ひまわりさんより(9月19日)
私の隣の家には、息子と同じ学校に行っている看護学校の4年生の男の子がいます。時々、私たちが讃美歌を歌っているのが聞こえたらしく、この前会ったら、『讃美歌が聞こえてきて、いいなあと思っていたんです。一人では歌えないから…』と言っていたので、今日の祈祷会に招待したら、さっそく来てくれました。一緒に讃美歌を歌い、『各時代の大争闘』を輪読し、夫が短い体験の証をして過ごしました。彼もおととしバプテスマを受けたということで、彼の証も聞きました。彼はバプテスマを受けた時,水の中に沈んで、上がって来た時、自分が死んで、再臨を迎えたような気持ちになったのだそうです。その時、死は一瞬で、死んだ後、実際の時間はどれだけあったとしても、すぐに再臨のイエス様に会えるのだという思いがしたのだそうです。その後、病気で、死にそうな体験をした時、「ああもし今死んでも大丈夫だ」という気持ちになれたといいます。その経験から、将来、緩和ケアの病棟で働きたいと言っていました。
イエス様を受け入れるとは(デビット・カン講演3)
さきほど、この世界の人たちは四つのグループに分けることができると言いました。神様の救いという観点から見て、ですね。
第1のグループは、名目的アドベンチスト、名目的再臨信徒です。名目上は再臨信徒なのですね。自称アドベンチストということもできます。彼らはSDA教会の説く真理を信じています。しかし、真理に生きていないわけです。第2番目のグループは、SDA内の「残りの人々」と言われる人たちです。彼らは、神の戒めを守ります。イエスの証を持っています。イエスの証を持っているというのは、どういう意味でしょうか。イエス様を受け入れて、イエス様の証を受ける時にそれが、私たちの心の中で生きた力となって働くわけです。 『皆さん、ついてきていますか? 単純な概念なのですが、皆さんぜひ理解してください』。よく、「私はイエス様を私の個人的救い主として受け入れます」と言います。では、心にイエス様を受け入れるとはどういうことですか。イエス様のみ言葉、イエス様の教えを理解して受け入れる、同意する、ということがイエス様を心に受け入れたということになるのでしょうか。「イエス様が私の心の中に生きている」と言ったとします。そういった状態はどのようにして起こるのでしょうか。イエス様をどのようにして心に受け入れるのでしょうか。私たち多くのクリスチャンが、イエス様の言葉に同意して受け入れるならば、イエス様を受け入れたと考えています。それは、本当ではないのです。全く真理からかけ離れています。