訪問日 令和5年6月5日
祝田神社(はふりたじんじゃ)
旅先で声を掛けられた宮司が(体調不良の宮司に代わり)管理しているという神社を訪れた
祝田神社とメモしていたが「はふりた」とは読めなかった
鎮座地の地名の林田は祝田の転称だという
二の鳥居
両部鳥居で、鮮やかな赤で全体が塗られている
宮司との会話の中で「必ず寄ります」と気軽に応えたが、由緒ある古社だったということに正直驚いた
鳥居を背に境内を眺める
神馬が狛犬のように迎えてくれる
総門
石段の上に見えるのが総門
右の石柱上部に菊の御紋が見える
額には「貴船社」
寛治7年(1093年)、当地が林田庄となったとき、貴船神社の祭神を勧請し相殿として祀った
この社を「貴船社」また「貴船大明神」と呼ぶようになつた
その後、源頼朝が建久3年(1192年)に社殿を再建し社号も貴船神社とし祝田神社はその奥宮に祀られた
随身像ではなく、右側の部屋に「神馬像」
更に石段を上がる
手水舎
狛犬
歴史を感じる狛犬
拝殿
額には「祝田社」
幣殿・本殿
創立年代不詳ではあるが、社記によると景行天皇の御代(4世紀前半)
日本武尊が熊襲征伐のとき播磨灘で台風に遭い、当社に祈り浪が静まったとある
江戸時代には藩主・建部氏が累代の氏神として社務は藩庁でとった
天保9年(1838年)藩主の命により毎年5月に守護札を発行したという
本殿
祭神:罔象女神(みずはのめのみこと)
高龗神(たかおのかみ)
奥殿
本社本殿の後方に桟瓦葺の一間社流造の社殿
かつて背後の貴船山にあった奥宮を移築したもの
江戸時代には式内社「祝田神社」はこの奥宮とされていた
絵馬殿
奉納額には明治・大正・昭和の時代のものが多い
霊社
「志霊社」と「祖霊社」の相殿となっている
鳥居
末社拝殿
左側から順に「聖神社」「三嶋神社」「粟嶋神社」「稲荷神社」「天満宮」「松尾神社」
日本武尊御肖像
本殿奥の高い場所に像があった
石段を上がり近くに寄ってみた
この時は日本武尊とは思わず、聖徳太子かと想像していた
今回歴史を調べているうちに「日本武尊」にやっと結びついた
熊襲征伐のときに、この神社に立ち寄っていた
金刀比羅宮
石灯籠
石段を下りる
神馬
これで、旅先で声を掛けられた宮司との約束を果たすことができた
撮影 令和5年6月5日
祝田神社(はふりたじんじゃ)
旅先で声を掛けられた宮司が(体調不良の宮司に代わり)管理しているという神社を訪れた
祝田神社とメモしていたが「はふりた」とは読めなかった
鎮座地の地名の林田は祝田の転称だという
二の鳥居
両部鳥居で、鮮やかな赤で全体が塗られている
宮司との会話の中で「必ず寄ります」と気軽に応えたが、由緒ある古社だったということに正直驚いた
鳥居を背に境内を眺める
神馬が狛犬のように迎えてくれる
総門
石段の上に見えるのが総門
右の石柱上部に菊の御紋が見える
額には「貴船社」
寛治7年(1093年)、当地が林田庄となったとき、貴船神社の祭神を勧請し相殿として祀った
この社を「貴船社」また「貴船大明神」と呼ぶようになつた
その後、源頼朝が建久3年(1192年)に社殿を再建し社号も貴船神社とし祝田神社はその奥宮に祀られた
随身像ではなく、右側の部屋に「神馬像」
更に石段を上がる
手水舎
狛犬
歴史を感じる狛犬
拝殿
額には「祝田社」
幣殿・本殿
創立年代不詳ではあるが、社記によると景行天皇の御代(4世紀前半)
日本武尊が熊襲征伐のとき播磨灘で台風に遭い、当社に祈り浪が静まったとある
江戸時代には藩主・建部氏が累代の氏神として社務は藩庁でとった
天保9年(1838年)藩主の命により毎年5月に守護札を発行したという
本殿
祭神:罔象女神(みずはのめのみこと)
高龗神(たかおのかみ)
奥殿
本社本殿の後方に桟瓦葺の一間社流造の社殿
かつて背後の貴船山にあった奥宮を移築したもの
江戸時代には式内社「祝田神社」はこの奥宮とされていた
絵馬殿
奉納額には明治・大正・昭和の時代のものが多い
霊社
「志霊社」と「祖霊社」の相殿となっている
鳥居
末社拝殿
左側から順に「聖神社」「三嶋神社」「粟嶋神社」「稲荷神社」「天満宮」「松尾神社」
日本武尊御肖像
本殿奥の高い場所に像があった
石段を上がり近くに寄ってみた
この時は日本武尊とは思わず、聖徳太子かと想像していた
今回歴史を調べているうちに「日本武尊」にやっと結びついた
熊襲征伐のときに、この神社に立ち寄っていた
金刀比羅宮
石灯籠
石段を下りる
神馬
これで、旅先で声を掛けられた宮司との約束を果たすことができた
撮影 令和5年6月5日
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