オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

ろくでもない、夢・・・

2013-05-14 | Weblog

5/14(火) 昔の時間で云えば四つ刻に目が覚めた。今なら深夜の二時だ。夢を見ていた、ちっとも面白くもない夢。近頃、サラリーマン時代の夢をみるのだ。

サラリーマンは気楽な稼業と、あの時代のことへのノスタルジなのか?そんなことはないだろうが・・・。昨夜の夢は、現役が終わり再就職先の関連会社に初出社、配属先を確認している夢だった。

配属先がよく分からん、同期の山岸も同じ会社のはずだが?などと思いながら会社の敷地内をうろつき、案内看板の組織図を眺めて『俺のポジションは何処なんだ?』と探していた。

どうも捜査部門らしいと判明、『捜査部門?一体何の捜査をするんだ。料金未納者の追跡調査なんて仕事があるのかな?』なんて夢の中で考えていた。

どうやら、こんな夢を見たのは、昨夕、後輩のYと会い、彼が勤務する会社の話をしていたことに起因するか。Yの勤務する会社は、グループ会社から大きな事業部門を承継をした。これが料金回収に関する事業なのだ。こんなことしか、夢のきっかけがないはずだが・・・。

つづいてみた夢は、タクシーであろうが後部座席に乗っていた。田舎の道を走っているのだが、運転手の体が邪魔で前方が見えない。不安でしょうがないので体を動かして前を見ようとしている夢。何時の間にや、自宅方面に向かっており「右の方へず~っと進め」などと指示をしていた。

夢は未だつづく、三本目のシーンは地下鉄。遅くなった仕事か、打ち合わせを終え、メトロの階段を下り、ホームに着いた。終電まではまだまだ時間があるはずが、「既に終電は終わりました』と放送が流れた。えっと驚き、なんでや?と考えた。「そうか、仕事の始まりが遅かった所為で、こんな時間になったことに気付かなかったのか」。

今こうして思い出すと、二本目の夢と三本目の夢の順序が逆か?終電が行ってしまって車に乗った可能性が大だ。大した問題ではないが、物事の起承転結ははっきりしてない。

何れにせよお粗末な夢、夢占いで判断すると碌なもんじゃないだろう。早く忘れることにしよう・・・。

 昨日の午後、療養中の海老家・AKIMOTO氏を訪ねた。四月の取材続きからゴールデンウィークとなったので訪問の機会を得なかった。彼の自宅のすぐそばに或る「蔦屋」のカフェで待ち合わせた。

余談ながら、この代官山に或る「蔦屋」は凄いね。書籍からDVDは勿論だが、カフェやレストランと大した施設が並び、ゆったりとしたスペースで本やDVDを選び、お茶をしながらゴージャスな雰囲気の中で読書ができる。

前に渡した文庫本のつづきを渡し、最近の体調などを聴く。まだリハビリを続けているとのことだが、血圧・血糖値ともにベストの状態とか。前からスリムな体型だが、更にスリムとなりながらも顔色がいい。

もう心配はないだろうが、食事のコントロールは勿論、酒は完全に止めたとのことである。私も少しは見習う必要ありだが・・・?

肝心なものを忘れてきた、ミャンマー・カンカウン中学校建設支援への礼状を持参するつもりが、すっかり忘れていた。大枚の寄付を頂戴していたのだ。

ミャンマー・プロジェクトは、四月末で一区切りを付けた。お蔭さまで東京地区で70万円弱のご寄付を頂いた。九州での募金や団体からの支援で当初目標額の230万円に達する目途が立った。今週、ご支援を頂い皆様に御礼の挨拶状を出します。

話をしている途中に携帯が鳴った。後輩のYからだった。「時間が出来たので電話しました、今日の予定は?」と云うので、『OKだよ、五時過ぎに人形町に帰るので、何時もの店で会おう』と、応えた次第。

何時もの店、何でも300円の“ちょっぷく”で久々にYと会う。仕事のことや剣道部員のことなど、最近の様子を訊きながらハイボールを重ねた。その時の仕事の話で、冒頭の夢に繋がったような気がするが・・・。

深夜二時に起きだしてお茶を飲み、時間潰しに本を読む。AKIMOTO氏から戻って来た「人間臨終図鑑 1」を読み返す。面白い本だ、人の一生を僅か数行で伝え、その死様を記している。これは是非読むことをお勧めしたい。(著者:山田風太郎、徳間書店刊で1~4まで文庫版)

 

 

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薔薇

2013-05-13 | Weblog

5/13(月) 今朝の天候がはっきりしない、朝から晴れの予報であったが、曇り空の上に小雨がパラついた。早くから目覚めていたが、天気の所為で散歩にでるタイミングを逸した。

土曜日は一日雨、夕方に会社へ行った。早い時間に出勤したスタッフもいたようだが、私が出社した時間には誰も居ない。静かな部屋で過ごすのはいいものだ。

夜雨の中、会社を出て直ぐにある店「ローカーボ」の灯りが点いていた。一杯やってから帰ることにする。

ハイボールと摘み代わりの冷奴で、流れる音楽を聴きながら酔いを沁みこませていく。仕上げに飲んだラム酒が利いた。12オンスタンブラーにたっぷりと注がれたラムに、すっかり出来上がってしまった。

ラム酒を飲んだのは久々だった。何時ぞや、齢若の友人からジャマイカ辺りのお土産に頂いたことがる。あの頃は、こういう酒をよく飲んでいたものだが、・・・どうやら、月日の流れは老いと比例するようだ。

昨日は、朝から上々の天気となった。四・五年ぶりとなろうか、伊豆半島の付け根の町「函南」に住む友人、NARA夫妻を家人と訪問した。

バラが咲き、鳥が唄う五月。NARA家の庭に咲き誇るバラを見せてもらい、切り花を頂戴してくると云う、虫のいい企てである。

横浜から普通電車のグリーン席に陣取り、シューマイ弁当、車内で缶ビールを贖い、束の間小旅行の気分であった。

函南駅には奥さんのMAKIさん(家人の古くからの友人)が迎えてくれた。この小さな駅は、かつてゴルフで何度も利用したものだったが・・・。

今日は地域のソフトボール大会とか。旦那のNAOさんは、それに出ているとのこと。ここも高齢化が進み、ソフトボール大会の参加チームは六チームに減ったそうだ。私の目からすると、宅地化が進み人口増と思えたが・・・独居老人や空き家も出ているとか。

NARAさん宅の庭にはバラが咲き誇っていた。それでも昨日の雨のせいでよくないとか。一渡り庭を見て、お茶を頂き一休み。

                     

旦那のNAOさんは、今春DOCOMOを卒業したばかり。継続雇用の道は止しにして、花作り野菜作りばかりか、担い手が少なくなった地域の仕事でも忙しい日々とか。

NAOさんが丹精している野菜を採りに畑に出る。サヤ豆・大根・ジャガイモ・葉物野菜からズッキーニetcと多種に植わっていた。日差しが強く暑いので、収穫は女性陣に任せて引き上げた。

余所の家で一人ゴロゴロしてる内にNAOさんが帰ってきた。ソフトボールは決勝で負けたとか。二人で暫く雑談をする。収穫した野菜をバケツ三杯、家人とMAKIさんが戻った。

食事に行こうというので、昼ご飯を界隈では一番人気と云うレストラン「姫沙羅」へ案内してもらった。母の日で、店は混み合っていた。私は伊豆定食という鰻と刺身のセットとビール。皆は、母の日特別セットだった。

                        

食事の後、お土産用にとイチゴの直販所へ車を走らせてくれた。

このイチゴが甘い、完熟。おまけに安い、1パック200円だ。49歳で後家になったという萎びた婆さんが、道端に開いている直売所だが次々と車が止まる。安さと香りに魅かれ8パックも買い、箱が二つになった。食事とイチゴと、すっかりご馳走に預かってしまったのだ。

これだけではないのだ、バラを沢山切花にしてもらい、野菜もテンコ盛り。おまけに重い根菜類は宅配で送って貰った。貧乏一家が、田舎の実家を訪れて、お土産を沢山手にして帰るという図式であった。

                        

おまけに、隣の雑木林に生えている破竹のタケノコまで採ってもらったのである。

                        

                         タケノコ採りのNAOさん

薔薇が咲き乱れ、鶯の声が聞こえる家で、ゆったりとした時を過ごさせてもらった。帰宅は午後7時過ぎ、早速頂戴した野菜を具にパスタで夕食となった。今日も過食・・・嗚呼!

頂戴したバラは十数種類、何十本もある。家人は花瓶に生けるのに四苦八苦、私の部屋にも花瓶が置かれたのであった。

                        

 

今朝は散歩を断念したので、昨日頂戴した野菜で家人の弁当を用意した。とはいっても野菜の煮物、タケノコと鶏肉の甘煮。炒り卵と云うシンプルな代物である。

弁当の後は、自分用のスムージー。これも昨日のイチゴをベースに採ってきたサニーレタスと小夏となった。イチゴは畑で完熟したもの、甘さと香りが抜群であった。

             

 

 

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訃報

2013-05-09 | Weblog

5/9(木) 一昨日の夕方、ふた昔前に職場を同じくした後輩から電話を貰った。その頃に一緒に仕事をした岡堂君が急逝したとの連絡であった。告別式は翌日の昼、昨日の12時から大阪とのこと。

5月4日にサウナで倒れ、そのまま亡くなったとの連絡であった。大阪在住の彼は、フェイスブックに体調がよくないとか、目が霞むので医者に行くと「老眼だった」などと記した。

私が「いい若者がどうしたんだよ」と書くと『もう五十歳ですよ』と、返ってきたのは昨秋だったか。

今年の春、或る案件で私のビジネスに役立てばと、在京の会社を紹介してくれた。その折に何度か電話で話をしメールのやり取りをした。
「東京に出てきたら一杯やろうぜ」と云うと『行く機会が無いんですよ』と、残念そうだった。

岡堂君と最後に一献交わしたのは、5~6年も前になるか。ドコモ関西に勤務する彼が打ち合わせで上京、帰阪する新幹線の最終電車の前の時間、八重洲地下街で、かつての同僚K氏などと一緒に飲んだのが最後となった。

その時にも話したろうが「お前には参ったよな、交際費支出の決済文書を持ってきたら『クライアントが飲みたいと言うので行きました』としか、書いてなかったもんな」と、大笑いをしたこと。他にもエピソードには事欠かなかった。

繊細で優しい、そんな奴だったが、どこか破天荒な行動や発想をするも、憎め切れない処がある男。近頃には、とんと見かけることがないサラリーマン。愛すべき奴だった。このキャラクターを生かし切れる上司と巡り合っていれば、凄いことをやったろうと思う。

そんな彼の告別式、出るべきだったが参列できなかった。参列した、かつての仲間からメールが届いていた。

「数年前に父親を亡くし、すべて兄が仕切って葬儀をだしました。母親はここ数年、重度の介護が必要な状態で、これも兄がすべて面倒をみていました。援助を申し出ると『かまへん、かまへん』と一人で背負ってました」と、喪主となった弟が涙ながらに挨拶しました。彼らしいと泣けました」と。

死因は、脳溢血だったそうだ。享年五十一歳・独身。二十余年前にグループの広告代理店で職場を同じくし、愛すべきスタッフだった岡堂君は亡くなった。残念、としか言えない。冥福を祈る。

 

 「切開」

昨日、数年前から背中に出来ていた瘤を切除した。最近この腫物が大きくなり、時々不具合を感じるようになっていた。一月前に受診し、この日が切開だった。

午前に病院を訪れ採血する。午後一番に数人のドクターの再検査を受け、14時過ぎにベット載った。上半身を出して、アルコール消毒の後に局所麻酔の注射を何本か打たれた。

痛いよ、と言われていたが痛みなし。ドクター二人と看護師が数人「粉腫かな?脂肪腫か?」などと言っている・・・。最初の時の診断は粉腫だった(私は違うはずだと思っていた)が、開いて脂肪腫だと判明。

これが中々取り出せない、ドクターは苦労していた。幸いにも痛みがないので、私は冗談を飛ばしていた。漸く腫を取り出せて縫う段階では「私も今朝針仕事をしてきたんですよ。とか、嫁入り前なので綺麗に縫ってくださいね、とか」。

ドクターは「それや嫁には行かんでしょう」と言う。だから、ずっと嫁入り前なんですよと応える。

そんなことで40分ほどで切開と縫合が終わった。取り出した我が肉体の一部だった脂肪の塊は、3~4センチ程度。綺麗なものであったが、病理検査に廻された。 

                        

本音は、入院をしてこれまでの医療保険費の回収を少しでもしたかったのだ。

昨夜、酒も風呂も断った。当然か!

今朝のスムージーは、小夏・パイン・トマト・イチゴ・小松菜であった。

                        

 

 

 

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三つ子の魂・・・

2013-05-07 | Weblog

5/7(火) 強い風音と夢の中で目覚める、時刻は5時頃であろう。窓を少し開けたままで寝ていた所為で、深夜から吹き始めた風音に途中何度か目が覚めていた。

久々に朝の散歩に出ることとした。風強く肌寒い、この風を何と呼ぶのか「やませ」か?冷害となり作物の稔りを妨げる風じゃないか・・・などど思いながら歩く。今朝のコースは、環七から大岡山商店街~大岡山駅前から東京工大脇を緑ヶ丘に向かう。

大岡山の駅から大井町線・南北線の下り方面の線路の先、上空を眺めると雪を被った富士山が見えた。この季節、こんな光景が臨めるとは、強い風に丹沢や大峰に沸き立つ雲が飛ばされ富士山の三合目辺りから上であろう雪を被った姿であった。

あの富士山の裾野、静岡県は駿東郡に住まう友人のMIWAのことを想った。彼とは三十年以上となろうが会っていない。すっかりご無沙汰をしてしまったが、元気にいるだろうか・・・。

緑ヶ丘駅から都立大学方面へ、呑川緑道を歩き戻った。一時間強の散歩であった。

風呂の後、朝食用のスムージーを作って飲む。今朝は「小夏」とイチゴ、それに少しだけ残っていた「想いやりファーム」の生ミルクを加えた。

                          

小夏の酸味とイチゴの甘味、癖のないミルクが混然となり特徴のない味となっていた。

                          

 

それにしても、目覚める前の夢はサラリーマン時代の頃。夢の中で転勤や、会議のことが現在とクロスしながら現れた。ちっとも面白くもない内容だったが、夢の中で焦ったり困惑したりしていた。

三つ子の魂百まで、と云うが、長いサラリーマン時代の仕組みや習慣が染みついているようだ。

 

 

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ゴールデンウィーク

2013-05-06 | Weblog

5/6(月・祝日) 10連休の最終日となった、昼前に会社に顔を出すと、YとFが出社して情報誌のレイアウトや校正に勤しんでいる。

私は長い休暇中に溜まったメールのチェックなどの予定が、校正の方まで口を挟むこととなった・・・。

久しぶりに長い休みを取った。スケジュール表には「ワイハ」などと記したが、田舎で亡父の納骨やミカン畑の草刈、今が旬の「小夏」の収穫などで6日間を過ごす。あっという間に過ぎた。

                    

                     アマガエルが・・           収穫の「小夏」

帰省した29日は滞在中の食材の買い出し、30日は雨となったので納骨準備や苗(スイカ・メロン・カボチャ)を買いに出かけた。

この日、石材店が月末なので入金して欲しいというので、朝からお金の引き出しにテンやワンやした。田舎の農協から引き出すので現金が足りないと云う。安芸市内の本店とで分散して用意をする破目となった。

1日は、小夏の収穫や草刈をするが終わらず。久々の畑仕事で疲れてしまった。小夏は、器量がよくない上に酸味強くタネ多し。沢山稔ったが他人様に差し上げるほどの代物ではない。それでも、従姉妹たちは美味しいと言うので、どっさりと渡した。

2日は納骨で朝早くから準備(一時間もかかって納骨室や墓石を拭いた)をし、お寺さんを迎えた。墓の方は立派に出来上がっていた。納骨は親父の骨壺だけなのでスペースは十二分、お宝でもあれば此処に隠しておくのだが・・・・残念ながらそんなものはない。

                     

広がる青空の下、親父の本当の終の棲家は輝いていた。立派な墓だ。

納骨の後は、叔父や従兄妹を交えて自宅にてお浄め(お祝い?)の食事。土佐の田舎料理は全て「皿鉢料理」なのだ。昼前からビールに日本酒、献杯と云うか杯のやり取りで結構に飲んでしまうのだ。酒呑みの親父だったので、飲まないと故人の慰霊にならない。

3日は朝から畑仕事に出る。草刈と小夏の収穫、綿の種を播き、絹ザヤの畝の草むしり、池の掃除と忙しい。体が動かない愚図オヤジであった。焼芋もやりました。

              

まあ何時もの如く、飯を作り、草刈と焚火をして過ごしたがアッツと云う間に休暇が終わった。4日、午前中の便で帰京した。夜、地元学芸大学の鷹番JVCのオヤジ達との懇談会。安酒場の「土間土間」で、スイスイとハイボールを空け、二次会はスナックでカラオケ(勿論「国境の町」です)を聴きながらハイボール(ここでは張り込んでシーバスリーガルのボトルが入った)。結局この夜、ハイボールばかり十数杯となった。

そんな所為か、翌5日は体調宜しからず。一日中本を読み過ごしたが、夜になり次女が入籍するのでと、婚姻届にサインを貰いに来た。「そりゃオメデトさん」とサインし、一緒に晩御飯。

かような具合に、ゴールデンウィークは過ぎたのだった。

 

 

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