今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

丸岡城<別名:霞ヶ城>(福井県坂井市丸岡町霞)

2024年08月22日 | 
訪問日 令和6年5月30日

丸岡城(別名:霞ヶ城)
現存12天守(江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守)の一つ
国宝-5城(松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城)
重要文化財-7城(弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城)



一筆啓上碑
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
徳川家康の家臣であった本多作左衛門重次が、戦場から妻に送った手紙文
簡潔にして要を得たこの文は、手紙文の手本として今日でもよく紹介されている
「お仙泣かすな」のお仙は、後に「丸岡城」の城主になった「本多 成重(幼名:仙千代)」



丸岡城には、これまで4~5回訪れている
2年前には地元のお祭りか何かで駐車場に屋台が出ていて駐めることができずに諦め、今回の訪問になった



城周辺を歩き石垣を撮る



丸岡城を支える石垣は「野づら積み」という古い方式
すき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれている



石垣の高さ約6.2m



昭和23年(1948年)の福井地震によって天守が倒壊
現在の天守は、昭和30年(1955年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたもの
この石垣が崩れたという資料はなかった



鯱(石製しゃち)
木彫銅板張りであったものを昭和の修理の際に、(戦禍中で銅板入手困難)石製の鯱に改めた
昭和23年(1948年)の福井地震の際、棟より落下した鯱である



現在、天守閣の上にのっている鯱は、もとの「木彫銅板張り」に復元したもの



雲井龍神
城主となった有馬氏によって勝利の守神として祀られたが、廃城後は荒れ果て、昭和40年(1965年)に再興された






「霞ヶ城」の名の由来






高齢者には厳しい石段でここで諦める人もいる
安全対策はなく、自己責任でということも気に入っている



現存12天守巡りも旅の目的の一つに加えたが、あと、3つ残っている(備中松山城、松山城、宇和島城)
年齢的にも2年以内に達成したいと考えている



「石落とし」



「狭間」



1階と2・3階の間に通し柱がなく、1階が2・3階を支える構造



天井の柱にも匠の技が



急階段
私が訪れた城の中では一番の難所
カメラを左手に持ち、右手でロープを操作することはとても難しい
この男性は、両手両足を使って上がっている



1階から2階に上る階段が65度
2階から3階部分で67度の全国でも珍しい急階段
今回、この階段を見て、断念した高齢の女性がいたが賢明な選択だと思う






高所恐怖症なので窓の近くに寄ることができないが
屋根は石瓦で葺かれている(現存天守では唯一の事例)



天正4年(1576年)、柴田勝豊が豊原を離れ、坂井平野東部の独立丘陵である丸岡に城郭を築き、拠点を移したのが築城年
初代城主:柴田勝豊



無事、何事もなく下りてきた
いつも思うことだが、城は下から眺めるのが一番いい



お静慰霊碑



昭和の工事の際、天守台石垣からは人柱の証拠となるような遺構が検出されず、この逸話はあくまでも伝説として扱われている






牛ケ島石棺(坂井市指定文化財)



被葬者は有力な首長層か



一筆啓上 日本一短い手紙の館(福井県坂井市丸岡町霞町3-10-1)
丸岡城の入場券で入館できる



選考委員の紹介



一筆啓上賞の歴史とともにこれまでの入賞作品を展示



快適な空間であった



撮影 令和6年5月30日

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