「クラス単位より子ども単位で学級を見るようになった。」
そう思います。
なぜか。
考えてみると、色んな背景があるように思えます。
1番には、
以前ほど、クラスを「自分のもの」ととらえなくなった。
ことが挙げられます。
10年前。
クラスは私の全てでした。
クラスこそ私の仕事場であり、クラスこそ私の仕事の結果が表れる場でした。
「〇年〇組担任」
その肩書きが強烈に自分を奮い立たせ、そのクラスづくりに全力を尽くし、そのことが、「クラスは自分のもの」という意識をどんどん強めていったように思います。
だからこそ、クラスにガンとした理想を掲げ、クラスが乱れることが許せませんでした。
当初は
「仲がいいクラス」
という理想を拠り所にして、そのためなら何でもする、しなきゃいけない、してもいいと思い込んでいました。
そして今年。
クラスは「自分のもの」ではなくなっていました。
クラスを構成する一人一人は、それぞれに歩んできた道がある。
そして、これから先の未来をまたそれぞれに歩んでいくものだ。
この6年生学級は、一人ひとりの長い人生の中における、わずか1年間の集団生活。
その中でできることは限られているし、同時にしなきゃいけないことは確実にしなきゃいけない。
「仲がよくなること」ばかりに時間や労力を使ってはいられないはずなんです。
個々の子どもに学力的なよさや課題がある。
生活面や人間性のよさや課題もある。
この1年では、そういった個性に必要な働きかけをしていくことが必要だ。
そのときに、このクラスという集団は、個性を伸ばすために利用する一つのツールになる。
いつしか、私はそんな視点で学級経営をするようになっていたように感じます。
そういう視点で担任をするようになったとき、クラスを強烈に一つの理想のような枠でくくることに、無理を感じていたのかもしれません。
じゃあ、なぜ私がこんな視点を持つようになったのか。
一つは経験でしょう。
10年とは決して長くはありませんが、それなりに私もいろんな子たちを見て、クラスを見て、仕事をしてきました。
そうする中で自然と身についた視点です。
もう一つは、私も人の親になったということでしょう。
ここ2年ほどの間に、初めて私にも子どもができました。
いわゆる「親心」が私にも芽生えてきました。
我が子の成長を心から願うとともに、そんな親から預かっている教え子たちの成長を願うその視点も、自然と変わってきました。
さらにもう一つは、今年受け持った子達の実態です。
なんどかブログにも書きましたが、本当に頼もしい六年生でした。
どの専科の先生に言わせてもそうでした。
この集団をまとめるのに、担任が強烈な理想を掲げる必要がなかったのかもしれません。
必要がなかったからしなかったとすれば、それがいいことか悪いことかはまた検証していく必要がありそうですが。
また次回に続けます。