今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

熊本城(熊本県熊本市中央区本丸)

2014年02月04日 | 
個人的には熊本城は二度目になる
前回はライトアップされた時間であったため、ほとんど見ていない。
らに途中からにわか雨に遭い、天守閣で困っていると係の人が傘を持って行きなさいと渡してくれた思いでの場所でもある

熊本城
加藤清正は、1591年(天正19年)から茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた

今、手元の案内図を見ると「須戸口門」から入園したことになる



不開門(重要文化財)  
古くから東北の方角は鬼門と呼ばれ、不浄の気の出入りするところと考えられた
築城にあたっても、この方向は塞いでも開け放ってもいけないとされていた
そこから不開門(あかずの)門と呼ばれ死人や不浄物の搬出時にだけ用いられた



熊本城の石垣は見事だがよく見ると大小様々な石が使われて組み込まれていることがわかる



天守閣
茶臼山の最高所、標高50mの天守台に築かれ、大小2つの天守からなる

 

大天守は外観3層内部6階地下1階で、石垣の上に大根太を張り出して建物がその上に乗っている
四面に優雅に反った千鳥破風を配し、最上階の南北には唐破風を据えている



日本三名城の一つ、他に名古屋城、姫路城、大阪城(4つになる)



私の三名城は姫路城、熊本城、松本城になる。松江城や犬山城も好きだ



小天守閣の中にも入ることができる



天守閣内部は熊本博物館分館となっており、1階は加藤家時代、2階は細川家時代、3階は西南戦争関連の資料を展示している 



最上階は展望所となっている



見えているのは「宇土櫓」



遠くに熊本市の街並みが見える



堀の深さからも防御の堅固さがうかがえる



本丸御殿大広間 
往時の本丸御殿には、藩主の居間、対面所(接客の場)や台所等の機能が備わっていたが、今回、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大御台所(おおおんだいどころ)を復元
建築面積:約2,161平方メートル。建築費:約41億8千万円で復元

大御台所では巨大な小屋組みを見ることが出来る









障壁画の復元を行った「昭君之間、若松之間」









再び天守閣前へ。この場所が撮影するには最適と思われる



大小天守閣を裏側から見る

 

宇土櫓(重要文化財)
熊本城では大小天守を除いて最大の櫓である
高さ約19メートルあり、近世以前に建造された天守や櫓との比較では姫路城、松本城、松江城に次いで4番目の高さである



宇土櫓の名前の由来は宇土の小西行長が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路として現在に名前を残す
京町に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかと言われている



宇土櫓の屋根には鯱が乗り、大小天守閣と並んで三の天守と呼ばれることもあるが、この鯱は旧来からあったものではない
昭和2年(1927年)に陸軍が解体修理した際に城内に保管してあった鯱を取り付けたもの



宇土櫓天守閣から大小天守閣を見る






額縁を意識して撮ったのだが



人が見えている所が出入口になる



違和感のある廊下
この長い廊下を歩いていたときに、平衡感覚に違和感を覚えていた
一緒にいた一人が鉛筆のようなものをその廊下に置くとコロコロと転がっていく
それを見ていた係の人が近くに来て「おぬしできるな」ではなく「調べてきていますね」と声を掛けてきた



敵が刀を持って攻めてきた時に、その「しかけ」が発揮するように造っているそうだ
こちらに来て下さいと、立入禁止場所に案内してくれて隠し部屋なども見せてくれた 


撮影 平成23年10月1日

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