今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

高野山<奥の院>その5(最終回)(和歌山県伊都郡高野町高野山)

2021年07月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月24日

高野山<奥の院>(最終回)
金剛三昧院から駐車場に戻ると雨が降ってきた
残るは奥の院だけになったが、奥之院入り口の一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2kmにわたる参道が続く
30分ほど待つと小降りになってきたので、中間地点となる「中の橋」近くの駐車場に移動し出発した



日産自動車慰霊碑
中世以降、高野聖による勧進や納骨の勧めにより参道沿いには約20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並ぶ
近年では、大手企業による物故者従業員慰霊碑なども立っている



芭蕉句碑



加賀前田家二代利長墓
歴史上でも前田利長は好きな人物の一人だ



安芸浅野家墓所



松平秀康及び同母霊屋(重要文化財)
松平秀康は徳川家康の次男で越前松平家初代当主
右側が松平秀康を祀る霊屋 慶長12年(1607年)建立
左側が松平秀康の母を祀る霊屋 慶弔9年(1604年)秀康が建立



幅・奥行き共7.5mの二基の石廟を並べ、木材を使わず全て石造りとした



肥前島原 松平家墓所



豊臣家墓所(和歌山県指定史跡)



墓所の表面には豊臣秀吉と母、秀吉の弟 秀長と夫人など一族の墓がある



信長に続き高野攻めを行った秀吉は、高野山の「興山応基(こうざんおうご)上人」の説得により高野攻めを取り止めた
以後、応基上人の言葉に耳を傾け、高野山の庇護と復興興隆につとめた



織田信長・筒井順慶墓所



御廟橋
通称「無明橋」
この橋は、36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表している
御廟橋の裏には36の梵字が刻まれている



玉川にかかる橋を渡ると「弘法大師空海御廟」への霊域に入る
この川は特に神聖とされ、橋が掛かるまでは川に浸かりながら渡ることで、手足を清め御廟へ参ったと伝わる



正面に見えるのは弘法大師空海御廟ではなく「燈籠堂」
その奥に、空海が入定留身の地。檜皮葺三間四面宝形造の堂宇で正面に唐戸とよばれる扉がある
御廟は瑞垣に囲われている。入定塚は石室に小石が積まれた形状



水向地蔵



地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩などが安置されており、これらを総称して水向地蔵と呼ぶ






護摩堂
不動明王、毘沙門天、大師像を祀る



御供所
弘法大師への食事や供え物を準備する場所で大黒天を祀る
大師に食事を供える儀式の事を「生身供」とよび、朝食(午前6時)、昼食(午前10時半)の1日2回供えられる
食事を供える前に、御供所の脇の「嘗試地蔵(あじみじぞう)」に供え、地蔵が味見をしてから御廟の大師に供えられる



手水舎



頌徳殿
大正4年(1915年)建立。茶処で無料休憩所



興山応基上人廟
応基上人は、高野山焼き討ちから救うとともに、その復興に活躍した傑僧
興山上人とも木食応基(もくじきおうご)とも呼ばれている



浅野内匠頭墓所



法然上人圓光大師墓所



見真大師御墓
見真大師は親鸞の諡号。親鸞聖人は尊称



救世観音



高野山大門から壇上伽藍、金剛峯寺から奥の院まで約5kmの距離がある
歩いて回るのも良し、車で回るのも無料駐車場が完備しているので良し

撮影 令和3年5月24日

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