2017年8月21日-1
美術修行2017年8月21日(月):読書録=森村泰昌 2014/7 『美術、応答せよ!』、抽象絵画原論覚書20170821
森村泰昌.2014/7/30.美術、応答せよ! 小学生から大人まで、芸術と美の問答集.252pp.筑摩書房.[本体価格1800円+税][大市図阿704][Rh20170817]
質問してもらって、答えるという、問答形式を取っている。概して、真剣勝負的である。だから、面白い。文章もわかりやすく、上手い。人生相談的でもある。
絵を観るときの二つの捉え方として、
・うまい
・おもしろい
がある。
〈うまい〉は、デッサンがしっかりしている、色彩感覚が良い、筆さばきに停滞が無い、などの物差しをあてがえば、うまいかどうかは判断できる。
〈おもしろい〉は、人によってまちまちになる。数人だと一致しないときは、決定困難。
(森村泰昌 2014/7、44-45頁)。
→もっと他に、評価基準があるはず。
さて、とりわけ興味深かったのは、
・抽象画ってどうやって描くのでしょうか?
・作品の値段が上下するのをどう思いますか?
という質問の項目だった。
・ 抽象画ってどうやって描くのでしょうか? (77-85頁)
「レオナルドは、〔略〕「目に見える世界を摑みとろう」としていますが、他の画家たちはたいていの場合「なぞろう」とする。なぞるから輪郭線ができます。」
(森村泰昌 2014/7、81頁)。
確かに。ただし、輪郭線とは個体的システムの境界を図示しているとも捉えられる。
→ 抽象絵画での輪郭の問題。線的表現、あるいは背景色とそれとは異なる色線または色面。
「日本美術とは「図柄の視座」であったと私はとらえてみました。日本美術にとって、目に見える世界は「図柄」としてとらえられている。〔略〕
〔略〕
日本美術史における視覚表現が「図柄」として現れるのであるとすれば、〔略〕西洋美術史とは根本的に話が違ってきます。たとえば、福田平八郎作『漣』にしても、これを日本画における抽象画の現れととらえてしまっては理解が遠のきます。そうではなく、「これは斬新な図柄だ」と感心すべきなのです。図柄なら、はじめから具象と抽象は地続きです。菊(具象)も唐草(半抽象)も市松(抽象)も、すべては「図柄」のバリエーションです。日本美術の「目と精神」において。「具象画vs.抽象画」という対立概念自体は当初から存在しません。〔略〕すべてが「図柄」の問題であるなら、それが具象であろうと抽象であろうと、人々は、絵の「図柄」を着物の「図柄」のように品定めしたり、着物の「図柄」を絵のようにながめたりすることができる。日本画の展覧会に多くの人々が関心を寄せるのも、「図柄」という誰にでもわかる尺度で鑑賞が可能だからではないでしょうか。」
(森村泰昌 2014/7、82-84頁)。
日本美術史から考えると、西洋美術史とは異なった美的感受性として、図柄として見るという点があるとしている。あるいは、日本美術では、
「目に見える世界は「図柄」としてとらえられている」(森村泰昌 2014/7、83頁)。
定義はされていないので、「図柄」とは模様 pattern、つまり、なんらかの表面への色の配置の結果を指すことと解釈しよう。おそらく平面的表面を想定しているだろう。
絵画の構成={色模様、(?その他)}
町の衆に浮世絵は、版画であり、きわめて平面的であった。そこでは、人物や道具とか風景とかとともに、色と配置を味わっていたのだろう。
→というよりは、色付きの個体的対象(人物、着物、橋、雨筋、)とその振る舞いや表情や、見る者が投影した叙情を、そして全体の配置から醸し出されるものまたは見て取ったことを、味わっていたのだろう。
→具象絵画における個別的対象の種類同定の問題については、別に述べる。
西洋油絵の影響を受けて、日本画では厚塗りが現れた(室町時代かの大和絵では、たとえば花弁のところに胡粉をえらく盛り上げていることは稀ではない)。いまでは、薄いのから厚いのまで、いろいろである。図柄の視座だけではなくなっている。これは、洋画でマチエールが問題にされたことが関係しているだろう。こんにちでは、絵肌も絵画の構成者として考えなければならない。
絵画の構成={色模様、表面の肌あい、その他}
福田平八郎『漣』[1932年。大阪市立近代美術館建設準備室蔵]が、少なくともその当時に出品されたとき、「斬新な図柄」だったのはそうだろう。森村泰昌氏の言う「図柄」には色も入っているとしよう。確かに、『漣』は的である。しかし、水面という背景に、漣を構成する
「下地であるプラチナ箔の下に、さらに金箔が重ねて押されていたことが分かりました。作者自身はこのことを「どう勘違いしたのか、表具屋が金箔を張り付けてきた。出品まで、もうやり直す時間もないし、ままよと窮余の一策に、その上に銀を張ったのが、却ってよい効果を生んでくれました」と後に語」
《漣》箔の秘密 [大阪新美術館建設準備室]
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/gallery_pickup_05.html
ったように、プラチナ箔とその下に金箔という二層に貼られたことと、その上の岩絵具の群青(など)の大きさとその個体密度分布が醸す視覚効果である。
模様だけにならば、漣が立つ程度の風が吹いている川や池で斜め上から写真を撮ると、色抜きでの模様は、《漣》同様になる。福田平八郎《漣》は写実的である。
絵画として《漣》の良さは、構え(ここでは斜め上から見たように、漣を構成する波表面を表す閉面個体たちが上方へと小さく密になる。これは写実または対象の模倣または擬え[なぞらえ])だけでなく、極めて微妙な色合いとその分布である。つまり、
絵画の評価事項={(色を捨象した場合の、個体的要素の絵画全体の)構え[分布様式、または格好]、
色分布または配置]、その他}
とすると、
構えが良く
(ただし模写的であって、外界で目新しい模様ではない。ただし、その当時、漣だけを描くという画面は、目新しかっただろう。)、
色合いとその変異が良い、
(大きくは二重の箔貼りによる。しかも、事故的な偶然による。)
ところが、双方あいまって、つまりは全体として(および触覚的成分も視覚的に合成されて?)、見映えがするのだと思う[視覚的評価]。
[→別項目で、抽象絵画原論へ持って行く。]
なおここで、絵画表面の、または立体絵画の、「構え」とは、〈造り〉とか〈姿勢〉や〈態度〉といった語で言い換え得るような、意味であるが、感性的な評価を含まないように定義すると、次の通りであり。ここでは、概念的あるいは解釈的なことは含まない、つまり純粋絵画的なことに制限している。
定義[構え]=
或る人が、絵画体全体の個体的構成要素を観て、捉えられる動的ないし静的な感じ、つまり(動的および方向的に性質を含む)配置的な感性上の効果。
福田平八郎『漣』の場合には、図柄としてとらえることで、半分くらいは説明できるかもしれない。
若冲や蕭白の作品から、空気感や、勢いが、感じ取られたとしよう。図柄というよりは、筆跡からのものだろう。
また、横山大観らの言う〈気韻生動〉は、図柄の問題だろうか?。〈生々流転〉は、叙述的または物語的形式とともに、描き方で和紙と墨の性質を生かしたところが良い。
92頁。
美術作品を作るときは制作で、映画の場合は「製作」と呼び、後者は興行として行なわれるからだという。
この区別は、成立しない。
ウィキペディアによれば、
「興行(こうぎょう)とは、人間が表現する芸術の基盤を形成し、同時に大衆へ娯楽を提供する行為である。具体的には見物人から入場料をとる代わりに演芸やスポーツを見せる事である。」
という。
「こうぎょう【興行】
《名・ス他》演芸やスポーツを行い、入場料をとって客に見物させること。 「相撲(すもう)の―」」
(https://www.google.co.jp/search?source=hp&q=%E8%88%88%E8%A1%8C&oq=%E8%88%88%E8%A1%8C&gs_l=psy-ab.3..0l8.701.701.0.887.1.1.0.0.0.0.151.151.0j1.1.0....0...1.2.64.psy-ab..0.1.151.qLJBoze0R0g)[受信:2017年8月20日。]
ともあるから、入場料を取るかどうかの違いらしい。
確かに、映画を作る produce ときは、映画館で上映して入場料を取るのが前提であることが多いだろうが、興行されない場合もある。
美術作品は、ムットーニのからくり人形
http://www.muttoni.net
[受信:2017年8月21日。]
のように[劇場型。数年前に札幌で見た。いちぞやのアートフェア東京では箱の中を覗くという趣向だった。]、音楽を奏でるとともに動かして(つまり上映になるだろう)、それをいくつか見せることで、入場料を取っていた。
根本的な違いは無い。公立または私立ま美術館も、入場料を取るので、興行であろう。
また、絵画作品を個別に売ることがあるし、ギャラリーなどで多くの客に売ることがある。工業製品も個別にまたは集団的に売ることがある。ここでも違いは無い。
100頁。
ヴィンチ村のレオナルドも、フェルメールも、(ヨハン ゼバスティアン バッハも)一度忘れ去られた。
(しかし、メンデルスゾーンはバッハを発掘した。)
「近代において、芸術は、「失敗」という割の合わないリスクを背負うことこそが価値であるという、まことにいびつな事業となっていきました。」
(森村泰昌 2014/7、101頁)。
「「判断するな」、これが芸術におけるまことに逆説的な判断基準である。〔略〕芸術とは、理性、理論、数値を重要視する近代の裏面としての狂気です。」
(森村泰昌 2014/7、102頁)。
「二十世紀になりますと、芸術という事業に異なった様相が現れます。マルセル・デュシャンは「観念の事業化」を計画し、ヨーゼフ・ボイスは「芸術の事業化」ではなく「事業の芸術化」を構想するといった具合に。」
(森村泰昌 2014/7、102頁)。
139頁。
「「ネガは楽譜である」という発想に、絵画とは異なる写真特有の表現の在り方が示されている。」
グレン グールドは、バッハのゴルトベルク変奏曲を2回レコーディングした。
さて、版画という部類からは除かれることもあるが、モノタイプという製作方法がある。
たとえば、金属板にインクをおいて、へらなどで模様をつけて、それを紙などに転写する方法である。
(故)一原有徳さんは、なかなか迫力あるモノタイプ作品を作っている。
ついでに言えば、一原有徳さんがやったように、バーナーで鉄板を焼いて、虹色模様をつけて絵画とすることができる。
写真は photography の意訳的訳語である。本来ならば、光図と訳すべきところである。
写真の出現で、絵画は変貌せざるを得なかった。模写ならば、写真のほうが精密な写しであるし、後年の技術的発達によって簡単に色彩写真もできるようになった。
写真は、ネガまたはポジフィルムが版となって、複製品ができる。明瞭に、版画の部類になる。
絵画においても、縮小または等倍の下絵や、あるいは頭の中の心像によって、絵画を製作したのならば、それが元の版である。
版があって、それをもとに筆に絵具をつけて同様の絵画を作ることができる。また、紙または画布を置いて、薄い和紙や厚いダンボール紙をくり抜いて、凹部分に絵具を充填する、穴を通して紙へ押し出す squeegee こともできる[孔版画]。
版または元のものを、なんからのやり方でなぞれば、版画である。
頭のなかで構図にしたがって、絵具を滴下したり dropping 振り出したり swinging out、ジャクソン ポロック流に垂れ落とし dripping または 注ぐ落とし pouring したりすることもできる。この場合も、版画と言いなすことができるが、もとより、画面での自由度は大きい。偶然的な、というより人手で制御できない割合が大きいのである。
結局のところ、
固定された指図芸術品として楽譜
→演奏者を介して、一定範囲内で様々な変異作品が製作される、または上演、または演奏される。
贋作や盗作とは、異なる製造者や色の絵具で変奏された、または変装された作品である。元になった絵画は、元の版画または楽譜である。
贋作で、たとえばゴッホという署名は、元となった絵画の作者名(音楽作品ならば、作曲者名)である。
ま、アプロプリエーション appropriation っては、元材料を定めれば、創造性をあまり発揮しなくて良いので、楽であり、堕落でもある。
脱線した。
164頁。解説すると作品を限定してしまう、という主張。
「自作解説なんて真正直にしてはいけない。〔略〕「私の作品はこれこれしかじかのものだ」なんて決めつけてしまったら、〔略〕作品のなかのもっと他にもあるに違いない多様性が見えなくなってしまいます。作品は明快に解説されたとたん、その範囲内の小さな世界にやせ細ってしまうのです。」
(森村泰昌 2014/7、164頁)。
それは、そのような作品の場合であろう。また、そもそも、言語で伝わるのなら、言語で伝えるとか表現すればよいので、作品を作る必要は無い。
しかし、新しい種類のものならば、観方や作り方を語って、感性を引き出すとか植えつけるといったことは、むしろ本質的なことである。とりわけ、二次元ないし三次元の抽象絵画の場合には。
170頁。
美術とアートを分けている。
「私はこうとらえます。「美術」とは「こだわることが美であるような世界」である。これに対し、「アート」とは「こだわらないことが美であるような世界」である、と。」
(森村泰昌 2014/7、170頁)。
カラヴァッジョの『ロレートの聖母』を例に、森村泰昌は、
「「聖と俗」の共存によってカラヴァッジョが人々にもたらしたもの、それは、きれいな絵空事としての信仰ではなく、泥やひび割れや俗悪や野卑といった生活感覚を伴ったリアルな信仰。これは自分自身の問題なんだという当事者意識が感じられる信仰のあり方だったのではないか。
本来は唯一無二の真理を求めるキリスト教世界なのでしょうけれど、胸に手をあて自問すれば、誰もが感じ取れる美的価値の多様性。〔略〕「聖」も「俗」も、「美」も「醜」も共存させうる汎神論的美の視点。美は世界にあまねく存在するという「美のアニミズム」。私の美術への興味の拠り所となっているのも、そういう拡散し偏在する「美」のありようにほかなりません。」
(森村泰昌 2014/7、224頁)。
美と醜という感性的判断としては反対極のものを共存させれば汎神論的、というのは「汎神論的」の意味がわからない。たとえば、玉石混交していたら、汎神論的なのか?。
なにかが世界にあまねく存在すると考えれば、アニミズムなのか?。
「拡散し偏在する「美」のありよう」と、汎神論的とかアニミズムとがどう接続するのか、あるいは何を指摘または特徴抽出したのか、わからない。
→八百万神[やおよろずのかみ]とは、「森羅万象に神の発現を認める古代日本の神観念を表す言葉」とある。
「日本の記紀神話にあらわれる八百万神(やおよろずのかみ)の世界も多神教の一種であるが,その神々は古代ギリシアの宗教やインドのヒンドゥー教における多神教とは異なって,肉体的な特徴や個性をもたず,目にみえない存在であった。」
(世界大百科事典の【多神教】より。
https://kotobank.jp/word/八百万神-874603[受信:2017年8月21日。])
日本での「肉体的な特徴や個性をもたず,目にみえない存在」とは、西洋では天使とか妖精とか自然霊に相当するものだろう。ただ、日本では概括して捉えていて、特徴づけまたは分類はしなかったのではないか?。時代が下ると、座敷わらしだとか、一つ目小僧だとか、様々に想像豊かに、物語られた。
また、脱線した。
「野生の動物は野生に放つべきです。同様に「美」の世界も「お芸術」として美術館に隔離するのではなく、「見世物」として猥雑かついきいきと生きていた世俗に戻すべきである。」
(森村泰昌 2014/7、[あちこち探したが]頁不明)。
上記の文は、問いへの答えとして「野生の美学」の精神という文脈で考えられている。
野に生きる美術作品はあるだろう。けれど、ホームレスではなくて住居のある人には、雨露を気にしなくてよい場所で観てもらってもよい。
絵空事や綺麗事を目指す者には、まずは屋内作品で考えたい。その中で、水をぶっかけることで美しく見える作品もありだろう。
◆ 「作品の値段が上下するのをどう思いますか 小山登美夫」(150-159頁)
小山登美夫さんからの大人しい質問に対して、森村が挑発して、面白くなった。
「美術関係者」の金銭経済の問題。商業性。
「現代美術と呼ばれるジャンルは、時代の最先端を行く内容でありながら、日本では「わけのわからないものけとして、なかなか世に広く認知されないという現実が長らくありました。
〔略〕
コレクターのパイを増やすこと。〔略〕アートフェアを開催すること。〔略〕作品が流通し、美術家が自活できるような環境を整備すること。経済の自立をともなわない美術の自立はありえないという視点に立ち、この美術の自立の拠点としてギャラリーを機能させること。」
(森村泰昌 2014/7、154頁)。
155頁。
有名になるにつれて、作家はギャラリーを必要としなくなる。
「日本にいながら絵画の大コレクターに売っていけるようなことが必要です。アートフェアやシンガポールの支店はその窓口になればと思っています」
(小山登美夫、於:森村泰昌 2014/7、157頁)。
ギャラリー経営の安定には、顧客に売れ筋の美術品を揃えることは、一つの手だろう。
しかし、「市場」の規模は、まだ大きくない。
けれど、
「売れるものにみんなが貪欲に群がっていくのが凄く強く感じられて、これは大手ギャラリーやオークションハウスが、マーケットで売れるものを意図的に作り上げることが頻繁になったせいなのかもしれませんが、まったく太刀打ちできない無力感があります。でも、麻薬になったとたん、自分にとっては作品がつまらなくなってくるように思えます。〔略〕でも確実に「売れて行く」ということは興味深いことです。」
(小山登美夫、於:森村泰昌 2014/7、158頁)。
日本の商業ギャラリー〔画廊〕の苦労の多いことは、やはり長い歴史のある欧米の芸術環境によるだろう。美術作品の評価基準は、彼らが持っているからである。
美術の中心地が、経済的興隆と関わって、
パリ→ニューヨーク(とパリ)→香港や上海(あるいは北京)といった中国の都市(とニューヨーク(とパリ))
となるかもしれない。
しかし世界は、縮こまっていく。人口もまた縮小すべきであろう。
簡素な生活をするにしても、人の文化的生活水準を考えれば、地球の収容環境からして、人口は減らすべきであろう。「先進」国の日本は、この点で世界に先駆けている。
では、どうする?。
地域社会の各分野または小地域ごとに無理の無いゆるい連携であろう。
協力、したがって資源の分かち合いである。
「貨幣」とは何か、「経済」に貨幣は必要なのか、必要または便利だとしても、一部のものだけが「富む」とか、社会において支配的になる、といっことを防ぐ、または地球住民全員に健全な経済と文化的生活を取り戻すことが、肝心である。
美術が、文化的生活に必要だとすれば、日本での
文化的生活のできる資材と金銭の全員への支給
[基本収入全員支給制]
が、考えられ実施されるのが良いかもしれない。
すでに、外国では実験的実施が行なわれている[要検討]。
生活の経済的側面(覚書)
美的作品製作者としての、生活の経済的側面。
現在は、中央銀行がほぼ無からお金を振り出す貨幣経済。
地域的、または仕事や趣味の分野的交流社会の経済的側面
広域的社会、県やたとえば京阪神とか近畿圏
日本社会、アジア社会、北半球、南半球、地球規模社会
美術修行2017年8月21日(月):読書録=森村泰昌 2014/7 『美術、応答せよ!』、抽象絵画原論覚書20170821
森村泰昌.2014/7/30.美術、応答せよ! 小学生から大人まで、芸術と美の問答集.252pp.筑摩書房.[本体価格1800円+税][大市図阿704][Rh20170817]
質問してもらって、答えるという、問答形式を取っている。概して、真剣勝負的である。だから、面白い。文章もわかりやすく、上手い。人生相談的でもある。
絵を観るときの二つの捉え方として、
・うまい
・おもしろい
がある。
〈うまい〉は、デッサンがしっかりしている、色彩感覚が良い、筆さばきに停滞が無い、などの物差しをあてがえば、うまいかどうかは判断できる。
〈おもしろい〉は、人によってまちまちになる。数人だと一致しないときは、決定困難。
(森村泰昌 2014/7、44-45頁)。
→もっと他に、評価基準があるはず。
さて、とりわけ興味深かったのは、
・抽象画ってどうやって描くのでしょうか?
・作品の値段が上下するのをどう思いますか?
という質問の項目だった。
・ 抽象画ってどうやって描くのでしょうか? (77-85頁)
「レオナルドは、〔略〕「目に見える世界を摑みとろう」としていますが、他の画家たちはたいていの場合「なぞろう」とする。なぞるから輪郭線ができます。」
(森村泰昌 2014/7、81頁)。
確かに。ただし、輪郭線とは個体的システムの境界を図示しているとも捉えられる。
→ 抽象絵画での輪郭の問題。線的表現、あるいは背景色とそれとは異なる色線または色面。
「日本美術とは「図柄の視座」であったと私はとらえてみました。日本美術にとって、目に見える世界は「図柄」としてとらえられている。〔略〕
〔略〕
日本美術史における視覚表現が「図柄」として現れるのであるとすれば、〔略〕西洋美術史とは根本的に話が違ってきます。たとえば、福田平八郎作『漣』にしても、これを日本画における抽象画の現れととらえてしまっては理解が遠のきます。そうではなく、「これは斬新な図柄だ」と感心すべきなのです。図柄なら、はじめから具象と抽象は地続きです。菊(具象)も唐草(半抽象)も市松(抽象)も、すべては「図柄」のバリエーションです。日本美術の「目と精神」において。「具象画vs.抽象画」という対立概念自体は当初から存在しません。〔略〕すべてが「図柄」の問題であるなら、それが具象であろうと抽象であろうと、人々は、絵の「図柄」を着物の「図柄」のように品定めしたり、着物の「図柄」を絵のようにながめたりすることができる。日本画の展覧会に多くの人々が関心を寄せるのも、「図柄」という誰にでもわかる尺度で鑑賞が可能だからではないでしょうか。」
(森村泰昌 2014/7、82-84頁)。
日本美術史から考えると、西洋美術史とは異なった美的感受性として、図柄として見るという点があるとしている。あるいは、日本美術では、
「目に見える世界は「図柄」としてとらえられている」(森村泰昌 2014/7、83頁)。
定義はされていないので、「図柄」とは模様 pattern、つまり、なんらかの表面への色の配置の結果を指すことと解釈しよう。おそらく平面的表面を想定しているだろう。
絵画の構成={色模様、(?その他)}
町の衆に浮世絵は、版画であり、きわめて平面的であった。そこでは、人物や道具とか風景とかとともに、色と配置を味わっていたのだろう。
→というよりは、色付きの個体的対象(人物、着物、橋、雨筋、)とその振る舞いや表情や、見る者が投影した叙情を、そして全体の配置から醸し出されるものまたは見て取ったことを、味わっていたのだろう。
→具象絵画における個別的対象の種類同定の問題については、別に述べる。
西洋油絵の影響を受けて、日本画では厚塗りが現れた(室町時代かの大和絵では、たとえば花弁のところに胡粉をえらく盛り上げていることは稀ではない)。いまでは、薄いのから厚いのまで、いろいろである。図柄の視座だけではなくなっている。これは、洋画でマチエールが問題にされたことが関係しているだろう。こんにちでは、絵肌も絵画の構成者として考えなければならない。
絵画の構成={色模様、表面の肌あい、その他}
福田平八郎『漣』[1932年。大阪市立近代美術館建設準備室蔵]が、少なくともその当時に出品されたとき、「斬新な図柄」だったのはそうだろう。森村泰昌氏の言う「図柄」には色も入っているとしよう。確かに、『漣』は的である。しかし、水面という背景に、漣を構成する
「下地であるプラチナ箔の下に、さらに金箔が重ねて押されていたことが分かりました。作者自身はこのことを「どう勘違いしたのか、表具屋が金箔を張り付けてきた。出品まで、もうやり直す時間もないし、ままよと窮余の一策に、その上に銀を張ったのが、却ってよい効果を生んでくれました」と後に語」
《漣》箔の秘密 [大阪新美術館建設準備室]
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/gallery_pickup_05.html
ったように、プラチナ箔とその下に金箔という二層に貼られたことと、その上の岩絵具の群青(など)の大きさとその個体密度分布が醸す視覚効果である。
模様だけにならば、漣が立つ程度の風が吹いている川や池で斜め上から写真を撮ると、色抜きでの模様は、《漣》同様になる。福田平八郎《漣》は写実的である。
絵画として《漣》の良さは、構え(ここでは斜め上から見たように、漣を構成する波表面を表す閉面個体たちが上方へと小さく密になる。これは写実または対象の模倣または擬え[なぞらえ])だけでなく、極めて微妙な色合いとその分布である。つまり、
絵画の評価事項={(色を捨象した場合の、個体的要素の絵画全体の)構え[分布様式、または格好]、
色分布または配置]、その他}
とすると、
構えが良く
(ただし模写的であって、外界で目新しい模様ではない。ただし、その当時、漣だけを描くという画面は、目新しかっただろう。)、
色合いとその変異が良い、
(大きくは二重の箔貼りによる。しかも、事故的な偶然による。)
ところが、双方あいまって、つまりは全体として(および触覚的成分も視覚的に合成されて?)、見映えがするのだと思う[視覚的評価]。
[→別項目で、抽象絵画原論へ持って行く。]
なおここで、絵画表面の、または立体絵画の、「構え」とは、〈造り〉とか〈姿勢〉や〈態度〉といった語で言い換え得るような、意味であるが、感性的な評価を含まないように定義すると、次の通りであり。ここでは、概念的あるいは解釈的なことは含まない、つまり純粋絵画的なことに制限している。
定義[構え]=
或る人が、絵画体全体の個体的構成要素を観て、捉えられる動的ないし静的な感じ、つまり(動的および方向的に性質を含む)配置的な感性上の効果。
福田平八郎『漣』の場合には、図柄としてとらえることで、半分くらいは説明できるかもしれない。
若冲や蕭白の作品から、空気感や、勢いが、感じ取られたとしよう。図柄というよりは、筆跡からのものだろう。
また、横山大観らの言う〈気韻生動〉は、図柄の問題だろうか?。〈生々流転〉は、叙述的または物語的形式とともに、描き方で和紙と墨の性質を生かしたところが良い。
92頁。
美術作品を作るときは制作で、映画の場合は「製作」と呼び、後者は興行として行なわれるからだという。
この区別は、成立しない。
ウィキペディアによれば、
「興行(こうぎょう)とは、人間が表現する芸術の基盤を形成し、同時に大衆へ娯楽を提供する行為である。具体的には見物人から入場料をとる代わりに演芸やスポーツを見せる事である。」
という。
「こうぎょう【興行】
《名・ス他》演芸やスポーツを行い、入場料をとって客に見物させること。 「相撲(すもう)の―」」
(https://www.google.co.jp/search?source=hp&q=%E8%88%88%E8%A1%8C&oq=%E8%88%88%E8%A1%8C&gs_l=psy-ab.3..0l8.701.701.0.887.1.1.0.0.0.0.151.151.0j1.1.0....0...1.2.64.psy-ab..0.1.151.qLJBoze0R0g)[受信:2017年8月20日。]
ともあるから、入場料を取るかどうかの違いらしい。
確かに、映画を作る produce ときは、映画館で上映して入場料を取るのが前提であることが多いだろうが、興行されない場合もある。
美術作品は、ムットーニのからくり人形
http://www.muttoni.net
[受信:2017年8月21日。]
のように[劇場型。数年前に札幌で見た。いちぞやのアートフェア東京では箱の中を覗くという趣向だった。]、音楽を奏でるとともに動かして(つまり上映になるだろう)、それをいくつか見せることで、入場料を取っていた。
根本的な違いは無い。公立または私立ま美術館も、入場料を取るので、興行であろう。
また、絵画作品を個別に売ることがあるし、ギャラリーなどで多くの客に売ることがある。工業製品も個別にまたは集団的に売ることがある。ここでも違いは無い。
100頁。
ヴィンチ村のレオナルドも、フェルメールも、(ヨハン ゼバスティアン バッハも)一度忘れ去られた。
(しかし、メンデルスゾーンはバッハを発掘した。)
「近代において、芸術は、「失敗」という割の合わないリスクを背負うことこそが価値であるという、まことにいびつな事業となっていきました。」
(森村泰昌 2014/7、101頁)。
「「判断するな」、これが芸術におけるまことに逆説的な判断基準である。〔略〕芸術とは、理性、理論、数値を重要視する近代の裏面としての狂気です。」
(森村泰昌 2014/7、102頁)。
「二十世紀になりますと、芸術という事業に異なった様相が現れます。マルセル・デュシャンは「観念の事業化」を計画し、ヨーゼフ・ボイスは「芸術の事業化」ではなく「事業の芸術化」を構想するといった具合に。」
(森村泰昌 2014/7、102頁)。
139頁。
「「ネガは楽譜である」という発想に、絵画とは異なる写真特有の表現の在り方が示されている。」
グレン グールドは、バッハのゴルトベルク変奏曲を2回レコーディングした。
さて、版画という部類からは除かれることもあるが、モノタイプという製作方法がある。
たとえば、金属板にインクをおいて、へらなどで模様をつけて、それを紙などに転写する方法である。
(故)一原有徳さんは、なかなか迫力あるモノタイプ作品を作っている。
ついでに言えば、一原有徳さんがやったように、バーナーで鉄板を焼いて、虹色模様をつけて絵画とすることができる。
写真は photography の意訳的訳語である。本来ならば、光図と訳すべきところである。
写真の出現で、絵画は変貌せざるを得なかった。模写ならば、写真のほうが精密な写しであるし、後年の技術的発達によって簡単に色彩写真もできるようになった。
写真は、ネガまたはポジフィルムが版となって、複製品ができる。明瞭に、版画の部類になる。
絵画においても、縮小または等倍の下絵や、あるいは頭の中の心像によって、絵画を製作したのならば、それが元の版である。
版があって、それをもとに筆に絵具をつけて同様の絵画を作ることができる。また、紙または画布を置いて、薄い和紙や厚いダンボール紙をくり抜いて、凹部分に絵具を充填する、穴を通して紙へ押し出す squeegee こともできる[孔版画]。
版または元のものを、なんからのやり方でなぞれば、版画である。
頭のなかで構図にしたがって、絵具を滴下したり dropping 振り出したり swinging out、ジャクソン ポロック流に垂れ落とし dripping または 注ぐ落とし pouring したりすることもできる。この場合も、版画と言いなすことができるが、もとより、画面での自由度は大きい。偶然的な、というより人手で制御できない割合が大きいのである。
結局のところ、
固定された指図芸術品として楽譜
→演奏者を介して、一定範囲内で様々な変異作品が製作される、または上演、または演奏される。
贋作や盗作とは、異なる製造者や色の絵具で変奏された、または変装された作品である。元になった絵画は、元の版画または楽譜である。
贋作で、たとえばゴッホという署名は、元となった絵画の作者名(音楽作品ならば、作曲者名)である。
ま、アプロプリエーション appropriation っては、元材料を定めれば、創造性をあまり発揮しなくて良いので、楽であり、堕落でもある。
脱線した。
164頁。解説すると作品を限定してしまう、という主張。
「自作解説なんて真正直にしてはいけない。〔略〕「私の作品はこれこれしかじかのものだ」なんて決めつけてしまったら、〔略〕作品のなかのもっと他にもあるに違いない多様性が見えなくなってしまいます。作品は明快に解説されたとたん、その範囲内の小さな世界にやせ細ってしまうのです。」
(森村泰昌 2014/7、164頁)。
それは、そのような作品の場合であろう。また、そもそも、言語で伝わるのなら、言語で伝えるとか表現すればよいので、作品を作る必要は無い。
しかし、新しい種類のものならば、観方や作り方を語って、感性を引き出すとか植えつけるといったことは、むしろ本質的なことである。とりわけ、二次元ないし三次元の抽象絵画の場合には。
170頁。
美術とアートを分けている。
「私はこうとらえます。「美術」とは「こだわることが美であるような世界」である。これに対し、「アート」とは「こだわらないことが美であるような世界」である、と。」
(森村泰昌 2014/7、170頁)。
カラヴァッジョの『ロレートの聖母』を例に、森村泰昌は、
「「聖と俗」の共存によってカラヴァッジョが人々にもたらしたもの、それは、きれいな絵空事としての信仰ではなく、泥やひび割れや俗悪や野卑といった生活感覚を伴ったリアルな信仰。これは自分自身の問題なんだという当事者意識が感じられる信仰のあり方だったのではないか。
本来は唯一無二の真理を求めるキリスト教世界なのでしょうけれど、胸に手をあて自問すれば、誰もが感じ取れる美的価値の多様性。〔略〕「聖」も「俗」も、「美」も「醜」も共存させうる汎神論的美の視点。美は世界にあまねく存在するという「美のアニミズム」。私の美術への興味の拠り所となっているのも、そういう拡散し偏在する「美」のありようにほかなりません。」
(森村泰昌 2014/7、224頁)。
美と醜という感性的判断としては反対極のものを共存させれば汎神論的、というのは「汎神論的」の意味がわからない。たとえば、玉石混交していたら、汎神論的なのか?。
なにかが世界にあまねく存在すると考えれば、アニミズムなのか?。
「拡散し偏在する「美」のありよう」と、汎神論的とかアニミズムとがどう接続するのか、あるいは何を指摘または特徴抽出したのか、わからない。
→八百万神[やおよろずのかみ]とは、「森羅万象に神の発現を認める古代日本の神観念を表す言葉」とある。
「日本の記紀神話にあらわれる八百万神(やおよろずのかみ)の世界も多神教の一種であるが,その神々は古代ギリシアの宗教やインドのヒンドゥー教における多神教とは異なって,肉体的な特徴や個性をもたず,目にみえない存在であった。」
(世界大百科事典の【多神教】より。
https://kotobank.jp/word/八百万神-874603[受信:2017年8月21日。])
日本での「肉体的な特徴や個性をもたず,目にみえない存在」とは、西洋では天使とか妖精とか自然霊に相当するものだろう。ただ、日本では概括して捉えていて、特徴づけまたは分類はしなかったのではないか?。時代が下ると、座敷わらしだとか、一つ目小僧だとか、様々に想像豊かに、物語られた。
また、脱線した。
「野生の動物は野生に放つべきです。同様に「美」の世界も「お芸術」として美術館に隔離するのではなく、「見世物」として猥雑かついきいきと生きていた世俗に戻すべきである。」
(森村泰昌 2014/7、[あちこち探したが]頁不明)。
上記の文は、問いへの答えとして「野生の美学」の精神という文脈で考えられている。
野に生きる美術作品はあるだろう。けれど、ホームレスではなくて住居のある人には、雨露を気にしなくてよい場所で観てもらってもよい。
絵空事や綺麗事を目指す者には、まずは屋内作品で考えたい。その中で、水をぶっかけることで美しく見える作品もありだろう。
◆ 「作品の値段が上下するのをどう思いますか 小山登美夫」(150-159頁)
小山登美夫さんからの大人しい質問に対して、森村が挑発して、面白くなった。
「美術関係者」の金銭経済の問題。商業性。
「現代美術と呼ばれるジャンルは、時代の最先端を行く内容でありながら、日本では「わけのわからないものけとして、なかなか世に広く認知されないという現実が長らくありました。
〔略〕
コレクターのパイを増やすこと。〔略〕アートフェアを開催すること。〔略〕作品が流通し、美術家が自活できるような環境を整備すること。経済の自立をともなわない美術の自立はありえないという視点に立ち、この美術の自立の拠点としてギャラリーを機能させること。」
(森村泰昌 2014/7、154頁)。
155頁。
有名になるにつれて、作家はギャラリーを必要としなくなる。
「日本にいながら絵画の大コレクターに売っていけるようなことが必要です。アートフェアやシンガポールの支店はその窓口になればと思っています」
(小山登美夫、於:森村泰昌 2014/7、157頁)。
ギャラリー経営の安定には、顧客に売れ筋の美術品を揃えることは、一つの手だろう。
しかし、「市場」の規模は、まだ大きくない。
けれど、
「売れるものにみんなが貪欲に群がっていくのが凄く強く感じられて、これは大手ギャラリーやオークションハウスが、マーケットで売れるものを意図的に作り上げることが頻繁になったせいなのかもしれませんが、まったく太刀打ちできない無力感があります。でも、麻薬になったとたん、自分にとっては作品がつまらなくなってくるように思えます。〔略〕でも確実に「売れて行く」ということは興味深いことです。」
(小山登美夫、於:森村泰昌 2014/7、158頁)。
日本の商業ギャラリー〔画廊〕の苦労の多いことは、やはり長い歴史のある欧米の芸術環境によるだろう。美術作品の評価基準は、彼らが持っているからである。
美術の中心地が、経済的興隆と関わって、
パリ→ニューヨーク(とパリ)→香港や上海(あるいは北京)といった中国の都市(とニューヨーク(とパリ))
となるかもしれない。
しかし世界は、縮こまっていく。人口もまた縮小すべきであろう。
簡素な生活をするにしても、人の文化的生活水準を考えれば、地球の収容環境からして、人口は減らすべきであろう。「先進」国の日本は、この点で世界に先駆けている。
では、どうする?。
地域社会の各分野または小地域ごとに無理の無いゆるい連携であろう。
協力、したがって資源の分かち合いである。
「貨幣」とは何か、「経済」に貨幣は必要なのか、必要または便利だとしても、一部のものだけが「富む」とか、社会において支配的になる、といっことを防ぐ、または地球住民全員に健全な経済と文化的生活を取り戻すことが、肝心である。
美術が、文化的生活に必要だとすれば、日本での
文化的生活のできる資材と金銭の全員への支給
[基本収入全員支給制]
が、考えられ実施されるのが良いかもしれない。
すでに、外国では実験的実施が行なわれている[要検討]。
生活の経済的側面(覚書)
美的作品製作者としての、生活の経済的側面。
現在は、中央銀行がほぼ無からお金を振り出す貨幣経済。
地域的、または仕事や趣味の分野的交流社会の経済的側面
広域的社会、県やたとえば京阪神とか近畿圏
日本社会、アジア社会、北半球、南半球、地球規模社会