今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町1-4)

2022年07月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月20日

金崎宮(かねがさきぐう)
明治23年(1890年)の創建
祭神:恒良親王・尊良親王



史跡 金ヶ崎城跡
治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる
南北朝時代の延元元年(1336年)から翌2年(1337年)3月にかけて、金ヶ崎城に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と
それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦い
尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、3月6日、落城する
恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出したが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月毒薬を盛られて亡くなった。御年15歳であった



鳥居
額には「金崎宮」



「金崎宮縁起」
当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を 金崎宮とした
明治25年に恒良親王を本宮に合祀した



「案内図」



鳥居(拝殿前)
金ヶ崎城跡の麓に、足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮がある



春は桜の名所らしいがこの季節も社殿が緑に囲まれ美しい



狛犬






手水舎



神楽殿
境内の中央にあるのが神楽殿









拝殿



尊良親王とその妻の恋愛伝説や、明治40年代に始まった「花換祭」の風習により、「恋の宮」の別名でも知られている
花換祭には「福娘 香恋(カレン)ちゃん」から、幸福祈願 恋みくじが分けられるらしい



信長の妹お市が、浅井氏裏切りの危機を知らせるため両方を紐で結んだ袋に小豆を入れ陣中に届けた「難関突破守・勝守」もある



本殿
明治36年3月、町内からの出火により本殿以下三棟を焼失
本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた
祭神:尊良親王(たかながしんのう)※後醍醐天皇一の宮
   恒良親王(つねながしんのう)※後醍醐天皇皇太子



拝殿側から見た神楽殿



拝殿の左に移動する



摂社 絹掛神社
明治30年10月19日、社号を金崎宮摂社絹掛神社として御鎮座祭が執り行われた






藤原行房卿、新田義顕卿、気比氏治命、気比斎晴命、瓜生保命、瓜生義鑑命、里見時成命、里見義氏命 、由良具滋命、長浜顕寛命、武田与一命などの将士が祀られている



社務所



室町時代の長禄3年(1459年)守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まる
足利成氏征討の幕命を受けた斯波義敏は金ヶ崎城を攻撃するも、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗



金ケ崎の退き口
戦国時代の元亀元年4月(1570年)守護していた郡司朝倉景恒は援軍が遅れたこともあり、織田信長に対し開城する
しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎らに殿を任せ、近江朽木越えで京に撤退する(金ヶ崎の戦い)
家康も秀吉と共に金ヶ崎城に残り信長の撤退の際、殿を務めた
山内一豊も秀吉について殿軍として戦った



撮影日 令和4年5月20日

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