雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

六地蔵  どっこいさん

2023-09-15 04:57:46 | 発想$感想

★ 毎朝行ってる三木総合防災公園は、かっては山だったので、
 直ぐ近くには『志染の石室』もあるし


   

 
 園内には『六地蔵・どっこいさん』もある。
 北側のちょっと離れた場所なのだが、
 毎年綺麗に咲く『彼岸花』が今はどうなってるのかと観に行ったのである。


 確かこの辺り一面に咲くのだが、
 まだ何も現れてはいなかった。
 お彼岸も、もうすぐなのだが・・・・


  
  

 
 そのすぐ近くに『六地蔵・どっこいさん』はある。







  こんな説明版があるのだが、


  



 六地蔵とは、こんな石に刻まれた6体の地蔵さんを言うのである。


 
  


 この辺りだけだが、
 ベンチの代わりに、こんな石が綺麗に磨かれて、
 あちこちに置かれている。
 
 
 



  『彼岸花』もう一度、見に来ることにしよう。




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カワサキ単車の昔話  20   松尾勇さんのこと     

2023-09-14 04:45:01 | カワサキ単車の昔話

川崎航空機が単車事業に本格的に進出したのは
 1960年(昭和35年)のことで、
 私は昭和32年入社で昭和36年末、初めて出来た単車営業課に異動したのだが、単車のことなど何にも解っていなかった。
 
 私だけでなく、周囲の人達も、上司も、
 技術屋さんも、事務屋も、
 単車のことが解っている人はいなかったと言って過言ではない。
 技術屋さんもエンジンの専門家はいっぱいいたが、
 なんとか単車のことが解っていたのは、
 B7のレースにも関係した井出哲也さんぐらいではなかったのか?

★ そんな状態の中での事業のスタートだったのだが、
 直ぐにファクトリーレースチームが出来て、
 ここには『単車のことしか解らない』と言った方がいいようなライダーたちが集まっていたのである。

 それにこのカワサキのレースをスタートさせた張本人は先にも書いたように、
 兵庫メグロの西海義治社長で、この方は元プロのオートレーサーだったからバイクには当然詳しかったのだが、
 その西海さんがカワサキの単車事業部に子飼いの松尾勇さんを送りり込んで、
 そのレース職場は製造部に属していて、そこにいた松尾勇さんのノウハウで運営されたと言ってもいい。


★ この写真はカワサキファクトリー結成25周年記念として、1988年に実は私が企画して実施したものだが、
  ここに集まったメンバーがカワサキの創成期のレースを支えたと言って間違いない。
  何故か安藤佶郎・百合草三佐雄のお二人がいないのだが、多分お二人は当時アメリカ勤務だったのだと思う。 
 この写真の最前列に並んでいる方たちが、レースの創始者と言ってもいいだろう。
 左から糠谷省三・松尾勇・山田熙明・西海義治・高橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄である。


  
  

 糠谷省三さんは大槻・安藤に次いで3代目のレース監督でメグロの出身、
 山田熙明さんは事業スタート時の技術部長で西海さんと懇意でレースに熱心だったが、この当時は川重副社長を退任されてすでにOBだった。
 高橋鐵郎さんは当時の川重副社長中村治道さんと一緒に青野ヶ原モトクロスの主導者だった。
 苧野豊秋さんは営業関連のレース責任者で私の直接の上司だった。
 そして大槻幸雄さんは初代のカワサキレースチームの監督で、Zの開発総責任者で、後川重常務ある。
 
 こんな錚々たるメンバーに伍して、
 会社の職位では掛長にもなっていない松尾勇さん最前列にお座りなのは、
 こと創生期カワサキのレースでは如何に重要な地位にいたかと言うことなのである。

  2列目には岡部・金谷・安良岡・和田・山本・清原もいるし。
  平井稔男・田崎雅元(後川重社長)さんも私もいる。
  星野一義は最後尾の一番右である。

  後ろの方と左側は当時のレース現役諸君で宗和多田の顔も見える。
  

★ そんな松尾勇さんは、兎に角バイクには詳しかったし、エンジンも車体も、何でもこいだった。
 青野ヶ原の最初のレースでB8をモトクロッサーに仕上げたのも松尾さんだし、
 その後のレース職場でも、技術部が担当したのはエンジンだけで、
 それをマシンに仕上げたのはみんな松尾勇さんなのである。

 そんな松尾さんの最高傑作はあのF21Mだと言っていい。
 当時スズキがRH2台を造って、ヨーロッパ市場にも遠征したりしていたのだが、
 カワサキもそんな本格的なファクトリーマシンを創ろうと、
 エンジンは当時の監督の安藤佶郎さんが238ccのエンジンを新たに提供されたのだが、
 それをマシンに仕上げたのは松尾勇さんである。

 当時のヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、
 図面など全くなしに、べニア板にフレームの形の釘を打って創り上げたのである。
 パイプを曲げるのにそこに詰める砂を海岸で取ってきたりしたので、よく覚えている。

 スズキの2台などとは違って、契約ライダー分すべての台数を造って
 青森県嶽岳で開催された全日本にデビューし、ヤマハがDT1を開発するまでは、まさに連戦連勝だったのである。

 このF21Mをベースに技術部が車体の図面を正式に造って、
 正規に生産をしたのが市販車のF21Mだが、

 
  



  ファクトリーライダーたちが最初に乘ったF21Mは、
  すべ松尾さんが創り上げたもので、
  ひょっとしたら F21Mと言うネーミングは技術部が後に名付けたのかも知れない。


  


 
★ カワサキがレースを技術部ではなく製造部の管轄レース職場でやっていた時代は、
  すべて設計図などはなく、松尾勇さんの手作りだったのである。
  その辺の町工場のような感じだったのである。
  そのレース職場にはライダー諸君も出入りしていたので、
  場所も製造部とは別の場所でちょっと変わった特異な職制だったのである。

  当時のレース運営は、前述の主要メンバーで構成された「レース運営委員会」がベースでその事務局を私が担当していたのである。
  そんなことで先の『カワサキファクトリー結成25周年記念』の会合も私が主宰したりして、
  集まったメンバーは当時のレース関係者とライダーたちなのである。

  レースマシンのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのは、
  マシンの名称KXがつく時代からである。
  レース監督で言えば4代目の百合草三佐雄さんの時代からである。

  それまではレース職場の松尾勇さん時代が続いたのである。
  私が幾らかでもマシンとか技術とかに興味を持ったのは、
  『松尾勇さん時代』で、
  カワサキ創生期に、そんな時代があったとはなかなか信じられないかも知れないが、
  こんな感じで、航空機メーカーが、二輪専門メーカーに成長していったのである。
  松尾勇さんはそんな「橋渡しをした人」と言ってもいい。


★実は今年はそのKX50周年に当たるのである。

 これは10年前のKX40周年の時の写真だが、
 その時は私はアメリカに行っていて出席できなかったので、
 アメリカから祝意のメッセージをお送りしたのだが、

 


 今年は12月2日に明石のグリーンホテルで
 『kX50周年を祝う有志の会』が開催の予定なので、
 今回は私も出席して、ご挨拶をすることになっている。
 カワサキのKXモトクロッサーも、50年の歳月が流れている。
 私が直接レースに関与したのはそれ以前のことで、
 松尾勇さんと同じ『レース職場の時代』なのである。


  
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庭木の剪定

2023-09-13 04:56:09 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 夏の間、我が家の庭木は伸び放題だった。
  気にはなっていたのだが、暑さ剪定などすることをさせなかった。

  9月に入ってもまだ残暑は厳しのだが、
  それでも幾らかましなので、
  剪定でもするかと、まず新しい道具を買って来た。


  


  
  道具が無かった訳ではないのだが、
  高ばさみのほうが壊れてしまったので、
  新しくするかと昨日から続けて買って来たのである。

  何でも新しいものは気分がいいし、
  当たり前の話だが、切れ味もいい。
  そんなことで、昨日は夕方から30分ほど剪定をした。

★ これが剪定前だが
  こんなに伸び放題である。


  

 
 
  そんなに伸びている訳でもないのだが、
  ちょっと伸びると気になるし、 






 前庭のほうもこんなに乱れている。






★ やはり短くすると気分もいい。
  スッキリ感がいいと自分では思っている。


  



  こちらも様変わりした。



  

  こんな感じになったし、


  



 伸び放題だった前庭のほうもなんとかみられるようにはなった。






 今日は切っただけだから、
 下には切った枝が散乱している。
 それはまた明日にでも拾い集めることにする。

 なかなか1日では片付かないのだが、
 なんとかみられるようになってホッとしている。

  
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粟生線の未来を考える市民の会

2023-09-12 05:18:03 | みっきぃふるさとふれあい公園


★ つい先日、三木でいろいろと活躍されている『ジーン景虎』さんから

 
   
   



 突然、こんなメッセージが届いた。

10月から、エフエムみっきぃで、「あおせん情報局」という番組が始まります。
 収録は私がボランティアで出演している奇数週の月曜日の2時間生出演が終わる、夜7時からになります。 
つきましては、10月16日の収録に
粟生線の未来を考える市民の会の発足当時 を知るメンバーとして
ゲスト出演いただけないでしょうか? 
よろしくお願いします。



★別にほかに予定もないので出席することにはしたのだが、
 「粟生線の未来を考える市民の会の発足当時を知るメンバー」であることはとは間違いないのだが、
 もう10年以上も前のことではあるし、ちゃんと覚えているかどうかが問題なのである。

 単なる雑談会ではなくて『FMみっきい』というラジオ番組だから、
 あまりいい加減なことは言えないのである。
  
  



 そんなことで、過去のブログ日記からいろいろ調べたら
 時系列的にどのような経緯から発足に至ったのか、
 何となくだが解ってきたのである。

 アタマの中だけではまた忘れてしまうので、
 その経緯だけはここに纏めておこうと思う。


 神戸電鉄の粟生線とは神戸電鉄の鈴蘭台から三木・小野を通って粟生までの路線を言うのだが、
 乗客減などから赤字続きで廃線問題が生じていたのは2011年当時のことなのである。



  
 

  そんな時期、確か和歌山の方だと思ったが
 『ふるさと線を残そうという会』の方たちが三木に来られて会合があったのだが、
 その会に市会議員の板東しょうごさんからお誘いがあって出席したのが始まりなのである。

  



 それは2011年10月10日のことなのだが、
 その日の日記にはこのように書いている。
 
 ●ふるさと線を残そうという人たちが三木に来て神戸電鉄問題を議論した。
この話は住民の力を結集したら流れが出来る。
単なる署名運動などではない実質的なものを創ればいい有志が頑張る方向がいい。


 そんな想いだったので、板東さんと相談して、
 『神戸電鉄を残そう会』などにすると賛成者もいるが、反対者も出るので、
 政党色などはなく名前も「粟生線問題を考える市民の会」を創って、
 と板東さんと相談したのが、この問題のスタートだったと思う。

 そして早速、11月11日には開催された
 「粟生線問題を考える市民の会」に出席しているのだが、
 この会には小野の河島美奈さんや井上章二さんも出席されているのだが、
 確かこの席で会長には山本医院の山本篤 先生に意向を聞いてはと、言うことになったのだと思う。

 そして11月25日には山本篤会長が実現
 名前も正式に「粟生線の未来を考える市民の会」と決まって、
 正規に賛同者を集めることになったのである。
  
 
 こんな経緯なのだが、実は私自身はもっと以前、この年の6月7日に
私の神戸電鉄問題』と題して大要こんなブログをアップしている。
 
●アタマの中に全然無かった『神戸電鉄』ですが、この半月、ずっと考えていました。『神戸電鉄粟生線廃止問題』です。
この半月間、私なりに出来る限り積極的に、真面目に動いてみました。
5月22日から、3日間連続でブログなどに、神戸電鉄粟生線問題をアップし、
三木市長に市長メールで連絡しています。
お隣の小野市の市長さんにも市長メールしました。
神戸電鉄の鉄道本部の副本部長さんと企画部長さんと3時間ほどお話をしました。
既に何度も検討が進められていますが、解決の名案が出ている訳ではありません。
神戸電鉄の『KOBE』というネーミングも最高ですし、
調べてみたら、車両は全て川崎重工製のようですから、
昨日は神戸電鉄の方と和やかにそんな話をしてきました。

★多分板東さんはこんなブログも読んでおられて、私を最初の会合に誘われたのではないかと思う。
 私は問題を考え出すと、それなりに積極的に動いてみるのだが、
 そうすると何か具体的な対策に繋がるものなのである。
ひとりで動き回っていたこの問題も半年後だが、具体的に動き出したのである。

★ 何度かの集会があって、これは市民が一度考えてみるべき大きな課題だということで、
粟生線の未来を考える市民の会』準備会が立ちあげられて、
そのFacebookページも完成して動きだしたのである。
同時にこのようなチラシを作って、広く賛同者を集める運動を起こす事になった。

   


★ そして、明けて2012年4月15日に 
 粟生線の未来を考える市民の会結成総会を粟生駅に隣接する『あお陶遊館』で行い、

  
  


 この会合には岡山の公共の交通ラクダの岡将男さんが講演をされたし、
 関西国際大学の松本茂樹先生ともお会いできて、
 お二人とも繋がったりしたのである。

 
 

 午後からは三木に舞台を移しての懇親会
 これはその粟生から三木への電車の中でのメンバー達である。






 そして、懇談会での記念写真。
 山本篤 先生は所用があって出られなかった。
 私がシャッターを切ったので私は写っていない。






 ざっと、ここまでが「粟生線の未来を考える市民の会」の発足当時の経緯かなと思う。

 会の関係者ににとっては約半年
 粟生線問題を考えて、動き出した私自身にとっては1年近くの期間の動きだたのかなと思う。

 こういう風に調べてみるには、
 ブログや日記は重宝で、これなしにはとてもここまでは纏められないし、特に時系列には全く覚えてなどいないのである。

  


★ 粟生線の未来を考える市民の会
  スタートまでの経緯を改めて時系列で並べてみる。

 ●2011年6月 私なりに粟生線廃止問題に対して個人的に動いている。
 ●2011年10月 ふるさと線を残そう会の会合が三木であって出席。
 ●2011年11月 粟生線を考える市民の会 板東・井上・私ほか
 ●2011年12月 粟生線の未来を考える市民の会 山本篤会長
 ●2011年12月以降 会員募集活動スタート 170名になったので 
 ●2012年4月  粟生線の未来を考える市民の会結成総会開催




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そんなに食ってるのかな?

2023-09-11 07:23:56 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★このところ9月に入ってからは少し涼しくなったので、
 毎朝のスロージョッギングの目標1000カロリー消費と決めて、
 1000カロリー消費するまで走っている。

 歩数にしたら7000歩をちょっと越えるようである。

 その結果1日のカロリー消費量は2400カロリー以上となっている。
 水色はそれ以下、緑は達成だから
 9月に入ってからは殆ど2400カロリーを越えた緑色である。
 昨日は2700カロリーを記録した。

     



  そんな調子で毎朝の運動を続けているのだが、
  体重は一向に落ちなくて
  むしろ増え気味で84kgになっている。
  これは一時の82kgに比べたら2kgも増えたことになる。



★ ネットで調べてみても、
  接取カロリーと消費カロリーの図式は
  接取カロリーが多ければ体重は増えるし、
  接取カロリーが少なければ減るという
  至極簡単な図式なのだから、

  このところ体重が増えてるのは
  私の場合、2400カロリー以上を食っているということになる。

 
   


★年齢別のエネルギー消費量は一般には以下の通りで、
 平均値は75歳以上は2100カロリー程度だし、
 70歳ぐらいの人の消費量が2400カロリーぐらいなのである。
 




  毎日そんなに食っているという感じはないのだが、
  肥えるという事実からしたら2400カロリー以上食っているということになる。

  毎朝1時間以上運動しててこうだから、
  若し、何もしなければもっと肥えてるということか。
  戦後の食糧難の時代に育った『昭和一桁世代』だから
  『食う』ことにかけては節食が出来ないのかも知れない。

  まさかこの歳で筋肉が増えたということもないだろう。
  そんなに食ってるとは思わないのだが・・・・



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カワサキ単車の昔話  19     山本隆のこと 3

2023-09-10 07:24:09 | カワサキ単車の昔話

★ カワサキ一筋に長くレース界に貢献された山本隆だが、
 そんな功績をたたえて
 久保和夫・鈴木忠雄・吉村太一と並んで
 『MFJ モーターサイクルスポーツ殿堂』入りをされている。
 
 私がレースの世界に入った時、
 久保和夫はすでにモトクロス界の第一人者だったが、
 山本隆鈴木忠男も新人だったし、吉村太一星野と同期で、
 まだノービスだったのである。



 


 山本隆は最盛期には3年連続全日本チャンピオンにも輝いて、
 その褒章でヨーロッパの二輪市場見学旅行などにも行っているので、
 この殿堂入りも当然だと思う。

 二輪のライデングにかけては独特の理論派
 現役時代『講釈師・山本』と言われたのだが、
 確かにそのライデイングは理に適っていて
 いつどんなところで写真を撮っても様になるのである。


 この写真はタンクが「グリーン」だから
 晩年の山本隆だと思うが、
 綺麗な逆ハンでカーブを周っているが、
 力がどこにも入っていなくて、綺麗なライデングである。

  
 


★ 私とは長いお付き合いなのだが、
 私が初めて4輪の免許を取った時には、いろいろと運転技術を教えてくれたので、
 そう言う意味では、私のライデイングのお師匠さんである。
 私は二輪は持ったことはないのだが、会社のマシンで山本譲りのライデイングを結構練習したので、何となく『逆はん』も切れたりするのである。

 レースでは、二輪も4輪もレースは早く走るのだが、
 ひっくり返っては元も子もないので基本は安全運転なのである。
 ブレーキを踏むときはバックミラーを
 カーブではスローイン・ファーストアウトなどは
 レーステクニックだけではなくて、安全運転の基本だと思っている。
 二輪でも四輪でもアクセルを踏んでいる時が一番車は安定しているので、
 カーブでもアクセルが開けれるミッション選択が肝要だと言って、
 4輪の「ヒール・アンド・トウ」などのテクニックも教えてくれて出来るようになったので、
 東北6県の砂利道や雪道の走行では大いに役に立ったのである。
 
 お陰様で事故は一回も経験がない。


★ これはもう20年も前になるのだが、
 山本隆、60歳の頃に『60おじさん』と自ら称して
 ゼッケンも「60番」を付けて頑張ってた時代があったのだが、











 マシンに乗せると、その辺の若い人たちでは
 彼の敵ではないのである。
 こんな感じでずっとTOPが彼の定位置だったのである。






  これはまだ1周目だが、
  そのうちに60おじさん一人旅になってしまうのである。









★カワサキのライダーたちとは
 現役を卒業してからも長いお付き合いが続いて、
 これは私がシャッターを切ったのだが、
 私と山本が東京に行ったときに星野岡部と金子を連れてやってきたのである。
  これに金谷秀夫がいたら、私が一番関係のあったライダーたちだと言える。

  



 最近でもいろんなところで、山本隆や昔の仲間たちと会うのだが
 これも昨年11月 明石であった『Z40周年記念』の時の写真である。





  
 こうしてみると、現役時代は兎も角、
 みんな立派に成長されたものだと思う。


 今は、山本隆さん、私が立ち上げたNPO 法人・The Good Times の2代目理事長を務めてくれている。
 これはその事務局での私との2ショットなのだが、
 彼は私よりちょど10歳若いので
 最近、80歳を迎えられたようである。
 
 
    



  そんなこんなで、山本隆さん、私とは何となく約60年も密接に繋がっている。
  ひょっとしたら、私の人生でも山本隆が一番長いお付き合いかも知れない。
  
  彼、何歳の時に結婚したのだったかな?
  突然、やって来て『私に仲人を』と言うのである。
  私も結婚したばかりの頃で、30歳ちょっとだったと思うのだが、
  『どうしても』と仰るので、仲人を引き受けたのだが、
  多分、世の中にこんなに若い仲人などいないと思っている。

  そんな、ご縁があって
  山本隆さんとは特別な仲なのである。


 
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カワサキ単車の昔話  18     山本隆のこと 2

2023-09-09 07:43:19 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのレースチームに最初に契約をしたのは歳森康師なのだが、
 そのあとすぐに契約を結んだのが山本隆で、 それは1963年のことだと思う。
 当時の契約ライダーはカワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木の実クラブ歳森康師・山本隆の5人で
 主として地方の草レースに出場していたので、どこでも連戦連勝だった。
 私は当時広告宣伝課担当だったのでそのニュースを全国の販売店に流していたのだが、
 『兎に角、強いのだ』と思っていたのである。
 
 ところがMFJの第1回モトクロス日本グランプリ相馬が原で開催されたのは、
 その翌年の1964年の春だったのだが、他メーカーのファクトリーチームが集まる全日本では確か山本隆だったと思うが7位ぐらいに入ったのが最高で、最初の全日本は歯が立たなかったのである。

★カワサキが初めて全日本で優勝したのは、
 同じ年の春だが富士の裾野でMCFAJの全日本が開催されて、その時初めて山本隆がオープンで優勝したのである。
 当時のスズキの城北ライダースの久保和夫やヤマハのスポーツライダースの荒井市次など当時の第一人者の実力は群を抜いていて、
 なかなかそれに勝つことはムツカシカッタのである。

 その年の秋、東京オリンピックの開催された年だが、同じ時期に
 伊豆の丸の山高原で行なわれたMCFAJの全日本
 カワサキは4種目中3種目90cc三橋実オープンが梅津次郎
 そして日本選手権の250㏄に山本隆久保・荒井の両雄を抑えて
 見事優勝を飾ったのである

 その時の表彰式の写真だが
 TOPが山本隆、2位荒井市次、3位が久保和夫で、
 この表彰台の写真はなかなかカッコいい。
 山本隆も20歳ちょっとの頃である。



  

 
 一番右は梅津次郎で、この大会でカワサキのモトクロスの地位が確固たるものとなったのである。


★ 明けて1965年は年初から『山本・歳森のBS仮契約』問題から幕を開けるのだが、
 この年の5月に開催された鈴鹿サーキットのジュニア・ロードレース
 山本隆がどうしても出たいというのである。

 まだ会社ではモトクロスは認められていたが、ロードレースはまだ許可されていない頃だったのだが、
 山本隆は「自費で車を買ってでも出たい」と言うものだから。
 モトクロス職場の松尾勇さんに『ロードレーサーを造れるか』と聞いたら、
 「大丈夫」と言う返事なので、出てみるかと言うことになったのである。
 車は当時製造部にいた田崎雅元さん(後・川重社長)が都合してくれて、
 レースの費用は『鈴鹿のモトクロスに行った』ことにしようと言うことでスタートしたのである。
 順位などは誰も期待などしていなかったのである。

★ 当時北陸カワサキにいた内田道雄さんが山本はロードは初めてだからと、北陸のロードに経験のある塩本を貸してくれたので、
 2台のロードレーサーを準備して、
 松尾勇さん以下数人のメカニックを付けての出場だった。
 現場から来た連絡でもなかなかタイムが出ないというので、誰も期待などしていなかったのだが、
 レース当日は鈴鹿は雨になったのである。
 
 5月の連休で休んでいた自宅に現場の川合さんから
ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
 喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。
 その時代、電話もなくて、電報の時代なのである。

 それもホンダの神谷・鈴木が1,2位だったのだが、
 ずっと3位を走っていたBSの滋野の後を『スリップ・ストリーム』でついていって
 最終コーナーの下り坂のところで滋野をかわしての3位入賞だったのである。
 そのゴール寸前の写真でTOPを走っているのが山本隆である。


  



★ この話は『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』と言う題目で
 2009年11月にブログをアップしているが、
 カワサキが初めて鈴鹿を走ったのはこの日だったのである。

 会社には内緒で出たレースだったのだが、
 思わぬ3位入賞、それもホンダに次いでカワサキと言うことで、
 社内も盛り上がって、モトクロスだけでなくロードレースもやろうという機運になったのである。

 その翌月の6月に鈴鹿サーキットで初めての
 『アマチュア6時間耐久レース』が行われたのだが、
 このレースに3台のマシンを用意し 
 カワサキコンバット・神戸木の実社内のテストライダーチーム
が出場することになったのだが、
 山本隆は『ジュニア・ロードレース』に出場したので出場できないので、
 歳森康師が相棒として急遽呼んできたのがあの金谷秀夫なのである。

 
★ カワサキも山本も、なかなかの幸運を持っていると思う。
 モトクロスの青野ヶ原では走ったライダーはテストライダーなど素人ばかりだったのだが、
 結果の1位から6位まで独占の完全優勝も、
 当日は雨でいたるところに水溜りが出来て、みんなマシンが止まってしまった結果なのである。
 当日山本隆も自分のヤマハで出ていたらしいが、マシンが止まってしまったのだという。
 その山本隆が初めて走った鈴鹿だが、若し天候が良かったら
 多分3位入賞など考えられなかったと思う。
 いずれのレースも。雨がカワサキを援けてくれたのである。

 そんな結果なのだが、
 この山本隆の鈴鹿での入賞で、カワサキもレースに本格的に取り組むことになり、
 1か月後のアマチュア6時間耐久レースで初めてレース監督なるものが実現したのである。
 レース監督は後あのZの開発責任者となった大槻幸雄さん、
 助監督田崎雅元さん、レースマネージメントだったのである。

 そんなことで山本隆は『私がカワサキのロードレースの道を拓い』と大威張りなのだが、確かに間違いないのである。
 後、『ミスターカワサキ』と言われる山本隆だが
 若いころからそんな華を持っていたような気がする。


 
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カワサキ単車の昔話  17     山本隆のこと 1

2023-09-08 04:58:17 | カワサキ単車の昔話

★ 私がレースに関係したきっかけを作ってくれたのは実は山本隆なのである。
 なぜそんなことになったのかと言う経緯を『山本隆のこと』を書く第1弾としてお話してみたい。

 話は飛ぶが、日本で一番最初に本格的なロードレースが行われたのは、
 鈴鹿サーキットが出来た1962年11月なのだが、
 このレースの優勝者は250ccが三橋実・350ccが片山義美で、
 当時はいずれもヤマハの所属なのだが、
 後二人は三橋実がカワサキコンバット片山義美は神戸木の実クラブというレーシングチームを主宰したので、
 お二人ともカワサキとは密接な関係が出来たのである。

 その鈴鹿の第1回ロードレースをカワサキの製造部のメンバーが観に行って、モーターレースの素晴らしさに感動して
 翌年6月兵庫県の青野ヶ原で行われたモトクロスに出場したのだが、
 初出場ながら1位から6位までを独占するという完全優勝で、
 これがカワサキの二輪事業を本格的にスタートさせ、
 カワサキもレースチームを創るきっかけになったのである。

 この5人が一番最初にカワサキが契約したライダーなのだが、
 三橋実・岡部能夫・梅津次郎カワサキコンバットで、
 山本隆・歳森康師神戸木の実クラブ所属だったのである。


  




★ 私はその頃、新しく出来た広告宣伝課の担当で、
 青野ヶ原モトクロスも、その後のレース関係も担当分野ではあったのだが、
 直接の担当者は青野ヶ原モトクロスのチームマネージャーをやった川合寿一さんが担当していて、
 彼にすべてを任していたのでレースのことなど全く知らなかったのである。

 ところが1965年2月に突然山本隆と歳森康師の二人から辞表が出て、
 BSと仮契約をしたというのである。
 それがどのくらい重大なのかもよく解らなかったが、
 川合さんは『これは大変なこと』だから『止めねばならない』と言うのである。
 どうすればいいのかと聞くと、
 神戸木の実クラブ の片山義美に会って、二人がBSに行くのを止めるように頼んで欲しいというので、
 私はレースのことなど全く解らず、神戸木の実片山義美も全く知らなかったのだが、
 言われるままに片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと頼んだのである。
 こんなことだから、私がレース関係者と話したのは片山義美が初めてだったのである。
 片山義美がどれくらいの有名人なのかも全く知らぬままにお会いしたのである。

   
   
    

★それは1965年2月13日のことだった。
 片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと単純に頼んだのだが、
 片山義美カワサキのそれまでのレース運営についての問題点をいろいろと鋭く指摘して、
 こんなことを直さない限り、ライダーたちはカワサキに留まらないだろうと言うのである。
 言われてみると『尤もなこと』ばかりなのである。
 そんなことで『今後は私が直接担当して、ご指摘の点を直しましょう』と言ったら、
 それなら『山本・歳森』を呼んで直接言ってあげると言うことになって、


 2月20日に片山義美・兵庫メグロの西海義治 社長 山本隆・歳森康師と私の5人で会って、
 片山から「カワサキに残れ」と言う一言でこの問題は解決したのである。


★初めてレース界の方と話をしたのは片山義美さんなのだが、
 そんなこともあってその後片山さんとは何度もいろんなところでお会いをしたり、
彼の現役引退パーテーでも一番最初にご挨拶をしたのは
スズキでもマツダでもなくカワサキの私だったのである。

 こんな神戸木の実クラブの集まりにも、
 私を招待して頂いたりしたのである。

  
 


 カワサキのレースのOB会にも片山義美さんは来てくれて、
 真ん中に座っての記念撮影なのである。





 そんな片山義美を偲ぶ会に集まったメンバー、
 勿論、山本隆も星野一義もいる。







  ★そんなことから、私はその後レースの世界に関係することになったのだが、
 これは私にとっても『レース界に関係』したことが一生の財産となったのである。

 そういう意味では2月20日の会合が本当に大きかったのだが、
 この席には兵庫メグロの西海義治社長も同席されたのである。
 カワサキの製造部に鈴鹿のロードレース観戦のバスを仕立てたのも
 青野ヶ原のモトクロスを主催されたのも実は西海さんで、
 カワサキにレースをスタートさせた張本人は西海さんなのである。

 西海さんは元プロのオートレースのライダーで、
 この日西海さんをお呼びしたのは私ではなくて、
 片山義美さんがレース界の先輩として呼ばれたのだと思う。


   


 これはずっと後、兵庫県で開催された全日本モトクロスでの
 本田宗一郎さんと西海義治さんとのツーショットなのだが、
 本田宗一郎が「鈴鹿サーキット」をあの時造らなかったら、
 あのレースをカワサキの製造部が観戦しなかったら
 カワサキの二輪事業は今のようにはなっていなかったと思う。

 そう言う意味でカワサキの二輪事業にとってはこのお二人は恩人と言えると思う。


 カワサキのその後のレースには私も直接関わることになるのだが、
 そのきっかけを創ってくれたのは山本隆なのである。

  
  
   
山本隆のこと」の第1回はこんなことで、山本隆のことは少なかったが、
 これから何回かに分けて書いてみたい。
 私は今でも山本隆とは親交があるのでもう70年近いお付き合いなのである。

 因みに山本隆・星野一義・片山義美などと敬称抜きにしているのは有名人は通常敬称抜きで語られるもので、
 そう言う意味では山本隆・星野一義は有名人なのである。



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藤浪晋太郎

2023-09-07 05:19:34 | 発想$感想
★藤浪晋太郎、私の好きなピッチャーである。
 スタイルや投げ方が如何にもピッチャーらしい。
 体型もあの左の金田正一とよく似ている。
 そんな藤浪晋太郎が

オリオールズの藤浪晋太郎投手が5日、敵地で行われたエンゼルス戦で、5-4の延長10回に登板。
無死二塁から始まるタイブレークを、わずか9球で3者凡退に封じ、2セーブ目を挙げた。
ブランドン・ハイド監督は「俺たちのフジ。私たちが求めているものを体現してくれた」と、最大限の賛辞を送った。





間違いなく素晴らしいいい球だった。
162.5キ)の速球に、最後三振を奪って試合を締めたスプリットは、普通の球ではない。次元が違う投球だ」と能力を高く評価。
「そういう能力を持っているから、あの場面で彼を起用した」。
ここ最近は重要な場面での起用が続いており、藤浪も指揮官の期待に結果で応えている。










大阪桐蔭高校時代は1年夏からベンチ入り、2年春からエース。
1年後輩にあたる森友哉とバッテリーを組み、3年春のセンバツでは史上初の全5試合で150km/h以上を計測し優勝。
史上7校目の春夏連覇を達成。
10月のぎふ清流国体でも仙台育英高校と同時優勝し、松坂大輔を擁した横浜高校以来となる史上3校目の「高校三冠」を達成し、
高校時代は「浪速のダルビッシュ」と呼ばれていた。




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高齢者の病気 いろいろ 帯状疱疹

2023-09-06 08:01:22 | 発想$感想

★歳をとるといろんな病気が出てくるのは仕方がないのかも知れない。
 私などは若い時肺結核に罹ってあまり長くは生きられないかなと思っていたら、
 それも克服して68歳の頃に「くも膜下」になったりしたが、
 これも上手く克服できて、それ以降は至って健康だから不思議である。

 家内などは見た目はそんなに丈夫そうでもないのに、
 病気らしきものは何もせずに生きてきたのだが、
 80歳代になって膠原病と言うリュウマチのようなよく解らない病気になって、
 昨今はそんなに元気でもない。


★今日はその膠原病の3か月に1度のチェックがあって
 北播磨総合医療センターに行ってきた。

 
   
 

 先生の診断では特に変わりはないので
 次回は11月末ということなのだが、
 病院に来ている方を観ていると家内などはまだ元気な方である。

 高齢者でちゃんと歩けない方がホントに多いのである。
 

★ところで世の中にはあまり聞いたことのない病気もあるものだ。
 「帯状疱疹」って、ご存じですか?

 


 水ぼうそうと同じウイルスで起こる皮膚の病気なのだが、
 痛みを伴う赤い発疹と水ぶくれが多数集まって帯状に生じるのである。
 50歳代から発症率が高くなり、80歳までに約3人に1人が発症するといわれているという。
 日本人成人の90%以上は帯状疱疹の原因となるウイルスが体内に潜伏して
 過労やストレスなどで免疫機能が低下すると、帯状疱疹を発症するのだという。

  
 
 
  家内がごく最近この帯状疱疹に罹って、
  最初の4,5日は痛かったようだが、今は何とかなっている。
  こんな想いもよらぬ病気に突然罹ったりするから気を付けなくてはならない。

  
★ 家内なども70歳代までは至って元気で
 毎週水泳に行ったり、アメリカの娘のところにも10年続けて遊びに行ったりしているのだが、
 最近はこんな調子でもう一つ元気がないのが、私の今の一番の心配事である。

 もう86歳だから仕方がないのかも知れないが、
 それでも家の中のことは家事・炊事・洗濯はすべて家内がやってくれてる。
 もう少し私が手伝えばいいのだが、
 どちらかと言うと昔気質で家の中の領域には、私には手を出させてくれないのである。
 こんな病気を機会に、私もより積極的に家事を手伝ってやりたいと思っているのだが、
 果たして今後どんなことになるのだろうか?
 
 それでも近所でも高齢者夫婦で揃っているのは我が家だけのようで
 そう言う意味では二人とも幸せな人生だったなと思っている。
 まあ、こんなこともその人が持っている運みたいなもので、
 86歳以上の夫婦なら、
 いつお迎えが来ても不思議ではないのである。

 私自身がこんなに生きられるとは思っていなかったので、
 二人とも最高に幸福だった人生だと思うべきである。
 家内の帯状疱疹で、そんなことを想っている昨今である。
  

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朝の散歩の目標  1000カロリー 7000歩

2023-09-05 04:48:59 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 朝の散歩の目標を9月になったので夏場の6000歩から、
 1000カロリー消費・7000歩に設定した。
 ちょっと最近肥えすぎたので、「消費カロリー」を目標の第一に挙げたのである。

 朝5時半、三木総合防災公園での散歩をスタートした。
 まだ陽も上がっていないこんな状態だが、


  


 もうこれくらいの車が並んでいる。
 世の中、早起きの人が多いものである。





 陽も上がっていないし、開門前だから車も走っていない。
 広い道の真ん中を歩いている
 こんな道の真ん中を堂々と歩くのは気持ちがいい。
 公道ではとても出来ないから、
 こんな道の真ん中を歩いた人など少ないだろう。
 マラソン大会ぐらいしか、それは出来ないはずである。




★ 消費カロリーが1000カロリーになるまで歩くのは大変である。
 今朝は7500歩ほどでやっと達成した。

 朝これくらい運動すると夕方現在にはこんな記録になっている。

 歩数11830歩  
 距離8.41km
 消費カロリーは 2341カロリー
 アクテイブな時間は  103分
 いずれも90歳の高齢者としては上出来である。

  
  




  これだけやったら体重は0.5kg減った。

  
  これが20日間の消費カロリーだが、
  平均で2200カロリーで、
  緑の点線あたりが2300カロリー
  9月に入ってからは目標を達成の緑の棒グラフになっている。
  これがいつまで、続くだろうか?


  


 このように公に公表することにより
 自らのケツを叩いているのである。
 なんとか頑張ってみたい。




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神戸ベンチャー研究会での松島裕さんの講演

2023-09-04 04:42:36 | 発想$感想

★ 神戸ベンチャー研究会会長の窪田 勲さんのFacebooKに、
 先日の松島裕さんの講演の内容 が載っていたので、
 そのままちょっとお借りしてご紹介してみる。
 なかなか内容のあるいい講演だったので、
 特に二輪の関係者の多い私のブログの読者の方にも是非、聞いて欲しい内容なのである。
 
 以下は窪田 勲さんのFacebooKからの転載なのである。


★暑い夏を、熱い心の人たちと語りつくした! 
 陽ざしがとても厳しい、8月26日、
 第269回神戸ベンチャー研究会が開かれました。
 テーマは「魅力ある伝統を生かすことにチャレンジ」
 講師は、8月に設立したばかりのNPO法人二輪文化を伝える会 理事長 島裕さん、
鈴鹿8耐ライダーが「二輪文化」を伝えるNPO法人を設立するまでがテーマ。

   
 

★こどもの頃、マンガ「750(ナナハン)ライダー」(石井いさみ氏原作)が好きで、大きくなったらバイクに乗ろうと憧れていた。
しかし、地元の埼玉県では、バイクの「3ない運動」が高校で盛んに行われていた時代だった。
そこで、自転車からスタート、近くをツーリングして楽しんでいた。
角川映画が流行っていて、大藪春彦氏の小説「汚れた英雄」が映画化され、大ヒット。日本全国でバイクがブームになり、私もバイクを買って、ロードレースをするようになった。

★1995年から2000年まで、鈴鹿サーキットで開催される公式レースである「鈴鹿8時間耐久ロードレース」に参戦できるくらいにまでになった。
当時の観戦者は約20万人。人気あるレーサーには、会場では歓声が上がるのだが、私は無名で誰も気に留めてくれないような感じであった。
1997年の鈴鹿レースに出たときに、知人からホームページの作り方を教えてもらって、見よう見まねで作り始めた。
レースの雰囲気やバイクの魅力を伝えたいと思い、レース現場でのピットの緊張感のある様子など写真等を交えて、ホームページで公開。当時はまだインターネットが始まったばかりの頃。
ホンダやヤマハでさえ、こういったレースのホームページがなかった。

今では普通になってしまっているが、ピットロードからネット配信する先駆けであった。「今から走ります」と綴っていた。
ビックリしたのだが、やはり鈴鹿レースに関心を持って、検索して、私のホームページを見つけてくれる人たちが増えていったのである。
無名である私にレース会場で、「ホームページ見ているよ、がんばってくださ」と声をかけてくれる人がでてきたのである。
鈴鹿レースにでるライダーは、間違いなくバイク好きなのだが、声を掛けてくれているのは女性たちが多い。
自分はバイクには乗らないけれども、モータースポーツを見て楽しむのが大好きな人が多くいることを実感した。

ホームページというのは、情報発信力があり、すごく影響力があるんだなと感じた。
引退して、どんな仕事をしようかと考えたとき、選んだのは、ホームページ制作・運営の仕事だった。
2009年に川崎重工業のバイク部門を世界的なメーカーに育てられた古谷錬太郎さんから、「NPO法人The GoodtimesのHPを作って欲しい」というお誘いをいただいたのが、古谷さんとのお付き合いの始まりである。
今回、二輪文化を伝える会をNPO法人化したのだが、もともとは、「外国人に日本の二輪文化の魅力は何ですか」と聞かれたときに、「バイクに乗ればわかるよ」ではダメだと思い、うまく説明したいと思ったのが切っ掛けである。
古谷さんから、カワサキのバイクの歴史を教えてもらいつつ、メーカーの枠に留まらない、まさに日本の二輪文化の歴史を整理し、その挑戦の数々やエピソードなどを調べていくとすごくおもしろい。
それらの良さを伝えていきたいと感じた。調べていくと誰も知られていないような多くの出来事と、エピソードがたくさんあることが分かってきた。

★その1つが、日本人で最初に世界のバイクレースにチャレンジしたライダー、多田健蔵氏がいたことである。
日本にまだバイクメーカーがない時代の昭和5年(1930年)。
たった1人でシベリア鉄道に乗り、何十日もかけて英国に渡り、死亡者続出のマン島TTバイクレースに日本人で最初にチャレンジしたのが多田健蔵さんだった。





多田さんは、日本では自転車競技のレーサーで、バイクという新しい乗り物ができたことで、バイクにも挑戦したのである。
世界で勝負したいと、英国のマン島のTTレースに参加し、見事15位に入賞を果たされた。
当時、無名の日本人が、たった一人ではるばる英国にやってきて、レースに挑み、結果を残したことで、初めて、バイクの分野で世界が注目する日本人になった。今風の表現をすれば、「侍ライダー」という言葉がピッタリ。
小説「汚れた英雄」にも描かれていない、まぼろしの侍ライダーだ。

多田さんは、その後次々に誕生した日本のバイクメーカーには所属しなかったので、各メーカーの公式ページには多田健蔵の逸話がないのである。
なお、晩年に多田さんは、スズキの契約顧問として少しの時期活動されたようである。
マン島TTレースに、日本のバイクメーカーで初めて、参戦したのは、ホンダである。多田氏の参戦から十数年後のことである。
しかし、当時のホンダは自社で作ったバイクでの参戦を申請したのだが、ダメだと門前払いになった。
ちなみに、多田さんが参戦したときは、英国メーカーのベロス(Veloce)製のオートバイ「べロセットKTT」であったので、認められたようだ。
当時の主催者から、ホンダは「日本という国には、多田健蔵がいる。健蔵を知らないのか?もぐりの会社か?TTレースに出たいなら、多田健蔵から推薦書にサインをもらってこい」といわれたそうである。
そのくらい多田健蔵氏は世界の中で認められたライダーで、日本のバイクの歴史には欠かせない人物なのである。
 
別のエピソードでは、日本で初めて常設のサーキット場が作られたのは、東京の多摩川にあった1936年の「多摩川スピードウェイ」
つい最近まで、当時の観客席の石段がそのまま残っていたのだが、近年の川の増水により、今では撤去されてしまった。


  



この「多摩川スピードウェイ」のこけら落としには、数年後にホンダの創業者となる本田宗一郎氏が自分で作った自動車で参戦。大きな事故をして命を落としかけたというエピソードがあることが分かった。
創業前の話なので、ホンダの社員でも知らない逸話である。
もし、亡くなっていたら、世界のホンダは、この世に誕生しなかったかもしれない。
 
★日本で最初にバイクレースが行われたのは、1912年で、実は兵庫県西宮市の鳴尾浜である。当時は、鳴尾浜競馬場という競馬場があった。
そう、日本最初のバイクレースは、競馬と同じ感覚であったのである。この鳴尾浜競馬場は今なく、一部がプロ野球阪神タイガースの鳴尾浜球場となり、一部は、武庫川女子大学の来賓館となっている。
 日本では、四輪よりも二輪の方が、肩身の狭い感じがしている。
バイクメーカーには所属していなかった多田健蔵氏のエピソードは、世界で最初に認められ日本人ライダーのストーリーであっても、時間がたつと風化してしまう。
バイクメーカーが残そうとする二輪文化のエピソードは、自社に関連しているものだけというイメージだ。
商売につながらないなら、相手にしない的なムードを感じてしまう。
だから、バイクを買わない人への広報への必要性は、話すと素晴らしいと言ってはくれるけれども、自ら動いて何か行動しようということにはつながらない。
 

★鈴鹿8耐レースに参戦し、ホームページでPRし、反応してくれた人たちとの経験からすると、現場に見に来ている人たち約20万人のうち、実際にバイクを買って乗っている人って、どのくらいいるのだろう。
多くは、バイクには乗らないけれども、バイクが大好き、レースを見たいと思って、わざわざ足を運んでくれているのに。
例えば、サッカーや野球が大好きな人はたくさんいる。しかし、1年以内にサッカーや、野球の試合に参加した人は、どのくらいの割合でいるのだろう。
ほとんどいないのではないか、多くは見て楽しんでくれるだけの人である。
 
だから、日本の二輪文化の良さを伝えようと思ったときに、「バイクに乗ったら良さがわかる」というのではダメで、バイクに乗らない人たちにも、その楽しさ、良さがしっかり伝わるような活動にしていきたいと考えている。
バイクに乗らない人を味方にできないのか?
NPO法人二輪文化を伝える会の活動は、バイクに乗らないけれども、バイクを好きになってくれる人を味方にしていくことへの挑戦になる。


  
 
私もライダーなので感じることだが、バイク乗りの意識のなかで、「バイクを降りたら、もう仲間じゃない」という意識はどこからきているんだろう?
バイクに乗っていると何か特別なことを、特別な体験をしているという錯覚におちいってしまうからかもしれない。ある種の特別感がある。
これはコンプレックスの裏返しなのかも。
そんなことも自問自答しながら、NPO法人二輪文化を伝える会のスローガンを考えました。
バイクに乗らなくても、「バイク好き」という人を増やしたい

★この活動は30年計画で進めています。
第1期の10年は「繋がり」づくりの10年。
これからの第2期は、参加者、共感者を募って、伝えてきたい二輪文化の数々を「持ち寄り」の10年です。
さらに、次の第3期は後継者を育てる活動を目標にしています。
バイクの楽しさのエピソード、お勧め情報、仲間づくり、寄付など募っていきます。賛助会員、寄付などよろしくお願いいたします。
 
といった主旨のご講演でした。
まさに、二輪文化を大切にしたいと感じたストーリー、世界の舞台に最初に挑戦した多田健蔵氏のストーリー、そして、バイクに乗らないけれども、バイク好きを増やすことへの挑戦を目指すストーリーのいずれもが、感動するご講演でした。
モノやサービスを売る際に、ストーリーの大切さが注目されていますが、人の輪づくりも、実際に売り買いには参加しないけれども、共感してくれる人を増やす活動の大切さを実感できるご講演でした。
参加されたほとんどの皆さんが、ご講演後に松島さんに握手を求めて、列ができていたのが印象的でした。

P.S: 私も大学生の頃、ヤマハのRZ250R、社会人になってからは、FZ250フェーザーに乗っていたバイク好きです。


★以上が、松島裕さんの1時間半にわたる講演の抜粋だが、
 文字通り『二輪文化を伝える会』で二輪文化を伝えようとされているのである。
 日本のメーカーがもう少し『二輪文化の向上』に積極的であって欲しいのだが、
 本田宗一郎以降にはそんな活動をされた経営者が少ないと思う。 
 そういう意味では『松島裕』さんは
 バイクに乗らなくても、「バイク好き」という人を増やしたい
 をNPO法人のスローガンにしているのだが、
 メーカー各社もバイクを買うユーザーだけではなくて、
 より底辺のバイクに乗らなくてもバイクが好きだという人達へのアプローチに熱心であって欲しいと思うのである。

 私は1台も二輪車を買ったことはないのだが、
 『二輪への愛情』は人並み以上にあると思っている。
 そう言う意味で松島裕さんの『二輪文化を伝える会』の活動も応援したいと思っている。
 現在では『二輪文化』については日本では松島裕さんが第1人者かも知れない。




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カワサキ単車の昔話  16    モトクロス創生期と星野一義

2023-09-03 05:10:22 | 発想$感想

 カワサキのモトクロスの写真で、一番旧いのはコレかも知れない。
 カワサキコンバット時代の写真だが、
 右から梅津次郎・岡部能夫・山本隆・歳森康師・三橋実・安良岡健、
 その次に写っているのが「星野一義」である。
 多分まだ18歳の頃だと思う。
 
 ノービスだったが、滅茶苦茶早くて走れば優勝だった時代である。
 この写真は私が手元にあったので送ったのだが、
 このように使って頂いた。

 



 そんな若い時代カワサキにいたのだが、
 今では『日本一速い男』と言われて
 こんなレース雑誌に特集が載ったりする。
  

  




 こんな雑誌の最新の9月1日発売号だが我が家にこんなにいっぱい送っていただいた。

 鈴木忠さん、小島松久、吉村太一、
 みんな星野一義とおんなじ時代だが、
 当時はまだMCFAJのいクラブマンレースも盛んにおこなわれていて、
 各クラブ間の交流もあり仲が良かったし、
 私などでもみんなよく知ってて今でも繋がっている。

  


  今回のは四輪よりも若い時代の星野一義が紹介されていて、
 『日本一やばい男』と称されて特集されている。
 私も初めて聞くような子供のころからの話もいっぱい載っている。





★ 星野がカワサキにいたのは1965年以降なのだが、

  静岡から関西にやってきて、山本隆・歳森康師とともに
  神戸木の実クラブに所属していた。
  山本隆さんが、星野のモトクロスのお師匠さんだし、
  先に日産の四輪に移った歳森康師の誘いで四輪の世界に移ったのである。
 
  
  

 これはもう二輪時代の最後のほうだが、
 札幌の手稲オリンピアの第5回日本GP の写真だが、
 先頭から、吉村太一・山本隆・星野一義・木村夏也と
 私もよく知っているライダーたちが並んで懐かしい。


  
  

 私がレースの担当時代は1966年までで、
 このころはすでに仙台の営業第1線に異動していたのだが、
 この時は仙台から札幌まで車を飛ばして
 レースを観に行ったのである。
 確かこのレースも山本隆か星野一義の優勝で吉村太一ちゃんと3人で
 上位3位までを占めたレースだったと思う。


★昨年11月にあった「カワサキZ50周年」には、
 星野もわざわざ明石まで来てくれて、
 昔の仲間たちとの再会を喜んだのである。

 私にとっても「昔の仲間」との再会でもあった。

  
 

  
  一番最初の星野一義との契約は私が担当したのだが、
 まだ18歳の星野だったが、毎月2万円、年額24万円だったのである。
  今では超有名人になっているのだが
  全然気取らずに『昔のままの星野』がそこにいて本当によかった。
 
  
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9月の庭仕事は・・・・

2023-09-02 04:12:19 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★9月になったけど、残暑と言うか真夏のような暑い日が続きそうである。
 早く『朝夕はめっきり涼しくなった』と言いたいものである。
 
 8月の間は、暑いこともあるが熱中症に注意などと
 テレビでずっというものだから殆ど庭仕事は出来なかったのだが、
 その間も植木は元気にどんどん伸びて、どれも天が乱れてしまっている。


 



 暑さにもめげずにどんどん伸びるものである。






  鋏で剪定をするのは、意外に好きでこんな伸びてしまった枝を見ると、
 気になって仕方がないのだが、
 9月になって少し涼しくなったらやろうと思っているのだが、
 それが9月のいつぐらいになるのだろうか?


 




  あちこちの枝が伸び放題だし、





 もいつもは綺麗に刈っているのに、
 こんなに乱れてしまっている。







★9月も10日を過ぎたら幾らか涼しくなるだろう。
 兎に角、できる限り早い時期に庭木の剪定をやりたくて
 うずうずしているのだが、それをさせないのはこの暑さなのである。

 今年は特に暑かったのか
 歳をとって動くのが億劫になったからか、
 今まではこんなことはなかったのに・・・
 夕方、陽が陰ってからでもやろうかなと思っているのだが
 果たしてどんなことになるのだろう。

 今日は9月1日なのである。
 綺麗になったら、またブログにアップしようかなと思っている。


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囲碁

2023-09-01 05:35:10 | 発想$感想

★ 最近は特にすることもないので、
 ネットの『パンダ碁』を打っている時間が結構ある。

 
 


 世界で囲碁を打つ人は、推定約3600万人もいると言うのだが、
 日本では碁を打つ人はどんどん減って
 2012年には400万人ぐらいもいたのに、今では150万人ぐらいになってしまったようである。
 それも高年層の比率が高く若い人が碁を打たなくなってしまったのはなぜだろう?

 
 囲碁は碁席で相手の人と向かい合って
 こんな碁盤で相対することになっていたのだが、
 碁席にわざわざ出かけて、お金を払って打つとなるとちょっと大変かなと思ったりもする。

  
  
  
★ 私の場合は『パンダ碁』でネットでパソコンの画面で打ってるので、
 非常に簡単で、相手はここに登録している人と打つのだが、
 世界で何万人も登録してるので、
 日本人に限らず世界中の人達と打っているのである。


 これは昨日の実績だが、
 めちゃ調子が良くて15局も打って11勝4敗だった。
 こんなことは滅多にないので、ブログにアップして残しておこうと思ったのである。

 
  
  

 若いころは初段格で打ってうぃたのだが、
 最近は考えるのが面倒になって、手拍子でどんどん打つので、
 3級あたりでいい加減に打っていたのだが、
 昨日のように勝つと級も上がって2級になって、
 2級では少しは考えて打つようにしたら、
 2級でも7勝3敗と勝ち越せている。



 


★こんな成績が続くと、若いころのように確り打とうかとも思ったりするのだが、
 やはり今はのんびりと時間つぶしの囲碁を打つ方が気楽かなと思っている。
 
因みに、パンダ碁は1か月2500円ほど掛るのだが、何局打っても同じ額なので、こんなに何局も打っている。
1局に30分ほどは掛るので、1日のうち碁を打ってる時間は結構長い。

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