょうど練習がスタートする前で、コーチからの注意事項などが伝えられていた。




 
11人のこんな組み分けで、レーニングが進むようである。
 サッカーに関する注意事項と共に
トイレには1人で行かないこと、必ず誰かと一緒に』などという注意もあって、
今の時代だな』と思ったりした。





大きなコートのほうでは、これも小学生のチームだが、
こんな本格的なコートでの試合が進められていた。







★ この三木総合防災公園兵庫県の施設だから、誰でも申し込めば使えるようになっているし、芝生も非常に綺麗に整備されていて、素晴らしい環境なのである。

息子もサッカーをしていたが、
その頃は兵庫県に『芝生のサッカーコート』と言えば『神戸中央のサッカー場』だけしかなくて、
よほど大会でないと使えなくて、
芝生のコート』でサッカーをすることは夢だったのだが、
時代は変わったものである。

 
三木総合防災公園は、日本ではなかなか見られない広さで、
こんなサッカー場の周りの周回路を走っているのである。

 


これはアメリカだからその広さが違うのだが、孫たちが練習しているIrvineのグレート・パークのサッカー場で、まさにアメリカの広さである。
このサッカーコートが毎日、昼からよる9時ごろまで、こどもたちで埋まるほどアメリカのサッカーは盛んなのである。女子がずっと世界一なので、女の子もいっぱである。
そのコートの数を見てもアメリカの広さが解るだろう。
 空軍の飛行場の後を、文字通りの『Great Park』にしようとしていて、進行中なのである。

  
  
 
 その広さに於いては、太刀打ちできないが、
 日本の環境もその質においては負けないレベルになってきた。
 
 いつの日にか、
 サッカーワールドカップで、
 世界一を狙える日が来ることを祈りたいものである。


 
 
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三木金物まつり 2019 に行ってきた

2019-11-03 06:52:09 | 発想$感想
★昨日と今日の2日間、三木の金物まつりである。

 この歴史は旧く 1952年に金物見本市としてスタートしたのが最初だというから昭和27年のことで、もう70年近い歴史を刻んでいるのである。

それ以降小学校や市立体育館などで開催され、
昨年までの大きな会場になったのは、市役所の新庁舎に移転した1993年からだという。

私は、この町三木に移り住んだのは、
昭和48年(1973)1月13日に住民登録し、三木市民となったのだが、
当時というか現役時代は『文字度どうりベッドタウン』で毎日寝るだけ、
三木市のことも、市長さんの名前すら知らなかったのである。

そんな時代を経て、定年になってからというか、前市長の薮本さんが市長になられてからは、『三木』に関心を持ちだして現在に至っている。


★ 今回会場になった三木山総合公園に総合体育館を建て、一帯を再整備されたのは、薮本さんの最後の年だったのだが、この『総合体育』と『ちっびっこランド』は最後にいいお土産を残されたと思っている。

 
  

  


そんな『三木山総合公園』が今年から、『三木金物まつり』の新会場になったものだから、『どんなことになっているのか?』 に興味・関心があって、朝8時の開場1時間前から、会場一帯を見てきたのである。

 未だ、開会前なので人は少ないが、こんな雰囲気なのである。

 撮ってきた写真を、順不同に並べてみる。
 会場の雰囲気がお解り頂けると思う。

  
 


中にいる方たちは関係者で、一般の人はまだ入れない。


 
イベントは『天気さえよければ半分は成功』 というが素晴らしい青空である。





 10時半に オープンセレモニーが始まった。
 


 一番のキーの『三木金物』は 総合体育館の中に陳列されている。


 

三木の大工道具、昨今は建築でも使わなくなったので、ダメなのかな? と思っていたら、意外や『海外で大人気』のようで忙しいとか。

   

  

肥後の守 の永尾元祐さんとは、生前いろいろと繋がりもあったのだが、

   


いま、その「肥後守」がパリを席巻しているとか。

フランスでは、なんと!フランスパンやステーキを切るらしい。
昔は肥後の守を製造する町工場も40~50軒あったが今は、この永尾『製作所1軒のみだとか。
 息子さんと、ちょとだけそんな話をしてきたのである。



 
 これは三木出身の書道家 井関春龍 さんの書道

 動画に撮ってきたので、また別途アップしたいが、見事なのである。


 

 
こんな『煌々ときらめく』という字を書き上げた。
 

 10時半ごろには会場を出たのだが、まだまだ入場者は増えていた。
 2日間で18万人 とか言っていたが、ホントにそれくらい来るのかも知れない。
 

 
ただ、こんな広さだから、何人来ても大丈夫なようである。

今年からの新会場になって、また出店者の増えたとか。
金物に関する、砥石とかも売られているし、お酒も大根も野菜も売られていたりする。
 そういう意味では、『金物』だけではないのだが、三木の1年に一度の大きなお祭りであることには間違いない。



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アメリカと日本のハロウイン  雑感

2019-11-02 06:40:50 | 発想$感想
★10月31日は、昨今日本でも定着した『ハロウイン』だが、
アメリカではれっきとした伝統行事。
2千年前の古代ケルト人の時代では、10月31日が1年の終わり。

この日に新年と冬を迎え、秋の収穫を祝うお祭りを開催していた。
同時に、その夜には亡くなった家族や友人らの霊が家に戻って来ると信じられていた。
何か日本のお盆に似ているところもある。


ハロウィンの“3要素”は
Trick or Treat
仮装パーティー
カボチャのランタン」  

 その意味や由来は、
 
Trick or Treat」は直訳すると
「トリック(魔法)をかけられたくなかったら、トリート(お菓子)をよこせ」ってこと

仮装パーティー」は、
ハロウィンの夜には悪霊が徘徊し、色んな悪さをしたので、これに業を煮やした村人が、自らお化けの格好をして街中を歩き、悪霊を追い払った名残だという。

カボチャのランタン」については、
アメリカに渡って来たアイルランド系移民たちは、カラフルで可愛いカボチャでランタンを作り始め、今のスタイルが定着したというのである。

そんなカボチャは、準備期間が要るのだろう、スーパーなどには1ヶ月以上も前から売られていた。
 




 
★ 昨年の10月31日は、たまたまアメリカのIrvineにいて、
 本場の『ハロウイン』なるものを見ることができた。

ハロウインは、Irvine のどこでもやっているわけではなくて、毎年やる地域が決まっているようで、そこにはいっぱいの人が集まって、道の両側は車がいっぱいでなかなか止めるところもないような状況なのだが、どうやらお金持ちの高級住宅地の一画で開催されているようだ。

そこには沢山の人たちが集まっていて賑わいを見せてはいたが、至って静かだなという印象を受けた。

写真が上手く撮れていないが、こんな感じで、
その一画の個人の住宅ごとに飾り付けがなされている。


    
 

    


    



    
 
          

配るお菓子の量もこの人数だと大変である。
アメリカのお金持ちのある種の寄付行為、社会貢献のような感じなのである。
 
 そこには、アメリカの文化が根付いているように思った
 
 
★日本では今年も渋谷がニュースになった。
 この「渋谷の雑踏」にはどんな意味があるのだろうか?




 
ニュースはこのように伝えている。
『ハロウィーン本番の31日夜、東京・渋谷のスクランブル交差点付近には仮装した大勢の人が集まった。昨年は直前の週末に飲酒した若者らが軽トラックを横転させるなど騒乱状態となったため、渋谷区は対策を本格化させ、警視庁も警察官数百人で警戒した。』

一方で『今年のハロウインは穏やか』 という報道もあるのだが、
 公共の場でこんなに沢山の警察官がいないと収集がつかないこと自体が異常だと思う。
 

★ 日本でも、なかなかの『ハロウイン』もある。
わが町 『緑が丘の商店街のハロウイン』は、
1980年のスタートだちいうから、もう40年にもなる。

  
 
  

 日本でもこんなハロウインをやってるところがあるのだから、
   
 
  


 東京・渋谷のハロウインも、何とか穏やかお祭りになって欲しいと、
 毎年『同じこと』を思っているのである。   

 
 


    










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11月になった

2019-11-02 06:39:14 | みっきぃふるさとふれあい公園

★早いもので、今年ももう11月になった。
 
  11月は例年 『三木金物まつり』でその幕が明けるのだが、
そのメイン会場が、今年から従来の市役所の駐車場から
三木山総合公園』に移転したようで、
いつも行っている総合体育館もその会場の一部になるようだ。

  

     


三木山総合公園も、総合体育館が出来て駐車場も舗装されたから、
そこも会場に使えるし、
陸上競技場や、総合体育館を使って、
金物まつり』もさらに立派に開催されることになるのだろう。

 こんな内容で進められるようである。
これは11月1日に送られてくる『広報みき』からの情報だが、
三木以外から来られるお客さんも多いと思われるので、
特別の新情報』としてお送りしているのである。

 
是非、三木市民以外の方もいらしてください。
神戸電鉄 恵比寿駅・三木上ノ丸駅・三木駅・志染駅から、
夫々無料の巡回バスが出るようです。

駐車場は周辺を含めていっぱい用意されると思いますが、すべて無料で止められると思いますし、そこからも巡回バスが出ています。


   

 

今年は初日の土曜日に観に行くことにしようと思っている。 
市役所の担当部門の方に電話でいろいろ聞いたので、
駐車場などの情報は『バッチリ』なのである。


★そんな『三木金物まつり』のメイン会場の一部に、
いつも行っている総合体育館も使われるので、
この1週間 『ジムはお休み』 なのである。

 
そんなことで、三木総合防災公園に朝から走りに行ってきた。
サッカー場の周りを2周したあと、芝生広場でダッシュなどして汗を流したら、
 『約5キロ・7000歩』になった。

   
     

 
 
つい先日までは、夏のような暑さだったのに、やはり11月である。

 
サッカー場の周りの樹々たちも、秋の風情なのである。



 既に散ってしまった樹もあったが、紅葉が美しい季節である。






 走って汗を流すのが『気持ちのいい』11月になった。

 明日の朝は、ちょっと早く行って、『三木金物まつり』の会場周辺を走ってみようかと思っている。



 
 

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人生で一番頑張った時期     最終回

2019-11-01 05:04:45 | 自分史
★ 『人生で一番頑張った時期』について、
現役時代の仕事のことを書いてきたのだが、私自身37歳から42歳というこの時期は、私自身も、家族もそれぞれ頑張ってた時期だと思うので、
今回はちょっとそのあたりのことに触れて最終回としたい。

 
昭和45年(1970)は大阪万博があった年で、
私は37歳、結婚8年目、長男が小学校、娘はまだ幼稚園だった。
東北仙台にいたのだが、11月に異動で大阪となったので居を高槻に構えることになり、それまでは明石でひとりでいた母も一緒に暮らすことになったそんな生活環境にも変化があった年だった。


★この年の6月、まだ仙台時代に、出張で明石に行った時に、
たまたまダイワハウスのセールスが会社に土地の売り込みに来ていて、
廣野にいい土地を造成中だから買いませんか』というのである。
 
当時は土地を買い自分の家を建てるのがトレンドの時期で、総務部長に相談したら『会社でも資金を支援するから』というので、その気になって、まだ造成中で茶色の広大な造成地があるだけの状況だったのだが、『ホントか?』と思われるかも知れぬが、出張中に予約書にサインし買うことにしたのである。

私は何事でも、『決断』は速くてぐずぐずしているのは大嫌いなのである。
物事の決定など時間を掛けても、『いい判断』が出来るとは限らない。
世の中の状況などの客観情勢、問題提起した人物などを考慮しての『第一勘』が一番大事だと思っていて、いろんなことをほぼ即決することが多いのだが、そんなに間違ったことはないと思っている。

売りに来てたセールスが、かって私が広告宣伝課時代には、印刷屋にいて知らぬ仲でもなかったので、信用したのである。
家の場所もどこかも解らなかったのだが、すべて相手に任したのである。
それがいま住んでいる三木の家なのだが、当時は75坪が280万ぐらいで、2年後に家を建てることにするのだが、『600万ぐらいで家が建つ』そんな時代だったのである。

 この時期所謂『オイルショック』の時代で物価は毎年上がるし、『狂乱物価』などと言われたのだが、同じように給料もどんどん上がって
給料は4年で倍』になったそんな時代だったのである。
そういう意味では、非常に『いい時期』に買っていたとも言えるのである。


★前述したように、この土地は明石に出張中に総務部長にも相談して買うことにしたのだが、この話は社長の耳にも入っていたはずなのである。
この土地を買うことにした6月には、社長からは『10月には明石に戻す』という内示もあったので、『買う』という判断の中には、そんな要素もあったのだが、いつの間にか明石が大阪に代わって、『途中下車』のような感じにはなっていたのだが、そんなことで文句など一切言っていないのである。

 その後の私の人事は、大阪母店長・中日本営業部長・直営部長とどんどん担当地域が東京から兵庫までと拡がったこともあるのだが、社長から『直営部の本拠を明石にせよ』という指示が出たのは、どうも私が『家を建てる』ということを配慮して頂いた節がある。
 さらには管理部長と全国の特約店制度推進のための異動もあって、家が建つ頃には新居から会社へ通勤ができるようになったのである。


★そんないろいろなこともあって、家庭のほうでも『人生の中で一番頑張った時期』とも言えるのだが、本当にそう言えるのは『専業主婦』をしていた家内のほうだと思う。
 
給料は倍増したと言っても毎月の返済もあるし、余裕などなかったと思うし、明治生まれの確りした母が同居することになった時期だし、なかなか大変だったが、よく頑張ったものである。

子どもたちも小学校だったが、『勉強はそこそこ、運動は一番』という感じで一番活躍するのは運動会というような状況だったのだが、

息子のほうは小学校5年生ぐらいからサッカーを始めて、
小学校5年生の時には緑が丘小学校兵庫県大会で優勝したし、
6年生の時には、『オール三木』でキャプテンをしていてこれも兵庫県で優勝し、
オール清水なども出場したよみうりランドであった全国大会にも出場し、
参加32チームのの中から20人ほど選ばれた優秀選手にも入ったりした頑張りようだったのである。
 この時期の数年が息子の一生の進路を決めたそんな期間であった。

娘もサッカーもしていたが、何故かマラソンが速くて、学校のマラソン大会では、小学校も中学校でもずっと一番だったのである。 ただ、『マラソンが好き』ということではなかったようだが、兎に角『頑張り屋』なのである。
高校入学時に陸上部に誘われたが断って、中学から始めていたバスケット部に入って、そんなバスケットのご縁がいまの娘婿にも繋がっているのである。


★私がこの時期始めたものにゴルフがある。
ゴルフが流行りだした時期で、1974年41歳の時にゴルフを始めたのだが、やりかけると熱中する性格で、この当時の日記を読むと、休みの日はずっとゴルフの練習に通っている。
お金に余裕がなかったので、なかなかコースには出れずに練習ばかりやってる感じなのだが、1年後の1975年8月11日に会社のコンペで優勝しているのである。
よく覚えていないのだが、多分ハンデーがいっぱいあったのだと思う。

その後は何回優勝したか解らぬほど優勝はしているのだが、家にある優勝カップの中では、この銀製の立派なカップを大事にしている。
第7回優勝1977年9月17日で、3年目の時だが、この時のスコアもそんなに良かったとは思えないのだが、このカップが家にあるということは14回まで続いた最終戦の優勝カップ取り切り戦で、TOPだったということなので、その頃は多分80前後のいいスコアで上がったのだと思う。

 

 
後ろにあるのはZ1会に入会したころのハンデー10ぐらいの時の優勝楯なのだが、
ゴルフも、間違いなく『人生で一番頑張った』のはゴルフを始めたばかりの40歳代のこの時期だったのだと思う。


 最後にこの時期、私が会社の冊子にこんな寸評を投稿をしている。

 日記のページに張ってあったのでご紹介する。
 



雑 想      直営部部長   古谷錬太郎

多事多難多忙の毎日である。雑務に追われて無為無策のうちに、月日だけが流れてしまうことになりがちである。目標管理の必要性については、前号で北村部長が述べられた。目標管理を「すべきである」ことに反対の人は少なかろう。しかし、「やるべきことを完全にやれる人もまた少ないでは困るのである。
 有言実行を旨としたいものである。
 実行するということは意外にむつかしいものである。実行に対する訓練を日頃から心がけ、繰り返し、自分の体質としてしまうことである。小さな実行をより多く体験し、より大きな実行に挑戦することを身につけること。そのためには強固な意志とねばりと自分自身に対する厳しさが、その条件となるであろう。
 仕事がうまくゆかぬ時は、それなりにいろいろと理由はあるものである。
 「他社も売れていない」「予算がない」「方針がわるい」「人がいない」「雨が降った」等々責任を環境や上司や部下や、或は自然現象に転化して会議を上手く切り抜ける?前に、自分自身に厳しく問いつめてみたいものである。
それが男の仕事のやり方ではなかろうか。 われわれが販売しているオートバイはまさに男の乗り物である。それも二十才前後のはつらつたる若者の乗りものである。それを売る男たちは、燃えたぎる情熱を常にもちたい。それをぶつける対象はすぐに見つかる筈である。見つけようとする態度、それがチャレンジというものだろう。そして、若さであろう。
 「この会社の人はオートバイが好きなのかな?」或る新人の感想である。いろんな意味で痛烈である。商品に対する愛情、愛着が仕事を支える基盤であろう。
 乗れる人は、乗る機会を多く持ちたい。乗れない人は、せめて磨く気持ちを「もちたい。これも簡単な実行目標の一つである。
 多事多難多忙の毎日に、いろいろと想う私自身の反省であり、目標を一にする人達への提言でもある。
 ほかにもいろいろある。前向きに話し合える機会を多く持ちたい。そして人の意見を聞く態度を身につけたいと思う。』

 背伸びしながらも頑張ってた時代だな と改めて思ったりするのである。
 
 
 『人生で一番頑張った時期』は、コレで最終回とします。
 お付き合い頂いた方々、有難うございました。

 
 
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