小学生攻略法

このブログも10年目。久しぶりに担任復帰です。

珍しく、おえらいさんのあいさつがためになりました。

2012-11-17 11:44:23 | 教師力UPの攻略法

学校の先生たちの卓球大会がありました。

今年は本校チームは、練習ゼロ。

研究公開が間近ということもあり、ぶっつけ本番でした。

出場できるという先生もちょっと少なめ。

ぎりぎりのメンバーでなんとかのぞみました。

開会式。

おきまりの「おえらいさん」のあいさつ。

大変失礼ですが、こういうのって毎回たいして期待できない・・・

(早く終わって)

って正直思いながら聴いてます。

いかん、いかん。

学校の先生たる者が。

しかし、今日のあいさつでは、印象的な言葉がありました。

そのおえらいさんはこう言いました。

「大変忙しい時期に、みなさんお集まりいただき、まことにありがとうございます。」

ふん、誰でも言う一言。

「中には、忙しくて卓球なんかしてる暇はない、ということで今日は来ていない先生もいることでしょう。」

そのとおり。

次です。

「私はこう思います。

忙しいからあれができない、これができないという人は、忙しくなくてもしない人なんですよ!」

おぉ

強烈な開会のあいさつをしましたね…!

そして、私的にも腑に落ちる言葉でした。

確かにそうかもです。

忙しそうにしている人って、常に忙しそうですもんね。

忙しいという状況が自分にとって当たり前になってしまって、常にそういう状態に自らを置いてしまう。

そして、その忙しさを言い訳に、別の何かはできないと遠ざける。

ちょっと極端な言い方ですが、仕事の仕方の1パターンのような気がします。

でも、忙しいのはみんな一緒。

そんな中で、休日の卓球大会のようなものに来れる先生と来れない先生の差って、少なからず大きいのかもしれませんね。

来れる先生は

・このために時間を作れる

・気持ちにゆとりがある

・組織を大事にする

・休日まで出ることに理解してくれる家族がいる

そういう人たちなんじゃないかと思えてきます。

私も、今回は正直出場を迷いましたが、親睦卓球大会に出場しない先生にはなりたくないと思い、やっぱり出場した身でした。

おえらいさん、貴重な言葉をありがとうございました!


「クラムボンは…」その後の子どもの反応

2012-11-15 22:54:35 | 授業中の攻略法

「クラムボンは、人間だ。」

子どもたちを挑発するように私は断言しました。

そしてその説をいろんな側面から支持し、説得力を増しました。

驚く子どもたち。

クラムボンが人間だという話に怖さを感じているとともに、先生が強烈なことを断言することに唖然としている様子でした。

まず、この「クラムボンは人間」説についてですが、

前回の記事にも書いたとおり、私なりにずっと前から自然に思っていたことです。

諸説があることは知っていました。

それらの中には、子どもたちが考えた「光」や「あわ」なども含まれるようです。

教科書の解説書を読むと、なんと7?8?通りもの答えが掲載されていました。

が、どれも「かもしれない」というもので、やはりあくまで「子どもに自由に想像させたい」ものだそうです。

ちなみに、その解説の中には「人間」というものはありませんでした。(当たり前か?)

前に先輩の先生が「アメンボ」と言ったことについて。

聞くと、以前は教科書の注釈にそう記載されていた時期があったようです。

が、それが教科書が新しくなるとかき消され、「不明」と現在の形になりました。

だから、なおさらアメンボじゃないはず。

今時、ネットで検索すれば、またいろんな説が出てくるのでしょうが、今回それはしませんでした。

ネットで簡単に諸説に触れたくない気がしたのです。

そして、私なりに、自分の考えを何者にも揺るがせたくないと思ったのです。

さて

この話で、「やまなし」の学習が、意外な形で子どもたちにとってはインパクトが強いものになったことは間違いないでしょう。

手ごたえがありました。

授業が終わり、休み時間以降もどこか騒々しい教室。

それから数日の間に、子どもたちにある変容が見られました。

・次の日の日記に、クラスの3分の2の子たちが「クラムボン」について書いた。先生の説を支持する子も批判する子も。

・家の大人にこの話をしたとう子が数人。「お父さんは~って思ってたよ」と教えてくれる子も

・やんちゃ少年が、図書室で宮沢賢治の伝記を借りた。うれしそうに先生に見せにきた。

・家でインターネットで「クラムボン」を調べる子も。(「人間」とする説も見つけたそうだ)

・飛び込み授業に来てくれた年配先生のところへ行き、クラムボンについて討論したというグループも

そして、うれしいことに

・「宮沢賢治のほかの作品も読んでみたい?」と尋ねたところ、全員が大きくうなずいた。予定外だったが、一時間使って、図書室の宮沢作品を全部教室に持ち込んで、回し読みした。

回し読みした後、感想を聞いたら、おもしろいことに全員同じことを言いました。

「意味が分かりません」

そうなんです。

「やまなしも最初はそうだったよね。」

「うん」

「何度も読むうちに、生きることの恐怖や希望を感じたんだよね。」

「うん」

「宮沢賢治って、そういう作品を書くのかもね」

そんな話ができました。

こういった子どもたちの姿が、私にとっても大変意外なもので、そして新鮮で、うれしかったです。

子どもたちが物語により深く首をつっこむ。

自分なりの読み方に挑む。

文学作品というものに関心を高くする。

作者に思いを寄せる。

物語文を教材として扱う国語学習で、最もねらいとするところです。

思いました。

子どもたちを学ぶことに本気にさせたいなら、それなりのきっかけが必要!

クラムボンがどうこうということが目的じゃなくて、それは一つのきっかけとなりました。

今回の場合、先生の熱意が、おもしろい説が、きっかけをつくったのでしょう。

正直、クラムボンの話をする前は、そんなことまで見通して話をしたわけではありませんでした。

ただ、自分の本気の話を初めてしてみようと思っただけです。

それが結果、子どもたちにとっては一つの変容を生むきっかけになったという話です。

私は国語を専門とするわけじゃなく、全くもって未熟な授業であることは百も承知なのですが、未熟なりに、私はうれしかったです。

新しい感触に、また授業に対する見方の幅を広げることができたような気がしました。


そして初めて私は口にした。「クラムボンとは・・・だ。」

2012-11-14 22:29:39 | 授業中の攻略法

単元の前半で、私もお決まりの発問をしていました。

「クラムボンってなんだと思いますか?」

子どもたちの答え

「かにの子どもたちがはいたあわ。」

「外から入ってくる光」

「別のかに」

「水中にいる微生物」

予想通りでした。

さらにその後、宮沢賢治ファンという年配の先生が「飛び込み授業」で来てくださって、いろいろと語る中で

「クラムボンっていうのはね」

だいぶもったいぶって

「実はアメンボなんだよ。」

と答えを発表してしまいました。

「へぇ~」

子どもたちは(この先生が言うんなら、きっとそうだろう)っぽいリアクション。

子どもたちの意見も、年配先生の答えも、むずむずしながら聞いていた私。

その場では、クラムボンについて取り上げる気もなかったので、さらっととおりました。

・・・が、やまなしを学習し終えて、

「本来ならここで終わりですが、」

と、きりだしました。

「クラムボンについて」

じゃあ、どう取り上げるか。

先に出た子どもたちの意見を並べて、多数決をとって、討論をして、「よく考えたね。どれもなかなかの説得力だったよ」なんて、おきまりのあいまいパターンでしめるのは、もうやる必要はない思いました。

現代の一般論「子どもたちの自由な発想でよい」は、今回は却下です。

今年のクラスの子たちの、やまなしへの真剣な挑み方に、それは失礼だと思いました。

そこで、私が語ることにしました。

私が思っていることを、確信していることを、できるかぎりの言葉で語ることにしました。

「先生にしては珍しいですが、しばらく一人で話します。聴いていなさい。」

ここから先は、熱を込めました。

まず、子どもたちの意見を片っ端から否定しました。

「あわ」論…×

→かにの子どもらはその後に何度も「あわ」と言っているから。

「光」論…×

→川底には日光や月光や様々な光が入ってきていて、その描写はあちこちにあるが、かにの子どもらは反応していない。

「かに」論…×

→かにの子どもらが「分からない」と存在を表現しているものが、自分たちと同じ姿をしているはずがない。

「水中の微生物」「アメンボ」論…×

→川の外の生物であるかわせみや、やまなしのことでさえお父さんは詳しく知っているものしり。川中の生物なら知らないはずはない。

ここまで話して、子どもたちは息を飲んでいました。

先生が子どもたちの意見を真っ向からこんなに否定することが珍しい、というか初めてだったからでしょう。

そのリアクションがおもしろくて、私はさらに続けました。

「じゃあクラムボンは何者なのか。」

手がかりはかにの兄弟の会話です。

1 笑ったり、死んだりしている。紛れもなく、生き物だ。

2 殺されることもある。リアルな事実だ。

3 なぜ殺されたか。その複雑な事情は、かに程度の生き物には分からない。

4 ものしりのお父さんでさえ、分からない。(と思われる。)

教室は、徐々に恐怖感さえ感じるような雰囲気になってきました。

少し子どもたちがざわつきだしました。

「 …あっ」

と小声で、先生が言うであろう答えが分かった子も見え始めました。

そして、結論。

「先生はこう思っています。クラムボンは、人間です。」

だと思います。ではなく、です。と言いました。

あえて断定しました。

そのときの子どもたちの表情、やまなしの授業で初めて見る表情でした。

驚愕

恐怖

納得

批判

いくつもの鮮明な表情が見えました。

クラスはうるさい状況になっています。

「まだ、この話には続きがある!」

大きな声で続けました。

5 飛び込んできたかわせみも怪しい。なぜならお父さんが「そいつの目が赤かったかい?」と尋ねたとき、子どもらは「分からない」と言っている。なのに、「そいつはかわせみだ。」とは、どうみても不自然である。魚を取っていったのも、人間の仕業だと考えられる。

6 12月に「ラムネのびん」と描写している。これも急に人間くさい。やっぱり宮沢賢治はこの話に人間を描いている。

この「説」は、もちろん私の勝手な想像です。

でも、ずっと前から、私としては自然にそう思っていました。

私の中では自信がありました。

ときには、子どもたちに何をさせたいかよりも、先生が何をしたいか!

私は、初めてやまなしを語りたくなって、語りました。

・・・続きはまた次回。


クラムボンは何者! …は、追究させるべき??

2012-11-12 21:24:01 | 授業中の攻略法

6年生国語の「やまなし」に出てくる「クラムボン」

かぷかぷ笑ったり、殺されたり。

現在の教科書の注釈には

「作者がつくったもの。意味は不明。」

正確には覚えていませんが、そんな趣旨のことが記されているのみです。

そして、先生が必ず子どもたちにする質問

「クラムボンってなんだろうね?」

今日考えてみたいのは、この問いを簡単に扱うか、それとも深く子どもたちに追究させるか、ということです。

もちろん明確な答えはどこにもありません。

答えを出そうとするならば、考える人次第ということになります。

みなさん、いかがですか?

見えない答えを、問うわけです。

そこにはおもしろさも、危惧するべきことも含まれるように思います。

このクラムボンについては、現代の一般論では

「子どもたちに自由に想像させればよい」

もので

「深く追究するべきものではない」

とすることが多いようです。

私も今回授業をして、先輩の先生方に何人か聞いてみましたが、その種の答えが一番多かったです。

これまでにも6年生で何度かやまなしを授業したのですが、実際私も深く取り扱うことはしませんでした。

「何だと思う?」

を聞いて

「あわ」

とか

「かに」

とか

「ひかり」

とかいくつか子どもたちの意見を出し合わせて、軽く討論じみたことをして、さらっと先に進みました。

それを深く追究することが、この題材のねらいとすることと逸れてしまうし、追究させたのちに、それをどう扱うかも自信がなかったのです。

無理をしなくてもいいと判断していました。

そして、今年もその程度にしようと思って授業にのぞみました。

が、今年の子どもたちは「やまなし」に挑む姿勢が、なんというか、真剣そのもので、内容を読み取る視点もいいものを持っていました。

授業がおもしろく感じました。

そこで思いました。

(思い切って、クラムボンを投げかけてみようかな)

実は、私自身クラムボンについては強く思うところがあったのです。

それを子どもたちに語ったことはなかったけど、今年、初めて口にしてみようかなという気になりました。

・・・・続きは次回。


PTAバザーに先生は行くべき?

2012-11-11 21:00:55 | 教師の仕事術の攻略法

今日、日曜日は年に一回のPTA主催バザーでした。

子どもたちは大変楽しみにしているイベントの一つです。

学校でものを買ったり、なにか食べたりする感触ってなかなかたまらないものがありますものね。

一線を越える感触が子どもながらにたまらない

って感じでしょうか。

お買い得なものも多いし。

このバザーはもちろんPTA主催ということで、学校の先生はほとんどノータッチなわけですが、(教頭先生やPTA担当の先生は例外として)

今日は、学校の先生たちもたくさん来ていました。

私も行ったわけですが。

先生たちの間で直前に話題になったのは

「行く?」

「何時に行く?」

「何手伝う?」

「何時までいる?」

「いくら分ぐらい食券買った?」

なんてことです。

強制的でない土日のイベントに、どれくらい首をつっこんでいいのか分からないわけです。

好きで終日参加する先生もいるし

土日にまで学校に行きたくない先生もいる

積極的に手伝う先生もいるし

お客さん気分の先生もいる

バザーにはいろんな先生が参加しています。

「地域に積極的に溶け込む」

ことが良しとされているのが先生ですから、こういう行事にも積極的に参加することが望ましいし、参加して何か悪いことがあるなんてことはまずないでしょう。

が、もし何か悪い影響が出るとするならば、積極的に参加する先生と、そうでない先生とがいて、その差がPTAの人たちに伝わってしまうことです。

「A先生は感心ね。朝から手伝ってくれて」

「B先生は今日顔も出してないわよ」

そんな会話がお母さんたちの間で交わされてしまっては残念です。

だから

PTA行事にどれくらい参加するかは、ある程度先生たちの間で足並みをそろえたい!

ところです。

先生たちの間で大きな差が出てしまわないように。

じゃあどうすれば足並みがそろうか。

管理職から

「バザーは何時に来てください」

なんて話はできません。

時間外のことですから。

「先生方もご都合がよろしければ、ぜひご協力ください。」

程度です。

だから、先生たちは自分たちで話題にするしかありません。

気の利いた先生どうしがお茶の間に打ち合わせをすれば、それが自然と「基準」になるものです。

それに多くの先生がのっかるといいです。

もしくはのっからせるあげましょう。

どこかで基準が出来上がったら、すぐに学年間でその基準を広めるといいです。