
ひまわりさんより(9月17日)
私は、現在の仕事をやめて、次の新しい仕事をすることにしました。まだ詳しくは紹介できませんが、残った人たちは、今まで3人でやっていたことを、2人でやらなければならなくなり、来月のスケジュールを作るのもすごく大変なことでした。でも、どんな時にも神様を信じていこうと思ってやっていたら、ぴったりとスケジュールが決まりました。それで思ったのですが、今までは、お祈りでも、形では一生懸命、神様助けてくださいとか、知恵を与えてください、と祈っていました。しかし、土曜日に、神様は心を見られる、ということを教えられ、形や行動ではなく、心が大切なのでした。今日は、特に祈ったわけではなかったのですが、神様を信じて前に進もうとしたら、神さまは知恵を与えてくださり、思ってもみなかった解決が与えられました。
主は我らの義
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真理は単なる教理ではない(デビット・カン講演1)
今朝のお話は、「主は我らの義」というものです。救いの問題に関して言うならば、世界中の人たちは4つのグループに分けることができると思います。そのことを、「教会の残りの民」という概念から考えてみたいと思います。
黙示録12章には、「女の残りの子ら」のことが書かれています。皆さんはこの「女の残りの子ら」に属している人でしょうか? さだかではないですか? この「女の残りの子ら」に入っていることを、はっきりさせるべきであると思います。さもなければ、救いを逃してしまうことになります。では「女の残りの子ら」の特徴というのはどんなものでしょうか。まず、何を守るのでしょうか。神の戒めを守ります。それから、何を持っていますか? イエスの証ですね。では、イエスの証とは何でしょう。預言の霊ですね。イエスの証というのは、イエスキリストによって神の民に与えられた神の啓示であります。預言者を通して与えられた預言ですね。私たち人間は弱いもので、こうした問題を、ただの概念、知的なものとしてとらえてしまうのです。
真理というときに、私たちは、それを知的な理解、知的に同意することと考えがちです。しかし、ヘブル語の概念、聖書の概念によると、真理というのは、命を生きるということで、ただ単に紙に書いたものではなくて、読めるものではなくて、もちろんそれに属することはできますけれど、真理というものは、私たちの生活において実践するものなのです。単なる教理ではないのです。