雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

1月15日の自然

2022-01-16 06:04:09 | 発想$感想

★毎年、暖冬と言われ続けていたが今年の冬はどうなったのだろう?

 この辺りは雪は降らないが、日本海側や北海道は大変なようである。
 
 1月も半ば15日になった。
 1月は新春というが、
 公園の風景もこんな感じで、まだ「冬の景色」だが


  


 近づいてみると、
 木の芽も膨らみかけている。


 
 
  

 小さな芽がいっぱい、動き始めたと言っていい。





 我が家のしだれ梅の芽は、まだこんなに小さいが、




 
公園の陽だまりの梅のつぼみは、少し大きくなり始めている。





 苔にも何となく「春を感じる」そんな季節である。

 


 立春はいつだったかな?

 春は間違いなく、もうすぐやってくる。


 
 
 
 

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3回目のワクチン接種    雑感

2022-01-15 07:34:29 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★世の中はオミクロン株の急増で大変なことになりそうである。
 3回目のワクチン接種が急がれるところだが、

 三木市から「3回目のワクチン接種」の案内が届いた。

 電話予約インターネット予約の2種類だが、
 電話予約のほうは簡単なのだと思うが、
 電話が込み合っていて、幾ら掛けても繋がらないのである。

 インターネット予約のほうは、途中までは出来るのだが、
 最後のほうの肝心の「予約」のところは
 ネットでのやり方がムツカシクて、最後まで行く着くことは出来なかった。

 若い方ならともかく、高齢者の人は大変だと思う。
 どうしようかと思ったが、三木市役所の「健康増進課」に電話して
 「ネットで予約しようと思ったが。ムツカシクテ出来ない」と伝えたら、
 「よく解る方に代わります」と言って詳しい方が出てこられて、
 「私がご案内します」と仰って頂いて、
 インターネットでの申し込みを、20分ぐらいも掛かったと思うが、
 最初から最後まで丁寧に付き合って頂いたのである。


  その結果がこれである。

  めでたく2月2日の14時から旧三木志染中学校会場での
  第1日目の予約が取れたのである。


 


 
 ご覧の通り、2月2日から3回目のワクチン接種が始まるのだが、
 なぜ、こんなにややこしいのかというと、
 今回集団接種会場での接種はすべて「モデルナ」で
ファイザー」を希望する人は個別病院での接種でないとダメなのである。

 そして、個別接種の申し込みは、各医療機関でまちまちで、
 「一番早くても、2月20日から・・・」などと仰るのである。

 そんな複雑な対応を、文書で纏めてあるので
 説明が複雑になってしまうのは致し方ないのかも知れない。

 
 



★「私の場合」は2回とも「ファイザー」だから、
 3回目も「ファイザー」にしようとすると、
 個別病院での申し込みになってしまうのだが、

 これはとても大変だと思ったので「3回目はモデルナ」ということにしたのである。

 3回目もファイザーに拘る方の対応は、個別病院対応となるから、
 これは大変で、電話で説明する方も説明は複雑で大変だと思う。

 私は何事も「迅速に」いかないと気が済まないものだから、
 すぐ「ファイザー」から「モデルナ」に変更したのだが、
 これは正解だったと思っている。
 兎に角、今回の接種日程で最も早い2月2日の14時確定できたことに、
 大満足なのである。

 3回目のワクチン接種は「記憶を強固にして長続きさせる」とあるし、


  

 
 
 モデルナワクチンのオミクロン株への効果も
 このように「効果あり」と言われている。




 2月2日まで、あと半月なので、
 それまでに間違ってもオミクロン株に感染などしないように、
 従来通りよく注意して、毎日を過ごしたいと思っている。


 
 
 
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減量できるだろうか?   

2022-01-14 06:28:23 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★日ハム新庄監督になってから、選手たちの変貌が話題になっている。

 木田2軍監督も5kg減量したようだし、


  


 清原幸太郎のこんな記事が出たのは昨年の11月10日だが、

  


 
 極く最近の記事では、5.4キロの減量に成功したとか。

 トレーニングで落としたのか?
 食う量を減らしたのか?




 両方だとは思うが、「食う量を減らした」のは間違ないだろう。
 兎に角、目標達成なのである。





★ 私事だが、昨年11月中旬に右膝を痛めて、
 スロージョギングが出来なくなって、年末までに2kgほど体重が増え、
 更にこの正月に食い過ぎて、体重は86kgを記録してしまっている。
 これは生涯の新記録なのである。
 大体4kgほど肥えてしまって、腹は出たし体も重い。

 1月4日からスロー・ジョッギングを再開したのだが、
 歩数は1万歩の以前の状況に戻ってはいるのだが、


  

 

  運動だけでは、簡単に体重は減りそうにないのである。
  出来るかどうか?
  思い切って、食う量を減らしてみようかと思っている。
  簡単なようだが、
  戦後の食糧難の時代に育ったので、これがなかなかムツカシイ。

  でも、このままでは減量できそうにもないので
  2か月かけて3月初めの「89才の誕生日までに82kg以下にする」   

  ことを目標にチャレンジしてみようかと思っている。

  黙ってやると多分間違いなく挫折すると思うので、
  ここにアップして「目標公表」しているのだが、
  果たし「減量できるだろうか?
 
 
 
 
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50年前の1月13日

2022-01-13 06:36:42 | 発想$感想

★20歳の頃から日記を書いているので、
 何年前であろうが、その日に何をしていたかは、日記帳をめくりさえすれば解る。
   最近は閑に任せて昔の日記を読み返したりしているので、
 「何年前の今日」何をやってたのか。
 その頃は、どんなことをやり、どんなことを考えていたのか。
    意外に覚えていることも、忘れてしまっていることもあるので、
 「何年前かの今日」ということで、1週間に1度ぐらいの頻度で、
 ご紹介してみることにする。


 まずは50年前の今日、38歳の1月13日の日記である。

 


 「サンフランシスコ2日目、デーラー訪問。
  そのあとは市内観光、ゴールデン・ブリッジ、美しい眺めである。
 本土最後のナイトツアー、日本では流行語のポルノ、
 米国では映画も写真も本も公然と販売され、上映されている。
 すごい世の中になっている。

 などと書いている。
 まだ日本とアメリカではいろんなことで格差のあった時代なのである。


★実はこの年1月8日から1月15日まで、
カワサキの販売店100人ほどのアメリカ本土・ハワイへの招待旅行を実施して、
ロス・サンフランシスコでの市場調査などをやっている。
 
まだこの時代海外旅行など一般的ではなかった頃で、
参加者全員が『初めての海外旅行』だったのだが、
当時、カワサキは業界に先駆けて、二輪専門の販売店網、特約店制度を起案の時期で、
そんな二輪専門店を目指す東京・大阪・名古屋の販売店を
先進的なアメリカの販売店がどのようなものか、
実地に見学しようというそんなツアーだったのである。

 当時私は大阪・近畿二府4県の母店長をしていたのだが、
 このツアーの企画もやった関係で、調査団の団長を仰せつかっていたのである。

★ 当時のアメリカのKMCサンタナに本社があった時代で、
 カワサキの二輪事業をアメリカ市場が引っ張っていた時代であった。
 車でいえば250A1や、マッハⅢの時代で、
 Z1が出る「ちょっと前」の時代だったのである。

 

 
 日本人とともにアメリカ人がその経営の中心にいた
 KMCが現地主義という方針を摂り、トップは浜脇さんだったが、
 その具体的な経営は、二輪に詳しいアメリカ人がやっていた。
 逆に言うと、川崎航空機工業にはまだ販売会社の経営など経験のある人はいなくて、
 日本でも第一線の経営はメグロ明発の人がやっていた。
 私などは川崎航空機からそんな販社に出向していたほんとに数少ない中の一人だったのである。

 一番左は当時の杉沼浩さんで、後年MFJの常務理事もされたから、
 面識のおありの方も多いと思うが、
 当時英語を喋れた唯一の日本人だったのである。
 杉沼さんをMFJの常務理事に推したのは私だが、その時の理由も「英語が喋れる人」だったのである。 
 いまと違って英語などは通訳が喋るものという、そんな時代だったのである。

 そんなサンタナのKMC本社も訪問して、
 浜脇社長からいろいろと説明を伺ったりしたのである。


★50年前だから、私も50年も若くてまだ38歳の若さなのだが、
 カワサキの二輪事業も若かったので、
 各営業所のトップは私以上に若い人たちが担当していた時代なのである。
 当時の販売店で今も残っているところは少ないが、
 大阪でいえば船場の岡田博社長時代で、株・忍者の伊藤さんがまだ本当に若かった頃のことなのである。

 当時の二輪業界はまだ販売店は自転車屋さんが主力で、
 販売機種も50ccのモペットが主体で、
 カワサキだけがモペットを持たずに、中大型のスポーツ車が主体だったのである。
 そんなことから、大阪でも二輪専門の販売店を目指す25店を中心に
 カワサキ協栄会を組織していたころで、
 翌年、Z2の発売とともに特約店制度がスタートしたのである。

 ちょうどその1年前の「アメリカ市場視察団」だったのである。

★この視察旅行では、二輪業界以外のことで世界には日本と異なる文化がいっぱいあることも体験した。

 ホテルのロビーでは静かにしていないといけないこと、
 ロビーで日本語で大声で喋っていたら、警官が来たりした。

 食事などあてがえられたものを食うものだと思っていたら、
 各自が注文しなければならないのである。

 「ビール」と言えば「どこのどんなビール?」と聞かれて大変だった。

 ツアーの最後がハワイだったのだが、
 ハワイでは「日本式」が結構通じて、みんなホットしたのを覚えている。

 50年前の日本は、やはり今とは全然違った社会だったのである。


 
 
 
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私のアーカイブス・定年後  その11

2022-01-12 06:12:45 | 自分史
2011年は78才の年である。
 いろんなことがあった年だが、私もまだ元気に社会に出歩いている。

 この年の1月22日にFacebook をスタートしていて、
 やりかけると何でも熱心にやるものだから、
 1月末から2月にかけてはFacebook の話題も日記に多く出てくる。
 まだ、トモダチも少ないが 樋渡さんのこんなサイトも出てくるから、
 すぐ繋がっていたのだろう。


 

 
1月29日には神戸木の実クラブの50周年記念パーテイーに出席していて。
こんな錚々たるメンバーたちとの写真が残っている。

 

 
この会の主役であった片山義美さんも、金谷秀夫も、今はもういない。


★ 3月4日には「カワサキの想い出、そして未来」の会合だった。
平井稔男さんが主宰をしてNPO The Good Times が後援したいい会合で、
全国から100名以上が集まった。

その時の写真がいっぱいである。

 主宰者の平井稔男さん、
  


 私も村島さんと





 カワサキの重鎮たちも揃って顔を見せたし、





  こんなに盛会だった。




 
平井さんを囲んでこんな懐かし顔が並んでいる。

 


カワサキだけでなく、ホンダ・スズキ・ヤマハ・BSのレース関係者
顔を揃えた。
いま私のFacebook に使ってる写真である。





 登山道夫さんもいるし、




 司会はこんなコンビで、
 みんな今もFacebookで繋がっている人たちである。。






★ そんな会合の1週間後、3月11日にあったのが、あの東北大震災
 地震もすごかったが、あの津波にはびっくりした。

 
 

 NPO The Good Times のまだ理事長時代で、
 その団体会員確保などに熱心に活動していて、
 社会のいろんな方たちと繋がっている。

 今も続いている「粟生線の未来を考える市民の会」と繋がったのもこの年だし、
 余川と緑ヶ丘こどもたちを繋いで
 どろんこドッチボールなどに関わっていたのもこの年のことである。

 

 
その時アップした「雑感日記」です。
この活動と、NPO The Good Timesの当時の活動など、
なかなかちゃんとアップしてるので、ぜひご覧になってみて下さい。
 


日記を読み返してみると、
この年、11月にひざを痛めていて、
1か月ほど治るのに掛かっているが、全然覚えていないのである。
今回の「ひざ痛」も、ほぼ10年ぶりだったのである。

2011年、78才はそんな1年だったのである。


 
 

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成人の日に   雑感

2022-01-11 07:00:57 | 発想$感想

★ 世の中は「成人の日」とかで3連休である。

 成人の日と言えば「成人式」で
 こんな晴れ着のお嬢さん方の印象が強いが、
 その出席率は6割程度で、特に昨今はコロナの関係もあって
 「成人式に参加する」という割合は、39%と4割を切り
  例年から20ポイントも減少したらしい。


 




 昭和23年(1948)に制定されたというが、
 私はその頃高校生だったが、「成人の日」など知らなかったし、
 「成人の日」の式典などもなかったのだろうと思う。

 こんなに成人の日のお祝などするようになったのはいつ頃からなのかな?
 息子も娘も「成人式」などはあったが、出席していないと思う。

 
 20歳になると大人だという感覚は有ったのだろうが、
 実際に酒を飲んだり、煙草を吸いだしたのは大学に入学した時からである。
酒とたばこ」が「大人の仲間入り」みたいなところがあったよう思う。

 歓迎会にはお酒が出たし、周囲人たちも煙草を吸いだして、
 たばこなど「旨い」と思ったわけではないのだが、
 そうすることが普通で、大人になったというそんな世の中だったのだろう。

 
★そんなことで始めた「酒と煙草」だが、
煙草」は50才の頃に止めてしまって以来1本も吸っていない。
 ただ「」は世の中でいう「酒飲み」の部類ではないのだが、
 家では夜は毎晩晩酌を欠かしたことがない。
 夕食には晩酌は付き物と思い込んでる節がある。

 晩酌と言っても缶ビール1本、それも発泡酒だが、
 ビールも発泡酒もその違いがよく解らぬ程度の酒飲みなのである。

 ただ、昨今の若い人たちは、酒もたばこもそんなに関心がないらしい。
 統計を見ても、若い人ほど「酒を飲まない」比率は高い。

  

  若者の半数はアルコールを飲んでいない とあったが、
  ホントである。




★ では一体「大人になる」とはどういうことか?
  と調べてみたら
  こんな6つの基準が現れた。

 精神的にも金銭的にも自立して、きちんと生活が出来て、
 責任感があり、人のために頑張れて、一般常識があること
 とあった。


  

 なるほどと思ったが、
 これはなかなか20才ではムツカシイ
 成人式の借り衣装代をどれくらいの人が自分で払ったのだろうか?


 大体「成人式」などが要るのだろうか?
 今年は6割の人が参加していない。
 
 こんな「子どもみたいなこと」やってるのは世界で日本だけだろう。
 その日1日、借り衣装で着飾る風習など、何の意味があるのだろう?
 まさに「こどもじみてる」と思うのだが。
 
 その成人の基準が今年の4月から18歳に若返るという。
 また4月に18歳で成人式などやるのだろうか?

 ちょっと斜めから見た感想になったが、
 成人の日成人式もなかった時代を過ごして
大人になった おじんの僻みだろうか?

 
 
 

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Fitbit 東西     雑感

2022-01-10 06:55:42 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★アメリカの孫の門野真也fitbitを貰ってからもう2年にもなる。
 睡眠時間や毎日の歩数などが出て、重宝している。

 すでに持ってるのかと思ったら、
 娘婿はもっていなかったようで、つい先日
 同じ孫の真也にクリスマスプレゼントで贈られたようで、

 昨日のFacebook にこのような記述と写真がアップされて、
 楽しんでいるようである。

 Fitbitをクリスマスプレゼントでもらってから、毎日結果を楽しみにしています。
 特に気になるのが睡眠時間
 7時間近くは寝たいのですが、これがなかなかできない。
 平均5時間未満。
 睡眠時間をどうやって長くするかが、今の悩みで楽しみです。

 最新型の一番高価なものだから、内容も詳しい。


  



 歩数も結構歩いていて、2万歩を越えてるが、
 これは最近夫婦でゴルフに入れ込んでいて、
 毎日ラウンドしているからだろう。
 アメリカならではの環境なのである。





     二人とも、もう一息で90が切れる、
  そんなレベルのゴルフである。


               



             



★ ところで、私のほうのFitbit は、
 Fitbit 自体は何の問題もないのだが、

 なぜかパソコンの記録のほうが、突然昨日からダメになってしまったのである。

 「統合に失敗しました。アプリを再起動して、もう一度お試し下さい

 という表示が出て、
 歩数など、肝心の数値が現れないのである。

 


  例えば、歩数などもこのように0になってしまうのである。

  
  

 
 どうすればいいのか、アメリカの孫にメールしたら
 こんな答えが返ってきて、折角丁寧に対策を書いてくれているのだが、
  

パソコンの方のBluetoothオフにしてもう一度試して見てください。

1. パソコンのfitbitのページをして消す。 
2. パソコンのデスクトップの左下からこの上の画像のとこに行ってBluetoothを一旦 「オフ」にする。
3.30秒くらい待つ。
4.  Bluetoothを「オン」にする。
 5. 再度パソコンのFitbitのページを開く
 6. Fitibitを近づけて直ったかチェックする。 
とりあえずとりあえず一回これで試してみてください。



   このようにメッセージで送ってくれたのだが、 
 私のネットの知識では、全然理解できないのである。
 Bluetooth が何のことか解らないし、
 どうしようもないので、今はそのまま放置している。


  


 そのうちに孫にLine で電話を貰って、
 教えて貰いながらやってみようと思っているのである。


 
 
  
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週末の三木綜合防災公園

2022-01-09 07:06:27 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 今週スロージョッギングを再開してから、
 毎朝、三木綜合防災公園で走っている。

 今朝は霜が降りて寒かったが、
 しばらくすると汗ばむぐらいにはなった。

  

 
 今週初めは2000歩ぐらいから始めて
 毎日1000歩づつ上げて行って、
 徐々にその歩数を上げて、週末には7000歩レベルまで回復した。

 

 
  昨年11月には「毎日1万歩」を目指して、
 ちょっと無理し過ぎたかも知れないので、
 当分は7000歩ぐらい、約1時間の運動にしておこうと思っている。


★ やはり公園の散歩道は気持ちがいい。
 

  

 週末の土曜日、マラソン大会でもあるのか、
 子供たちがいっぱいで、いつもの風景とも違うし、
 




 いつもは殆ど車が止まっていない駐車場も
 こんなに、様変わりの光景だった。

 



 午前8時半ごろ、
 まだ霜が残っている芝生だが、子供たちは元気に体操をしていた。

 


 気持ちがいい青空だった。


 
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降らないところで降ると

2022-01-08 06:47:32 | 発想$感想

★ 東京は大雪で大変だったようである。
 いつもは「降らないところで降る」から大変なのである。

 ニュース情報も流れるので、
 1日ぐらい家でじっとしていればいいのだが、
 なかなかそうはいかないのが現実のようである。

 


 この写真では、結構な量で想像以上なのかも知れない。
 



 都内で77件人身事故があったとか、

 車はひっくり返っているし、

 
 

 バスも民家に突っ込んでいる。
 バスなのにタイヤは替えていなかったのだろうか?





★私自身は東北で4年北海道札幌で2年
 いずれも冬でも毎日のように運転していたし、
 東北6県や道内を長距離運転していたのだが、何とか無事で無事故だった。

 それは備えが出来てるからだと思う。
 東北時代は昭和40年代なのだが、まだ車は少なかったが、
 日本には少なかったミシュランのラジアルタイヤをはめていた。
 当時の東北の峠はみんな未舗装の砂利道だったのだが、
 雪が降るほうが逆に道はよくなった感じだったのである。

 平成に入っていた北海道ではトヨタの4駆のクラウンだったが、
 4駆で冬タイヤを付けると、その安定度は素晴らしくて安定していた。


 札幌の大通公園である。
 当然、雪景色だが、車も人も普通に生活している。


   

 
  そんな環境なので、備えが出来ているのだと思う。
  「降らないところで降ると」備えが出来ていないから、大変なのである

  
 
 
  
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正月の風習    雑感

2022-01-07 07:18:25 | 発想$感想

★ 日本の正月の風習はいろいろあるのだが、だんだん薄れていくのかも知れない。

 私自身はこども時代を外地で育って、
 日本でいう「お祭り」はなかったし、
 新年の「初詣」なども神社がなかったので経験がないのである。
 
 なぜか「お年玉」も貰ったことがないし、
 所謂、内地の正月とは違ったものだったような気がする。

 戦後、日本に引き揚げてきたのが12月8日だが、
 その1年目の正月は本家も戦災で焼けてしまっていて、
 田舎に疎開していたのだが、その正月は「おせち」などなかったのだと思う。
 兎に角「食糧難」の時代だったので「おせち」どころではなかったのだと思う。


★ 今年の「年末年始」は孫・二人もいて4人家族で「おせち」で祝ったが、
 それ以外の我が家の正月の風習ととしては
 「しめ飾り」を玄関に飾ったのと「年賀状」ぐらいかも知れない。

    
 
 

               



年賀状」は兎も角「しめ飾り」をしているおうちは、
 近所でも我が家ぐらいで、殆どの家にそれは見られらないし、
 少なくとも家並みを眺めた限りでは、普段と全然変わらない。


 旧い三木の町には神社はいたるところにあるのだが、
 ここには神社なるものは存在しない。

 だから正月の風習として残っているものは、「おせち」と「年賀状」ぐらいで、
 そのおせちもいつのころからか、家で作るのではなく購入するようになって、
 それもだんだんと少なくなって、今年は1段の小さいのを人数分用意しただけである。
 「おせち」そのものがそんなに美味しいものでもないようにも思うし、
 何日も「おせち」ばかりを食わされるのは有難迷惑なのである。

 我が家もおせちは元旦の朝だけで、昼は回転ずしを食いに行った。
 元旦なのに、お客はいっぱいだったから、
 「おせちより回転ずし」という人も普通になってきているのだろう。

 
★「年賀状」は毛筆で100枚すべて手書きで書いて出していたのだが、
 母が亡くなって喪中はがきを出したのを機会にそれ以来止めてしまって
 もう10年近くになる。


 「年賀状」の風習はいつからなのか?
  
 今のような年賀はがきが出たのは戦後のことだから、
 戦後の風習かなと思ったら

 

 

 「年賀状の起源」と検索すると

 年賀状は平安時代から始まったとされています。
 平安時代の貴族、藤原明衡がまとめた手紙の文例集の中に、年始の挨拶の文  例があり、これが残っている最も古いものです。
 江戸時代に入ると、今の郵便の先駆けとなる「飛脚」が充実し、庶民が手紙で挨拶を済ませることも増えていきます。
 現在のようなはがきスタイルになったのは、1873年(明治6年)に登場した官製はがきがきっかけで、明治20年前後には、年賀状を出すことが年始の恒例行事となります。
 その後1949年に、いち民間人であった林正治氏からのアイディアで、お年玉つき年賀はがきも登場しました。

 とあってその起源は、平安時代に遡るようである。
 然し一般化されたのは戦後の話で、
 一時は多くの人が出していたのだが。
 最近は年賀状を出す人は50%まで下がっているという。


  
  
 私は今は出さないのだが、今でも20通以上の年賀状が届くので、
 ネットでご返事できる方はFacebook でご挨拶するのだが、
 それ以外の方にはペン書きで、それぞれの方に、
 それぞれの文面で、お礼のハガキを出している。


  

  
  そのハガキ文面も松の内とそれ以降とでは異なるようで、
  1月8日以降は「寒中お見舞い」となるのである。
  
  例年は15日になってからゆくりと出していたのだが、
  今年は初めて「松の内」の間に出したので、
  「おめでとうございます」でいいのだそうである。

  そんな日本の風習も、若い方はだんだんと年賀状を出す方が少なくなているようで、
  その理由としては以下のようなことで、尤もだと思うのである。

 ●メールやLINE、SNSの普及により年賀状を出す人は年々減少している。
 ●住所を知らない方が増えたため年賀状を出さずにLINEなどで済ます。
 ●また、1人1人に送らずにSNSで挨拶するのも近年、主流となっている。
 ●平成が終わるのと同時に年賀状を卒業する人も増え、減少傾向にある。
 
 正月の風習もなかなかムツカシイが、
 あと10年もするとずっと変わったものになるのかも知れない。


 

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私のアーカイブス・定年後  その10

2022-01-06 05:53:10 | 自分史

「私のアーカイブス・定年後」ちょっと休んでいたが再開である。

2011年は、潮流・海流発電という壮大なコンセプトに共感して、
 三木の「ノヴァエネルギー」という個人企業の応援を始めた年である。
 潮流・海流発電とは風力発電と同じような理屈なのだが、
 24時間流れ続ける「黒潮」の利用は、風が吹かねば発電しない風力発電と違って、
 24時間コンスタントに発電し続けるコンセプトは素晴らしいと思ったのである。


 潮流・海流発電とはこんなイメージで、
 10年前にすでにこんなイメージはあったのである。


 


 この「ノヴァエネルギーの潮流発電」は環境省の認可も取れたし、
 当時は川崎重工業も一時興味を示したのだが、具体的には動かなかったのである。

 この雑感日記にも当時は潮流・海流発電というカテゴリーを造って、
 いろいろと応援していたのだが、
 この年の6月には「潮流発電 造船工業会動くかな?」という記事もアップしていている。
 

 その記事には大要こんな風に書いている。 
 
造船工業会、新会長風力発電に意欲 』と言うニュースが流れた。
日本造船工業会の会長に就任したIHIの釜和明社長が記者会見し、
 造船以外の有望な事業として再生可能エネルギー分野を挙げ
「洋上風力発電や潮流発電、波力発電などに挑戦したい」との意欲を述べた。


 潮流、海流発電は、既にノヴァエネルギーが淡路島の岩屋での実験を昨年来続けているが、
幾らそのコンセプトが良くても小さなベンチャー企業が『事業化』を目論むことは現実問題として難しい問題が山積しているようである。
海流発電、その黒潮の幅は100キロと言う壮大さである。
是非、頑張って欲しいと思っている。
造船工業会、ホントに動くかな?
と書いているのである。


★それから10年経った現在、どうなっているのかと思ったら
 そのIHIが具体的に動き出しているようである。

 

 
やはり私が思ったようにこのコンセプトは本当に素晴らしいと思う。
 IHIはこのように説明しているのである。
海流は昼夜や季節による流れの速さ・向きの変動が少なく安定しており、
 年間を通じて安定的に大きな発電量が期待できる







★2010年は77歳・喜寿の年である。
 はまだ元気で101歳を迎えている。
 当時は月のうちの半分以上を老人ホームのショートステイに行っていた。
 まだ独りで歩けていたから、老人ホームの車いすの人たちを見て、
 元気を貰っていたようである。
 昨今は通称「特養」はなかなか入れないのだが、
 母の時代は、特別養護老人ホーム が出来たばかりの頃だったので、
 勧誘されて資格を取れたので、歩けても「特養」が利用できたのである。
 
 家内も元気で8月初めから、約2か月アメリカの娘のところに遊びに行っている。
 そんな二人が留守の時は、私は独りで気楽に独身生活を楽しんでいた。


 15年ほどいた柴犬トム・ラブも前年にトムが、
 そして、この年の2月にはラブも亡くなってしまって、
 毎朝の犬の散歩という日課もなくなってしまったである。

 



★そういう意味では「生活の環境」が変わった年だと言えるのかも知れない。
 この年に2台目の新しいパソコンを買っている。
 ネットの世界に入れ込み始めた年だったと言えるのかも知れない。

 この年からツイッターを始めているし、
 そのフォロワーを一生懸命集め始めているのだが、
 その目的は、私の「情報発信先の拡大」を目指したのである。


 この頃のツイッターは1日1000人ぐらいはフォロー出来て、
 1000人フォローすると500人ぐらいのフォロー返しがあるので、
 1か月で1万人ぐらいのフォロワーの獲得ができるので、
 この年の年末には10万人以上のフォロワーとなっているのである。


   

 因みに、私のツイッターのフォロワーは現在50万人もいるのだが、
 1年に10万人を集め続けたら、
 5年目には55万人ほどのフォロワーになったのである。
 それが6年目あたりからツイッターのルールが変わって
 そんなにたくさんのフォローが出来なくなってしまったので、
 50万人で止まっているのだが、
 その数値は有名人を除く一般人では全国でも20位以内に入るレベルなのである。

   

 実は、ツイッターのフォロワーを増やそうと思ったのは、 
ノヴァエネルギーの潮流・海流発電の応援」がきっかけだったのだが、
 その後、いろんな展開のために5年間も続いたのである。


 2011年は『潮流・海流発電』に終始した年だとも言えるのだが、
 そのコンセプトをIHI実現に向けて頑張っているのは、
 私としても嬉しいことなのである。
  

 
 
 



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スロージョッギング再開

2022-01-04 14:26:22 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨年11月23日から、右ひざが痛くて毎朝のスロージョギングを止めていたのだが、
 膝の違和感もなくなったので、
 仕事始めに合わせて、再開することにして
 日の出とともに三木綜合防災公園でスタートした。

 

  

 久しぶりの林間広場である。
 時間が早かったので誰もいない「独り占め」の状況だった。






 ずっと、ストレッチと筋トレは続けてうぃたので。
 そんなに問題なく再開できると思ったのだが、
 実際に歩いてみると、
 なかなか、スムースには歩けないのである。
 
 やはり1か月半も歩かないと「歩く筋肉」が弱ってしまっていて、
 両足の腰の下、足の付け根のところが左右とも同じところに違和感がある。

 それでも右ひざの痛みは全くなくなったので、
 気持ちよく3000歩ほどは歩いて、
 ちょっとだけスロー・ジョッギングをやってみたが問題はなかった。


★ この1か月半で体重は85.5キロまで増えてしまっていて 
 元の体重まで3キロも落とさぬといけないのだが、
 一度に頑張っても、いろいろ問題もあるだろうから、
 焦らずにじっくりとやることにした。

 それでも40分ほどは公園にいて、
 下の広場から久しぶりに丹生山を眺めてきた。


 



 寒いけど、やはり外の空気は気持ちがいい。
 この後、明石の長寿院まで新年の墓参に行ってきた。

 令和4年、2022年も三が日も終わってこんなことから始まった。
 今年もこの雑感日記スロージョッギングも休まずに続けられるよう
 頑張りたい。


 
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鎌倉の孫・古谷仁

2022-01-04 06:31:36 | 発想$感想

★ 大晦日の日に突然やってきた鎌倉にいる孫・古谷仁だが、
 何を思ってやってきたのか、突然やって来て突然戻って行った。

 1993年1月生まれだから、
 1933年3月生まれの私とはちょうど60歳離れていて、
 今年29才である。
 
 29歳と言えば、私は結婚した年なのだが、
 そんな気配は全くない。
 朝早く「また来るね」と言って、新神戸駅から戻って行った。

 
  



 朝新神戸駅に送る車の中でちょっと話をしたぐらいのようにも思うが、
 使い方を忘れてしまって投稿することが出来なかったInstagramだったが、
 その投稿の仕方を教えて、
 何とか投稿できるようになったのが、収穫と言えば収穫である。


 
  
 
 この6枚の投稿は、年末から練習用に投稿し、
 最後の1枚は今朝の新神戸駅での写真だから、何とか投稿が再開できそうである。
 今年は毎日1枚は、Instagramに投稿することにしよう。
 私のパソコンの技術は「そんなレベル」で毎日やっていないと出来なくなってしまうのである。

 そういえば、もう15年以上も前のことだが、
 ブログへの写真の投稿の仕方は、
 その時の正月にやって来た仁に教えて貰ってできるようになったのである。


 これが20歳、成人になった時の古谷仁だが、
 まだ慶応の学生だった時である。

  



 殆どイメージは変わっていないように思うが、
自分の思うような人生」を歩いているようにも思う。
 この9年間に結構いろいろな経験を積んで、
 ちょっと普通の若いやつとは差別化できてるのかな?とも思うし、
 それができる「いい運勢」を持っているのかも知れない。

 学生時代はストリートダンスに凝っていろいろやっていたのだが、
 単に凝っただけではなくて、1年卒業を延ばして
 世界中を飛び回って、アメリカでも、インドネシアでも、ヨーロッパでも、
 街の人たちとダンスを踊って、こんな卒論集にしているのである。

 

 
  その時私がアップした雑感日記である。

  今思っても、なかなかそんなことは普通ではできないのだが、
 「それが出来た環境」にいたことが、彼の持ってる運かなと思ったりする。

 5年かかって大学をやっと卒業したのに、
 すぐには就職せずに、「ダンスの世界」にハマってしまって
 日本国中の著名ダンサーをインタビューして、
 こんな冊子ripple room・2冊にまとめて出版しているのである。

 「古谷仁・ripple room」と検索すると、
 こんな写真などいっぱい現れるし、

  

  
 こんな著名ダンサーの写真も現れるから、
 この業界ではそれなりの評価を得たのかも知れない。


  

 
 さらにそのあとは、
 このように発酵デザイナー 小倉ヒラク氏の書生として、紹介されていたりしたが

  



 この時期で、大学卒業後3年も経っていて
 ほんとに「どんな人生を歩くのかな」と思っていたのだが、
 私自身が『差別化』は人生の目標でもあったから、
 こんな古谷仁の生き方もいいかなとは思っていたのだが、

 突然「RECRUIT」に就職して、
 今は「RECRUIT」の社員なのである。
 大学卒業後3年も自由な生活をしていて、
 突然、「RECRUIT」の社員になれたのも、
初めての就職」という条件があったので、応募したら受かったそうである。

 名刺には「制作デイレクター」とあるが、
 説明を聞いてもどんな仕事なのか、よく解らない。

  
 


★今回三木にはこんな「モノノメ 創刊号」を持ってやって来た。

いまのインターネットは「速すぎる」。
いま必要なのは、もっと「遅い」インターネットだ。
 こうしてはじまった「遅いインターネット」計画。
そして、2021年。
この運動の次のステップとしてあたらしい「紙の」雑誌を創刊します。

 などと書いてあって、ちょっと斜めに読んでみたが、
 ちょっと私にはよく解らない。

   


雑誌の名前は「モノノメ」にしました。
由来は春の季語の「物の芽」で、いろいろな植物の芽の総称です。そしてそこに「ものの目」という意味も込めました。僕たちはいま、人の目のネットワークの中に閉じ込められているところがあるので、別の目で世界を観てみたい。そんな思いを込めています。
コンセプトは「検索では届かない」。
タイムラインの潮目を一切無視した、ほんとうの意味でのインディペンデント・マガジンを目指します。 ・・・・・

 などと書いてあったが、こういう文章は私は苦手なのである。
 何となく解ったような気もするが、ホントは解っていないのである。


★ 何年ぶりかで会った古谷仁だが、
 ずっと机の前に座って、タブレットで何かやってたし、
 持ってきた本など読んでいた。

 今回は元旦に食った「回転ずしの支払い」を仁がしてくれたのが、
 一番印象に残っている。
 そのうちに「お年玉」をくれるようになるかも知れない。
 
 ネットの世界ではFacebook などに、たまに「いいね」をくれるので、
 何となく会っているような感じでいるのだが、
 今度はいつやってくるのだろう。

 今年も三が日は明けた。

 娘のほうの孫の長男・門野力也は5日までいるらしいが、
 別に「何をする」でもないのだが、
 家内と二人だけよりは、誰かがいると何となく雰囲気も違ってくる。

 賑やかでもなかったが、いい年末・年始だったと言っていい。


 
 
 
 
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アメリカの元旦 と 仕事はじめ

2022-01-03 06:21:21 | 発想$感想

 アメリカは1日遅れで今日が元旦である。
 Irvineにいる娘家族とLine電話で、長電話。
 画像も映るし、アメリカも近いものである。


 これがアメリカの元旦か?  
 と思うような日本のような献立である。

 



  お雑煮も結構本格的だが、
  多分、材料は日本の倍ほどもしたのだろう。

     
 


 ★毎年家族で出かける恒例の初日の出、ここはどこかな。





 4人家族なのに、
 いつもお父さんは写真の「蚊帳の外」である。

       


   でも、こんな高級Fitbitを次男にプレゼントして貰ったらしい。
 是非、今年はトレーニングに励んで、体を絞ってみて欲しい。
 






★ その次男の門野真也と私は長電話。

 こんな風に後ろにはユニーフォームが映っているが、
 本職サッカー選手で、炭水化物を口にするのは今日までで、
 明日からは本格的なトレーニングに入るとか言っていた。

 

 
 そんな彼だが、「毎日てっちゃん」はそれこそ毎日、
 2年間も続いていて、今年もこんな具合にもう始まっている。

 


 毎日大変だな、と思っていたら、
 そんなに大変でもないと言うのである。

 どれくらい掛かるのか?と思っていたらものの10分ほどで完成する。
 それを最初からLine の電話で、その制作過程を見ていた
 写真に撮ったのでそれを紹介すると

 まず、こんな下絵から始まる。

  



 それがこんなになって、
 こんなのがちゃんとなるのかと思ったが、





 色がつくと、全然見栄えが違うのである。
 どうなってるのかよく解らぬが、一瞬で色が塗れる





 そして、こんなになって




 

  バックも色がつくとこんなになる。





 そして、絵はこのように出来上がって、





  このように、文字を入れると出来上がりである。
  ちょうど10分ほどで完成して、

 


 すでに今年は、3枚目で並んでいる。

 


★ どなたのDNAか、不思議な才能を持っているものである。
 サッカー選手をクビになっても、
 漫画家でいけるかも知れぬし、
 以上に自分では「料理に自信あり」のようである。

 何事も便利な世の中になったものである。
 ネットではこんなに簡単に絵が描けるとは思いもよらなかった。
 新年早々、「新しい知識の導入」が出来てよかった。

 門野真也は不思議な性格の持ち主で、
 他人が頼むと、つまらぬことを懇切丁寧に教えてくれるのである。
 上記はその中の一部で、手元には倍以上の写真が残っている。


 私のために、「毎日てっちゃん」の1月2日分を最初から画きながら
 披露してくれたのである。
 「仕事はじめ」は1月2日からだというので、
 これが私と孫の今年の「仕事はじめ」だったのだろう。



 
 
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令和4年元旦

2022-01-02 06:43:28 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 令和4年、2022の元旦は静かに明けた。
 車を運転するので、朝はお屠蘇抜きで祝った。
 孫二人、古谷仁と門野力也を交えて、家内と4人今年1年の始まりである。

 鎌倉の息子が挨拶の電話をかけてきて、
 それをLine の電話に切り替えたので、新春そうそう賑やかな会話が続いた。
 声だけでなく、姿が映るのは隔世の感がある。

 そのあとアメリカの娘のところには、こちらから電話した。
 アメリカとの通話が無料で時間制限なしでできるというのは
 かっては考えられないことだった。

 40年ほど前は、会社からアメリカに通話したら
 ちょっと長く話すと10万円も掛った時代を生きてきたのである。

    そのアメリカの孫・門野真也が画き続けている「毎日てっちゃん」、
 先方はまだ大晦日の夕食前なのに日本時間に合わせてすでに正月版が出ていた。


  

 
 
 この2年間、毎日画き続けて今年は3年目に入るのだが
 この調子なら3年目も大丈夫、画き続けることだろう。
 こんな継続性のあるところは、私に似たのかも。







★ 昼前に神戸の実家に挨拶に行く孫・門野力也緑が駅まで車で送って、
 その足で、家内と孫・古谷仁との3人で回転ずしを食いに行った。

  

 
 スシローはちょうど12時からの開店で、 
 番号札を取ったら「001番」だった。
 何事も1番は気持ちがいい。


 


 朝おせちを食った後なので、大して食えなかったのだが、
 ここの払いは孫・古谷仁 が払ってくれた。
 「孫にオゴッテ貰った」のは人生で初めての出来事なのである。
 これは、多分いつまでも忘れないだろう。
 孫と言っても「給料取りの孫」だから、
 考えてみると、それもそんなに不思議なことではないのかも知れない。

 



★ 年賀状を出さなくなって、もう何年もになるのだが、
 いまだに年賀状がたくさん届くのである。
 現役時代いろいろと関係が深かった方たちからである。
 そのお名前を見るといろんなことが思い出される。
 そのほかに、定年後お付き合いが始まって、ネットでも繋がっている方々からもご丁寧に届いている。
 年賀状を見ると、正月だなと思う。

 Facebook  では、100人を越える方からのご挨拶や「いいね」が届いた。
 今は超有名人のお一人である樋渡啓祐さんからも「いいね」を頂いたので、
 樋渡さんのFacebookにお礼のコメントを寄せたら、

   
    
 
 

  樋渡さんからこんな嬉しいコメントが戻ってきた。

  
  樋渡 啓祐
  古谷錬太郎 さん、高槻市時代に注目してくださったのは古谷さん以外いなかったです。
  あの頃の私への高い評価が自信につながりました。
  引き続きご指導ください。どうぞよろしくお願いいたします。

   
 
 
 まだ、樋渡さん総務省から高槻市役所に出向されてた当時のことで、
 そのホームページで出会った「樋渡啓祐」さんに繋がったのである。
 お会いしたこともなかったのに、私の「猛烈な片想い」だったのである。
 このブログ雑感日記も、当時樋渡さんがホームページに寄稿された一文、
 「ブログ・ブログ・ブログ」を見て、書き始めたそんなご縁なのである。 
 もう17年も前の話である。

    

★ 午後、息子の嫁のノンちゃんから小さな荷物が届いた。
 仁に持たせようとしたら、重いからと仁が自分で郵送したらしい。
 「郵送代は俺が払った」と妙なところで威張って言うである。


 鎌倉の銘菓「クルミッ子」や


 

  

 横浜の「うさぎ餅」などいっぱい詰まっていた。
 早速、お相伴させて頂いた。

 



 いいお正月だが、少々食い過ぎでまた体重が増えるかも知れない。
 そんなことで、「夜はサラダ」だと言っているが、
 どんなことになるのだろう?


★ こんな今年1年の始まり、元旦のいい1日であった。


 
 
 

 
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