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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第4回 

2017年10月25日 | 日記

皆さんは誰のおきてを犯しましたか?使徒パウロは次のように答えています。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったなら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」(ローマ7:7)。使徒パウロでさえ、神様の聖なる律法の前では、自分の心に律法への違反があることを認めざるを得ませんでした。神様の律法は、外面的な行為だけでなく、その心の動機や目的まで裁くからです。神様の律法の前に立つ時、聖霊によって心の動機が明らかに示され、自分の行為がどれほど自己中心的なものであったかがはっきり分かり、自分が神様の前に罪深いものであることを悟ります。こうして、すべての人が律法によって裁かれ、自分が律法によって死刑宣告を受けなければならない罪人であることが明らかにされます。

ではこのような私たちには、もう救いの道はないのでしょうか。これから一生懸命神様の律法に忠実に歩めば、死刑宣告を免れるようにはならないのでしょうか。

このような質問に対して、パウロははっきりとこう答えています。

「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである」(ローマ3:20)。

皆さん、よく考えてみて下さい!行為が人間を義とすることはできないということが真理であることを証明する、正当な理由があります。もしだれかが、物を盗んで捕らえられ10年間の懲役刑を受けたとするなら、彼はその刑が終われば、無罪となることができます。自分に宣告された年数を満たせば、法の要求を充足することが出来ます。彼は宣告された刑罰を監獄の中で全うすることで、いわば自分の行為によって自分自身を救い、罪のない義と認められる状態になることができるのです。

しかし、もしその刑罰が、10年や20年ではなく、死刑であったとするならどうでしょうか。その罪人が何かの行為によって、自分を義とすることができるでしょうか?決してできません。彼がかりに100年間、熱心に罪を悔いながら働いたとしても、律法は以前として死を要求しているのです。そこで人を救う真理は「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない・・・キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた」(へブル9:22~28)と言います。

 これこそまさに、罪人が決して行為では救われないという理由です。罪の刑罰は、10年の懲役とか、50年の強制労働というものではありません。宣告は死であり、血を流すことなくしては律法の要求を充足することはできません。神様の御座が覆されることが決してないように、律法が宣言した罪人への死刑宣告も、もはや、取り消すことができません。罪を許容することは、宇宙を永遠に破滅させる道です。過去の罪を未来の善い行動で償ったり、取り消したりすることはできません。律法が死を要求する限り、罪人が死ぬ以外に、その要求を満足させることはできません。