5、キリストの新しい戒め
またある人たちは、キリストが語られた新しい愛の戒めを根拠として、十戒が廃されたのだと主張しています。イエス様がヨハネの福音書13書34節で「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい」と語られ、すべての律法の要約として、神と人への愛である二つの大きい愛の律法を語られたのは事実ですが、主はそれらが十戒を無効にする新しい戒めだと言われのではありません。実際、イエス様が新しい戒めを与えられた時、全く新しい戒めを語られたのではなく、旧約聖書に書かれていた言葉を引用して、十戒の根本的な性質について説明されたのでした。「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6:5)。「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である」(レビ記19:18)。
このような洞察力ある霊的な原則が、キリスト時代の律法主義者たちには忘れ去られていたので、キリストの教えは彼らに全く新しいものとして聞こえてきたのです。しかしイエス様が十戒を変更されたり、廃止されたのではありません。
ある日、ひとりの律法学者がイエス様に「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と、質問した時、このように答えられました。「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22:37~40)。
この二つの愛の戒めは、実に「律法全体と預言者とが、かかっている」内容を、厳選して簡単にまとめたものであることに注意してください。このマタイによる福音書22章37節~40節は、どの戒めの中にも、イエス様が言われた二つの愛の原則が、すべて含まれているという事を指摘する聖書箇所なのです。パウロがローマ人への手紙13章10節で、このことをもう一度反復して言及したように、キリストは愛こそ律法の完成であるという事実を語られたのでした。
かりにある人が、キリストを心と精神と思いを尽くして愛するなら、彼は十戒の中で神様に対する私たちの義務を教えた最初の4つの戒めを遵守するでしょう。またもしあるクリスチャンが、隣り人を自分を愛するように愛するのであれば、他の人に対する義務を教える、十戒の後半の六つの戒めを遵守することでしょう。彼は自分の隣り人から盗んだり、偽りの証言をすることはできないでしょう。愛はすべての律法に従順であり、完成するように導くでしょう。愛は律法を廃するのではなくて、むしろ完全にすることです。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:17、18)。