送別会シーズンですね。
私も一発目の会に出ました。
いわゆる「おやじの会」の送別会です。
もちろん、この会では大変お酒が進み、男同士で盛り上がります。
私も嫌いではない(…というか好き)なので、久しぶりの参加でしたが、終始楽しく過ごさせてもらいました。
お父さんたちは、なんというか、表裏がなく、本音で、まっすぐ話ができるからいいですね。
お母さんたちが全くそうではない、とうわけではありませんが、やはり、少し影のあるというか、噂話に盛り上がるというか、「ここだけの話」的なものが多いというか… そんな印象があります。
お父さんたちとはいろんな話をしました。
まず、先生とお父さんがひざを交えて話をするということ自体が珍しいことで、お互いに話せるというだけで、何かうれしさが伝わる感じがしました。
うれしかったのは、多くのお父さんに
「先生の日報、毎日読んでますよ」
って言ってもらえたことです。
「えっ、本当ですか!?」
「そうですよ~ みんな読んでますよ」
「え~ まさかお父さんたちにも読んでもらっているとは、思っていませんでした。」
「よく毎日書くネタがありますね。子どもと会話するきっかけにもなるんですよ。」
そう言ってもらえて、自分がコツコツと続けていることが、報われるような気分でした。
また続けることにやる気が出ました。
同時に、お父さんたちの視線も感じながら書かなきゃなって言う、新しい刺激をもらいました。
話題は、体罰のことになりました。
一連のニュースはもちろん周知のことでした。
それを受けて、我々の学校現場にもその余波はやってきていて、いろんな研修や調査が行われています。
今、日本で体罰に関して神経を研ぎ澄ませていない学校はないでしょう。
体罰について、もちろん私たち教員は
「絶対にしてはいけないこと」
という意識は固まっています。
私だってそのとおりで、過去にも未来にも体罰はあり得ないと、誓って言えます。
だから、もし先生同士でこの話題をしても、いろんな意見や経験談はあるでしょうが、結論は同じ所にたどり着くのでしょう。
さて、おやじの会のみなさんと話すと、体罰の話はどこにたどり着くのでしょうか。
私も、食い入るように、おやじのみなさんの話を聞きましたが、みんなが口にするのは、ほぼ同じことでした。
「体罰は必要だ」
一人が「必要だよ」と言えば、周りがうんうんとうなずいていました。
そして、必ず引き合いに出されるのが、自分が子どものころに受けた体罰の話でした。
「痛い思いをしたけど、そこから学んだものがある。」
次に出される話は、我が子にした体罰の話でした。(親子で「体罰」と言うのか知りませんが)
「息子が~したときは、必ず~するようにしてる。」
ここまでの話は、客観的に、冷静に聞いていることもできるのですが、次の話がちょっと辛い。
「先生、うちの子には何してもいいですから。」
「聞かんときは、厳しくやってください。」
という話です。
みんなが容認論なのに、切り返すのは難しいですね。
もちろん、何人に「やれ」と言われてもやりません。
教師の誓いです。
それは自分の中でゆるぎないのですが、子どもの父親は、そう思っているということは、また確かな事実だということが分かりました。
それを、教師としてどう受け止めるべきなのか。
そこを考えさせられています。
体罰は絶対にいけないという主張をし、父親の考えを変えていく努力をするべきなのか。
教師と父親は立場が違うという観点に立ち、それぞれの意見の違いは自然ととらえるのか。
父親の主張を受け入れ、「体罰」という教育の方法について、もっと深く考えてみるべきなのか。
私の中でもはっきりとした答えはまだ分かりません。
でも、肝心なのは、「同じ子どもの教育」なんだということです。
議論している対象の子は、別々の子ではなく、同じ子なのです。
その子の教育に当たる複数の大人がいるわけですが、その中で意見の違いがあるということです。
それも「体罰」という重大なことについて。
「体罰は必要だよ」と言うお父さんたちは、決して冷たいとか、恐い人たちではありませんでした。
みなさん、とても温かい人柄で、考え方もしっかりしていて、私はその人たちを「父親の先輩」として、見ることもできました。
そんな父親の先輩たちが言うことは、やはりしっかりと耳を傾け、必要ならば議論もしていくことだろうと思うんです。
単純に
「一昔前の教育と今の教育は違うから」
「昔の子と今の子は違うから」
的な話で片付けようとしてはいけないのかなと、思うようになりました。
(飲み会の席ではそれで片付けてもいいと思うのでうが。。。)
学校現場は、一層「体罰厳禁」になっていきます。
でもそれは、親の考えと、どんどん距離が開いていっているということなのかもしれません。