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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

後の雨に備えて デビット・カン講演24

2012年08月18日 | 日記



   ひまわりさんより(8月18日)

今日の安息日は午後から、神様の造られた自然を味わうために、夫と、息子と、ジョイを連れて
近くの渓谷へ出かけました。
きれいな川があったので、息子は水の中へジョイを連れて行こうとしましたが、嫌がっていました。
そのうちあきらめて水へ入り、生まれて初めて犬かきで川を泳いでいました。
しかし、かなりショックだったようで、家に帰ってから、食事もとれず、
飲み水を持っていくと嫌がって顔をそむけてしまいました。そのあと散歩に行っても、
私の足元から離れず、のろのろとついてくるだけで、いつもの元気がありませんでした。
それで、ずっと傍にいて、「大丈夫だよ。心配しなくていいよ」と声をかけ続けていたら、
食事をとり、落ち着いてきました。今日は無理なことをさせてしまったと、反省しました。

   不平、不満のない人生(デビット・カン講演24)

なぜ人は不信をいだくか、わかりますか? なぜ人は罪を犯し続けるか、わかりますか? 
なぜ人は神様に対して不信感をいだき、神様を信じようとしないのか、ご存知ですか?
神様に対して、疑いを持っているからなのです。神様に問題を感じているからなのです。
私たちが神様のみ言葉を学ぶときに、私たちは、ヨブのような人間になります。
何が起ころうと、神様に対して不平をいだかなくなります。不平、不満、文句を言わなくなります。
誰かに、どんなにひどい扱いをうけても、不平を言わなくなるわけです。
これがイエス様のご生涯です。これが神様のお心なのです。
神様の、そのお心を、私たちは学び、身につけなければならないのです。
私たちに、罪の言い訳を与えてくれるようなものは何もありません。
私の言わんとしていることがおわかりでしょうか?これは難しすぎますか?




後の雨に備えて デビット・カン講演23

2012年08月17日 | 日記



  ひまわりさんより(8月17日)

新しい家では、何か所かに花を植えました。
そのうち、犬小屋の近くにはインパチェンスを植えました。
最初は別の所に植えていたのですが、そこは日当たりが悪かったので、ジョイの近くに、
ちょうど良さそうな場所があったので、犬にいたずらされないように、鎖が届かない所に花の苗を植えました。
ところが何かの拍子に、つないでいた台が動いたらしく、
鎖の長さががインパチェンスの所まで届くようになってしまったのです。
あっという間にジョイは、インパチェンスの所に穴を掘り、その拍子に茎は折れてしまいました。
折れた茎は捨ててしまおうと思ったのですが、だめもとで、そこに挿しておきました。
それから2週間ぐらいでしょうか、インパチェンスは今日、花をつけていました。
植物の生命力はすごいものだと思いました。全く折れていたにも関わらず、その折れたところから、
また根や芽が出てきたのです。もうだめだと思っていたものがもう一度よみがえったことにすごく感動しました。
植物を造られた神様の力、その愛の深さを改めて感じさせられ、
また、同じ神様によって造られた人間にも、すばらしい可能性があることを思わされました。
捨てられて当然の私にも、新たに生きる希望を与えてくださった、神様の恵みに感謝します。


    完全な愛が回復されるとき(デビット・カン講演23)

黙示録21章を見ると、神様は、私たちの目から涙をぬぐい取ってくださると書かれています。
それ以後は、もはや、悲しみはなくなります。調査審判とはどのようなものですか?
 今現在、恩恵期間が終了するまで、義人たちの調査審判が天で行われているわけです。
そして、天国へ連れていかれてから、1000年の間、私たちは別の形でこの調査審判にたずさわるようになります。
その目的は何ですか。『なぜこの人が、天国に入ることができなかったのか』を知るためなのです。
そのことを私たちが見ることができるようになるために、天国には書物があるわけです。
神様に対して、永遠にわたって、何の疑惑も疑念も起こることがないようにするためなんです。
神様に対して、完全な愛、完全な信頼が回復されます。



後の雨に備えて デビット・カン講演22

2012年08月16日 | 日記



    ひまわりさんより(デビット・カン講演22)

ここ数日、気が重かったのは、新しいことを始めなければならなかったからです。
それは、昨日も書きましたように、現在の生活をかなり縮小し、
今まで築いてきた立場や役割を捨てなければならないものでした。
それで何となく気が進まなかったのです。
でも、昨日の夜、夫が、「これからやることは、新しい伝道地に行くようなことだよ」と言ってくれた時、
ハッとしました。
実は、私が小さい時、家に、南米に宣教師として出かけた人たちが、
全員そこの人たちによって殺されてしまったという本がありました。
その本の中にあった写真は、衝撃的なものでした。
それは、一人の宣教師が殺されて川の中に浮かんでおり、その体には長い槍が突き刺さっているというものでした。
私は、小さいながらも、伝道するって大変なことだな、自分はとてもこんなことはできない、
でもしなければならないのだろうか、とすごく不安になったことを覚えています。
未開の地へ伝道に行くためには、現在の便利な生活や文化を捨てなければなりません。
命さえも捧げる決意がなければできないものです。
私のこれからの計画など、それに比べたら、取るに足りないものでした。
私は、南米やアフリカへいくのではありません。ほんの少しの不便さを受け入れればいいのでした。
そう考えたら、気持ちがすっきりして、わだかまりが消え、疲れが飛んで行ってしまいました。

   反逆者の滅亡(デビット・カン講演22) 

そういった光景を目撃するのは、非常に困難なものです。
そのとき、全宇宙に対して、私たちに対して、イエス様が質問されます。
「この人たちをどうしましょうか。彼らをどうしてほしいですか」と。義人たちは言うでしょう。
「愛の神様、彼らを死なせてください。あの状態で、彼らが永遠に生きるとすれば、それこそ地獄です。
彼らに憐れみを注いでください。彼らを滅ぼしてください。彼らの反逆を、これ以上見るに耐えません」。
それで、神様は命じられて、天から火を降らせられるわけです。
その火の炎は、彼らを焼きつくします。
彼らが焼きつくされるとき、イエス様は泣かれます。
サタンは、かつては、聖なる天使ルシファーでした。悪天使たちも、かつては聖天使でした。
そういった、サタン、悪天使、私たちの親戚や、教会員だった人たちをそこに見ることになるでしょう。
そのとき私たちも、イエス様と一緒に、彼らのために泣きます。





後の雨に備えて デビット・カン講演21

2012年08月15日 | 日記



  ひまわりさんより(8月15日)

今日は朝から、肉の思いとの戦いの連続でした。
「どうして私がこんなことをしなくてはいけないのだろう」「なぜ私があそこにいかなければならないのだろう」。
そんな思いが次々に浮かんできて、その思いと戦わなければなりませんでした。
そのたびに、「自分の思いではなく、イエスさまの動機と心を与えてください」と祈りました。
自分の人生で、本当に人のために犠牲になるとか、人のために生きるということをしてこなかった私にとっては、
これから起きようとしている状況は、相当に自己否定を要求されるもので、
現状を維持したいという肉の心と戦い続けなければなりませんでした。
でもこうやって戦って、心が安定し、動揺しないようになれば、
それが真理に固着するということで、聖霊の証印を受けることなのだと思いました。


  悪人の本性が明らかになる(デビット・カン講演21)

そのとき、悪人たちは、サタンと再び結託して、新エルサレムを攻撃しようとします。
「あれは本来、我々のものだ。あれを攻撃して乗っ取ろう」と言います。
「自分たちの数の方がはるかに多いではないか」と。そのとき武器を作って攻撃しようとするわけです。
そうすると、皆さんの中に、こう思う人がいるかもしれません。「私のおばあさんはいいクリスチャンだった、
でもなぜ彼女は中にいないで、外にいるのだろうか?」 
その時に、神様は示さなくてはいけないわけです。「ほら、あなたのおばあさんを見てごらん。
この新エルサレムの城壁を、打ち壊さんばかりの勢いでやってきます」。そのときに、そのおばあさんの本当の姿、
本性が明らかになるのです。そのとき、あらゆる悪人たちが、サタンと悪天使たちと一緒にいることになります。
突然イエス様が、彼らの攻撃を止められます。
そして、彼らの前で、イエス様の生涯をパノラマでお見せになります。
イエス様の誕生から十字架に至るまでの生涯を、彼らの前で見せられます。
その映画化されたものを、悪人たちは見ることになるわけです。すべての人を救うために、
神様がどれほどのことをしてくださったかを見ることになります
。それでも彼らは、変わることがなかったのです。彼らの品性は、印されて固まっているわけです。
彼らは、私たちに向かって怒鳴りつけます。悪魔と同じようになるわけですね。



後の雨に備えて デビット・カン講演20

2012年08月14日 | 日記



   ひまわりさんより(8月14日)

今日も日課の言葉をご紹介します。「誤謬の中にいる人々が矛盾していることは、真理に語らせなさい。
人が心に抱いてきた誤謬より、真理の優れた点をすぐに認めるだろうと期待することはできない。
誤謬の欺瞞をあらわにする最善の方法は、真理の証拠を提示することである。
これは誤謬に対して与えることのできる最高の譴責である。
義の太陽の明るい光線を反射することによって、思いにかかった闇を消散させなさい」。
私の家系はどうしても人を教えたがる性質が強くて、「あなたのそれは間違っている、
こうしなければだめだ」などと、差し出がましく言ってしまう傾向があるのです。そうではなくて、
「こうすることが大切ですよ」と肯定的に真理を提示することが必要なのだということを教えられました。


 悪人の復活(デビット・カン講演20)

1844年に、天の至聖所で調査審判が始まりました。まず、すでに死んだ人たちの審判が始まりました。
彼らの運命はもう決まっています。彼らが救われるか、滅びるかはもう決まっているんです。
彼らが死んで、なぜ1844年から、記録の書の調査が開始されたのでしょうか。
過去の人たちが死んで、長い時間がたってから、1844年にこの書が開かれたのは、
神様の裁きについて、天使たちが知るためです。
第2の復活において、なぜ神様は、悪人たちをもう一度甦らされるのでしょうか。
もうすでに、死んでいますよ。なぜ、あえて甦らせるのでしょうか。そしてまた、火によって焼きつくされて死ぬわけですよね。
残酷ではないでしょうか。死んでいなくなっているのに、なぜ悪人たちを再び甦らされなければならないのでしょうか。
それは、全宇宙に質問を投げかけるためです。千年期ののちに、神様は悪人たちを甦らされます。
新エルサレムがあって、その中に義人たちがいます。悪人たちはエルサレムの外にいます。
そのとき、その同じ場所に、地上歴史始まって以来生存したすべての人が、義人であれ、悪人であれ、その場にいることになります。
私たちの家族の幾人かや、教会の幾人かは、外にいることでしょう。
そして彼らを、外に見ることができます。それはひどい、悲しいことですね。