私は難しい事を考えるのが好きであります。
で、今考えているのは「相対的理論」でありますが、かの有名な「相対性理論」とは似てないものでして、数学的でも科学的でも無い、割と非科学的な理論であります。
まっ、相対的理論なんて奇を衒って云うとナニなんですが、要するに仏様の教えそのままでして、真髄を語っちまえば「比べるな」の一言に尽きる訳であります。
いや、全ての問題はこの一言で片付くとお釈迦様は宣っておられまして、九分九厘納得なんですが、残り一分がどーも埋まらない・・・そこを考えている訳であります。
例えば、私の人生の大半を費やした大問題「貧乏」ですけど、これなどは明快で解り易い訳です。
比べる尺度が無ければ金持ちも貧乏も無いと、そう云う事になる訳です。
で、私の人生の命題とも言える「なぜ俺は頭が悪い」も貧乏と同様でして、誰かと比べなければ私の馬鹿さも浮き彫りにならないのであります。
まっ、貧乏も頭の悪さも相対ですから、比べるものが私より下の極貧であったり大のつく馬鹿であれば私の気分はルンルンになる訳ですが、お釈迦様は負の相対を語っている訳ではなく、目くそと鼻くそを比べて一喜一憂する事全般をお止めなさいと教えているのであります。
で、お釈迦様の教えを素直に受け入れ、目に見えない物差しで計った尺度に右往左往するのはやめようと思う訳であります。
例えば、焼肉屋に行って本当は和牛カルビーを食べたいんだけれども、サービス品の盛り合わせで我慢するなどは平常心で乗り越えられる程度にはなっている訳です。
仮に隣の席の家族連れが豪勢に黒毛和牛のA5ランクカルビーを食べ切れないほど注文する傍らで、肉の盛り合わせ2980円をちびちびと焼き、本当は生ビールのお代りと行きたいところをグッと我慢して無料のお茶を頼むなどは平気になった訳であります・・・まっ、貧乏も板についたと言えなくも無いんですが、精神的にはお釈迦様の教えを実践していると揺るぎないのであります。
で、よく分からない1分は比べる物や相手が無くて気持ちが迷う時、揺らぐ時の事であります。
例えば、これからバイトなんですが、正直に白状すれば行きたく無い訳であります。
このままPC相手に駄法螺を書き込んだり読書などしていられたらなんぼ気楽かと思う訳です。
で、ここで葛藤する訳であります・・・お釈迦様は自分に正直に生きれば良いんじゃ無いか、と宣い、自分が敬愛する一休禅師も同様の事を宣う訳であります。
しかし、ここで自分の思考は停止、もしくは堂々巡りに嵌る訳であります。
稼がないと貧乏になる、と火を見るよりも明らかな現実の比較になっちまうんであります。
いや、貧乏を恐れる訳では無いのであります。
今はかろうじて食える2980円の焼肉が食えなくなろうとも「相対的理論」を駆使すれば乗り越えられるんですけれども、PCと戯れる喜びと引き換えに失う焼肉の比較に「相対的理論」を持ち込んでもなんと無く相対していない気がするのであります。
なんと申しましょうか、私には見えるんであります。
空っぽの財布を逆さに振って不機嫌な自分の姿がくっきりと浮かんで見えるんであります。
かと云ってたった今の自分の気持ちに素直になるとバイトに行きたく無くなっちまう訳でして・・・ここん所が分からないんであります。
しかしね、出勤前に急場で書いたんで纏まりませんでしたが、本当はもっと深いところで「相対的理論」を書くつもりだったんであります。
そして、行き詰まるのは承知なのでその先の展開として「特殊相対的理論」も薄々考えている訳であります。
いや、すでに着替えなくてはならない時刻なんで尻切れで端折るんですが、結論としましては、どーだっていいじゃねぇかそんな事は、で済む話でして、好きにしろよ、という事に話は落ちる訳でありますけどね。
では、行ってきます。
で、今考えているのは「相対的理論」でありますが、かの有名な「相対性理論」とは似てないものでして、数学的でも科学的でも無い、割と非科学的な理論であります。
まっ、相対的理論なんて奇を衒って云うとナニなんですが、要するに仏様の教えそのままでして、真髄を語っちまえば「比べるな」の一言に尽きる訳であります。
いや、全ての問題はこの一言で片付くとお釈迦様は宣っておられまして、九分九厘納得なんですが、残り一分がどーも埋まらない・・・そこを考えている訳であります。
例えば、私の人生の大半を費やした大問題「貧乏」ですけど、これなどは明快で解り易い訳です。
比べる尺度が無ければ金持ちも貧乏も無いと、そう云う事になる訳です。
で、私の人生の命題とも言える「なぜ俺は頭が悪い」も貧乏と同様でして、誰かと比べなければ私の馬鹿さも浮き彫りにならないのであります。
まっ、貧乏も頭の悪さも相対ですから、比べるものが私より下の極貧であったり大のつく馬鹿であれば私の気分はルンルンになる訳ですが、お釈迦様は負の相対を語っている訳ではなく、目くそと鼻くそを比べて一喜一憂する事全般をお止めなさいと教えているのであります。
で、お釈迦様の教えを素直に受け入れ、目に見えない物差しで計った尺度に右往左往するのはやめようと思う訳であります。
例えば、焼肉屋に行って本当は和牛カルビーを食べたいんだけれども、サービス品の盛り合わせで我慢するなどは平常心で乗り越えられる程度にはなっている訳です。
仮に隣の席の家族連れが豪勢に黒毛和牛のA5ランクカルビーを食べ切れないほど注文する傍らで、肉の盛り合わせ2980円をちびちびと焼き、本当は生ビールのお代りと行きたいところをグッと我慢して無料のお茶を頼むなどは平気になった訳であります・・・まっ、貧乏も板についたと言えなくも無いんですが、精神的にはお釈迦様の教えを実践していると揺るぎないのであります。
で、よく分からない1分は比べる物や相手が無くて気持ちが迷う時、揺らぐ時の事であります。
例えば、これからバイトなんですが、正直に白状すれば行きたく無い訳であります。
このままPC相手に駄法螺を書き込んだり読書などしていられたらなんぼ気楽かと思う訳です。
で、ここで葛藤する訳であります・・・お釈迦様は自分に正直に生きれば良いんじゃ無いか、と宣い、自分が敬愛する一休禅師も同様の事を宣う訳であります。
しかし、ここで自分の思考は停止、もしくは堂々巡りに嵌る訳であります。
稼がないと貧乏になる、と火を見るよりも明らかな現実の比較になっちまうんであります。
いや、貧乏を恐れる訳では無いのであります。
今はかろうじて食える2980円の焼肉が食えなくなろうとも「相対的理論」を駆使すれば乗り越えられるんですけれども、PCと戯れる喜びと引き換えに失う焼肉の比較に「相対的理論」を持ち込んでもなんと無く相対していない気がするのであります。
なんと申しましょうか、私には見えるんであります。
空っぽの財布を逆さに振って不機嫌な自分の姿がくっきりと浮かんで見えるんであります。
かと云ってたった今の自分の気持ちに素直になるとバイトに行きたく無くなっちまう訳でして・・・ここん所が分からないんであります。
しかしね、出勤前に急場で書いたんで纏まりませんでしたが、本当はもっと深いところで「相対的理論」を書くつもりだったんであります。
そして、行き詰まるのは承知なのでその先の展開として「特殊相対的理論」も薄々考えている訳であります。
いや、すでに着替えなくてはならない時刻なんで尻切れで端折るんですが、結論としましては、どーだっていいじゃねぇかそんな事は、で済む話でして、好きにしろよ、という事に話は落ちる訳でありますけどね。
では、行ってきます。