雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

谷口尚己さんのこと

2023-03-08 06:13:10 | M/Cレース

★ 昨日は松島裕さんが推進されている
 「二輪文化を伝える会 」のことをご紹介したのだが、
 その中にこんな二輪関連の人物の名前が載っていて、
 その一番先に上げられているのが「谷口尚己」さんなのである。

 松島さんの感覚なのだろうが、
 二輪文化への貢献度のようなものが、その名前の大きさに現れているのだと思う。

 そんな有名人の中に私の名前も真ん中あたりにあるのは嬉しい限りなのだが、
 赤線を敷いた人物は「私が直接お会いしたことのある」方々で、
 親しく言葉を交わしているのだが、
 その中でただお一人「本田宗一郎さん」だけが何度も同じ会議でご一緒しているのだが、
 当時は「恐れ多くて」名刺交換すら出来なかったのである。
 その他の方とはホントに親しくして頂いて、
 「谷口尚己」さんもそんな中のお一人なのである。

 
    



谷口尚己さんは、1954年にホンダに入社、1955年の第一回浅間火山レース250ccクラスで、ライラックの伊藤史郎選手に僅差で届かず2位。
その後もワークスライダーとして活躍をされたのだが、優勝することないままに1966年を最後にホンダを退社されたのだが、
それはWGPで優勝を獲得するための決断だったのだという。

その谷口さんは昨年末にお亡くなりになったとか。
松島さんはこのように語られているが、
その話の中に「カワサキ」は登場したのだろうか?


  



 1966年と言えばカワサキがGPレースに初めて出場した年なのだが、
 その当時のライダー契約担当が私で、
 その年の1月に藤井敏雄と契約するのだが、彼はマン島のプラクテイスで転倒亡くなってしまうのである。
 外人ライダーとしては、デグナー・シモンズとも契約をしたのだが、
 日本人ライダーとしては安良岡健と、
 新たに契約したのが「谷口尚己」さんだったのである。
 初めてお会いしたのがその年の9月9日だったのだが、
 その時の「谷口尚己さん」は従来私が接してきたライダーたちとは、全然違った「紳士然」とされていてびっくりしたのが印象に残っている。
 その年の日本GPでは結果は出なかったのだが、
 翌1967年のシンガポールGPの350ccクラスに出場し、
 カワサキのマシンで見事念願の優勝をされて、
 それを機にレースの世界から引退されたのである。


  

★ 谷口尚己さんは有名ライダーだが、
 彼がカワサキに乗ったということはご存じない方が多いのだろうと思う。
 谷口さん引退後は、一度だけ電話でお話をしたことはあるのだが、
 昨年末にお亡くなりになったとは、
 松島さんの「二輪文化を伝える会 」の記事の中で知ったのである。

 みんな若くして亡くなってしまう。
 上記の表の中の私と面識のあるライダーたちも
 安良岡健・金谷秀夫・野口種晴・金子豊・岡部能夫なども逝ってしまわれて、もうこの世にはいないのである。

 こんな著名なライダーたちと懇意にさせて頂いたのは、
 私の人生の宝物で、本当にいい想い出として残っているのである。


 
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二輪文化を伝える会の松島裕さん

2023-03-07 06:57:21 | 発想$感想

★「二輪文化を伝える会」ご存じですか?


二輪文化を伝える会」は、ホームページやソーシャルネットワーキングサービス(SNS)などを活用し、
多くの方々に二輪の素晴らしさ、オートバイやレースの歴史などを、世代・地域・業種などの垣根を越え、
分野を問わず伝え広めていく活動を2012年6月より活動を開始しました。


 


 2022年には11年目、30年計画の2期目の10年に入りました。
 第2期は「デジタルミュージアム」構想を掲げ、第2期の活動を開始し、
 特定非営利活動法人(NPO法人)の設立の準備も進めていて、

 このプロジェクトを進めているのが松島裕さんです。


 Facebook からの写真ですが、
 かっては鈴鹿を走ったライダーでもあります。

  
  


  NPO法人 The Good Times との繋がりをきっかけに2012年6月より活動を開始しましたと
松島さんご自身がおっしゃてるのですが、
そんなことでNPO法人 The Good Timesの初代理事長だった私とも繋がっているのです。
 NPO The Good Times のホームページは松島裕さんの作品です。

 

 
 松島さんはこんな風にも言われています。

バイクに乗らなくてもバイクが好きという人を増やしたい
これは二輪文化を伝える会のスローガンでもあります。
今バイクに乗っていない人でもバイクを好きであってくれれば、
バイクの味方であってくれれば、バイクを取り巻く環境は確実に良くなるはず。
ひとりでも多くの方々に日本のオートバイとその歴史について知っていただきたいという思いで運営しています。

 私はバイクには乗りませんが、バイクは大好きです。
 そう言う意味でも「松島さんの活動」をフォローしています。

 先日ですが、松島さんと一緒に
 「二輪文化を伝える会」を支えてこられた村島邦彦さんと
 神戸でお会いして、今後の「二輪文化を伝える会」の活動の方向をお聞きしました。

 


第2期の活動と基本方針は、これまでの活動をさらに発展させるために、
より幅広く、より体系的に、二輪の歴史と文化の記憶・記録を残し伝えていくことに取り組んでまいります。
メーカーではやれないこと、やらないことをやる
企業の論理とは離れた、作り手や売り手ではない、利用者・愛好者が主体の視点での活動です。
各専門分野の方々との連携とありますが、
従来からもこんなメンバーの方たちのことを追っかけてこられたようです。



 そんな中に私の名前があるのを見つけて、結構喜んでいるのです。


★ なぜ突然「二輪文化を伝える会」のことを書いてるかと言うと、
 今月3月に入ってから、二輪ユーザーの方をベースにFacebookでトモダチ申請したのですが、
 びっくりするほど沢山の方と繋がって私のFacebookのトモダチは350人から1140人まで増えました。
 この方たちは私とお会いになるのも初めての方が殆どだと思いますので、
 この新しい友達に是非「二輪文化を伝える会」の活動を知って欲しいと思ったからなのです。

 同時に私自身のことも含めて、
自己紹介を兼ねて」のブログも数回続けようかとも思っています。
 先ずは、その第1回は松嶋裕さん「二輪文化を伝える会」です。



 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マラソン大会・大繁盛

2023-03-06 06:41:47 | 発想$感想

★昨日の日曜日、日本各地でマラソンが行われたようである。
 東京マラソン23300円の参加料と結構高額だが、
 19000人も参加とはホントにびっくりで、
 まさに「マラソン大会・大繁盛」である。

それにしても一般の参加者が42.195キロを走りきるのは大したものだなと思う。

 昨日は三木総合防災公園でも、市民参加の『みっきいふれあいマラソン』が行われてた。
本格的なマラソンではないのだが、沢山の種目があって賑わっていた。




 こんな陸上競技場をスタートして、

 


 公園内の周回路を走るのだが、




 その道幅は結構広いので、一般公道並みである。





 公園内の道路だから、白バイなどの先導もなくても可能で、
 なかかないい。

★私自身は若いころからスポーツは得意分野なのだが、
 「息が切れる」のは苦手で、マラソンなどは苦手の分野だが、
 80歳代になってから「スロー・ジョッギング」は息が上がらないので、やり始めた。

 最近はこの三木総合防災公園で毎朝約2時間余り動いている。
 2時間近く動いてもその距離は1万メートルほどだから、
 その4倍の距離を走るのは大変なことだなと思うのである。

  これがこの28日間の記録だが、平均で 8.71km となっている。

 

 
 順位を争わないので、何とかなってるのだと思うが、
 最近のマラソンを観ていると、一般参加の方は順位と言うよりは、
 「自らの記録」への挑戦なので、こんなに多くの方が参加されるのだろう。

★全国でどれくらいのマラソン大会があるのか調べてみたら、
 沢山あり過ぎて表がいっぱいになるので、
 3月5日の関西地区だけでもこんなにあって、
 『みっきいふれあいマラソン』などはハーフマラソンでもないので、
 入っていないのである。
 
 


 それにしても「マラソン大会・大繁盛」である。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

毎朝の運動と「高齢者の住む街」 

2023-03-05 07:11:57 | 発想$感想

私の毎日の生活は、『朝の1万歩スロー・ジョッギング』から始まる。
幸いにして私の住んでいる三木には、広い公園が沢山あって、
ひょっとしたら、その面積合計は『日本一』かも知れないと思ったりしている。
 いつもは「三木総合防災公園」に行くことが多いのだが、
 昨日は近くの『協同学苑』の苑内を歩いてきた。
 三木ではそんなに大きくはない公園だが、普通一般のレベルで言うなら、大公園』なのである。

★写真をいっぱい撮ってきたので、ご紹介してみたい。

 先ずはこんな建物の横から周回路をスタートすると、



 
 この辺りは山の裾野なので、こんな自然の竹藪がある。




 
それを過ぎると、広場に出るのだが、梅が咲き始めていた。

 


 更に進むとこんな山の中の道になる。
 こんな自然の苔がいっぱいの道を下って行く。




 坂を下りきったところにはこんな池がある。
 いつもこの池のところまでやってくる。





 いつもはここから来た道を引き返すのだが、
 昨日は山の中の道を登ってきた。

 


 こんな山道を通って登ったり下ったリ




 普通の90歳が通る道ではない。




 やっと登り切った。
 ここからはこんな桜並木が続いて、
 1か月後には花見客がいっぱいである。




 こんな建物や



 研修施設や



 ホテルやグランドもあって、そこには山道の面影はない。

 

 
こんな庭園も池もある。

 


★この「協同学苑」の南隣には、
 いま『高齢者専の住む街』を創ろうと昨年から工事が始まった。




 これがその入り口の道で、




 この一帯ダイワハウスが開拓して、今は人口2万人が住む町だが、
 高齢化が進んだときに、若い人の街とともに、
 新しく『高齢者の街』を創ろうとの計画なのである。

 
 

 いま日本で神奈川県とここの二つに、そんな新しい高齢者の街構想があって、進められているという。

 出来上がって、高齢者が住みやすい街になったら、 
 将来、移り住んでもいいかなと思ったりしている。


★右のめっぽう広い公園が毎朝行ってる『三木総合防災公園
 左が昨日行った『協同学苑
 斜線を引いてるところが、新しく創られる『高齢者の街』なのである。

 



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑感日記    雑感

2023-03-04 07:08:10 | 発想$感想

★3月2日にめでたく90歳になった。
 90歳代ではまた心機一転新しことをと
 Facebook でトモダチをちょっと増やそうと
 「共通のトモダチ20人以上」いる人に無作為に「トモダチ申請」をしたら、 
 思いのほかの増え方で、この2日間には350人だったトモダチが、
 「1000人」に増えちゃったのである。

 そんなことでFacebook のトモダチは「私をご存じでない方」が圧倒的に多くなってしまったので、
 ちょっと「自己紹介」のようなことをしなければいけないのかなと思ったりしている。


★私は「日記」にはご縁があって、
 20歳のころから書き出した日記が、70年間今も続いている。
 その日記なのである。


 



 これとは別に「雑感日記」なるものを、ネットの世界に毎日発信していて、
 Facebook に毎日アップしているのは、そのコピーなのである。
 その元は「gooのブログ」で2006年の9月からのスタートだから、
 それがもう17年も続いていて、Googleの評価も結構高いものだから、
 「〇〇〇〇〇 雑感日記」と検索すると結構オモシロイのである。






 例えば「カワサキ 雑感日記」と画像検索すると
 こんな画面が現れるし、

 



 ちょっと二輪の世界の有名人の「片山義美 雑感日記」と検索すると
 こんな画面が現れるのである。
 ちょっと写真が小さくて見えないと思われる方は、
 実際に「片山義美 雑感日記」と検索されたら、より大きな写真が見られるから、やってみて欲しい。

 


 と言うことは、「片山義美」さんのことを結構、雑感日記に書いているということなのである。


 ついでにもう一人、有名人の「星野一義 雑感日記」と検索すると
 こんな画面が現れるのである。

 


★なぜこんなことになるかと言うと
 私自身が昭和37年(1962)からカワサキのレース担当をしだして、
 当時カワサキにジョインした星野一義は17歳の頃だったし、
 当時の契約ライダー山本隆・歳森康師神戸木の実のメンバーで、
 その御大が片山義美さんだったから、
 そんな若いころからのお付き合いなので、
雑感日記」にはそんな昔話がいっぱい登場するのである。

 若し、そんな「昔話」に興味がおありなら、
 「雑感日記」を覗いてご覧になればいい。

 こんな「カテゴリー」に分類されていて。
 「カワサキ単車の昔話」だけでも255話もある。


  
 
 そんなことを『飽きずにやってる』ちょっと変わった90歳のおじんなのである。 

 Facebook で、はじめてお目にかかる方も多いのだが、
 昨日から始まった「90歳代」も、その辺の『お年寄』とは一寸『差別』された生き様をお見せできるかも知れない。

 そのベースになってるのが「雑感日記」なのである。
 そんあことなので、新しくトモダチになった700人の皆さん、
 「よろしく、気安くお付き合い願いたいと思っているのである。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい90歳代の幕開け

2023-03-03 06:39:25 | 発想$感想

★ 昨日は90歳を迎えた誕生日で、本当に沢山の方からお祝いのメッセージなどを頂いた。
 そのすべてにお礼の言葉を述べたつもりなのだが、
 果たして全部の方にご返事が出来たかどうか自信がない。
 若し、ひょっとして抜けていたら、お許しを頂きたいと思っている。

 もう一つ、3月になってからFacebook のトモダチ申請をやり始めた。
 「共通のトモダチが20人以上いる方」に「トモダチ申請」を無作為にやってみたのである。
 「共通のトモダチが20人以上いる方」=「二輪関係の方」が多いのだが、
 人生90年を迎えて、そのほぼ半分以上を過ごした「二輪関係の方々」との繋がりを増やしたいなと思ったのである。

 「トモダチ申請」をするときには「ご挨拶を」などということも言われたりするのだが、
 そんなご挨拶などはせずに一方的に「トモダチ申請」をお願いしたのだが、
 そんな失礼を咎めるでもなく、ホントに沢山の方と新たな繋がりが出来たのである。

★どれくらいの方と新たに繋がったかと言うと、
 驚かれるかも知れぬが、この2日間で500人以上の方と新しく「トモダ」になったのである。

 以前のFacebookが乗っ取られてからは、結構大人しく、
 ホントに面識のある方たちだけに絞っていたのだが、
 前述したように90歳代は、何か新しいことにチャレンジしたくて、
 こんな無作為な行動をとったのだが、二輪業界の方が多かったこともあるので、私のことをご存じの方もおられて、
 「私のトモダチ申請」を喜んで頂けた方も多くてよかったと思っている。

 
 


 現在のFacebookのページはトモダチの数は一挙に増えて、900人を越えている。
 昨日の朝までは、350人だったので、ちょっと自分でもびっくりなのである。

 今までは100人を越えることは滅多になかった「いいね」の数も
 軒並み100人を越えたし、
 コメントもホントに沢山頂いたので、その応対に大変だったのである。

 そんなことで、昨日から始まった「新しい90歳代」はまた新しい毎日が待っているかも知れないのである。


  
 

 そんな新しい90歳代を祝ってくれるかのように、
 庭には福寿草の花が開いている。
 3月に入って急に暖かくなった。
 いよいよ庭仕事も再開なのである。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卒寿を迎えた

2023-03-02 08:20:49 | 発想$感想

★ 90歳のお祝を「卒寿」と言うらしい。

 



 
 人生で、3度ほど「死ぬかな」と思ったときもあったのだが、
 90歳の「卒寿」を至って元気に迎えられたのは自分でも不思議である。
 
 米寿の後、2年で「卒寿」だが、次の「白寿」までは9年もあるが、
 ここまで生きたので、次の「白寿」を目指したい。


   


  よぐ笑顔に
  どう幸せ
  ん生輝き
  たかに広がる
  きいき健康
  心くわく
  っしょう青春
  卒寿の喜び


  などとあったが、
  生き生き健康、心わくわく一生青春で今後の90代を過ごしたい。


★ 80歳になるときには、もう80かと
  何となく「老人の世界」に入るような気がしたのだが、
  この90歳は「待ちわびていた心境」で、
  この80歳代の最後の半年を過ごしてきたようなところがある。


  この28日間の平均が「1日 12,034歩」を記録した。
  多分、人生でも「一番多く歩いた期間」と言えるかも知れない。
 
  


  まさに、「至って元気」なのである。
        果たして、何歳までこれくらいの元気さが続けられるだろうか? 


★ 昨今の毎日は、午前中は2時間ほど動き回っている。
  2時間も動くと、「1万歩を越える」ので
  昼寝をすることも多いが、
  あとはパソコンに向かっている時間も結構長い。
  
  2006年9月からスタートした「雑感日記」は毎日続いて、
  1日1000人以上の方がお読みになる。
  世に「雑感日記」なるものは結構多いのだが、
  Google 検索するとTopに私の雑感日記が現れる。
  上から3つが私の雑感日記で、
  
  
  
  2番目の「雑感日記」画像一覧にはこんな極く最近の画像が現れるので気分がいい。

  


 兵庫大学松本茂樹先生が
 「1日・1万歩、1日1000字」を目標にされていたが、

 私もそんな90歳代の毎日を続けたいと思っている。

 
  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキの昔話 3題

2023-03-01 06:56:02 | カワサキ単車の昔話

カワサキの二輪事業には、私はご縁があって
 カワサキが2輪事業をスタートさせた1960年(昭和35年)から
 約40年1999年まで担当させていただいたので、
 その間の想い出話もいっぱい持っている。

 今では普通に語られていることも、
 ちょっとしたことから残っているので、
 若しあの時「そんな判断」をしなかったら、どんなことになっているのだろうか?

 そんな「カワサキの昔話 3題」をご紹介してみよう。


★まずはカワサキだけが今も持っている「ユーザークラブKAZE」だが、
 kAZEがスタートした1989年当時は、
 ホンダはHART,ヤマハはYESS、スズキはじゃじゃ馬など各メーカーともユーザークラブを持っていて、
 むしろカワサキはそれに追随する形だったのである。

 ただ遅れてスタートしたカワサキは、 
 KAZEのユーザー管理をするソフト会社ケイ・スポーツ・システム」を立ち上げて、
 本格的に取り組んでスタートしたので、30年も経った今も、残っているのはKAZEだけなので、
 当時は3万人に近い会員で他メーカーを圧倒していたのである。
 
 当時ホンダのHARTは会員10万人と豪語していたが、
 現場に集まるユーザーの数はカワサキが圧倒していたので、
 ホンダさんから「カワサキは一体何人いるの」との質問を受けたりしたのだが、
 「ホンダさんは10万人」と言ってるじゃないですかというと、
 「あれは延べ10万人で、現実は1万人ちょっとです」というお答えだったのである。

  

 カワサキが3万人もいて、今も残っている理由は、
 どのメーカーも年会費を取るので1年経つとその期限が来て、
 毎年人数を維持するのは結構ムツカシイのである。
 カワサキはそれを見越して会員カードをJCBと組んで「JCBカード」にしたので、
 その期限が来ても辞めることがムツカシイのである。





 
 その第1号の機関誌は1989年1月に発行されているのだが、
 こんな立派な形ではなくて、カワサキのニュースを何枚か、
 一つの封筒に入れて送っていたのが最初で、
 こんな立派な形になったのは数か月後のことなのである。


★今回の機関誌にはこんな「ジェットスキー」のニュースも載っているのだが、
 ジェットスキーがカワサキの正規の商品として取り扱われるようになったのは1983年からで、
 それまではこれは二輪事業部の商品ではなくて、
 発動機事業部が開発し、アメリカのリンカーン工場で生産し、
 アメリカの販社KMCだけがアメリカ市場で販売していて、
 当時、日本には商社を通じてホントに少数が輸入されていたのある。


 


 そういう意味では「カワサキの正規商品」ではなかったのだが、
 これを川崎重工業の正規商品として、取り扱うようになったのは、
 1983年大庭浩本部長の頃で、当時の企画課長武本一郎さんが発議し、
 ジェットスキーが日本を含め世界展開になったのは、それ以降のことなのである。
 若しあの時、武本課長がそんなことを言いださなかったら、
 ジェットスキーはその後どのような展開になってたのだろうか?
 ただ、その時も私は国内に「ジェットスキー専門」の販売会社を設立し、
 ボート屋などではなくて「ジェットスキー専門販売網」を創ったし、
 JJSBAなどのレース協会と新しい遊びジェットスキーの世界を創りだしたのである。


★ 今回のKAZEの裏表紙には「Ninja」が載っている。
 最初の「Ninja」もちょうどその頃、大庭本部長時代に開発されたものだが、
 そのネーミング「Ninja」はアメリカのKMCのアメリカ人の発案で、
 このネーミングに明石サイドの技術部が「忍者の印象」が暗いと猛反発だったのである。

 


 その「Ninjaのネーミング」について、
 今では日本側が反対したとネットなどでも書かれているが、その記述は何となく迫力がない。

 実はより具体的にその経緯を知ってるのは私だけなのである。
 日本側の猛反対の意向を受けて、アメリカ出張時大庭本部長自らKMCに説得を試みられたのだが、
 アメリカ側の反発が強硬で、当時のKMCの田崎社長が徹底的に反論、
「Ninja」はそんな暗いイメージではなくて「007ようにカッコいい」イメージだというのである。
 事実アメリカでは当時Ninja という映画などもあって、そのイメージは日本とは全く違った新しいものだったようである。
 その時は大庭本部長をしても説得することが出来ずに、
 最初のマシンはアメリカだけが「Ninja」で、




 欧州市場などには「GPZ900」のネーミングで発売されたのである。
 その大庭さんと田崎さんの「Ninja論争」のその場に同席してたのが私だけなので、そんな経緯を知ってるのも私だけなのである。

  
   


 
 その後、Ninja のネーミングは好評で
 このGPZ900シリーズだけではなくて、
 いまではカワサキを代表する「スーパースポーツ車の冠」として使われているのである。


★ こんなカワサキの昔話を語れるのも、今では私だけになってしまったのかも知れない。
 世の中は「ひょんなこと」から「ひょんなこと」になるのである。
 何事も物事は片手間ではなくて「ちゃんと専門的に取り組むこと」が肝用なのである。
 
 私だけが語れる「カワサキの昔話 3題」である。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする