鏡自体には、私たちの顔に付いている汚れを消すことができません。どんなに鏡を覗き込んで、鏡に映った顔をこすってみても奇麗になることはできません。鏡の役割は、顔に付いている汚いものを見せて、洗面台に行って顔を洗うように教えてあげる事です。同じように律法は、人に心の罪の恐ろしさや汚れを教えて、人が罪人であることを宣言し、真の清さを得るために十字架に向かわせるように指示してあげます。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ2:8,9)。パウロはこの事を、ガラテヤ人への手紙2章16節でさらに強調しています。「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」。
ここで私たちは、律法に関する問題の中で、最も誤って教えられている問題の一つを考えなければなりません。多くの真面目なクリスチャンが、旧約時代は律法による行いの時代であり、新約時代は恵みによる救いの時代であるという考えを受け入れています。そのために、旧約時代の人々は律法を守る行いによって救われ、新約時代の人々は恵みによって救われると考えています。しかしこれは真理ではありません。聖書はいつの時代のどんな人にも、救いのための完全で、美しいただ一つの計画を提示していますが、それは「信仰を通して恵みによって」救われるということです。
天国には、行いによって救われた人たちと、信仰によって救われた人たちの2種類の人々がいるというようなことは決してありません。あがなわれたすべての魂は、恵みによって救われた罪人だけなのです。旧約時代に救いを得た人たちも、やはりイエス・キリストの血潮の功績に頼った人々で、彼らは信仰によって、傷のない羊を聖所に持って行き殺すことによって、キリストの身代わりの犠牲を信じていることを行為で表現しました。そして彼らは、やがて来られるイエス・キリストのあがないの死を見上げたのです。現在の私たちも、信仰によってキリストの死を見上げる同じ方法で救われます。天国において、救われたすべての人は、世の初めから殺された小羊をたたえる、あがないの歌を共に歌うという事を忘れないで下さい。