旅行時にカメラを持たずに脳に想い出を記憶するという旅好きの知人がいる。
一昨年、熊本の旅に同行したが確かに写真を撮っていない。
脳を使わずにメディアを多用する私とは真逆な人だが、その彼が瑠璃光寺の五重塔だけは携帯電話を取り出して写したという。
この話を聞いた塔好きの私としては当然気持ちが高ぶる。
瑠璃光寺の歴史
室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし足利義満に敗れて戦死する。
義弘の弟である26代大内盛見が兄を弔うためここに五重塔の建設を開始したが、盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで永享3年(1431年)に戦死する。
五重塔はその後嘉吉2年(1442年)頃に完成した。
陶氏の7代当主陶弘房の死後、弘房の夫人が夫を弔うために文明3年(1471年)建立した。当初は安養寺と呼ばれ、現在の山口市仁保高野にあったが、明応元年(1492年)に瑠璃光寺と改められた。
江戸幕府成立後、萩に依った毛利輝元が慶長9年(1604年)に香積寺を萩に引寺したため、跡地に元禄3年(1690年)、仁保瑠璃光寺を移転した。これが現在の瑠璃光寺である。
五重塔(国宝)
大内文化の最高傑作といわれる。室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立。
屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。
高さ 31.2m で屋根は檜皮葺。二層にのみ回縁がついているのが特徴である。
建築様式は和様であるが、回縁勾欄の逆蓮頭や円形須弥壇など一部に禅宗様(唐様)が採り入れられている。
駐車場から歩いていると塔が見えてくる。池の前に立つと思わず声が出た。本当に美しい塔だ。
周囲の風景と実にうまく調和している。いつもならカメラを取り出し連写するのだが、近くのベンチに座りしばらく風景を楽しんだ。
国宝の五重塔だが公園の中に位置し拝観料は無料。
昼食をとっている人もいる、子供たちも楽しそうに遊んでいる。とても雰囲気が良い。
美しい塔だが、やはり撮影ポイントがある。当日は修学旅行の高校生もいて、人が写りこまないよう注意を払った。個人情報云々いやな時代になった。
山門
本堂
佛足石
お釈迦様の偉大なる徳を慕い、石の上に立って我々を導いて下さったその足跡を伏し拝んだ。そこに足形を石に刻んだのが佛足石。
知足の手水鉢
手水鉢の四方の字と真ん中の口とを結ぶと「吾唯足知」となる。
お釈迦様が涅槃に入られる最後の説法の中で言われた言葉で、現実に感謝し不平不満を言わずより前進を誓うという意味。
ほう
約550年前のもので食事の準備ができたことを、これを叩いて各部屋の雲水に知らせた。
大内弘世公之像
香山墓所(史跡)
萩市の天樹院、大照院、東光寺とともに長州藩主の墓所となっている。
香山墓所には明治維新当時の当主、13代毛利敬親などの墓がある。この墓所は土饅頭の全面に墓石を建てる形式。
うぐいす張の石畳
香山墓所に至る石段の前にある石畳の上で、石畳を強く踏みつけたり手を打ったりすると、「キュ」という音が返ってくる。
これは周囲の地形や石段による音響効果のためであるが、意図してそのように作られたものではなく、偶然の結果であると考えられている。
修学旅行の生徒達が手を叩いたり、ジャンプしたり墓地が賑やかな場所になっていた。誰もいなくなってから私も試してみたが本当に面白い。
勅撰銅碑
明治天皇が毛利敬親の偉業を永久に伝えるために、碑の建立を命じ、その命により建てられた。
宿り木(サルスベリの木に大きく育つ松の木)
宿り木の言葉は知っていたが実際に目にしたのは初めてなので驚いた。
滑りやすいサルスベリの木に大きく育つ松の木、赤文字でご進学に大人気。
さらに風車を木の側に置いて参拝者に注目されるよう工夫されていた。
美しい塔は誰が写真をとってもうまく写すことができる。
旅行者は与えられた条件があるので良い方に恵まれるといいが、今日は天気が良すぎて困ってしまった。
真っ白な空だが青空が出たら変わるのか、少し曇ってくれたらどうなんだ、いろいろ考えているうちに、気がつけばこの狭い空間に4時間も滞在してしまった。
帰り際になって、やっと思いが叶ったのか、空に少し青い色と薄い雲がでてきた。
空腹、疲労、満足感で駐車場に向かう道でふと振り返ると木の間から五重塔が見える。
思わずシャッターを切った。この写真が瑠璃光寺を参拝した記念写真として、私のお気に入りの一枚となるとは知らずに。
撮影 平成25年5月16日
一昨年、熊本の旅に同行したが確かに写真を撮っていない。
脳を使わずにメディアを多用する私とは真逆な人だが、その彼が瑠璃光寺の五重塔だけは携帯電話を取り出して写したという。
この話を聞いた塔好きの私としては当然気持ちが高ぶる。
瑠璃光寺の歴史
室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし足利義満に敗れて戦死する。
義弘の弟である26代大内盛見が兄を弔うためここに五重塔の建設を開始したが、盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで永享3年(1431年)に戦死する。
五重塔はその後嘉吉2年(1442年)頃に完成した。
陶氏の7代当主陶弘房の死後、弘房の夫人が夫を弔うために文明3年(1471年)建立した。当初は安養寺と呼ばれ、現在の山口市仁保高野にあったが、明応元年(1492年)に瑠璃光寺と改められた。
江戸幕府成立後、萩に依った毛利輝元が慶長9年(1604年)に香積寺を萩に引寺したため、跡地に元禄3年(1690年)、仁保瑠璃光寺を移転した。これが現在の瑠璃光寺である。
五重塔(国宝)
大内文化の最高傑作といわれる。室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立。
屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。
高さ 31.2m で屋根は檜皮葺。二層にのみ回縁がついているのが特徴である。
建築様式は和様であるが、回縁勾欄の逆蓮頭や円形須弥壇など一部に禅宗様(唐様)が採り入れられている。
駐車場から歩いていると塔が見えてくる。池の前に立つと思わず声が出た。本当に美しい塔だ。
周囲の風景と実にうまく調和している。いつもならカメラを取り出し連写するのだが、近くのベンチに座りしばらく風景を楽しんだ。
国宝の五重塔だが公園の中に位置し拝観料は無料。
昼食をとっている人もいる、子供たちも楽しそうに遊んでいる。とても雰囲気が良い。
美しい塔だが、やはり撮影ポイントがある。当日は修学旅行の高校生もいて、人が写りこまないよう注意を払った。個人情報云々いやな時代になった。
山門
本堂
佛足石
お釈迦様の偉大なる徳を慕い、石の上に立って我々を導いて下さったその足跡を伏し拝んだ。そこに足形を石に刻んだのが佛足石。
知足の手水鉢
手水鉢の四方の字と真ん中の口とを結ぶと「吾唯足知」となる。
お釈迦様が涅槃に入られる最後の説法の中で言われた言葉で、現実に感謝し不平不満を言わずより前進を誓うという意味。
ほう
約550年前のもので食事の準備ができたことを、これを叩いて各部屋の雲水に知らせた。
大内弘世公之像
香山墓所(史跡)
萩市の天樹院、大照院、東光寺とともに長州藩主の墓所となっている。
香山墓所には明治維新当時の当主、13代毛利敬親などの墓がある。この墓所は土饅頭の全面に墓石を建てる形式。
うぐいす張の石畳
香山墓所に至る石段の前にある石畳の上で、石畳を強く踏みつけたり手を打ったりすると、「キュ」という音が返ってくる。
これは周囲の地形や石段による音響効果のためであるが、意図してそのように作られたものではなく、偶然の結果であると考えられている。
修学旅行の生徒達が手を叩いたり、ジャンプしたり墓地が賑やかな場所になっていた。誰もいなくなってから私も試してみたが本当に面白い。
勅撰銅碑
明治天皇が毛利敬親の偉業を永久に伝えるために、碑の建立を命じ、その命により建てられた。
宿り木(サルスベリの木に大きく育つ松の木)
宿り木の言葉は知っていたが実際に目にしたのは初めてなので驚いた。
滑りやすいサルスベリの木に大きく育つ松の木、赤文字でご進学に大人気。
さらに風車を木の側に置いて参拝者に注目されるよう工夫されていた。
美しい塔は誰が写真をとってもうまく写すことができる。
旅行者は与えられた条件があるので良い方に恵まれるといいが、今日は天気が良すぎて困ってしまった。
真っ白な空だが青空が出たら変わるのか、少し曇ってくれたらどうなんだ、いろいろ考えているうちに、気がつけばこの狭い空間に4時間も滞在してしまった。
帰り際になって、やっと思いが叶ったのか、空に少し青い色と薄い雲がでてきた。
空腹、疲労、満足感で駐車場に向かう道でふと振り返ると木の間から五重塔が見える。
思わずシャッターを切った。この写真が瑠璃光寺を参拝した記念写真として、私のお気に入りの一枚となるとは知らずに。
撮影 平成25年5月16日
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