ひまわりさんより(9月7日)
昨日も紹介しましたように、我が家の鯉は、なかなか姿を見せません。
今日は、できるだけ隠れ場から遠い所に餌を播き、しばらくしてから見に行くと、餌がなくなっていました。
やっぱり人がいなくなると食べに出てきているのだと思い、もう一度餌を播いて、隠れて見ていたら、
6匹がつながって、さっと出てきて餌を食べ、すぐに隠れ場に戻っていきました。
餌は食べに出てきているのだということがわかりホッとしました。
せっかく餌を播いても、食べに来なければ何にもなりません。同じように、私たちも、み言葉が近くにあっても、
しっかり食べて栄養を取らなければいけないのだということを思わされました。
そして、夜8時ごろ、懐中電灯をつけてサッと照らしたら、6匹が池の中央で泳ぎ回っていました。
真っ暗になって人がいなくなると外へ出てきているのでした。
写真は我が家の池と鯉に雰囲気が似ていたので載せました。
福音の力を知らなかった私(デビット・カン講演16)
私は偽物の宗教生活を送っており、純粋な者ではなかったのです。
本当の意味ではクリスチャンではなかったのです。本当の意味での安息日遵守者ではありませんでした。
私は、「神様を本当には愛していない。神様よりも自分自身を愛している。世的なものを愛している。
自分の栄誉、自分の栄光のために生きている。神様のためには生きていない。
そういう意味で、私は本当の牧師ではないのだ。私は罪人だ。悪人である」。そのように感じました。
次に私は、祈り始めたのです。祈りにきれいな言葉を並べたりはしませんでした。単純にこのように祈りました。
雪の日でした。「神様、私は福音の力をまだ知りません。
ローマ1:16を読むとき、信じる者にとって福音は力であると書かれています。
それが本当に私は理解できていません。神様どうぞ助けて下さい。このあわれな魂を助けてください。
どうしていいのかわからないのです。
私は幸福ではありません。聖霊をもって、どうぞ私をお助けください」
そういうわけですから、神様は、前もってある朝私を起こして、あのような思いを植え付けておかれたのだと思います。
私は牧師ではなく、罪人であるということ、そして、このままだと地獄に落ちるということです。
私は罪悪感に悩んでいたのです。心に平安がなかったのです。