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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

デビット・カン先生の証6

2012年08月28日 | 日記



   ひまわりさんより(8月28日)

私の訪問先で、週4日尋ねているおじいさんがいます。
肺がんの末期で、ターミナルということで病院から自宅へ帰ることを希望された方です。
この方は少し動くだけで酸素濃度が下がってしまうので、在宅酸素を使うようにしました。
そうすると、その後、家にいるだけで食欲が出るようになり、トイレにも行けるようになり、
すごく元気になってきました。この結果を見て、自宅にいることがいかにいいか、
この方の介護に関わってきたみんなに理解されました。
聖書には、「私たちの国籍は天にある」とありますが、私たちの本当の実家である天国に行くことが、
どれだけ大きな祝福をもたらすかということを考えました。

   父との決別(デビット・カン講演6)

あるとき、学費がなくなってしまい、兄弟二人で祖父の所へ行きました。
私が三育大学2年の時でした。祖父に、「学費を助けて下さい」とお願いしました。
「1回だけでいいですから」、と頼みました。
祖父は、「安息日を守る人間になったから、お前は人生を破滅させたんだ。お前の家族を見てみろ。
学費すら出せないではないか。お前は、牧師になるんだろう」と、とても怒っていました。
「助けてあげる条件は、勉強の進路を変えることだ。今から大学の学長に電話をするから、学校を変えなさい。
そうしたら、韓国の優秀な政治家か、実業家にしてやろう。そのことは保証しよう」。
私の祖父は、韓国の有名な保険会社を始めた人だったのです。
それで、事業のことはよく知っていました。
その時私は21歳でした。世の中の栄光が私の前をよぎりました。〈いい車、すばらしい家に住めるだろう〉。
しかし次に、母の顔が浮かび、祖父にこう言いました。
「おじいさんのご厚意を感謝します。でも、それを受けることはできません。
今さら、私の主イエス・キリストを裏切ることなどできません。私の人生で最も大切なお方なのです」。
そして、祖父の前にひれ伏して、その家から出てきました。その日は2月のとても寒い日でした。
そこから3キロほど雪の降る道を歩きました。その日私が学んだことは、
〈イエス・キリストに従うことは苦労を伴う〉ということでした。





デビット・カン先生の証5

2012年08月27日 | 日記



   ひまわりさんより(8月27日)

今日の午後3時ごろ、訪問リハビリで出かけていた、理学療法士の女の子から電話が入りました。車のエンジンがかからなくて困っているから助けてほしいと言うものでした。私ではどうしようもないので、事務の男の子に聞いたら,「きっとバッテリーでしょう」ということで、バッテリー同志をつなぐ延長コードを持って、車の所まで二人で出かけました。事務の男の子は、道が全然わからないので、私が道案内役です。私もだいぶ前に行ったことがあるだけで、かなりわかりにくかったのですが、何とか家を見つけることができ、狭い道を通って車を前に出し、何とかコードをつなぐことができました。バッテリー同志をつなぐだけで、エンジンがかかるようになるのですから、私たちも、イエス様のバッテリー につながり、エネルギーをいただきたいと思いました。

    祈る母(デビット・カン講演5)

母は教育熱心な人で、私たち五人兄弟をSDAの学校に送りました。彼女は熱心に祈りました。祈りの生涯というのを、私は母から教えられました。ある時期母は、文書伝道の働きをして、証の書を売って回ったこともありました。その頃、夕方になって母が家に戻って来た時、彼女のカバンに、米とか麺とかキムチが入っていたら、おなか一杯食べられると、うれしくなったものでした。
イエス様の真理のために、彼女はとても苦労しました。しかし、彼女の顔から、微笑みが失われることはありませんでした。
ある冬のこと、母は、私たちの下着を洗ってくれていました。冬用の下着は一着しか持っていなかったので、子供5人は裸でオンドルに寝ころび、毛布をかけてもらっていました。母が洗濯してくれている間、母が「歌いなさい」と言うので、5人でずっと私たちは歌を歌い続けました。今でも私の兄弟は歌がうまく、私と同じ「現代の真理」を信じています。そのうちの2人は、同じ伝道の働きをしていますし、一番下の妹は、編集の働きをしてくれています。私に、このような家族を与えて下さった神様の御名を讃えるものです。これも神様の恵みによるものです。




デビット・カン先生の証4

2012年08月26日 | 日記



   ひまわりさんより(8月26日)

今日は朝から庭の草取りをしました。庭が広くて大変だったので、途中でやめようかと思ったのですが、
前に読んだ『キリストの実物教訓』に、「神様は、高い目標を目指すことを決心した者だけを受け入れられる」
という言葉を思い出しました。
それで、目標の最後まで草取りを続けることにしました。
結局1時間半かかりましたが、全部取り終えることができました。
それから、草取りの最中に、蚊がびっしりと襲ってきました。
虫よけのスプレーをつけていたのですが全然効果がありません。
どうしようかと思ったら、ジョイ用に吊り下げていた蚊取り器を思い出し、首にぶらさげてみました。
すると、すごく効果があって、全然蚊がよりつきませんでした。
旧約聖書には、聖書の教えを「首に結び」なさいとありますが(箴言3:3)、
聖書の教が私たちを守ってくださるのだなと思いました。

   貧しい生活が始まる(デビット・カン講演4)

私が若かった頃、私の父はある程度裕福な人でした。
しかし、私の母がSDAになった時、私の祖父は、ものすごく怒り、私の一家を勘当してしまったのです。
もう、私たちの家族と縁を切って、援助しないということになりました。
私の祖父は、かつて、韓国政府の大事な役職についていて、父はその下で働いていました。
私の母がSDSAになった後、父は職を失いました。
以前は、1月1日になると、私は孫の列に並んで、順番がくると、祖父に向かってお辞儀をしました。
時には、そのお辞儀をする列の中に、議員さんもいました。祖父はそれくらい権力のある人でした。
私の家族がSDAに改宗した後、苦しみが始まりました。
韓国はその頃、経済的に貧しかったので、父はいろいろな仕事をしましたが、3度連続して失敗してしまいました。
最後には、住む家も失ってしまいました。




デビット・カン先生の証3

2012年08月25日 | 日記



   ひまわりさんより(8月25日)

今日は、以前属していた教会のO姉妹が、安息日の集会に出席してくださるという連絡を受けました。
そこで、姉妹の好きな、花を集会室に飾ろうと思って、散歩コースにある野の花、
むくげ、月見草、ススキなどを取ってきて花瓶に挿しました。
そして、集会では特別讃美歌として、夫とデュエットで、聖歌にある「シャロンの野花」の歌を賛美しました。
午後は、しばらく行っていなかった従兄弟の家をたずねました。
従兄弟は、近所に折り合いのよくない人が住んでいたのですが、
その人のお孫さんが夏休みの宿題の観察用にひまわりを欲しがっていることを聞き、
季節外れに自分の家の通路に咲いていたヒマワリをあげたところ、相手が心を開いて、
7年目にしてはじめて、感謝の言葉を言ってくれたことを
話してくれました。
野の花は、固い人の心をとかし、柔らかい広い心をつくってくれるのだということを感じました。

   母の祈り(デビット・カン講演3)
 
時には、私のために祈ってくれました。私は大きくなって、世的なことに興味を持ちました。
しかし、教会を去ることはできなかったのです。
どうしてかと言うと、そのたびに母の顔が思い浮かび、私を思いとどまらせました。
彼女が亡くなる直前に、私に語った言葉は、
「息子よ、イエス・キリストに忠実であり続けなさい」というものでした。
私がこうして立って、説教壇から説教するとき、母は一番前の席に座って私の話を聞いているのですが、
彼女の手はこのように握られていました。「アーメン、アーメン」と言ってくれました。
そして、説教が終わった後、私の所に来て、私の手を彼女の頬に置いて、「先生ありがとう」と言ってくれました。
母が私をどのように扱ってくれたかを、私は皆さんに申し上げたいのです。
彼女の、私の人生に対する影響は、はかりしれないものがあります。
亡くなる前の数年間、彼女は重い病気を患いました。
イエス様がおいでになるとき、私の母はきっと墓から甦ることでしょう。
そして、私にこのような質問をするはずです。「息子よ、今日は何の日だろうか」。
私がどのように答えると思われますか。「お母さん、今日は永遠の安息日ですよ。
もう決して離れ離れになることはありません。決して年をとることもありません。
死ぬこともありません。永遠に一緒にいることができます」
すべてこれは、イエス・キリストの恵みによるわけです。
神様はこのような素晴らしい家族を私に与えて下さったのです。






デビット・カン先生の証2

2012年08月24日 | 日記



    ひまわりさんより(8月24日)

今日、訪問先の方に、こんな話を聞きました。
その方は、シシタケというキノコが出るところを知っているのだそうです。
そのキノコは、好きな人は、マツタケよりもおいしいというほどで、知る人ぞ知る隠れた高級食材なのだそうです。
そしてこの方が言うには、キノコを採ったら、やってはいけないのは、
ビニールなどの袋に入れて持ち帰ることなのだそうです。キノコは必ず、竹かごのような、
目の空いたかごに入れて持ち帰らなければならないのだそうです。
どうしてかというと、キノコは、生えていた場所で、仮に全部採られたとしても、途中で胞子をかごの間から落とし続け、
その胞子の落ちたところからまた新しいキノコが生えてくるようになるのだそうです。
自分はいなくなっても、子孫を残すことで命を継承していくというキノコの話に、私はとても感動しました。
特に私は、最近、自分が心を注いできた、3つのもの、教会と家と仕事が、急に変わらなければならない状況になり、
今までやって来たことは何だったのだろうという思いがしていただけに、自分がいなくなっても、
後の人たちが立派にやり遂げてくれる、自分は、その橋渡しをすればいいのだ、という気持ちになり、すごく納得がいきました。

   母の思い出(デビット・カン講演2)

1年ほど前に、私の母は亡くなりました。彼女は特別なクリスチャンでした。
とても敬虔な、私にとって、すばらしい母でした。私には4人の姉妹がありまして、私は一人息子なのです。
ふつう東洋では、一人息子は特別扱いされるわけです。日本でもそうですか?最近ではそういうことはなくなってきましたね。
しかし、私が育ってきたころは、そういう風潮が強かったのです。私はわがままな子供でした。
よく、母に苦労をかけたことを覚えています。しかし、神様の恵みが母を通して働いたのです。
私は母に一度もどなられたことがありません。声を荒げて私を叱ったことは、一度もありませんでした。
そのような母でした。敬虔なクリスチャンでした。
母は韓国長老派の熱心なクリスチャンで、執事も務めておりました。
ところが私が赤ん坊だったころ、セブンスデーに改宗したんですね。
どうしてかと言うと、ある日、文書伝道者が私の家に来て、『各時代の大争闘』と言う本を売ってくれたんです。
この本を読んだ私の母は、著者であるエレン・G・ホワイトがとても好きになったのです。以来、証の書を読みあさりました。
そして、韓国語に訳されているすべての証の書を読んだのです。
彼女が特に大好きな本は、『教育』と『アドベンチスト・ホーム』で、この本を、全部暗記するぐらい読みました
。そしてこの勧告を、私を教育することに用いたのです。
私が何か悪いことをした時、母は決して私をどなりつけるようなことはありませんでした。
たたきもしませんでした。私の両手を握って、私を見つめて何も言いませんでした。
ただ、私を見つめ、同情にあふれた目をしていました。
私も母の眼を見つめるのですが、見ているうちに、母の目がうるんでくるのです。
今にも泣きだしそうな顔でした。これは私にとっては最悪の罰でした。