「クラムボンは、人間だ。」
子どもたちを挑発するように私は断言しました。
そしてその説をいろんな側面から支持し、説得力を増しました。
驚く子どもたち。
クラムボンが人間だという話に怖さを感じているとともに、先生が強烈なことを断言することに唖然としている様子でした。
まず、この「クラムボンは人間」説についてですが、
前回の記事にも書いたとおり、私なりにずっと前から自然に思っていたことです。
諸説があることは知っていました。
それらの中には、子どもたちが考えた「光」や「あわ」なども含まれるようです。
教科書の解説書を読むと、なんと7?8?通りもの答えが掲載されていました。
が、どれも「かもしれない」というもので、やはりあくまで「子どもに自由に想像させたい」ものだそうです。
ちなみに、その解説の中には「人間」というものはありませんでした。(当たり前か?)
前に先輩の先生が「アメンボ」と言ったことについて。
聞くと、以前は教科書の注釈にそう記載されていた時期があったようです。
が、それが教科書が新しくなるとかき消され、「不明」と現在の形になりました。
だから、なおさらアメンボじゃないはず。
今時、ネットで検索すれば、またいろんな説が出てくるのでしょうが、今回それはしませんでした。
ネットで簡単に諸説に触れたくない気がしたのです。
そして、私なりに、自分の考えを何者にも揺るがせたくないと思ったのです。
さて
この話で、「やまなし」の学習が、意外な形で子どもたちにとってはインパクトが強いものになったことは間違いないでしょう。
手ごたえがありました。
授業が終わり、休み時間以降もどこか騒々しい教室。
それから数日の間に、子どもたちにある変容が見られました。
・次の日の日記に、クラスの3分の2の子たちが「クラムボン」について書いた。先生の説を支持する子も批判する子も。
・家の大人にこの話をしたとう子が数人。「お父さんは~って思ってたよ」と教えてくれる子も
・やんちゃ少年が、図書室で宮沢賢治の伝記を借りた。うれしそうに先生に見せにきた。
・家でインターネットで「クラムボン」を調べる子も。(「人間」とする説も見つけたそうだ)
・飛び込み授業に来てくれた年配先生のところへ行き、クラムボンについて討論したというグループも
そして、うれしいことに
・「宮沢賢治のほかの作品も読んでみたい?」と尋ねたところ、全員が大きくうなずいた。予定外だったが、一時間使って、図書室の宮沢作品を全部教室に持ち込んで、回し読みした。
回し読みした後、感想を聞いたら、おもしろいことに全員同じことを言いました。
「意味が分かりません」
そうなんです。
「やまなしも最初はそうだったよね。」
「うん」
「何度も読むうちに、生きることの恐怖や希望を感じたんだよね。」
「うん」
「宮沢賢治って、そういう作品を書くのかもね」
そんな話ができました。
こういった子どもたちの姿が、私にとっても大変意外なもので、そして新鮮で、うれしかったです。
子どもたちが物語により深く首をつっこむ。
自分なりの読み方に挑む。
文学作品というものに関心を高くする。
作者に思いを寄せる。
物語文を教材として扱う国語学習で、最もねらいとするところです。
思いました。
子どもたちを学ぶことに本気にさせたいなら、それなりのきっかけが必要!
クラムボンがどうこうということが目的じゃなくて、それは一つのきっかけとなりました。
今回の場合、先生の熱意が、おもしろい説が、きっかけをつくったのでしょう。
正直、クラムボンの話をする前は、そんなことまで見通して話をしたわけではありませんでした。
ただ、自分の本気の話を初めてしてみようと思っただけです。
それが結果、子どもたちにとっては一つの変容を生むきっかけになったという話です。
私は国語を専門とするわけじゃなく、全くもって未熟な授業であることは百も承知なのですが、未熟なりに、私はうれしかったです。
新しい感触に、また授業に対する見方の幅を広げることができたような気がしました。