今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

春日山神社から春日山城跡(新潟県上越市大豆)

2013年06月17日 | 神社・仏閣
春日山神社の歴史
山形県米沢市の上杉神社より分霊された上杉謙信命を祀る。明治20(1887)年、旧高田藩士小川澄晴が発起し、前島密らの援助を受けて明治34(1901)年に創祀された。本殿は神明造りである。

春日山神社
林泉寺駐車場の案内板によると歩いて行ける距離に春日山神社がある。神社近くに駐車場もあり、今回も無理することなく車で移動することにした。車を降りると目の前に神社定番の長い階段がある。体重も増え、足腰も弱ってはきているがたいしたことはないだろうと登ってはみたが、途中3度休憩するはめになった。到着してわかったことだが上にも小さな駐車場があった。









 神社の右側に小道があり、反対方向から歩いてきた二人連れの女性参拝者に何があるのかと尋ねてみたところ春日山城跡につながる道だという。疲労に暑さも加わり体を動かすという気力も低下していたので、「往復に要する時間や歩いて行く価値があるか」など、つい失礼な質問をしてしまったが、「気持ちもよくて、最高ですよ」と笑顔で応えてくれた。間髪入れず「じゃ行ってみます」とつい笑顔で声を発してしまった。

千貫門跡、空堀、虎口
昨日まで北海道は10℃以下の低温が続き、道東では積雪。まだ暑さに慣れていない体なのに、今日(5月9日)の上越市は25℃を越えている。「最高ですよ」と応えてくれた相手は頭から足元まで、いわゆる「山ガール」の服装、水筒までぶら下げていた。もう遅いが、聞く相手を間違えた。息も切れ、喉もからからの状態で歩いていると案内板が見えてきた。



写真ではわかりにくいが、三方が土塁と土手に囲まれ、左に2本、一見道と思われる切り通しがある。これは空堀の底で、侵入者を空堀から急峻な崖下に落とそうとしたものといわれている。城に入る玄関にあたるところを「虎口」という。敵が城内に直進できなくするため、食い違いになるよう工夫されている。



直江屋敷跡
直江兼継は謙信の跡目を継いだ上杉景勝の家老として働いた。景勝が会津へ国替えになったときに同行し、米沢藩30万石の城主となった。NHK大河ドラマ「天地人」の主人公として「愛」で有名になったが、私にとっての直江兼継はCR花の慶次というパチンコ台で兼継が画面に登場した時の期待感と緊張感だ。また、藤沢周平の小説「密謀」の主人公でもあり小説内で兼継が春日山城から出陣していく姿がいくつか描かれている。実際、この地に立つと小説の中のいろいろな場面が目に浮かんでくる。






毘沙門堂
この御堂には謙信公が信仰された毘沙門天の尊像が安置されている。嘉永2年の火災で傷んだが名匠高村光雲が修理し、昭和6年11月に昔の堂跡にこの祠堂を建て奉安された。毘沙門天は悪魔を降ろす神で、謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、「毘」の字の旗を陣頭にかざした。また、事あるときはこの堂前で諸将に誓を立てさせた。
という案内板の内容で毘沙門堂の歴史を理解し写真を撮ろうとしたところ、地元の方と思われる老人が突然「般若心経」を唱えだした。決して流暢とは言えないが、暗唱した経文の一文字一文字を大切に言葉にしながら、毘沙門天と会話しているような不思議な瞬間に立ち会うことができた。






10cm四方のガラスの無い部分から「毘沙門天(50cm)」を撮影



護摩堂跡、諏訪堂跡
謙信が出陣前に毘沙門堂に籠もったことはよく知られているが、戦勝や息災を祈祷したのがかつてこの地にあった護摩堂である。



本丸、天守台跡
南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれていた所。標高180mの本丸からはかつての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できる。












本来なら美しい風景に感動しているところだが、二人の女性がピクニック気分で昼食を楽しみ会話をしている場所に目がいく。喉の渇き、疲労に加え空腹だったことに気づく。帰りは周囲の風景を楽しむ余裕もなく、下山途中に捻挫した左足を引きずりながら駐車場へ向かった。



春日山城のその後
天正7(1579)年に養子の上杉景勝に、慶長3(1598)年には堀秀治に引き継がれた。しかし、堀氏が慶長12(1607)年直江津港近くに福島城を新築して移ることにより城としての運命を終えることになった。



撮影 平成25年5月9日
コメント (3)
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春日山 林泉寺(新潟県上越市中門前)

2013年06月16日 | 神社・仏閣
春日山 林泉寺の歴史
明応6年(1497)年、越後国守護代長尾能景公が亡父重景公の17回忌にあたり、長尾家の菩提所として創建された。それから40年後、能景公の孫上杉謙信公は6世天室光育大和尚に学問を、7世益翁宗謙大和尚について禅の教えを学んだ寺である。

惣門
JAFMateという冊子に「お國navi(歴史を感じる旅)」という旅心がくすぐられる記事と写真がある。そのなかでも林泉寺の朝霞につつまれた雪景色の惣門の写真が頭から離れず、今回の旅に大きな影響を及ぼすことになった。当初、小樽港からフェリーに乗り、舞鶴港まで行く予定であったが、新潟港に変更して下船、途中立ち寄りたい所もあったが最初の訪問地として林泉寺を選んだ。
 近接の無料駐車場に車を止め、カメラを持って惣門へ向かう。快晴の天気、もちろん霞んでもいないし雪もない、心が動かされた写真のことなどすっかり忘れ、惣門周辺を動き回り自分なりのベストアングルを探してシャッターを切る。さて、この茅葺きの惣門であるが、上杉謙信公により春日山城の搦手門を移築したものと伝えられ、往時を今に伝える唯一の門である。上越市の指定文化財。高級カメラを持っている人の話によると、やはり降雪時には写真愛好家が集まるようである。





山門
惣門の右側に受付所があり志納料(宝物館廃館料込)500円を支払う。係の女性の心のこもった対応に長旅の疲れも心地よさに変わってきた。気づくと目の前に山門が見える。謙信公建立の山門は江戸末期に地震によって焼失、大正14(1925)年謙信公生誕400年を記念して再建された。仁王像は台座の高さも合わせると4m近くに及ぶ、私のお気に入りは作者不明だが龍の図、上を見ながら通過しないと見逃す。残念なことに、帰りには意識から消えていた。












大槻磐渓翁作「春日山懐古」
江戸後期、頼山陽と並んで有名な伊達藩の儒学者。上杉謙信公を敬い慕って、雄図なかばにして亡くなられた英傑をしのんで詠まれた「春日山懐古」は名詩として有名とのこと。



鐘楼
鐘楼よりも近くにある真っ白の石仏が気になった。人形のように小さくて可愛い。林泉寺のHPのトップページにも掲載されているが歴史的に価値があるものとはとうてい思えない。しかし、合掌した表情は多くの参拝者に安らぎを与えてくれる。まさに一隅を照らす石仏である。






本堂
平成9年、開創500年を記念して建立。本尊「釈迦牟尼仏」、脇侍「文殊菩薩、普賢菩薩」。仏像鑑賞は大好きだが戸も閉められガラス越しにのぞき見をしているようで格好も悪いので断念。本堂屋根の金色に輝いているのは、林泉寺を菩提所とされた長尾氏、上杉氏、堀氏、松平氏、榊原氏の家紋である。



墓所入り口
長尾家、その後上杉家が会津に移封となり、かわって越後領主となった堀家、高田城主松平家、榊原家の菩提所。


上杉謙信公の御墓
天正6年(1578)年3月、遠征準備中に春日山城で倒れ急死した。享年49歳。遺骸は鎧を着せ太刀を帯びさせ甕の中へ納め漆で密封した。明治維新後、歴代藩主が眠る御廟へと移された。



川中島戦死者供養塔も謙信公の御墓の傍にある。



墓所から鐘楼、山門



宝物館(写真なし)
昭和46年に開館、林泉寺を菩提所とされた上杉謙信公をはじめ、各大名ゆかりの品々が多数展示されている。主な展示物として、生前中に描かれたものとして唯一存在する上杉謙信公の肖像画、謙信公直筆の山門大額「春日山」「第一義」、上杉軍の軍旗一式、仏像、甲冑等。普通なら一巡して何の記憶も残らず退室するところだが、突然係りの男性から声をかけられた。一巡に要した時間が普通の人より短かったのかも知れない。何と展示物について説明していただけるとのことだ。丁重にお願いしたところ展示物のすべてについて詳細に説明していただいた。要した時間約40分、知識を得た喜びよりも、謙信愛と自分の仕事に対する誇りに脱帽した。

宝物館から山門へ(私の旅の仕方)
お寺に参拝していつも思うことは寺を後にするときの心地よさだ。時として人間的に成長したのではないかと錯覚することもある。さて、私の旅の仕方だが事前に調べるということはしない。繰り返すことになるが林泉寺へは雪景色の茅葺きの惣門の写真と電話番号をナビに入れたことで訪れることになった。謙信公との関係も何も知らなかった。いつも旅を終えてから自宅に戻り、歴史等を念入りに調べる。見逃したところや後悔するようなことがあったら次の機会に訪れることにしている。



最後に惣門へ
受付所の女性に感謝の気持ちを込めて一礼。再び惣門の周囲を歩き林泉寺での色々の思いを記憶し車に戻る。今回は3週間ののんびりした旅だが次にどこを訪れるかはまだ決めていない。



撮影:平成25年5月9日
コメント (3)
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