3、律法は、いまだに贖いの力を持つ
次に私たちは、多くのクリスチャンたちが混乱している質問について考えましょう。かりに律法を守る行為が人を救うことが出来ないとするなら、果たして律法を守る必要があるのでしょうか?実はこの質問は、初代教会当時にも問題になっていたことが、パウロがローマ人への手紙6章1節で同じ疑問を提示することによって表されています。「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」。言い換えるなら、恵みは私たちに神様の律法に従わなくても大丈夫だという免許を与えることではないか?という質問でした。これに対する彼の答えは、「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおその中にいきておられるだろうか」(ローマ6:2)でした。
今日、相手に合わせて寛容になる倫理を受け入れたクリスチャンたちは、律法を犯すことを大目に見るようになり、それを正当化する自分なりの論理や定義を作りあげています。聖書が言う罪とは、まさに十戒を犯す事ですが、今日の多くの神学者たちによって、十戒は現代には合わない古代の法則として扱われています。しかし欺かれないようにして下さい。十戒に記された道徳の一つひとつは、神様ご自身が石の板の上に書き記された時から、今日にいたるまで不変の真理なのです。神様の律法は過去も現在もそして永久に不変であり持続するものです。イエス様は、パリサイ人たちのように形式的外面的な教えとしてではなく、律法を霊的に理解し適用する道を教えて下さいました。人の子キリストの完全な従順の生涯を見る時、私たちはイエス・キリストを通して、律法を完全に順守する歩みが出来ることを知るようになります。
4、神の律法:鏡
まず、律法の役割ではないことに注意してみましょう。神様の律法には、罪を指摘する機能はありますが、それは私たちを罪から救う力はありません。律法には、私たちを義として清める恵みも力もありません。人間が十戒の全てを守ろうとしても、思いや動機や目的において、戒めの精神である愛からそれているなら、それは罪と定められるからです。聖書に、「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ3:20)と書いてあるとおりです。結局私たちは、信仰を通して、恵みによって救われる以外になく、それは全く価値のないものに賜物として与えられるのです。
このとても重要な点について、誤った見解を持たないようにしましょう。私たちは従順になろうとして熱心に尽くす行為によって神様の赦しを得ることはできません。罪人は、どんなに一生懸命律法を守ったからと言って、それで神様に受け入れられ、好意を得ることは出来ないのです。律法は人間を救い義とする目的で作られたものではありません。律法は私たちに清められる必要性を示し、清くして下さるイエス・キリストに私たちを導くために作られたものです。聖書は律法の役割を『鏡』と、表現しました。私自身が実際にはどんな人間であるかを見せる、鏡の機能があるという意味です。「おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」(ヤコブ1:23~25)。