ひまわりさんより(9月3日)
今日の日課の言葉をご紹介いたします。
「私たちが、イエスに近づき、主の品性の純潔さを明らかに認めれば認めるほど、
罪がどれほどはなはだしく恐ろしいものであるかを悟り、自己を称揚する気持ちにはなれなくなる。
清い者として神に認められるほどの人は、自分の善良さを誇ったりはしない。
使徒ペテロは、キリストの忠実な僕となって、天からの光と力を受ける大いなる光栄に浴した。
彼はキリストの教会の建設に活動的な役割を果たした。
しかし、ペテロは、あの不名誉な恐るべき経験を忘れることができなかった。
ペテロの罪はゆるされた。
しかしペテロは自分をつまずかせた品性の弱さに対しては、キリストの恵みによらなければ救われないことを知った。
彼は、自分には何一つ誇り得るものがないことを認めた」。
ペテロは、イエス様を裏切るという、ひどい罪を犯したのですが、そのような自分を赦して下さる方と出会い、
『このひとによる以外に救いはない』、と言えたのでした。
罪意識に悩んでいた私(デビット・カン講演12)
ところが、ある日のこと床の上で、聖霊は私に語ったのです。
「デビットよ。お前は牧師ではない。クリスチャンですらない。
お前は今のままの道を歩き続けていたら、その落ちた先は地獄だぞ」と・・・。
目が覚めたとき、私の体中汗でびっしょり濡れていました。
それは、本当に真に迫ったものでした。実は、私の中には、罪意識がずっとあったのです。
按手礼を受けた牧師であり、優秀な説教家であり、いろんな人から称賛されていました。
教会の成功したリーダーとして認められていて、私の前途は明るいものだと、自他共認めていました。
そういった中で、私は、罪の意識に悩んでいたのです。どうしてでしょうか。私は勝利の経験をしていなかったのです。
私は、自我に勝利していなかったのです。誘惑がありました。
牧師にとって、安息日は結構ストレスの多いものなのです。
また、教会の理事会はストレスが多いものとなります。それで土曜日の夜は、私にとって娯楽の時なのです。
もう、本当に、ストレスの多い1週間だったなあー。
特に理事会は大変だった。安息日はストレスの多い日だったのです。
教会では、聖人のように振る舞わなくてはいけない、にもかかわらず、
家では悪魔のように振る舞っていました。教会ではすばらしい説教をしていました。
でもそういう説教をすればするほど、自分が偽物だという思いが強くなってきました。
いい言葉を語るのですが、その言葉に従って生きていませんでした。そういった罪の意識に悩んでいたのです。
そして、牧師としてうまくいっていて、前途有望な中にあって、牧師をやめたいと思うこともあったのです。
教会を出てしまうこともあるんじゃないか、と思うこともあり、幸福ではなかったのです。