単元の前半で、私もお決まりの発問をしていました。
「クラムボンってなんだと思いますか?」
子どもたちの答え
「かにの子どもたちがはいたあわ。」
「外から入ってくる光」
「別のかに」
「水中にいる微生物」
予想通りでした。
さらにその後、宮沢賢治ファンという年配の先生が「飛び込み授業」で来てくださって、いろいろと語る中で
「クラムボンっていうのはね」
だいぶもったいぶって
「実はアメンボなんだよ。」
と答えを発表してしまいました。
「へぇ~」
子どもたちは(この先生が言うんなら、きっとそうだろう)っぽいリアクション。
子どもたちの意見も、年配先生の答えも、むずむずしながら聞いていた私。
その場では、クラムボンについて取り上げる気もなかったので、さらっととおりました。
・・・が、やまなしを学習し終えて、
「本来ならここで終わりですが、」
と、きりだしました。
「クラムボンについて」
じゃあ、どう取り上げるか。
先に出た子どもたちの意見を並べて、多数決をとって、討論をして、「よく考えたね。どれもなかなかの説得力だったよ」なんて、おきまりのあいまいパターンでしめるのは、もうやる必要はない思いました。
現代の一般論「子どもたちの自由な発想でよい」は、今回は却下です。
今年のクラスの子たちの、やまなしへの真剣な挑み方に、それは失礼だと思いました。
そこで、私が語ることにしました。
私が思っていることを、確信していることを、できるかぎりの言葉で語ることにしました。
「先生にしては珍しいですが、しばらく一人で話します。聴いていなさい。」
ここから先は、熱を込めました。
まず、子どもたちの意見を片っ端から否定しました。
「あわ」論…×
→かにの子どもらはその後に何度も「あわ」と言っているから。
「光」論…×
→川底には日光や月光や様々な光が入ってきていて、その描写はあちこちにあるが、かにの子どもらは反応していない。
「かに」論…×
→かにの子どもらが「分からない」と存在を表現しているものが、自分たちと同じ姿をしているはずがない。
「水中の微生物」「アメンボ」論…×
→川の外の生物であるかわせみや、やまなしのことでさえお父さんは詳しく知っているものしり。川中の生物なら知らないはずはない。
ここまで話して、子どもたちは息を飲んでいました。
先生が子どもたちの意見を真っ向からこんなに否定することが珍しい、というか初めてだったからでしょう。
そのリアクションがおもしろくて、私はさらに続けました。
「じゃあクラムボンは何者なのか。」
手がかりはかにの兄弟の会話です。
1 笑ったり、死んだりしている。紛れもなく、生き物だ。
2 殺されることもある。リアルな事実だ。
3 なぜ殺されたか。その複雑な事情は、かに程度の生き物には分からない。
4 ものしりのお父さんでさえ、分からない。(と思われる。)
教室は、徐々に恐怖感さえ感じるような雰囲気になってきました。
少し子どもたちがざわつきだしました。
「 …あっ」
と小声で、先生が言うであろう答えが分かった子も見え始めました。
そして、結論。
「先生はこう思っています。クラムボンは、人間です。」
だと思います。ではなく、です。と言いました。
あえて断定しました。
そのときの子どもたちの表情、やまなしの授業で初めて見る表情でした。
驚愕
恐怖
納得
批判
いくつもの鮮明な表情が見えました。
クラスはうるさい状況になっています。
「まだ、この話には続きがある!」
大きな声で続けました。
5 飛び込んできたかわせみも怪しい。なぜならお父さんが「そいつの目が赤かったかい?」と尋ねたとき、子どもらは「分からない」と言っている。なのに、「そいつはかわせみだ。」とは、どうみても不自然である。魚を取っていったのも、人間の仕業だと考えられる。
6 12月に「ラムネのびん」と描写している。これも急に人間くさい。やっぱり宮沢賢治はこの話に人間を描いている。
この「説」は、もちろん私の勝手な想像です。
でも、ずっと前から、私としては自然にそう思っていました。
私の中では自信がありました。
ときには、子どもたちに何をさせたいかよりも、先生が何をしたいか!
私は、初めてやまなしを語りたくなって、語りました。
・・・続きはまた次回。