何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

繋がれた明日と我々

2015-02-12 20:22:53 | ニュース
年明けから宗教絡みが受難である。

夜毎に赤い砂漠から送り付けられる映像に肝を冷やしていたが、 国内では「日常を失うことなく人を殺すことができるのが理想」などという正気の沙汰とは思えぬ理由で、知り合いの宗教関係者を殺害する事件がおき、 そうこうしていると、自宅から数十メートルという場所で近隣住人に子供が殺害される事件まで起こり、加害者家庭について「空海でも救えず」と書かれている。

傍からは理解できない思想に迷い込む心や、ブラックジャック(手塚治虫)の言うところの殺人嗜好症を救済する宗教はないのか。
心の有り様について、何か真面目に考えなければトンデモない方向に行きそうなことは誰もが気付き始めていると思うが、具体的に何を考えれば良いかが自分には分からないので、一連の事件の伝え方について考えてみる。

先週ある週刊誌が、殺人に憧れ殺人行為に走った未成年女子学生の実名を報道した。
過去には実名報道について 「野獣に人権はあるのか」と大論争になったこともあるが、今回の実名報道については、少年法の意義や未成年者の可塑性からの意見が載るわけでもなく、新聞のすみに出版社の見解がひっそりと紹介されただけである。
そして、今週は別の事件の加害者の家庭環境が週刊誌の見出しに踊っている。

これほど風向きが変化したのは、凶悪犯罪が減らないことへの苛立ちと、被害者家族・遺族への共感が大きい世論を受けてのもの思われ、これは、裁判員制度が導入されて以来、判例を越えた刑罰の厳重化にも現れている。

犯罪被害者の家族への共感という観点からは、 「さまよう刃」(東野圭吾)は涙なしには読めない。
一人娘が未成年の悪グループに凌辱されたうえに残忍に殺される、その一部始終を映したビデオを見てしまう娘の父。
苦しみながら苦しみながら復習を誓い遂げていく父の慟哭と、 未成年ゆえに処罰に限度ある現状に怒る警察官たちが、心情的には父に同情しながら職務として犯人(父)を追跡せねばならない葛藤と。

これを読めば、未成年の人権や可塑性などという言葉が陳腐に思えてくるが、
一方で加害者家族の日常が根こそぎ奪われても良いのか、加害者が更生できる環境が破壊されて良いのか、という問題もある。

先の「さまよう刃」が犯罪被害者の視点で書かれたものならば、同じく東野圭吾氏が書いた「手紙」は、加害者家族の視点で書かれた作品だ。
強盗殺人を犯した兄を持つ弟は、進学・恋愛・就職と人生の転換点ごとに「強盗殺人犯の弟」というレッテルが立ちはだかり苦悩する。
加害者とは別人格の家族であっても、普通に生きていく日常を根こそぎ奪われなくてはならないのか、それをする権利が一般人にあるのかと問われる気がする作品である。

加害者側の視点で書かれ、読者に問うという観点では、「繋がれた明日」(真保裕一)という重い作品もある。
恋人に付きまとう男に直談判する途中で誤って刺殺してしまった主人公(未成年)が、仮釈放後、真面目に働き更生しようと努めるが、勤務先や住居に「この人は人殺しです」というビラをまかれて、苦しむ様が書かれている。
殺人が取り返しのつかない罪であるのは確かだが、罪人の全てが塀の中で一生を過ごすわけではないし、更生の余地がない者ばかりではない。いずれは一般社会に戻ってくるわけで、その時には更生してもらわねばならないのに、偏見と差別だけでは、やり直そうにもやり直せない、という現実がある。そんなものは「人殺しが当然受ける報いだ」という意見もあるが、更生叶わず再犯が繰り返された場合、迷惑するのは、やはり一般人であることを考えれば、この「繋がれた明日」は読む者に、正義とは何かと激しく問いかけてくる。

しかし、
こう書いたからといって、未成年の実名報道した週刊誌や、少年を殺害した容疑者の家庭環境を暴いた週刊誌を、責めている訳ではない。
奪われた命が帰らないことも、遺族の悔しさも哀しみ苦しみも、「さまよう刃」で教えられるまでもなく、痛いほど分かっているから。

ただ、遺族とも、加害者とも、報道する者とも違う、無責任な第三者としての一般人・国民について、考えなければならない、と考えている。

つづく