6、律法の下にいないとは?
私たちはしばしば、神様の戒めを格下げしようとする次のような発言を聞きます。「私たちは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、これ以上十戒を守る必要はありません」。これは正しい見解でしょうか?聖書は確かに、私たちが律法の下にあるのではないと記していますが、それは私たちが、律法に従う義務から解放された事を意味するのでしょうか?このことを教える聖書箇所はローマ人への手紙6章14、15節です。「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない」。
私たちが、聖書が語るそのままを受け入れるなら、どれだけ簡単に混乱を防ぐことになるでしょう!パウロは自分の言葉を自分で説明しています。彼は、私たちが律法の下にあるのではなく恵みの下にある、と語った後で「それでは、どうなのか?」という言葉を付け加えました。それは、「そのことをどのように理解するべきか?」という意味です。彼の答えに注意してみてください。その当時ある人たちは、律法に対するパウロの説明を誤解して、「恵みの下にあるから律法を犯しても大丈夫だ!」と言っていましたが、パウロはこのことをとても心配して、付け加えて説明した内容が「あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは“罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない”と言いました。強い断定的な言葉で、パウロは恵みの下にあるという事実が、クリスチャンたちに律法を犯しても良いという免許証を与えているのではないと語っています。しかし今日、おびただしい人たちが、このパウロの警告を無視しています。
もし恵みの下にあるという事実が、律法を守ることからクリスチャンを解放することでなければ、パウロが「律法の下にあるのではなく」と言ったのはどのような意味でしょうか?彼は、ローマ人への手紙3章19節で次のように説明しています。「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである」。ここでパウロは「律法の下にある」という事を「神のさばきの下にある」という事と、同一視しています。
つまり、律法の下にある人たちとは律法を犯す人たちです。彼らは依然として律法の定めの下にあることになります。逆に言えば、このことが真のクリスチャンが律法の下にいない理由です。彼らは律法を犯さないようにされることによって、律法の下で罪に定められることはなくなりました。そのために彼らは、律法の下にあるのではなく恵みの下にあるのと言えるのです。続いてのパウロの論証で、彼は恵みの力が罪の力よりさらに強いという真理を指摘します。そしてパウロは断固とした口調で「律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」(ローマ6:14)と言いました。恵みは罪の権勢を打ち砕いて、神様の戒めに従う力を与えるのです。まさにこれこそが、クリスチャンが律法によって指摘される罪責感から解放され、罪の下にいない理由であり、クリスチャンが引き続き「罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない」(ローマ6:1)と言った理由です。