訪問日 令和元年6月12日
「令和元年春の旅」もこの日が最終日。「江田島の海軍兵学校」は、一度訪れてみたかった場所だった
道の駅「スパ羅漢」を早めに出発し、何とか1回目の見学時間に間に合った
旧海軍兵学校跡地(海上自衛隊第1術科学校)
「校内見学」に来たことを告げ駐車場に車を駐める
受付を終えると待機場所を移動するように指示される
江田島クラブ
前方に見える建物が見学者の待合所になる。売店や食事処もある
護衛艦「びえい」の主錨
大講堂
昭和35年から広報の一環として校内見学を実施しており、年間約7万人が来訪する
海軍兵学校は、1876年(明治9年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦まで存続
大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関である
英国の「王立海軍兵学校」、米国の「合衆国海軍兵学校」とともに、世界三大士官学校の一つにも数えられ、総計1万2433名の卒業生を出している
海上自衛隊の教育機関のため、案内人の指示に従うことが見学の原則
自由見学や自由行動はできず、場所は指定された場所のみ
山の名前は忘れたが、山頂まで登り走って帰ってくる訓練もあるようだ
大講堂内入る。平日にもかかわらず10代の若者の姿が目につく
入学式や卒業式が行われる場所
成績優秀者のみが帯刀を許され、中央の赤い絨毯の上を歩き卒業証書を授与できるという名誉を与えられた
来賓席
天井の照明
「操舵手」が操作する輪状の操作部を模したデザインのようだ
大講堂の横に煉瓦の建物がある
海上自衛隊「幹部候補生学校」
兵学校においては、常に同期生間の席次を意識させ、席次を競わせる方針が徹底しており、自習室の机の順番・寝室のベッドの順番に至るまで、全てが席次の順であった
この席次を「ハンモックナンバー」と呼んだ。海軍兵科将校は、兵学校卒業席次を基礎とする同期生間の先任順位(ハンモックナンバー)の順に進級した
明治26年に完成した当時の生徒館、現在は幹部候補生学校庁舎として使用されている
英国人の設計でレンガもイギリス製。一個一個、油紙に包まれて輸入されたという
横に長い建物で144.8m。当時の駆逐艦と同じ長さで、陸上にいる間から船での生活に慣れるためにこの長さにしたと言われている
説明によると、「防衛大学卒業者」のみが約1年間、この施設で基礎知識を習得している
約140mの長い廊下
日の丸の国旗が風になびく
学生館
一般大学卒業者、自衛隊勤務部内選抜組み等が学ぶ場所になる
戦艦「陸奥」砲塔
戦艦陸奥に搭載されていた実際の砲塔。隣にあるのが砲術講堂と呼ばれる当時の講堂室
軍艦「大和」主砲砲弾
特殊潜航艇
昭和16年、ハワイ真珠湾太平洋艦隊の攻撃に参加した5隻のうちの1隻
昭和35年米国により引き揚げられ、翌年、日本に持ち帰られた
奥にももう1隻あったが立ち入り禁止のため詳細は不明
日英同盟百周年記念植樹
教育参考館
これまで旅を始めて広島・長崎・沖縄の戦争に関する資料館、鹿児島県知覧の特攻記念館や靖国神社遊就館の遺書に感動したことをブログに書くと……
読者の方から「江田島」が残っていると言われた。そのことがずっと頭にあり、今回ここを訪れることになった
教育参考館に貯蔵されている約4万点の資料から、終戦時に貴重な資料を約1万点を選出し、広島県の厳島神社と愛媛県の大山祇神社に奉納(後に戻された)
教育参考館には16000点近くの資料を保存しており、その中から約1000点を選んで展示している
海軍兵学校の職員と学生が先人の偉業を偲び、過去を振り返ることで自己鍛錬と学術を深める目的で作られた場所である
見学時間は30分程度、目的だった「海軍特別攻撃隊の遺書」は最後の方に展示されていて、時間不足で悔いが残った
多くの戦艦が停泊していた呉は大空襲の被害に遭い絶大な被害を受けたが、この海軍兵学校に関しては空襲禁止区域になっていたという
歴史が浅い日本海軍が世界最強と謳われたバルチック艦隊を日露戦争で破ったのは不思議な出来事で、軍艦の質より、軍人の質が注目され、この海軍兵学校の存在が気になったらしい
海軍兵学校の教えとして有名な「五省(ごせい)」は松下元校長が考案したもので、兵学校の精神を代表するものとして名高い
一、至誠悖もとる勿かりしか<真心に反する点はなかったか>
一、言行に恥はづる勿かりしか<言動に恥ずかしい点はなかったか>
一、氣力に缺くる勿かりしか<精神力は十分であったか>
一、努力に憾み勿かりしか<十分に努力したか>
一、不精に亘わたる勿かりしか<最後まで十分に取り組んだか>
全体の見学時間は90分に設定されているが、あっという間でリピーターが多いというのも頷ける
食事処で「海軍カレー」を注文し呉市に向かう
撮影 令和元年6月12日
「令和元年春の旅」もこの日が最終日。「江田島の海軍兵学校」は、一度訪れてみたかった場所だった
道の駅「スパ羅漢」を早めに出発し、何とか1回目の見学時間に間に合った
旧海軍兵学校跡地(海上自衛隊第1術科学校)
「校内見学」に来たことを告げ駐車場に車を駐める
受付を終えると待機場所を移動するように指示される
江田島クラブ
前方に見える建物が見学者の待合所になる。売店や食事処もある
護衛艦「びえい」の主錨
大講堂
昭和35年から広報の一環として校内見学を実施しており、年間約7万人が来訪する
海軍兵学校は、1876年(明治9年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦まで存続
大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関である
英国の「王立海軍兵学校」、米国の「合衆国海軍兵学校」とともに、世界三大士官学校の一つにも数えられ、総計1万2433名の卒業生を出している
海上自衛隊の教育機関のため、案内人の指示に従うことが見学の原則
自由見学や自由行動はできず、場所は指定された場所のみ
山の名前は忘れたが、山頂まで登り走って帰ってくる訓練もあるようだ
大講堂内入る。平日にもかかわらず10代の若者の姿が目につく
入学式や卒業式が行われる場所
成績優秀者のみが帯刀を許され、中央の赤い絨毯の上を歩き卒業証書を授与できるという名誉を与えられた
来賓席
天井の照明
「操舵手」が操作する輪状の操作部を模したデザインのようだ
大講堂の横に煉瓦の建物がある
海上自衛隊「幹部候補生学校」
兵学校においては、常に同期生間の席次を意識させ、席次を競わせる方針が徹底しており、自習室の机の順番・寝室のベッドの順番に至るまで、全てが席次の順であった
この席次を「ハンモックナンバー」と呼んだ。海軍兵科将校は、兵学校卒業席次を基礎とする同期生間の先任順位(ハンモックナンバー)の順に進級した
明治26年に完成した当時の生徒館、現在は幹部候補生学校庁舎として使用されている
英国人の設計でレンガもイギリス製。一個一個、油紙に包まれて輸入されたという
横に長い建物で144.8m。当時の駆逐艦と同じ長さで、陸上にいる間から船での生活に慣れるためにこの長さにしたと言われている
説明によると、「防衛大学卒業者」のみが約1年間、この施設で基礎知識を習得している
約140mの長い廊下
日の丸の国旗が風になびく
学生館
一般大学卒業者、自衛隊勤務部内選抜組み等が学ぶ場所になる
戦艦「陸奥」砲塔
戦艦陸奥に搭載されていた実際の砲塔。隣にあるのが砲術講堂と呼ばれる当時の講堂室
軍艦「大和」主砲砲弾
特殊潜航艇
昭和16年、ハワイ真珠湾太平洋艦隊の攻撃に参加した5隻のうちの1隻
昭和35年米国により引き揚げられ、翌年、日本に持ち帰られた
奥にももう1隻あったが立ち入り禁止のため詳細は不明
日英同盟百周年記念植樹
教育参考館
これまで旅を始めて広島・長崎・沖縄の戦争に関する資料館、鹿児島県知覧の特攻記念館や靖国神社遊就館の遺書に感動したことをブログに書くと……
読者の方から「江田島」が残っていると言われた。そのことがずっと頭にあり、今回ここを訪れることになった
教育参考館に貯蔵されている約4万点の資料から、終戦時に貴重な資料を約1万点を選出し、広島県の厳島神社と愛媛県の大山祇神社に奉納(後に戻された)
教育参考館には16000点近くの資料を保存しており、その中から約1000点を選んで展示している
海軍兵学校の職員と学生が先人の偉業を偲び、過去を振り返ることで自己鍛錬と学術を深める目的で作られた場所である
見学時間は30分程度、目的だった「海軍特別攻撃隊の遺書」は最後の方に展示されていて、時間不足で悔いが残った
多くの戦艦が停泊していた呉は大空襲の被害に遭い絶大な被害を受けたが、この海軍兵学校に関しては空襲禁止区域になっていたという
歴史が浅い日本海軍が世界最強と謳われたバルチック艦隊を日露戦争で破ったのは不思議な出来事で、軍艦の質より、軍人の質が注目され、この海軍兵学校の存在が気になったらしい
海軍兵学校の教えとして有名な「五省(ごせい)」は松下元校長が考案したもので、兵学校の精神を代表するものとして名高い
一、至誠悖もとる勿かりしか<真心に反する点はなかったか>
一、言行に恥はづる勿かりしか<言動に恥ずかしい点はなかったか>
一、氣力に缺くる勿かりしか<精神力は十分であったか>
一、努力に憾み勿かりしか<十分に努力したか>
一、不精に亘わたる勿かりしか<最後まで十分に取り組んだか>
全体の見学時間は90分に設定されているが、あっという間でリピーターが多いというのも頷ける
食事処で「海軍カレー」を注文し呉市に向かう
撮影 令和元年6月12日