トランプ・ショックのもう一つである、日本の核保有実現の可能性はどうか。
憲法九条は自衛のための必要最小限度を超えない実力の保持を認めており、稲田朋美元防衛相が平成28年8月6日の記者会見で、日本の核兵器保有について、「憲法上、必要最小限度がどのような兵器であるかということに限定がない」と述べ、憲法九条で禁止しているわけではないとする従来の政府見解に沿って説明したとおりである。
2006年10月に北朝鮮が初の核実験をしたときの、我が国の議論を思い起こしてみよう
このとき金正日総書記(当時)の日本への核恫喝(どうかつ)は、それまでの弾道ミサイル発射とともに、より現実味を増した。
日本では第一次安倍政権だった。にもかかわらず、当時、自民党政調会長だった中川昭一氏の「核を持たずに北朝鮮にどういう対抗措置ができるのか真剣に議論しなければいけない」という意見は、野党のみならず自民党内やメディアから大バッシングを浴びた。
せっかく核保有の議論を提起した中川氏は、その後、発言を自粛し、「国会では『非核五原則』、つまり核について『つくらず、持たず、持ち込ませず』だけでなく、『発言させず』「考えさせず」という空気が横行している」と嘆いた。だが、このときも普通の国民は「非核五原則」をおかしいと感じていたのではないか。
核保有の可能性を含めた日本の国防上の現実問題を考えようとしない、怠惰(たいだ)を決め込んでその必要性を説く者に避難を浴びせようとする人たちは、「平和の毒」が回り切った「戦後派」である。彼らの多くが「反米」で「反核」であるにもかかわらず、アメリカの「核の傘」への盲信がある。ただ、その逆説を見ないようにしている。
そもそも核の抑止力は、場合によってはこちらも核を行使し得るという前提がなければ成立しない。その意志と技術がなければ抑止力にはならない。日本にあるのは、「日本への核攻撃はアメリカが必ず反撃してくれるはず」という期待である。
「米国の『核の傘』の安定的維持」を主張する人たちは、「核の傘」の信用性について言及しない。わかりやすくいえば、アメリカは本土が核攻撃にさらされる危険を承知で日本を守る気があるかどうかについて、いっさい口を閉ざす。
---owari---
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