烏丸丸太町を北へ
(からすままるたまち)
右手の緑は京都御所を囲む木々です。
京都の北にある神護寺から明治19年にこの地に移されたとのこと。
狛犬ならぬ、イノシシが守っています。
なぜイノシシなんでしょうか、、、?
そして入り口には、大きな足腰御守がかかっています。
由緒などを読んでみると、、、
奈良時代の末、法王の位を得た道鏡は、宇佐八幡宮の神託を得たと皇位に就きたかった。しかし、その神託が偽であり真の神託を清麻呂が宇佐八幡宮から持ち帰って来たため、道鏡は怒り、清麻呂の足の腱を切り、大隈国に流罪としました。しかも刺客を放ちます。しかし、清麻呂が大隈国に向かう途中、宇佐八幡宮に立ち寄ろうとした道中で300頭のイノシシが現れて、清麻呂の輿を守り無事参拝を終えると猪は去り、足も治り歩けるようになったとのことです。その後、都に呼び戻され、のちに平安京の新都造営を進言し、造営大夫として尽力されたとのことです。
イノシシに守られた。だから狛犬ならぬイノシシであり、そして足腰御守なのですね。
道を渡り、少し北に歩くと御所の蛤御門(はまぐりごもん)があります。
1864年に幕府と長州藩との武力衝突があった所です
中に入ると
大きなムクノキがあります。
西側
南側
この御所は、1331年に光厳天皇が東洞院東土御門殿を皇居と定めたもので、最初は紫宸殿と清涼殿を兼用するような里内裏だったそうです。
何度も消失を繰り返し、織田信長や豊臣秀吉により再建されてきたようです。天明大火で消失後、1790年幕府は松平定信を内裏造営に当たらせ、承明門、紫宸殿、清涼殿の一廓を平安時代の形式で復元しているとのことです。
現在の建物は1855年の再建とのこと。
江戸時代までは、御所のまわりを取り囲むように公家の邸宅が並んでいたそうですが1869年の東京遷都後は公家屋敷はなくなり、京都御苑(公園)となっています。
最初の平安京内裏は2キロ西側にあったようです。度重なる火災などで、藤原氏の家を里内裏としているうち、現在の場所になったようです。
この御所の東南側に大宮御所、仙洞御所があり、その北側に道長の土御門殿があったと示す札が建てられています。さらに紫式部の屋敷があった場所は現在の廬山寺のある所とされています。道長の屋敷からは歩いてすぐの場所にあります。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
虧けたる事も 無きと思へば
この歌が詠まれたのは。1018年10月16日の事で、道長の娘、威子が後一条天皇の中宮に冊立されたことを祝う宴で道長が詠んだ歌だということが藤原実資の日記『小右記』からわかります。
実資の日記には、この和歌の前に、以下のような文章があります。
「太閤の外官を招き呼びて云ふよう、
『和歌を読まんと欲す。必ず和すべし』
てへり。答えて云ふよう、『何ぞ和し奉らんざらんや』と。又云ふやう、『誇りたる歌二ナム有ル。但し、宿(あらかじ)め構ふるには非(あら)ず』てへり。
とあります。
太閤の外官とは実資のことで、道長は、歌を歌いたいので返歌を実資に所望した所、実資もこれに応えると返答した時、
道長が、「誇らしいと思って作った歌だが
あらかじめ作った歌ではない」といった。
ということです。
この後、この歌を聞いた実資は、
余申して曰く、
「御歌優美なり。酬答に方無し。満座只此の御歌を誦すべし。、、、」と。諸卿、余の言に響応して数度吟詠す。太閤和解して殊に和を責めず。、、、
と日記に書いています。
この歌が優美でとても返歌出来るものではありません。皆んな揃ってただこの歌を唱和するのが良いでしょう。と言うと公卿たちは、余(実資)の言葉に応じて数度吟詠した。太閤(道長)は機嫌を良くして、それ以上返歌を求めなかったということです。
この日(11月5日)ここに赴いたのは、御所の西側にある場所で、ある朗読会に参加し、箏の音を聴きながら源氏物語の朗読を聞くことにありました。この場所も土御門内裏跡とのことでした、、、ナンダカゾクゾク〜😊
今から千年前、この地の辺りに道長が天変地異や疫病に悩まされながら、都の運営にあたり、紫式部が源氏物語を書き、この辺りに住んでいたのかと思うと余計に興味が沸きました😊
御所の西側にある宜秋門(ぎしゅうもん)
中立売御門(なかだちうりごもん)辺りから東に向いた場所にて。比叡山が見えます。