訪問日 令和元年6月7日
北川陵墓参考地
陵墓参考地とは、古記録・地域伝承・墳丘の形態や規模・出土品等により、宮内庁によって皇族の墳墓とされたが、被葬者を特定する資料に欠ける陵墓をいう
西郷隆盛宿陣跡資料館の裏手にあるのが、北川陵墓参考地である
北川陵墓参考地<可愛山陵(えのさんりょう)>由緒
天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)の陵墓として宮内庁から治定されている
ニニギの陵については、「日本書紀」に「筑紫日向可愛山之山陵」との記載がある
和田越決戦に敗れた西郷は、この地が「天孫瓊瓊杵尊の陵墓」だということを知り、この場所に宿陣したと考えられている
西郷は、政府軍が天皇家の先祖の墓に向けて砲撃できないであろうと考えたのである
事実、政府軍は3日2晩にわたって攻撃をすることはなかった
瓊瓊杵尊像
鳥居をくぐり先に進む。御陵と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態だという
朝から雨が降っていなければ「瓊瓊杵尊終焉の地」に来ることはなかった
これも何かの縁だと思い、道の駅で「天孫降臨」という銘柄の焼酎をお土産に購入した
歴史のある九州の地にはロマンがある。陵墓の前に立ちそう思った
撮影 令和元年6月7日
北川陵墓参考地
陵墓参考地とは、古記録・地域伝承・墳丘の形態や規模・出土品等により、宮内庁によって皇族の墳墓とされたが、被葬者を特定する資料に欠ける陵墓をいう
西郷隆盛宿陣跡資料館の裏手にあるのが、北川陵墓参考地である
北川陵墓参考地<可愛山陵(えのさんりょう)>由緒
天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)の陵墓として宮内庁から治定されている
ニニギの陵については、「日本書紀」に「筑紫日向可愛山之山陵」との記載がある
和田越決戦に敗れた西郷は、この地が「天孫瓊瓊杵尊の陵墓」だということを知り、この場所に宿陣したと考えられている
西郷は、政府軍が天皇家の先祖の墓に向けて砲撃できないであろうと考えたのである
事実、政府軍は3日2晩にわたって攻撃をすることはなかった
瓊瓊杵尊像
鳥居をくぐり先に進む。御陵と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態だという
朝から雨が降っていなければ「瓊瓊杵尊終焉の地」に来ることはなかった
これも何かの縁だと思い、道の駅で「天孫降臨」という銘柄の焼酎をお土産に購入した
歴史のある九州の地にはロマンがある。陵墓の前に立ちそう思った
撮影 令和元年6月7日