ウォードの箱とは、イギリス人で、医師であり、植物学に熱烈な興味があった
ナサニエル・バグショー・ウォード(1791年~1868年)が、1829年頃に
イギリスのロンドンで発明した木製のガラス容器のことです。主に植物の運搬に使用されました。
ウォードが、個人的に収集していた植物標本は、25000個を数えたそうです。
日本では、まだ江戸時代の終わり、幕末を迎えるころです。当時のロンドンは、
煤煙で大気汚染が酷く、彼の庭のシダ植物は、侵されてしまっていました。
ある時、蛾などの繭を保管していたボトルの中では、シダの胞子が少量の肥料で
発芽し成長することを発見しました。そこで、大工に木製のガラス容器を組み立てて
もらい その中でもシダが成長することがわかりました。
最初の検証は、1833年に行われ、イギリスのシダや芝生をこの箱に敷き詰め、
オーストラリアのシドニーまで船で数か月に渡る航海中も植物は、良い状態を保ち、
帰還時にもオーストラリアからの植物を無事持ち帰りました。
それを使う以前は、海の上では決して生き延びることのなかった植物の運搬に成功したのです。
自身の実験を公表し、1842年には、「ガラス容器内での植物の成長」で研究を発表しました。
ウォードがよく文通していた人物の一人に、後にイギリスの王立植物園のキューガーデンの
園長になる、植物学者で植物画家のウイリアム・ジャクソン・フッカー(1785年~1863年)
がいて、その息子のジョセフ・ダルトン・フッカー(1817年~1911年)が、
1841年イギリス軍艦エレボスによる南極地方周航した航海中に、ニュージーランドから
イギリスまで生きた植物を輸送するために、このウォードの箱を使用した最初の植物探検家
だそうです。(1)
そもそもこの箱のことを知ることのきっかけは、『紅茶スパイ 英国人プラントハンター 中国をゆく』
という本にありました。(2)
この本によると、スコットランド生まれの園芸家で、植物学者であり、プラントハンターであった
ロバート・フォーチュン(1812年~1880年)は、イギリス東インド会社の依頼により、
アヘン戦争後の中国(清)に渡り、茶の木を苦難のすえにひそかに採集、上海から、ウォードの箱に
入れて、生きたままの茶の木や種を運び出すことにやっと成功したことが詳しく書かれています。(1849年)
これがのちに、ダージリンティーの栽培実現に貢献することになったのですが、何気なく美味しく
飲んでいる紅茶の木の栽培の始まりは驚くべきものだったことがわかりました。
ちなみに、この本によると、この時使われたガラスの箱の大きさは、1.2メートル×1.8メートル。
さて、このことを連想させたのが、偶然見つけたこのガラスのミニミニ温室です。外寸は、幅が29、高さ27.5
奥行21cmの小さなものです。
何を入れようかなと思って、多肉植物の冬越しなんかにぴったりかなと考えていたのですが、
何度も今までに育てては、ダメにしてしまってる「セントポーリア」を入れてみることにしました。
調べてみると、なんと、うまくいけば、年に何度か花を咲かせることが出来て、しかもその開花時期は通年と
なっています。今までの経験では、夏の高温多湿に枯れ、冬の夜の寒さにダメにしてしまっていました。
この鉢についていたタグによると、直射日光の当たらない窓辺・明るい場所、室温は18℃~25℃が理想
表土が乾いたら水をやり、乾燥には比較的強いので水のやり過ぎに注意。1か月に一度、市販の液肥を与えると
書かれていました。
もともとの原産地は、アフリカのケニアとタンザニア北部の山地で、冷涼な日陰、多湿の環境を好み
渓谷沿いの断崖の湿った岸壁や、熱帯雨林の苔生した樹木に着生しているようです。
育て方を検索してみると、一年を通じてやわらかい光が必要で、レースのカーテン越しの日光がよいようです。
強い日差しは葉が焼けてただれてしまうとのこと。ただし日照不足になると花付きが悪くなるようです。
昼間の光では、写真の色は、かなり赤く花の色とれてしまっているのですが、
中心部のおしべとめしべの様子は、小さな小さな蝶の形にも見え、可愛らしいです。
よく見ていると、葉の裏がまた面白い。葉脈は、薄黄緑ですが、葉自体は花の色を薄くしたような赤い色に見えます。
茎も赤味帯びています。
表は、まるでピロードのような毛の生えた肉厚で、深緑にも光る葉です。
セントポーリアという植物自体は、東アフリカのザンジバル諸島で、1884年にイギリスの
副領事であったジョン・カークが採取し、キューガーデンに送ったが、不十分な標本であった
ため記載に至らなかったようです。
1891年に、ドイツ人フォン・セントポール男爵が、タンザニアのウサンバラ山地で、発見し
ドイツに住む父を通じてドイツ・ハノーファーにあるヘレンハウゼン王立植物園へ送り、植物園長
ヘルマン・ヴェンドラにより新属新種として記載され、発見者の名に因んで、saintpaulia ionantha
と命名されました。
この時ついた、イオナンタとは、ギリシャ語で「すみれのような」の意味を表しています。(3)
葉のつき方が、節の間が短く、タンポポのように放射状にひろがるロゼット型と、節の間が長く、
地面を這うようにして長い茎があるトレイル型があるようです。花色は、赤・紫・白・青、花弁の
ふちに色が付く覆輪や、ストライプ(縞模様)のや、スプラッシュ(斑点、班状紋)のあるのもあり、
咲き方にも一重、一重半、二重、八重と色々あるようです。
夜になると、蛍光灯の下では、紫に見えます。この花は、オーソドックスなもので花は一重、
葉は楕円形、ロゼット型のよく見かけるものですが、いろいろな面に歓心しました。
プラントハンター、17世紀から20世紀中期にかけてヨーロッパで活躍した職業。
命の危険も冒しながら探検し、有用植物(食料・香料・薬・繊維)や観賞用植物を自国に運ぶために工夫、
挑戦しつづけた人々。プラントハンターのおかげと、その後の栽培家による繁殖による改良のおかげ。
このセントポーリアが発見確認されたのがおよそ120年前。日本で栽培販売されたのは
1970年代のことらしく、まだ40年しかたってないのかという驚きとともに、いろいろ手軽に
楽しめるようになっている今をもっと喜び、大切に育ててみたいと思うアンです。
(1)wikipedia「ウォードの箱」を参照
(2)サラ・ローズ著・原書房 2011年12月
(3)wikipedia「セントポーリア」参照。
ナサニエル・バグショー・ウォード(1791年~1868年)が、1829年頃に
イギリスのロンドンで発明した木製のガラス容器のことです。主に植物の運搬に使用されました。
ウォードが、個人的に収集していた植物標本は、25000個を数えたそうです。
日本では、まだ江戸時代の終わり、幕末を迎えるころです。当時のロンドンは、
煤煙で大気汚染が酷く、彼の庭のシダ植物は、侵されてしまっていました。
ある時、蛾などの繭を保管していたボトルの中では、シダの胞子が少量の肥料で
発芽し成長することを発見しました。そこで、大工に木製のガラス容器を組み立てて
もらい その中でもシダが成長することがわかりました。
最初の検証は、1833年に行われ、イギリスのシダや芝生をこの箱に敷き詰め、
オーストラリアのシドニーまで船で数か月に渡る航海中も植物は、良い状態を保ち、
帰還時にもオーストラリアからの植物を無事持ち帰りました。
それを使う以前は、海の上では決して生き延びることのなかった植物の運搬に成功したのです。
自身の実験を公表し、1842年には、「ガラス容器内での植物の成長」で研究を発表しました。
ウォードがよく文通していた人物の一人に、後にイギリスの王立植物園のキューガーデンの
園長になる、植物学者で植物画家のウイリアム・ジャクソン・フッカー(1785年~1863年)
がいて、その息子のジョセフ・ダルトン・フッカー(1817年~1911年)が、
1841年イギリス軍艦エレボスによる南極地方周航した航海中に、ニュージーランドから
イギリスまで生きた植物を輸送するために、このウォードの箱を使用した最初の植物探検家
だそうです。(1)
そもそもこの箱のことを知ることのきっかけは、『紅茶スパイ 英国人プラントハンター 中国をゆく』
という本にありました。(2)
この本によると、スコットランド生まれの園芸家で、植物学者であり、プラントハンターであった
ロバート・フォーチュン(1812年~1880年)は、イギリス東インド会社の依頼により、
アヘン戦争後の中国(清)に渡り、茶の木を苦難のすえにひそかに採集、上海から、ウォードの箱に
入れて、生きたままの茶の木や種を運び出すことにやっと成功したことが詳しく書かれています。(1849年)
これがのちに、ダージリンティーの栽培実現に貢献することになったのですが、何気なく美味しく
飲んでいる紅茶の木の栽培の始まりは驚くべきものだったことがわかりました。
ちなみに、この本によると、この時使われたガラスの箱の大きさは、1.2メートル×1.8メートル。
さて、このことを連想させたのが、偶然見つけたこのガラスのミニミニ温室です。外寸は、幅が29、高さ27.5
奥行21cmの小さなものです。
何を入れようかなと思って、多肉植物の冬越しなんかにぴったりかなと考えていたのですが、
何度も今までに育てては、ダメにしてしまってる「セントポーリア」を入れてみることにしました。
調べてみると、なんと、うまくいけば、年に何度か花を咲かせることが出来て、しかもその開花時期は通年と
なっています。今までの経験では、夏の高温多湿に枯れ、冬の夜の寒さにダメにしてしまっていました。
この鉢についていたタグによると、直射日光の当たらない窓辺・明るい場所、室温は18℃~25℃が理想
表土が乾いたら水をやり、乾燥には比較的強いので水のやり過ぎに注意。1か月に一度、市販の液肥を与えると
書かれていました。
もともとの原産地は、アフリカのケニアとタンザニア北部の山地で、冷涼な日陰、多湿の環境を好み
渓谷沿いの断崖の湿った岸壁や、熱帯雨林の苔生した樹木に着生しているようです。
育て方を検索してみると、一年を通じてやわらかい光が必要で、レースのカーテン越しの日光がよいようです。
強い日差しは葉が焼けてただれてしまうとのこと。ただし日照不足になると花付きが悪くなるようです。
昼間の光では、写真の色は、かなり赤く花の色とれてしまっているのですが、
中心部のおしべとめしべの様子は、小さな小さな蝶の形にも見え、可愛らしいです。
よく見ていると、葉の裏がまた面白い。葉脈は、薄黄緑ですが、葉自体は花の色を薄くしたような赤い色に見えます。
茎も赤味帯びています。
表は、まるでピロードのような毛の生えた肉厚で、深緑にも光る葉です。
セントポーリアという植物自体は、東アフリカのザンジバル諸島で、1884年にイギリスの
副領事であったジョン・カークが採取し、キューガーデンに送ったが、不十分な標本であった
ため記載に至らなかったようです。
1891年に、ドイツ人フォン・セントポール男爵が、タンザニアのウサンバラ山地で、発見し
ドイツに住む父を通じてドイツ・ハノーファーにあるヘレンハウゼン王立植物園へ送り、植物園長
ヘルマン・ヴェンドラにより新属新種として記載され、発見者の名に因んで、saintpaulia ionantha
と命名されました。
この時ついた、イオナンタとは、ギリシャ語で「すみれのような」の意味を表しています。(3)
葉のつき方が、節の間が短く、タンポポのように放射状にひろがるロゼット型と、節の間が長く、
地面を這うようにして長い茎があるトレイル型があるようです。花色は、赤・紫・白・青、花弁の
ふちに色が付く覆輪や、ストライプ(縞模様)のや、スプラッシュ(斑点、班状紋)のあるのもあり、
咲き方にも一重、一重半、二重、八重と色々あるようです。
夜になると、蛍光灯の下では、紫に見えます。この花は、オーソドックスなもので花は一重、
葉は楕円形、ロゼット型のよく見かけるものですが、いろいろな面に歓心しました。
プラントハンター、17世紀から20世紀中期にかけてヨーロッパで活躍した職業。
命の危険も冒しながら探検し、有用植物(食料・香料・薬・繊維)や観賞用植物を自国に運ぶために工夫、
挑戦しつづけた人々。プラントハンターのおかげと、その後の栽培家による繁殖による改良のおかげ。
このセントポーリアが発見確認されたのがおよそ120年前。日本で栽培販売されたのは
1970年代のことらしく、まだ40年しかたってないのかという驚きとともに、いろいろ手軽に
楽しめるようになっている今をもっと喜び、大切に育ててみたいと思うアンです。
(1)wikipedia「ウォードの箱」を参照
(2)サラ・ローズ著・原書房 2011年12月
(3)wikipedia「セントポーリア」参照。