雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

「べにしだ」を植えてみた    

2022-02-13 06:36:05 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★今年になってちょっと庭仕事に凝っている。
 20年近く薔薇栽培にも凝ったのだが、
 それにもちょっと飽きが来て薔薇はそこそこにして、
 日本庭園風アレンジをしようかなと思ったりしている。

 先日はなども買ったのだが、
 苔には付き物のような「しだ」の中から「ベニシダ」を植えてみようと
 10ポットほど注文したら昨日届いたので、
 庭のあちこちに植えてみた。


   

 








 いまはこんな緑の葉だが、

 


 新しく出る葉は、こんな紅色になるので
 「ベニシダ」という名のようである。




        


  紅葉は落ち葉寸前だが、
  新芽が紅葉とは面白そうなので選んでみたのである。

  ベニシダはその名前からも分かる通り若葉が紅色をしている所が特徴で、
  葉の色は若葉が橙色をしており成熟すると緑色になるという。

  この春に紅い葉が見られるのだろうか?

  半日蔭に植えて、水を絶やさねばそんなにムツカシクは無いようである。


★早咲きの春の花・椿が2輪咲いている。

  小さな苗から育てた椿だが、もう10年以上にもなる。
  
    


  ちょっと変わった、珍しい椿である。



 

 いよいよ春も近いなと思える季節になった。

 
 
 

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梅一輪一輪ほどの暖かさ

2022-02-12 06:03:04 | 発想$感想

★ 「梅一輪一輪ほどの暖かさ

 そんな時期になった。

 松尾芭蕉だろうと思っていたら、
 松尾芭蕉の弟子である服部嵐雪がよんだ句だという。

  
 毎朝走りに行っている三木総合防災公園の梅林は、
 いま、ちょうどそんな時期である。

 じゃ今は春なのか、冬なのか?
 

 そのあたりがよく解らなくて、この句の解説を読んでみた。

 




 この句の解説を見るとなかなかムツカシイのだが、
 この句の季語「梅」かと思ったら、
 この句の季語は別にあって、
 実際はこの句は冬によまれていて、
  この句が読まれる前には詞書があって、
 そこには「寒梅」という冬の季語が用いられているので、
 正確にはこの句の季語は「寒梅だというのである。
 
 さらに、この俳句の意味は、主に2つの解釈があって、
 
  • 梅が一輪咲いている。それを見ると、一輪ほどのかすかな暖かさが感じられる。」
  • 「梅の花が一輪咲くごとに、少しずつ暖かくなっている
  前者は「寒さの中ほのかな暖かさにじんわりと心がふるえる様子」
 後者は「聞こえ始めた春の足音に心躍らせる様子」となるのだが、
 
 この句は冬によまれたものなので、有力な解釈は前者の方になるという。
  
 なぜ後者のような解釈が生まれたのか。
 それはこの句の詠み方にあって、
  前者の読み方「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」と【上、中、下】全部に間をつけると、冬になり

 後者「梅一輪一輪ほどの 暖かさ」と【上と中】を一緒に読んでしまうのだと思うと春になるというのである。
 そして、詞書が示されなければ、
なおさら春の句なのかなと思い混乱を招くことになってしまったのだと解説されていた。


★ 読んでみて、何となく納得したが、
 日本語はなかなかムツカシイ
 
 ただ俳句は5・7・5と上・中・下に分かれているのが普通だから、
 やはりこの句は「冬の句」なのかなと思った。

 そういう意味も含めて、撮って来た写真の中から、
 たった一輪咲いているまさに梅一輪」の写真を使ったのだが、


 こんなにいっぱい咲いている写真もあったのである。
 この写真では何となく、早春のイメージかなと思った。

 

 

まだ我が家の梅はつぼみばかりで、
 一輪の花も咲いてはいない。

 

 
  いまはまだ冬という方が当たっている。

     梅一輪一輪ほどの暖かさ」という俳句は知っていたが、

  この句のこんなに詳しい分析を読んだのは初めてである。

  なるほど、これは冬の句だというのがよく解った次第である。

  みなさんはご存じでしたか?


 
 
 
 

 



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紀元節 三連休     雑感

2022-02-11 07:01:23 | 発想$感想

★ 私たちの年代にとっては2月11日の紀元節は懐かしい。
 
今は「建国記念の日」だが、かつては「紀元節」と呼ばれた祝日であり、
日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日が、
明治政府によって紀元節と定められたものである。

私のこどものころは四大節という四つの祝日「四方拝・紀元節・天長節・明治節」があって、
いまでいうなら「新年・建国記念日・みどりの日、文化の日」なのだが、

 紀元節にはこんな紀元節の歌もあったし、
 学校で歌わされたので、その意味は兎も角、
  紀元節の歌の歌詞などは2番までは今でも覚えている。

 雲に聳ゆる 高千穂の高根おろしに 草も木も
 なびきふしけん 大御世を仰ぐ今日こそ たのしけれ

 海原なせる 埴安(はにやす)の池のおもより 猶ひろき
 めぐみの波に 浴みし世を仰ぐ今日こそ たのしけれ
 

   


 更に、昭和という年号とともに、現在の西暦ではなく紀元という年号が使われていて、
 小学校2年生だった昭和15年がちょうど紀元2600年にあたったので、

 「紀元2600年」という国民歌もできて、
 歌詞は難しかったのだが「紀元は2600年」というところだけを歌っていたのを覚えている。

 この紀元という年号は西暦より660年長いので、
 紀元でいうと、今年・西暦2022年は、紀元2682年なのである


★ そんな子供の頃の想い出があるので、
 2月11日は紀元節だと思ってしまうのである。
 
 私の小学生時代は、確かに戦時中ではあったのだが、
 いまのように「こどもにやさしく」接するようなところはなくて、
 子供が解らなくても「お構いなしに」ムツカシイことを先生は教えたような気がする。
 紀元節の歌でも、紀元2600年の歌でも、歌詞の意味など解らぬままに唄っていたのである。

 よく戦前の教育はと言われるが、
 小学校(当時は国民学校と言っていた)では、そんなに軍国主義的な教育が行われていたわけではなくて、
 確かに教え方は厳しかったし、先生もやさしくなかったのは間違いないが、
 それはそれでよかったのかなと思ったりする。

 
★ 紀元節について書いているが、
 ここに書いたことを何も見ずに書けた訳ではなくて、
 これは現在の「ネット時代の有難さ」で、
 検索すると昔のことでもなんでも、詳しく現れるのである。

 
 「紀元節の歌」も
 
 


紀元は2600年」という国民歌もこんな動画があって
 その歌が聞けたりするのである。


 


 小学校時代から約80年の年月が流れているのだが、
 この80年間の時代の変化激動と言って間違いなく、
 全く違った世の中になったと思う。

 こんなに変わった時代を生きた人は少ないのではないかと思っている。
 特に昭和の時代はまさに激動そのものだったと思うし、
 もう少なくなってしまったが、
 昭和一桁=紀元節が懐かしい世代が、一番その変化を体験したのだと思う。


★ そんな昔流にいう紀元節は三連休で、
 今日は珍しく息子が鎌倉からやってくる。
 何を想ったのか、突然電話してきて来るというのである。
 息子といってももう60近いのだが、
 私と息子の関係は、子どもの頃から全く変わらないように思う。
 子供の頃から息子を怒った記憶など全くない。
 学校の勉強のことなど一切言わなかったが、
 それは「父が私に対した態度」と全く同じだったのだと思う。

 私も子供の時から自由にさせて貰ったが、
 息子にも何の注文もしたことはないし、受験も就職も相談に乗ったりはしていない。
 子どもの頃は、魚釣りを一緒にしたり、サッカーを見に行ったり、
 トモダチ付き合いのような関係だったが、今でも一緒なのである。
 学校の勉強のことなど一切言わなかったが、
 
 何となくだが、子供の育て方などは
 「建国記念日流」よりは「紀元節時代」のほうがいいのではと思ったりする。

 さて、この3連休どんな3日間になるのだろうか?


 
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カワサキが初めて鈴鹿を走った日 Ⅱ   

2022-02-10 06:43:02 | カワサキ単車の昔話
★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログをアップしたのは
 9月にブログをスタートしたばかりの2006年11月2日なのである。
 
 実は北陸の竹田学さんから昨日、Facebook のメッセージで
 「古谷さん「塩本選手」という御名前のライダーご存知では無いでしょう か? 
 私の居住しております石川県と関係のある方らしいのですが詳細を知る方がこちらに居ないので・・・・」というメッセージを頂いたのである。

 私は「塩本選手とは直接お会いしたことはない」のだが 、
 塩本選手のことは知ってたので、それなりのご返事はしたのだが、
 その中で「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログがあるから、
 「それを検索してみて下さい」とご返事したのである。

 これはカワサキのロードレースのスタートの話で、
 なかなかオモシロイ話だから、改めてそのままご紹介してみることにする。


★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」 

1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。

当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。
4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。

当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。

メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。
あまり大きな声では言えないが、2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

★モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある陸の塩本にも出場を要請したのである。
案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。

駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆は、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,佐藤(佐藤ではなくて鈴木だったようです)であった。
結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?
当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。
終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。

雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。
私は、現場には行っていなかったが、

チームマネージャーの川合さんから、
5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

       

★カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助となった。 本当に何かの運である。
3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、
一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参を認めることになったのである。
約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤飯原(いずれもキヨさんの先輩ライダーである)は決まったのだが、
関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。
そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできたのが、金谷秀夫なのである。 このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

★ もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。

このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれたさん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。

こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。
 
●不思議なことだが、カワサキが初めて鈴鹿を走ったのは、1965年5月3日、ライダーは、後全日本モトクロスチャンピオンを3年連続で獲得した山本隆君
●1ヶ月後のアマチュア6H耐久の監督は、Z1の開発責任者の大槻幸雄さん、副監督が田崎雅元さん(のち川重社長)である。
●走ったマシンは90cc、  この耐久レースヤマハは確か鈴木忠さん、スズキは菅家などみんなモトクロスライダーが走ったのである。
タイムは3分20秒は切れなかったと思う。


 以上がその全文なのだが、
 そのブログに山本隆さんがこんなコメントを寄せてくれているので、
 それもご紹介してみる事にする。


     
   


一番最初にカワサキを鈴鹿で走らせた男! (山本隆)

そうです思い出は鮮明に記憶しています!
私が鈴鹿ジュニアーロード参戦に駆り立てたのは訳があります!
その年の初春にブリジストンサイクル工業への移籍を密かに目論見、仮契約まで行っていました!
その内容は勿論MXエースライダー契約でしたが、新たに始まる鈴鹿ジュニアーRRの参戦も入っていました。
一度は憧れの鈴鹿を走るチャンスが来た!と色気の多い私はその気になっていたのに、大きなプレッシャーのせいで?元の鞘に収まってしまいました!
それじゃ自費でもRR参戦を!と固い決心をしたのを知った田崎さんが「山本君僕に任せなさい!」と言って生産ラインからカワサキ85J-1の新車を1台宛がってくれました。"(-""-)"


 そうです。
 こんな山本・歳森のBSへの仮契約事件があって、
 山本隆さんは「大きなプレッシャーがあって」とそれが実現しなかったと書いているのだが、
 それには私も関係があって、このBSへの移籍を止めるために
 神戸木の実の片山義美さんに頼んだのは私なのです。
 片山義美さんと兵庫メグロの西海社長というレース界の大先輩が二人を説得してカワサキに留まることになったのです。
 そして、私はそれまではレースには直接関わっていなかったのですが、
 この事件を機に直接「レース担当」することになったのです。

 もう昔のことですが、私にとってもこの事件がなければレースを直接担当しなかったかも知れません。
一つの岐路になった事件であり、その結果のロードレース参戦だったのです。

 
 
 

 
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二輪車の世界と私     雑感

2022-02-09 06:34:52 | カワサキワールド

★私は現役時代には二輪の世界に40年ほどいたのだが、
 個人的には二輪車も持っていないし、乗れるけどそんなに乗ったりもしない。
 技術的には全然ダメなので、その性能やメカについては全く駄目である。
 でも二輪車の世界には魅せられて、ハマってしまったところもある。
 
 引退した今でも、二輪関係の方とはいろんなところでお付き合いがあるし、
 そんな一つが未だに「二輪車新聞」や「カワサキバイクマガジン」が送られてくるので、
 二輪業界のことなど何となく解っているのである。


★その二輪車新聞の最新号に「小型二輪30年連続増175万台」とあった。
 750cc以上の所謂大型車の分野だが、30年も連続して増え続けているというのである。
 
 販売台数ではなくて「保有台数」なので、それだけの数のバイクが今日本にあるということである。
 この分野はカワサキの主力分野だから、
 銘柄別のシェアはひょっとしたらカワサキがトップかも知れない。


 こんな記事で、
小型二輪は175万台に
軽二輪は初の200万台越え」とある。
 
 
 

 二輪の分類は原付1種・原付2種・軽2輪・小型2輪に分かれていて、
 これは排気量50cc以下・50cc以上・250cc・750以上なのである


★ 日本の二輪車市場は、戦後100社を超えるメーカーが存在したのだが、
 ホンダ・スズキ・ヤマハ浜松勢に席巻されて、
 かっては三菱富士重BSもいたのだが、
 唯一大きなメーカーで残ったのはカワサキだけなのである。

 さらに特徴的なのはホンダスーパーカブヤマハメイトに代表される
 50㏄の原付1種がメイン市場という世界でも珍しい市場だったのである。

 下図をご覧になればお解りのように、
 国内の出荷台数は昨今激減しているのだが、
 それは原付1種の50㏄モペットが減ってしまったので、
 逆に250cc以上の中・大型車市場は堅調に推移しているのである。
 

 私が現役時代はこの図表以前の40年間なので、
 50㏄モペットはあの「HY戦争」の時代がその頂点だったし、
 逆に250cc以上の中大型スポーツ車の分野は微々たるものだった。

 4社の中で独りカワサキだけが、その中・大型スポーツ車を中心に、
 業界の中でも独自の販売戦略を展開していたし、
 私自身はその中心にいて、結構面白かったのである。

 当時の業界の主力機種50㏄の分野では、カワサキは全く駄目だったが、
 「中・大型スポーツ車」の世界では機種でも販売網政策でも、 
 業界を一歩リードして走っていたのである。
 保有台数の分野だが30年連続して増え続けているということは
 個人的にも本当に「嬉しい限り」なのである。


★ そんなカワサキの二輪事業の中で、いろんな機種にいろんな想い出があるのだが、

 まずはこの250A1、カワサキが世に出した初のスポーツ車だと言っていい。
 これがその時のカタログだが、これは私の広告宣伝課時代の作なのである。
 
 



 この車の開発時代は、まだ名神がガラ空きの時代で
 名神高速でその走行テストなどやったりしたのだが、
 あの金谷秀夫歳森康師など、レースライダーたちが手伝ったりしているのである。

 デザインの分野にもアメリカ人たちのアイデイアがいっぱい入っていて、
 「タンクはメッキ」が定番だったのに、それがカラーになったのはA1が最初なのである。

 いまでこそカワサキのイメージカラーはグリーンなのだが、
 A1の時代はまだレーサーなども「赤タンクのカワサキ時代」なのである。


 A1の後に続いたのが、マッハⅢで、
 この車からはタンクマークとニーグリップが消えて
 所謂「カラータンク」となったのだが、これも業界初だったのである。
  



    これは1970年のバイソンだが、
 この時期からカワサキのイメージカラーが、
 アメリカのレースでの影響を受けて「ライムグリーン」が使われるようになるのである。



★ これが当時の「ライムグリーン」のレーサーだが


 「赤タンク」もそうだが、この「ライムグリーン」も別に社内の正規の規定などで決まったのではなくて、
 社内の誰かが勝手に決めてしまったのである。

 二輪事業という末端民需大量生産販売事業は当時の川崎航空機にとって全く初めての事業であったし、
 やることなすこと、みんな初めての経験ということばかりだったので、
 社内には極端に言えば何の規定もなかったことが多かったし、
 当時の上司の方よりは、市場に近いところにいる若手のほうが、
 業界での知識などに詳しかったという、オモシロイ時代だったのである。


★ 1960年代後半からスタートしたカワサキのレース界での活躍は、
 世の脚光もあびる実績を積んだのだが、
 国内レースはモトクロスからのスタートで「赤タンク」だったのだが、
 これを決めたのはデザインルームなどではなくて、
 青野ヶ原のモトクロスに出場したレーサーを造った製造部の人たちなのである。

 そんなことからモトクロスからスタートしたファクトリーマシンのタンクも
赤で「赤タンクのカワサキ」と呼ばれていた。
 ロードレスに参戦してみると、ホンダのレーサーが赤タンクなので、
 レース担当だった私は内心「これは困ったな」と思っていたのである。
 
 カワサキの初のGP参戦は1966年のFISCOなのだが、
 この時のカワサキのGPマシンのタンクも赤なのだが、
 幸いにしてこの年はホンダが参戦しなかったので、赤タンクが重なることはなかったのである。
 
 この年が私のレース担当最後の年だったのだが、
 その後、アメリカでのレースで「ライムグリーン」が登場してほっとしたのを覚えている。

 そんなこともあって、アメリカでライムグリーンに決めた経緯を知りたかったのだが、
 現役時代には聞く機会もなくて、退職してZ40周年記念をアメリカで開催した時に
 当時のKMCのR&D 責任者だった斎藤定一さんに会って、直接聞いてみたのだが、
 「ライムグリーン」を決めたのはR&Gで、
 選んだ色の『ライムグリーン』は、それなりに勇気の要った選択だったのだが、そんなことはあまり気にせずに決めた様である。 


 
★いろんな想い出も多い二輪の世界なのだが、
 いまもなお、Facebook などで繋がっているトモダチも
 二輪関係の方や二輪ファンが圧倒的なので、
 二輪と一緒に生きてきたなと思っている。
 

 
 
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冬眠  雑感

2022-02-08 07:03:37 | 発想$感想

★昨夜はオリンピックを遅くまで見ていたので、今朝は8時まで寝ていた。

 高齢者の睡眠時間は短くなるというのだが、
 私の場合は、夜中には目覚めて小便に行ったりはするが、
 平均の睡眠時間は7時間を超えている。

 これがこの1か月の毎日の睡眠時間だが、
 昼寝をすることもあるので、8時間に近い。
 
 


 一般の年齢別睡眠時間は、
 年を取るごとに短くなり、65歳以上になると6時間になっている。


 



 「いい睡眠」のためには日光に当たること、適度の運動などとあるが、
 毎日、午前中に約7キロ、1万歩のスロー・ジョッギングをやってるので、
 よく眠れるのかも知れない。


★ だが昨日は、そんな毎日の運動をする気になれなくて、さぼってしまった。
 朝8時まで寝ていたので、時間が遅くなってしまったのと、
 珍しく氷が張るほど寒かったからである。
 外の水道が凍ってしまったし、メダカの鉢も氷が張った。
  
 



 そんなに寒かったので、人間も動きたくなかったのかも知れない。

 ところで「メダカ」は冬の間はじっとしていて、
 餌も食べない。メダカは冬の間は水底の比較的温かいところでじっとしていて、動かないのはエネルギーを無駄に使わないためだという。

 冬眠と言えば熊だが、何か月もの間、食事もせずに寝ていて生きてるのは、
 それなりに理由があるのだろうが不思議としか思えない。

 ただ、毎日していることを休むと、何となく1日がおかしい感じになる。
 明日からは、毎日のスケジュールに戻して、運動することにしよう。

 それにしても、地球温暖化でずっと「暖冬」が続いていたのに、
 今年の冬の寒さと大雪はどうなってしまったのだろう。

 この寒さもあと20日ぐらいだろう。
 春が待ち遠しい。 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
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第1号メダルは銅 そして 第2号は金

2022-02-07 08:14:58 | スポーツ

北京オリンピックが始まった。
 いろんな競技が各放送局で流れるので、観るのもなかなかムツカシイ。

 日本勢メダル第1号は「男子モーグル・堀島行真選手の銅メダル」だった。

 


 たまたまテレビを観たのだが、ルールがどうもよく解らない。
 タイム得点もあって、堀尾選手はひとり23秒台で最速だったので、
 金メダルかと思ったが、銅メダルだった。

 得点方法を調べてみると、
 ターン50点、エア25点、スピード25点、計100点満点のポイント比較により勝敗を決するとある。

 どうも審判の得点がある競技はもう一つよく解らない部分がある。

 それは兎も角、堀島行真選手・メダル第1号おめでとう」である。

★そして夕方からは、アイスホッケーもあったし、
 女子モーグルの放送もあって、チャンネルの切り替えが忙しかったが、
 極めつけは 小林領侑選手のジャンプの金だった。





  ジャンプは一瞬の勝負だが、
  1回・2回の決勝を危なげなく勝ち切った。
  
 
   
  








 日本の金メダル第1号である。

 小林領侑選手、 本当におめでとう

 
 
 
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人の運命と自信などいろいろ・・・

2022-02-06 07:03:50 | 自分史

★あと1か月で89歳になる。
 そんなに生きるとは全く思ってもいなかった。
 振り返ってみるとオモシロイ人生だったと思う。


    子供の頃は、朝鮮にいて間違いなく「良家のボン」だった。
 父は何をしてたのかよく解らない。
 家で絵を描いたり、のんびりとしてたが、会社などには行っていなかった。


         


  父と特に話をした記憶などもないのだが、
  何となく、私は父が好きだった。

  祖父が朝鮮で立ち上げた電力会社を伯父が継いだので、
  父は多分その配当などで悠々自適の生活だったのだと思う。
  その南鮮合同電力は今の韓国の地域担当の電力会社で、
  その規模は大きかったのである。

    そんな生活が終戦で一変し、明石に引き揚げてきたのが終戦の年の12月で、
  翌年4月に神戸一中に入学するのだが、私は試験など受けてはいない。
  父に「お前は試験もなしに入学出来たのだから、勉強はちゃんとやれ
  と言われたのである。
  多分、伯父の伝手か何かの裏口入学であったことは間違いない。

  そんなこともあったので中学2年生までは勉強もちゃんとして、
  学年の中で10番以内にいたのだが、
  このことが人生を通しての自信に繋がっているのである。

  「名門神戸一中」と言われて秀才が集まり、その50番までを「」というのだが、
  「」は間違いなく指定席だったのである。
  中学3年生の時に男女共学となって、県一女と一緒になったのだが、
  英語と数学などは1年、授業の内容が逆戻りしたので、
  中学3年生以降は、勉強した記憶が全くないのである。

  神戸一中はほんとに名門だったのだろう、
  昭和天皇の戦後初めての神戸行幸の時には神戸にお泊りになるホテルがなくて、
  神戸一中の教室を改造されてお泊りになり、
  私のクラスは天覧授業の栄に輝いたのである。

  ほんとにまだ戦後で、
  社会などの科目も、歴史の教科書もなかったからそんな科目は習ていないのである。
  その代わり英語・数学・国語などは非常に高いレベルの教育だったのだと思う。


★英語などもスタートは、This is a pen.から始まったのだろうが、
 1年の夏休みの宿題に『「舌きり雀」の物語の英文』があって、
 それはこんな英文から始まるのである。
 
Once upon a time, there lived an old man and his wife. 
They treated the bird tenderly as if it were their child. ・・・・・

as if it were』などのムツカシい表現がある文章で、
そんな宿題だったものだから、今でも覚えているのである。
これは『まるで自分の子供のように可愛がった』ということなのである。

 こんなレベルでの授業に2年間は頑張ばったのだが、
 私はそれ以降は全く勉強などしていないので、「学歴は中学卒」だと言っていいし、それ以降の学校の成績は全くダメだったのだが、
 この神戸一中時代の成績が「そんなにアタマは悪くない」という自信に、
 一生繋がって今に至っているのである。


★ 人生「」でいろいろと左右されるのだが、
 そういう意味では、私は抜群に「いい運命」に恵まれていたと思ている。

 それはどんなことが続いたのかというと、
 ● 神戸一中に行っていたのだが3年の時に学区制で明石高校転校
 ● 明石高校に変わったので野球一筋、甲子園にも出場できた
 ● 高校時代に父が病気になりそのまま就職のはずだったが、
 ● 高校3年の1月2日に父が亡くなって、急遽大学進学に変更
 ● 父は私を大学にやるために正月に死んだのかなと思ったりする
 ● 受験勉強など全くなしに16.5倍の競争率だった神戸商大に入学
 ● 野球一筋の大学生活、野球部の部長に聞いたら「君は県会議長のコネ」だったとか
 ● 伯父が頼んだのだと思うがそんなことが通用する時代だった
 ● その伯父も私の大学時代に亡くなったのだが
 ● その葬儀に来られた砂野仁さんが川崎航空機でよければと言って頂いて
 ● 川崎航空機に入社したのだが
 ● 新しい事業の単車事業に従事し、広告やレースなどを経験することが出来たし、オモシロイ現役生活だった
 ● 家内と巡り合えたのもラッキーだったと思う 
 ● 突然「くも膜下」になって死にかけたが、その場所が警察本部だったので
 ● 最高の脳外科専門病院に入院、手術もせずに1か月で退院、
 ● 70歳からは健康に留意し、毎日トレーニングを始めた。
 ● 定年後から、娘婿にパソコンを買わされたが、これで人生が変わった
 ● そして現在の生活パターンに繋がっている。 


★ もう一度生まれ変わっても「このままの人生でいい」と思うほど満足している。

 祖父・古谷虎雄は私が生まれた時にはすでに亡くなっていて、
 知らないのだが、誰もが立派だったという。


  


 これは祖父の家族で伯父も父もまだ早稲田の学生時代だが、
 私はこの祖父の別荘だった場所で生まれている。




 
 これはまだ戦時中の写真で、場所は錦江ホテルの庭なのだが、
 このホテルが川崎航空機の軍の人たちの宿舎に接収されて、
 当時の総務部長砂野仁さんと伯父は繋がって戦後も親交が続いたのである。


 


 
 砂野さんはその後、川崎航空機・川崎重工業の社長もされるのだが、
 私が川崎航空機に入れたのは砂野仁さんのお陰なのである。

 神戸一中への入学を勧めてくれたのも砂野さんだったようである。


   




 伯父は当時は南鮮合同電力のオーナー副社長の傍ら、
 明石では錦江ホテルの経営などにも当たっていて、
 当時は私は小学校の低学年の時代だが、伯父には可愛がって貰って育った。
 
 毎年、夏・冬には明石に里帰りして、
 夏などこのホテルから海に泳ぎに行っていたのである。




 
   
大学の成績は悪かったのに、川崎航空機に入れたのは、
 間違いなく「砂野仁さんのコネだった」からで
砂野さんの顔をつぶしてはいけない」と思って、
 頑張った一面は有ったのである。

 人の人生いろいろだが、
 「私の人生」に色濃く影響のあった人
 それは父と伯父と砂野仁さんだったのかなと思っている。


 
 
 

 
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石原慎太郎 逝く

2022-02-05 07:00:23 | 発想$感想

★ 石原慎太郎さんが逝ってしまった。

 石原慎太郎が一つ上裕次郎が一つ下、私と同じ昭和一桁生まれの世代である。
 特に関係があった訳でもないのだが、
 昭和一桁はまさに戦前派で、同じ昭和でも昭和二桁の方とはちょっと違ったところがある。

 所謂「旧制中学校の世代」で戦後も何となく戦前教育の続きを受けた感じで、
 一つ下の世代からは新制中学校が出来て「戦後の教育」がスタートしたのである。
 私はその旧制中学の最終学年で2年生になっても1年生の入学はなく
 当時の野球部で中学3年間と高校の1年間の4年間運動部の最下級生生活を経験したのである。


★ 石原慎太郎と何となく出会ったのは、
 彼が一橋大学在学中の1956年(昭和31年)に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞し、「太陽族」が生まれる契機となったのだが、
その時は私も大学4回生の頃だった。

 その頃、まず石原慎太郎の名前が有名になったのだが、
 大学の野球部の先輩の住所がなぜか「石原慎太郎宅」であって、
 その方が明石の野球部の先輩だったことから、
 石原慎太郎のことと共に、慶応にいる弟は無茶苦茶面白いらしいと「裕次」のことが話題になったりしたので、
 石原裕次郎のことは、デヴュー前から何となく知っていたのである。
 
そんなことがあったので、
太陽の季節」の映画は勿論見たし慎太郎・裕次郎兄弟のファンになったのである。


★それ以降のこの兄弟の活躍は改めて言う必要もないのだが、
 石原慎太郎さんは70歳にして東京都知事をされたりしたので、
 2017年2月20日の私のブログに
 「築地市場 と 石原慎太郎さん」というテーマでアップしているのだが、

 その時にこんな写真とともに、このように書いている。





 
同じ年代で一番、比較して注目しているのは、石原慎太郎さんである。
6ヶ月年上だが学年は同期で、ちょうど大学のころに石原裕次郎が『太陽の季節』でデビューした。
高校、大学の野球部の先輩が石原慎太郎と関係があって、未だ有名になっていないころから、同じ年代だと意識していたし、当時慶応の学生だった裕次郎のことは映画にデビューする前に話題にしたりしていた。

特に70にもなって東京都知事をやられたりして、都知事の業績の中身などよりは、ずっとその『元気さ』に注目してきたのである。
今年からは衆議院議員に復帰だし日本維新の会代表としてまだまだ元気だから、そんな元気さだけには負けないように頑張りたいとも思っている。


★「そんな元気さだけには負けないように」と思って
ある意味「目標にしていた石原慎太郎」なのである。



   



 それなのに、突然先に逝ってしまわれた。

 昭和も遠くなってしまった。
 そんな昭和を代表する素晴らしい兄弟だった。





  安らかにお眠りください。

 

 
 


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今年の2月の庭仕事

2022-02-04 07:03:54 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 2月、節分である。
 毎年、2月は庭の薔薇の冬剪定をすることになっているのだが、
 今年も木薔薇の剪定も、つる薔薇の整枝もやったのだが、
 同時に今年は庭自体の変貌にチャレンジした。

 


 「庭の地面が見えないようにしよう」というブログをアップしたのは
 1月27日のことなのだが、
 それから1週間そのテーマに取り組んで

 ● 地面にを植えたのと
 ● その上に「おたふくなんてん」の挿し木を50本ばかり
 したのである。


 庭の何か所かには「おたふくなんてん」が植わっているのだが、
 そこから50本ほどの「挿し穂」を採って、
 庭のあちこちに挿して回ったのである。

 

 
 こんなところから挿し穂を採ったのだが、 
 



 50本ぐらい採っても、 
 親木には殆ど解らない程度である。




 これが挿したところだが、小さいけどお解り頂けるだろう。




  成長したら、地面いっぱい「おたふくなんてん」になるはずである。




 「おたふくなんてん」だけでなく、
 も植えてるのをお解り頂けると思う。





 苔を付かせるのに、2か月ほどは散水が欠かせないので、
 「おたふくなんてん」の挿し穂にもいいと思ったのである。

 「おたふくなんてん」の増やし方は「挿し穂」が基本で
 その時期は2月が最適なのである。





 想定通りに進展したら
 多分、間違いなく「庭の地面は見えなくなる」はずなのだが、





 昨秋から、いろんなものを新しく植えたので、
 今年の春は、ちょっと様変わりした庭になるかも知れない。
 




 今年は庭仕事に精を出したい。
 いまは枯葉などいっぱい落ちてるが、
 それらは全部掃除して地面の上は苔だけにしたいのだが、

 果たして、成功するだろうか?


 
 
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3回目のワクチン接種     雑感

2022-02-03 06:36:39 | 発想$感想

★ 世の中、一時は収まったのかと思ったコロナだが、
 オミクロン株なるものが現れて、また大変なことになっている。

 昨年も菅さんの「1日100万人ワクチン接種」で収まったこともあったが、
 オミクロン株に対しても
 『3回目のワクチン接種の効果は?
 とチェックしたら、「追加接種は効果あり」のようである。





 たまたま私は昨日が、その「3回目のワクチン接種」の日であった。

 家のすぐ近くの旧中学校跡がその会場になっていて、

 



 1回目、2回目はファイザーだったのだが、
 今回は モデルナ社製で、会場でも「モデルナ」ですよと大きく表示があった。




 
 実際に注射をするその場所でも「モデルナ」の表示がいっぱいだった。





  副作用がきついなどと言われたりして、
 実際に家内などは、ここの予約も取れたのだが、
 少し待てば「ファイザー」が打てることになって、
 2月中旬以降になるのだが、それまで待つことにしたのである。


   私の場合は、1回目、2回目は何の症状もなかったので、
 3回目も大丈夫だろうと「モデルナ」でも早く打つ方がいいと思ったのである。

 
  会場で頂いた説明書の中にあった
  3回目の接種あとの症状は「疼痛・疲労・頭痛」などが
  50%以上の確率となっている。

  

  午後2時過ぎに打って、2時間ほど何となく頭が重いような感じだったが、
  いま夜の9時だが、ほぼ普通の状態に戻っている。
  一晩寝たら、どんな感じになるのだろう?
         
 一晩明けて、今2月3日の朝である。
  注射を打ったところがちょっと痛むぐらいで特に大きな問題はない。
  ただ、今朝はスロージョッギングは止めておこうと思っている。

  兎に角、「3回目のワクチン接種」が終って一安心である。


★ 今朝のニュースはこのコロナ問題で始まった。
  新感染者の数は過去最高となって10万人に迫っている。

  
 

  昨日の国会でも取り上げられて
 「3回目のワクチン接種」についても議論されていたが、
  昨年の「1日100万人」というような勢いはなぜか見られない。

  オミクロン株の症状は、そんなにひどくはならなくて、
  インフルエンザに近い症状だとも言われているのだが、
  「3回目のワクチン接種」が効果があるのなら、
  もう少し積極性が見られてもいいと思うのだが、
  岸田内閣では、岸田総理にもコロナ担当大臣にも熱意が感じられないように思う。

  果たして、1か月後はどんなことになっているのだろうか?




 
 

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生涯お付き合いのあった方々   雑感

2022-02-02 07:03:41 | 私の生き方、考え方&意見

★ 人間、一生のうちでどれくらいの方々とお付き合いがあるのだろうか?
 振り返ってみると、
   高校や大学の野球部の連中とは、親しく付き合ていたのだが、
 今ではみんな亡くなってしまったし、
 そんな年配の人たちはネットなどやる方は殆どいないので、
 今では全く誰もいないと言ってもいい。

 そんなネットを私自身がやりかけたのは70歳を過ぎてからだから、
 いま繋がっている方々の殆どは、70歳以降に出会った方々が殆どなのである。
 現役時代から親しかった方でネットをおやりの方とは現在も密接に繋がっていて、
 これは私にとってホントに貴重な存在なのである。

 
★ 私も3月には89歳になるので、今年は80歳代最後の1年なのだが、
 2006年9月からスタートしたブログ『雑感日記』を毎日アップして
 Facebook にも転記しているので Facebook で繋がっている方が殆どだと言っていい。
 
 実は昨日、Facebookのメッセージで Kumiki Shimizu さんから、

 こんにちは。ご無沙汰しております。いつもFBをみていますが、お元気そうでなによりです。 
本日、久しぶりに北見さんに電話してみました。一年前に電話した時は元気そうでしたが、奥様が電話に出て今は毎日寝て休んでいるとのことです。 ・・・
 
 というメッセージを頂いたのである。
 
北見紀生君、バイクの雑誌などにも登場したりして、この世界では結構有名人だが、かってのブログにはこんな風にアップしているのである。

「私の交友関係というか人脈は、ちょっと普通の方とは変わっていて、
どちらかと言えば、社会的な地位と言うよりもその世界での実力者や有名人が意外に多いのである。
こう言えば失礼だが、そんな方たちも、お付き合いを始めたときはそんなに有名人でもなかったし、成功者でもなかった方も多いのである。
共通して言えることは、『奇人、変人』の類であることだけは間違いなくて、『奇人、変人』は成功する率は至って高いと言っていい。
北見紀生君は東京営業所のサービス主任で、腕は確かで、職人気質の実力で最右翼の人だった。」

 Kumiki Shimizu さんにはこの時のブログにアップしたこんな写真を、
 メッセージでお送りしたら、

 


 Kumiki Shimizu さんからは、こんなメッセージが戻って来たのだが、
 そんなことは全く忘れてしまっているのである。
  
一緒ご一緒しましたね。その時に北見さんを紹介していただいたんですよ。それが縁でお付き合いさせて頂いてます。 




 そんなことは全く忘れていた。
 

 確かに、この時のメンバーは北見さんを入れて5人ほどは
 現役時代からお付き合いのあるメンバーだが、
 そのほかはみんな、ネットをやりかけてから繋がった方たちで、
 今でも毎日のように私のfacebook に『いいね』を頂く方たちなのである。

 調べてみたらこの日は2012年7月2日だから もう10年も前のことなので、
 つい先日のことのように思うが、もうあれから10年経っているのである。
 
★ 私が生涯お付き合いのあった方たちは、結構その幅は広くて、
 どんな方とも気軽に『お付き合いが出来る』のは私の特技と言ってもいい。

 現役時代は会社関係の方たちよりも、
 むしろ業界関係やレース関係の方たちとのおつき合いが多かったし、
 現役を卒業してからも、三木の方たちや
 ネットなどで新しく繋がった方も多いのである。

 最近はFacebook で毎日のようにお会いしている「仲俊二郎さん」などは、
 ネットではひょんなことで一昨年の12月に繋がっているのだが、
 川崎重工にお勤めだった方で、作家で、川重時代は私の妹と同じ職場におられたというのだが、実際にはお会いしたことはないのである。



  


 ふとしたご縁で、こんな一冊の本から繋がったのだが、
    仲俊二郎さんに限らず、お会いしたことはなくても毎日Facebooでお会いするトモダチはいっぱいなのである。
 
 そんな実際には「お会いできていない」方とのお付き合いを含めて、
 『生涯お付き合いできる方とのご縁』はほんとに不思議なのだが、
 その一つ一つを大事にしたいと思っている。

 あと何人ぐらいの方との新しい出会いがあるのだろうか?


 
 

 
 
  
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サウジアラビア戦 中身はいい、勝てばいいんだ! 

2022-02-01 07:12:23 | スポーツ

★ 今日はサッカー日本代表のサウジアラビア戦がある。

 森保ジャパンで、いまいろいろと言われている先発メンバー問題、
 特に左サイドバックの長友起用サッカーファンの声は厳しい


 

 
 
 
 先発メンバーがどんな顔ぶれになるのか?
 注目されるところである。

 森保一監督に対するファンの声は非常に厳しいものがある。







★アジア最終予選で4試合を残してB組2位と出場権は確保しているものの、3位の強豪・オーストラリアとの勝ち点差はわずか1。
日本代表・森保一監督への解任要望論がさかんに飛び交っている。

 そんな時、挨拶に来た森保監督に川淵三郎さんは、このように声を掛けたのだという。
 『君の選手に対する優しさはよく分かる。でも遠慮をしていないか。
 昔の名前で出すんじゃなくて、自分で決断して気にせずにやらなきゃいけない』と。

それに対する森保監督の答えは、

「私は川淵さんが思うような、優しい男じゃありません。冷酷な男です」
川淵さんが心配なさっていることは、
これで僕がダメなら日本人監督はダメだ、という烙印を押される-』
そういうことにつながることも僕はよく認識しています」だったという。

この言葉は、川淵さんが胸の内にずっとしまっていたことを見事に言い当てていて、このような感想を語っている。

「腹が据わっているよ。驚いたね。思っていたとしてもなかなか口には出せない。それを話したんだから…。
とてつもない重たいものを森保に背負わせている、とも思ったよ。
でも個人的には、これなら任せられるとも考えた。とことんいくしかない

 「サッカー日本代表はいい試合をすべきと、ずっと思っていた。
 でもこの試合を境にこう思うようになった。
 『中身はいい、勝てばいいんだ!』とね」


 ★ サッカーを詳しく解っている訳ではないのだが、
 野球の監督に比べて「サッカー監督に対する評価」は数段厳しいと思っている。

 森保一監督の評価もよくは解らない。
 川淵三郎さんが言う『中身はいい、勝てばいいんだ!というのであれば、

 森保監督の勝率は歴代監督の中でトップの成績なのである。

 


 このグラフは昨年までの実績だから、
 中国戦に勝ち、
 今日、若しサウジアラビア勝ったりすると、勝率70%になったりする。

 果たして、今夜のサウジ戦、どんなスターテング・メンバーで
 どんな結果になるのだろうか?

中身はいい、ぜひ勝ってほしい!』と思っている。


 
 

 

 

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