ひまわりさんより(9月6日)
2日の日曜日に、錦鯉の養殖場へ行って15センチぐらいの鯉を6匹買ってきて
(5匹買ったのですが1匹はおまけ)、庭の池に放しました。
本当は最初しばらく水槽に飼って、人に慣らさないと、野生に戻って人に慣れなくなってしまうのだそうですが、
知らなくてそのまま池に放してしまいました。すると、池の岩の陰に隠れてしまってまったく姿を見せません。
餌もたべているかどうかはっきりわからなくなっていました。今日の夜、懐中電灯で見てみたら、赤い鯉が、
隠れ家から50センチぐらいの所まで出てきていました。やっと姿を見せてくれたので、嬉しくなりました。
鯉もせっかく飼っても、姿が見えないのでは全く面白くありません。
それと同じで、神様は私たち人間が、神様のご品性を表すことなく、品性を隠しているのでは、
神様は喜ばれないのだろうなあ、と思いました。
安息日の失敗(デビット・カン講演15)
その日の午後、教会に来られなかった信徒の家を訪問していました。
そういう時は、たいてい長老さんたちを引き連れて訪問するのですが、その日は一人で訪問していました。
車を運転しながら、私はできるだけ歩道に近づいていました。
どこかの家から、テレビの音が聞こえてこないかなあ、と思っていました。
自然に車が歩道の近くに寄ってしまうのです。
そのうち、私は、本当にこの試合の結果が知りたくなって、途中で車を止めました。
そして、通りがかりの人に尋ねました。「すみません。どっちが勝っていますか」そう言ったあと、
急にある思いに襲われました。〈ちょっと待てよ。私は牧師なんだぞ。今朝私は安息日の説教をしたばっかりなのに、
何をしているんだ〉・・・。私は、車のハンドルに顔をうずめて泣きました。
生まれて初めて、あるものを感じていたのです。