京都に行くときには、古い歌になるがチェリッシュの「なのにあなたは京都に行くの、京都の町はそれほどいいの、この私の愛よりも」の歌詞が常に頭の中に浮かんでくる。
京都市内の有名な寺院についてはこれまで何度か訪れているが、今日は自家用車での旅でもあるので市内から離れた寺院を目指すことにした。
始めに訪れるお寺は大好きな歌「女ひとり」の2番に出てくる高山寺。人生に疲れた男ひとりの旅である。
京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人
大島紬に つづれの帯が 影を落とした 石畳
京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人
栂尾山 高山寺<世界文化遺産>
高山寺は京都市右京区栂尾にある古刹である。
創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。
道路沿いに無料駐車場があり、そこから行く道は裏参道という。苔に覆われた石垣と草木の中をつづら折にのぼっていく。
一木一草をそのままに、手を入れすぎない自然が美しい。段を登り切ると、石積みの上に低い白壁が続く。
壁の向こうが石水院である。境内は昭和41年(1966)「史跡」、平成6年(1994)「世界文化遺産」に登録された。
やはり裏というのには抵抗があったので、表参道の富岡鉄斎筆「栂尾山 高山寺」の石碑まで移動した。
写真には写っていないが、正方形の石敷きが17枚連なっていて美しい。
女ひとりの歌詞「影を落とした 石畳」はこれなのかなと考えながら坂を上がる。
石水院(国宝)
桁行正面3間、背面4間、梁間3間、正面1間通り庇。一重入母屋造、妻入、向拝付、葺。五所堂とも呼ばれる。
創建当時、現石水院は東経蔵として金堂の東にあった。安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向いにあったもとの石水院は亡ぶ。
その後、東経蔵が春日・住吉明神をまつり、石水院の名を継いで、中心的堂宇となる。
寛永14年(1637)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となっている。
明治22年(1889)に現在地へ移築され、住宅様式に改変された。
名をかえ、役割をかえ、場所をかえて残る、明恵上人時代の唯一の遺構である。
石水院 廂の間
石水院の西正面。かつて春日・住吉明神の拝殿であったところで、正面には神殿構の板扉が残る。
欄間に富岡鉄斎筆「石水院」の横額がかかる。鉄斎は明治期の住職土宜法龍と親交があり、最晩年を高山寺に遊んだ。
落板敷の中央に、今は小さな善財童子像が置かれている。
華厳経にその求法の旅が語られる善財童子を明恵は敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いたという。
吊り上げの蔀戸(しとみど)、菱格子戸、本蟇股(かえるまた)によって、内外の境界はあいまいにされ、深い軒が生む翳りの先に光があふれる。
石水院南縁
石水院の南面は清滝川を越えて向山をのぞみ、視界が一気に開ける。
縁から一歩下がって畳の上に腰をおろすと、風景が柱と蔀戸、広縁によって額縁のように切り取られる。
南面の欄間には伝後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」がかかり、寺号の由来を語る。西面には長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の額も見ることができる。
「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」額
高山寺は古く「神護寺別院」「神護寺十无盡院」などと呼ばれ、栂尾の地にあった神護寺の別院であった。
建永元年(1206)11月、後鳥羽院の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜ったのが高山寺の起りである。
その際に下賜された後鳥羽院宸翰の勅額といわれる。
明恵上人樹上座禅像(国宝)
草創から現在に至るまで、高山寺は明恵上人の寺である。寺宝の多くが明恵に関わる。
明恵は承安3年(1173)に生まれ、寛喜4年(1232)に没した。八歳で父母を失い、高雄山神護寺の文覚について出家する。
東大寺で華厳を学び、勧修寺の興然から密教の伝授を受けた。
建永元年(1206)後鳥羽院より栂尾の地を賜り、高山寺を開く。
明恵といえば、厳しい修学修行、釈迦への思慕、自然との調和、人間味あふれる逸話、夢幻に彩られた伝説、書き留められた夢などが想起される。
若き日には、求道の思いから右耳を切り落とし、釈尊への恋慕から二度にわたってインド行きを企んだ。
残された和歌も自在な境地を伝える。
あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月 (明恵上人歌集)
仏眼仏母像(国宝)
木彫りの狗児(重要文化財)
鳥獣人物戯画(国宝)
石水院を去る前にもう1枚
石水院を出て道なりに進んで行く。周囲の景色からもわかるように歩いていても爽快な気分になる。
開山堂
明恵(1173~1232)が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に立つ。明恵上人坐像が安置され、御影堂信仰の対象となった。
建物は室町時代に兵火をうけて焼亡し、江戸時代に再建されたものである。現在、法要はこの開山堂で営まれることが多い。
聖観音菩薩
自然の中にとけこみ、見事に調和している。
明恵上人御廟
仏足石
釈迦の足跡をかたどり礼拝の対象としたもので、千輻輪宝、金剛杵、双魚紋などの紋様をもつ。境内には「仏足石参道」の石碑が2基あり、信仰を集めたことが知られる。
金堂
かつての本堂の位置に立つ。桁行3間、梁間3間の一重入母屋造、銅板葺。
承久元年(1219)に完成した本堂は、東西に阿弥陀堂、羅漢(らかん)堂、経蔵、塔、鐘楼、鎮守を従えた檜皮葺(ひわだぶき)5間4面の堂宇で、運慶作の丈六盧舍那仏(るしゃなぶつ)などが置かれたという。
その本堂は室町時代に焼失し、現在の金堂は江戸時代寛永年間(1624~44)に御室仁和寺真光院から古御堂を移築したものである。釈如来像を本尊とする。
撮影 平成25年5月24日
京都市内の有名な寺院についてはこれまで何度か訪れているが、今日は自家用車での旅でもあるので市内から離れた寺院を目指すことにした。
始めに訪れるお寺は大好きな歌「女ひとり」の2番に出てくる高山寺。人生に疲れた男ひとりの旅である。
京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人
大島紬に つづれの帯が 影を落とした 石畳
京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人
栂尾山 高山寺<世界文化遺産>
高山寺は京都市右京区栂尾にある古刹である。
創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。
道路沿いに無料駐車場があり、そこから行く道は裏参道という。苔に覆われた石垣と草木の中をつづら折にのぼっていく。
一木一草をそのままに、手を入れすぎない自然が美しい。段を登り切ると、石積みの上に低い白壁が続く。
壁の向こうが石水院である。境内は昭和41年(1966)「史跡」、平成6年(1994)「世界文化遺産」に登録された。
やはり裏というのには抵抗があったので、表参道の富岡鉄斎筆「栂尾山 高山寺」の石碑まで移動した。
写真には写っていないが、正方形の石敷きが17枚連なっていて美しい。
女ひとりの歌詞「影を落とした 石畳」はこれなのかなと考えながら坂を上がる。
石水院(国宝)
桁行正面3間、背面4間、梁間3間、正面1間通り庇。一重入母屋造、妻入、向拝付、葺。五所堂とも呼ばれる。
創建当時、現石水院は東経蔵として金堂の東にあった。安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向いにあったもとの石水院は亡ぶ。
その後、東経蔵が春日・住吉明神をまつり、石水院の名を継いで、中心的堂宇となる。
寛永14年(1637)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となっている。
明治22年(1889)に現在地へ移築され、住宅様式に改変された。
名をかえ、役割をかえ、場所をかえて残る、明恵上人時代の唯一の遺構である。
石水院 廂の間
石水院の西正面。かつて春日・住吉明神の拝殿であったところで、正面には神殿構の板扉が残る。
欄間に富岡鉄斎筆「石水院」の横額がかかる。鉄斎は明治期の住職土宜法龍と親交があり、最晩年を高山寺に遊んだ。
落板敷の中央に、今は小さな善財童子像が置かれている。
華厳経にその求法の旅が語られる善財童子を明恵は敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いたという。
吊り上げの蔀戸(しとみど)、菱格子戸、本蟇股(かえるまた)によって、内外の境界はあいまいにされ、深い軒が生む翳りの先に光があふれる。
石水院南縁
石水院の南面は清滝川を越えて向山をのぞみ、視界が一気に開ける。
縁から一歩下がって畳の上に腰をおろすと、風景が柱と蔀戸、広縁によって額縁のように切り取られる。
南面の欄間には伝後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」がかかり、寺号の由来を語る。西面には長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の額も見ることができる。
「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」額
高山寺は古く「神護寺別院」「神護寺十无盡院」などと呼ばれ、栂尾の地にあった神護寺の別院であった。
建永元年(1206)11月、後鳥羽院の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜ったのが高山寺の起りである。
その際に下賜された後鳥羽院宸翰の勅額といわれる。
明恵上人樹上座禅像(国宝)
草創から現在に至るまで、高山寺は明恵上人の寺である。寺宝の多くが明恵に関わる。
明恵は承安3年(1173)に生まれ、寛喜4年(1232)に没した。八歳で父母を失い、高雄山神護寺の文覚について出家する。
東大寺で華厳を学び、勧修寺の興然から密教の伝授を受けた。
建永元年(1206)後鳥羽院より栂尾の地を賜り、高山寺を開く。
明恵といえば、厳しい修学修行、釈迦への思慕、自然との調和、人間味あふれる逸話、夢幻に彩られた伝説、書き留められた夢などが想起される。
若き日には、求道の思いから右耳を切り落とし、釈尊への恋慕から二度にわたってインド行きを企んだ。
残された和歌も自在な境地を伝える。
あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月 (明恵上人歌集)
仏眼仏母像(国宝)
木彫りの狗児(重要文化財)
鳥獣人物戯画(国宝)
石水院を去る前にもう1枚
石水院を出て道なりに進んで行く。周囲の景色からもわかるように歩いていても爽快な気分になる。
開山堂
明恵(1173~1232)が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に立つ。明恵上人坐像が安置され、御影堂信仰の対象となった。
建物は室町時代に兵火をうけて焼亡し、江戸時代に再建されたものである。現在、法要はこの開山堂で営まれることが多い。
聖観音菩薩
自然の中にとけこみ、見事に調和している。
明恵上人御廟
仏足石
釈迦の足跡をかたどり礼拝の対象としたもので、千輻輪宝、金剛杵、双魚紋などの紋様をもつ。境内には「仏足石参道」の石碑が2基あり、信仰を集めたことが知られる。
金堂
かつての本堂の位置に立つ。桁行3間、梁間3間の一重入母屋造、銅板葺。
承久元年(1219)に完成した本堂は、東西に阿弥陀堂、羅漢(らかん)堂、経蔵、塔、鐘楼、鎮守を従えた檜皮葺(ひわだぶき)5間4面の堂宇で、運慶作の丈六盧舍那仏(るしゃなぶつ)などが置かれたという。
その本堂は室町時代に焼失し、現在の金堂は江戸時代寛永年間(1624~44)に御室仁和寺真光院から古御堂を移築したものである。釈如来像を本尊とする。
撮影 平成25年5月24日
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