今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

戸隠神社 奥社(長野県長野市戸隠)

2013年06月18日 | 神社・仏閣
戸隠神社の歴史
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしている。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場で、神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えた。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至る。
  
居多神社を出発したのは午後3時過ぎ、急いで行けば間に合うかも知れない。戸隠神社にナビをセット、いくつかの候補地から奥社を選択した。
ナビ任せで目的地を目指すが道が狭くてカーブが多い。実は運転している車は新車でフェリーに乗るまで家の周辺を数十キロ慣らし運転しているだけで、軽い気持ちで家を出ていたのだ。
車はハイエースのスーパーロング、自家用車としてはかなり大きい。奥社駐車場と思える場所にきたがナビはまだ先を案内する。
しばらくすると、道は一層狭くなり、対向車がきてもすれ違うことができない。
さらに、ナビはこの先道が狭くなりますと案内。車など通れる道ではなく苦労してUターン、最初の駐車場に戻った。







随神門
午後4時半を過ぎ参道入口の鳥居に到着、案内図によると片道2キロ、所要時間40分と書いてある。5時までには目的地に到着したいと思い急ぎ出発した。
まるで競歩をしているような感覚で中間点の「随神門」まで行く。
ところが、ここから雪解け水のため参道に水がたまり歩き難い、しかも平地から上り坂、さらに階段が続く。
捻挫している足も痛い、呼吸も苦しい。






2年前知人と宮崎県にある「天の岩戸神社」に参拝したところ、天の岩戸神社と戸隠神社の岩の成分が同じだと神職の説明を受けたこと。
また、違う知人からは、岩戸を隠したから「戸隠」の地名がついたのかな。などの話を聞いたことが今回この神社を目指すきっかけとなった。






戸隠神社 奥社
祭神 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
日本神話にある、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸をお開きになった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎した事に始まる。
参道は約半里(2キロ)、中程には萱葺きの赤い随神門があり、その先は天然記念物にも指定されている樹齢約400年を超える杉並木が続いている。






平日、この時間帯になると参拝者もいない。奥社をあとにし周囲の風景を楽しみながら駐車場へと向かう。
7年前になるが車で東北旅行をしているときに旅行雑誌で戸隠神社のことを読んだことがある。
当時、神社にはまったく興味がなく、しかも7月の暑い日にただ4キロも歩くだけということで目的地にしなかった。
不思議なもので、今、この地に立ち、その記憶がよみがえった。

中間地点の「随神門」に到着。午後6時半にもなると随神門の赤い色もくすんで見える。
神様に手を合わせたお陰で疲れも、足の痛みも消えた。随神門内部からの風景も、あと15分で今日の旅が終わるかと思うと、なぜかすばらしく見える。



撮影:平成25年5月9日


コメント (3)
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安国山 華蔵院 国分寺<五智国分寺>( 新潟県上越市五智)

2013年06月18日 | 神社・仏閣
五智国分寺の歴史
天平13(741)年に聖武天皇が日本の平和と繁栄を祈願して建立された越後の国の国分寺、本尊が五智如来なので、五智国分寺ともいう。


安国山 華蔵院 国分寺(五智国分寺)
春日山城跡から車に戻り道路地図を開くとこの近くに大きな赤文字で記載されている五智国分寺。
さっそく次の目的地に設定し、どんな寺なのかと想像しながら運転していると、ほどなく目的地である寺が見えてきた。
寺のすぐ近くに無料の駐車場もありリズムよく境内へと進むことができた。

山門
一礼して山門から入るとふつう受付所があり係の人が一礼して待っていることが多いが、このお寺にはそれがない。
ということは拝観料が必要ないということだ。切り詰めた旅行をしようと心に決めているだけに大変ありがたい気持ちになった。
さて、現在の山門は、天保6年(1835)能生谷小見村(能生町)の七郎左衛門が中心となって再建。
両脇には、仏教の守護神である仁王像が安置されている。
この像は、高さ2.7mの寄木造でできていて、天保7年(1836)に名立町出身の長井要壱と弟子2人によって製作された。









経蔵
山門の右側には大好きな三重の塔があったが、それ以上に気になったのが左方向にある年代物の建築物だ。
寺では古いものほど価値があると単純に理解しているで、さっそく裏側にも回ってみると壊れている箇所があり、しかも放置されたままになっている。
特に説明の立て札もなくやはり勘違いなのかとその時は思っていた。後に登場する男性が現れるまでは。
経蔵の棟札によって、元禄6年(1693)2月22日に上棟されたことがわかり、これは上越市内で記録のはっきり残っている最古の建物ともいわれている。
またこの経蔵には、鉄眼版一切経と呼ばれる一大仏教全集が納められていて、元禄5年の寄進銘が記されている。



三重の塔
寛政6年の火災以後、安政3年(1856)に宮大工曽武川常右衛門、江崎長三郎の手により着工された。その後、慶応元年(1865)に上棟され整備されてきたが、高欄などが未完成のまま現在に至っている。塔の壁面には高田の名工石倉正義銘の十二支と中国十二孝の半分の彫刻がはめ込まれている。






塔好きの私だがこの塔には何か違和感があった。よく見ると相輪部分が変形しているではないか。
写真を撮っていてもバランスが悪い、自然シャッターを押す回数が減っていく。この塔は未完成ということだがシンプルな美しさがある。一日もはやく美人さんになってほしい。



本堂
天平年間(740年代)に、聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地は現在わかっていない。
永禄5年(1562)上杉謙信によって、現在の場所に再建された。
その後幾度となく災興を繰り返し江戸時代には元禄2年、寛政6年と火災に遭い、現在の本堂は昭和63年焼失(本尊の五智如来も焼失)後の平成9年に再建されたもの。



梵鐘
この梵鐘は、世界初のステンレス製の梵鐘。住友金属直江津工場の鋳造修了記念として、国分寺の再建と人々の幸せを願い寄進されたもの。



竹之内草庵
承元元年(1207)、専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となった。
その時、国分寺住職は、聖人とは比叡山で同学の友であり、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結び、この国分寺にお住まいになった。その草庵は、竹林に囲まれていたので竹之内草庵と呼ばれるようになった。
また、草庵には聖人が関東に旅立たれる際、別れを惜しむ同行の心根を思い、国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し刻まれた親鸞聖人坐像が安置されている。






駐車場に戻ろうとしたとき、境内でお見かけていた男性から声をかけられた。五智歴史愛好会の会員でと紹介され、この地域の歴史について説明していただけるとの有り難いお話し。
再び寺に戻り、寺の歴史に加え会の研究結果やご自分の感想も含めて、詳細な説明(先に記載した経蔵の価値や私が気づかなかった細かな彫刻でしるされた意味、敷石の生産地にいたるまで)をしていただいた。さらに続きが。

親鸞聖人上陸の地
承元元(1207)年、念仏停止によって越後国府へ流罪となった親鸞聖人は、居多ヶ浜に上陸した。35歳から42歳までの7年間をこの国府で過ごした。



私は信仰心には欠けているが親鸞聖人は我が家にとっても大切な方である。
五木寛之の小説「親鸞」を含め数冊の書物によりある程度の知識はある。歴史を知るとただの海岸がそうでなくなるから面白い。 
展望台の階段の数が6段ずつに区切られている。「南無阿弥陀仏」の6文字を意識してデザインされているそうだ。



振り返ってみると道路のラインも違う。越後の七不思議「片葉の芦」がデザインされている。



居多(こた)神社<越後一の宮>
居多神社の歴史
大国主命、奴奈川姫、建御名方命を祭神とする式内社である。朝廷から弘仁4(813)年に従五位下を、貞観3(861)年に従四位下を賜った。古代、越後国司の厚い保護を受けて栄えた。
境内には、越後七不思議の一つ「片葉の芦」がある。これは、葉が片方にのみ生える芦が群生しているものである。親鸞が当社に参拝し念じたところ、一夜で境内の芦が片葉になったと伝えられている。



ご利益が縁結び、子宝、安産ということで若い女性の姿が多い。






歴史愛好会の男性の自家用車で私をここまで案内し説明を。そして「五智歴史散歩」という大変立派な冊子まで頂戴した。
また、次回この地にくることがあったら「明静院(木造大日如来座像)」がお勧めですよと笑顔で教えていただいた。あっという間の2時間、感謝の気持ちで一杯になった。
 
撮影:平成25年5月9日

    
コメント (1)
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