「走ってみようか 闘ってみようか」を挟んだために流れが分断されたのをいいことに、この話題から離れようかと思ったが、アンネの日記の一部は書いておきたかったので、考えている事の半分だけを書くことにする。
アンネとハンナは15歳と22歳で亡くなり、トミー少年は生き延びたとはいえ収容所で父も弟も妹も失った。
ハンナが死の直前に、「思いとどまらずに進め。最後まで、自由の日がくるまで。我々同胞の勝利の日がくるまで、戦い続けよ。」という言葉を残したように、
命を懸けても勝ち取らなければならないものもあるだろうし、命をかけて守らなければならないものも、あるだろう。
しかし、この言葉が弱冠22歳のハンナの言葉であることが痛ましい。
どの国にも民族にも誇りと名誉があり、命をかけて戦わねばならない時があるとは思う。戦いに犠牲は付き物だとしても、本来子供には可能性と未来が潤沢にある分、痛ましさは大きい。
ただ一方で、やはり子供は生きる力にも溢れている。
「幸せな子」の訳者・池田礼子氏と渋谷節子氏は後書きで、こう記している。
「私達は子供時代に不幸な経験をした人は大人になってもその悲惨さを感じさせるものだと、なぜか信じ込んでいたのかもしれない。だから、暗い過去を背負った、しかも子供時代に悲惨な経験をした人が暗さも感じさせず、明るく穏やかに生きているということに、多少戸惑い、そして大きな感銘を受けた」
この明るく穏やかな人柄は子供の頃から変わることがなかったのだろう。収容所にいたトミー少年を「小さくて勇敢な天使」と呼ぶ大人もいた。
子供の生き延びようとする力は、その子供自身の力となるだけでなく、周囲の大人の希望にもなるのだ。
アンネは収容所で15歳で亡くなるが、アンネの日記には希望を感じさせる思索が記されている。
いくつか訳が出ているが、好きな訳から部分抜粋
1944年2月23日より
「今朝、私は窓の前に座り、じっくりと外を眺めて神と自然を見つめながら、
私は幸せでした。ただただ幸せでした。
自分自身の中にそのような幸福、自然や健康の喜びを感じている限り、人はいつも幸せを取り戻すことができるでしょう。
富も名声も、何もかも失われることがあります。けれども自分自身の心の中にある幸福は、覆い隠されることはあったとしても、
いつもそこにあるでしょう。生きている限り、再び幸せを得るでしょう。
孤独な時、悲しいと感じているなら、天気のいい日に屋根裏部屋に登って、外を眺めて見てください。
あなたが恐れずに空を見ることさえ出来れば、自分の心の中が純粋に感じられ、そしてもう一度幸福を見出すでしょう。」
咳をすることすら憚られる隠れ家で、屋根裏部屋の小窓から見る空に、精神の自由を見出す少女の素晴らしさ。
戦禍に散ったアンネとハンナ、過去を断絶せず生きる力に変えたトーマス・バーゲンソールの物語を読み返すと、子供の未来を変える選択をする大人の責任を厳しく見つめなければならないと思うのだが・・・・・。
冒頭「考えている事の半分だけ書く」と書いたのは、これから書く部分。
皇太子様の誕生日の会見での 「戦後70年の節目の年、戦争と平和について」との質問へのお答えが、それなりに世間で話題となっている。
皇太子様は歴史学の専門家なので「歴史を謙虚にみつめて、正しく伝えることは重要」と答えられるのは当然だ。
新年早々の特別提言として「戦争の悲惨より、戦時の英知を伝えよ」と喝破した女史もいるので、皇太子様が会見で述べられた「平和を愛する心を育むことは大切」「平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにする」は世論の最大公約数ではないかもしれないが、普遍的な価値観を有する公約数の一つであることには違いない。
しかし、この皇太子様の御言葉を都合よく利用し自説の補完に使う者がいるのと、皇太子様の御言葉が自説にとって都合が悪いと不快感を示す者がいるのを見ていると、どちらも違うのではないかと思う。
昨今の風潮をみていると、表現の一部を切り取り、都合よく利用したり反発したりと、あまりに短絡的ではないだろうか。
同じ穴の貉になってはいけない。
皇太子様は雅子妃殿下の妹さんが訳された「幸せな子」も御存知であろうから、同じ本を読んだ人間として、そのお考えに想いを巡らせ(ここに)記したい気もしたが、皇太子様のお考えを自分の考えに引きつけて解釈してはならないのだと思い、記すことを止めにした。
「走ってみようか」の末尾にも書いたが、
皇太子様は今も、これからも、天命と忠恕の意味と、それを生かす道を考え続けられることだと思う。
それをありのままに受け留めていきたいと思っている。
アンネとハンナは15歳と22歳で亡くなり、トミー少年は生き延びたとはいえ収容所で父も弟も妹も失った。
ハンナが死の直前に、「思いとどまらずに進め。最後まで、自由の日がくるまで。我々同胞の勝利の日がくるまで、戦い続けよ。」という言葉を残したように、
命を懸けても勝ち取らなければならないものもあるだろうし、命をかけて守らなければならないものも、あるだろう。
しかし、この言葉が弱冠22歳のハンナの言葉であることが痛ましい。
どの国にも民族にも誇りと名誉があり、命をかけて戦わねばならない時があるとは思う。戦いに犠牲は付き物だとしても、本来子供には可能性と未来が潤沢にある分、痛ましさは大きい。
ただ一方で、やはり子供は生きる力にも溢れている。
「幸せな子」の訳者・池田礼子氏と渋谷節子氏は後書きで、こう記している。
「私達は子供時代に不幸な経験をした人は大人になってもその悲惨さを感じさせるものだと、なぜか信じ込んでいたのかもしれない。だから、暗い過去を背負った、しかも子供時代に悲惨な経験をした人が暗さも感じさせず、明るく穏やかに生きているということに、多少戸惑い、そして大きな感銘を受けた」
この明るく穏やかな人柄は子供の頃から変わることがなかったのだろう。収容所にいたトミー少年を「小さくて勇敢な天使」と呼ぶ大人もいた。
子供の生き延びようとする力は、その子供自身の力となるだけでなく、周囲の大人の希望にもなるのだ。
アンネは収容所で15歳で亡くなるが、アンネの日記には希望を感じさせる思索が記されている。
いくつか訳が出ているが、好きな訳から部分抜粋
1944年2月23日より
「今朝、私は窓の前に座り、じっくりと外を眺めて神と自然を見つめながら、
私は幸せでした。ただただ幸せでした。
自分自身の中にそのような幸福、自然や健康の喜びを感じている限り、人はいつも幸せを取り戻すことができるでしょう。
富も名声も、何もかも失われることがあります。けれども自分自身の心の中にある幸福は、覆い隠されることはあったとしても、
いつもそこにあるでしょう。生きている限り、再び幸せを得るでしょう。
孤独な時、悲しいと感じているなら、天気のいい日に屋根裏部屋に登って、外を眺めて見てください。
あなたが恐れずに空を見ることさえ出来れば、自分の心の中が純粋に感じられ、そしてもう一度幸福を見出すでしょう。」
咳をすることすら憚られる隠れ家で、屋根裏部屋の小窓から見る空に、精神の自由を見出す少女の素晴らしさ。
戦禍に散ったアンネとハンナ、過去を断絶せず生きる力に変えたトーマス・バーゲンソールの物語を読み返すと、子供の未来を変える選択をする大人の責任を厳しく見つめなければならないと思うのだが・・・・・。
冒頭「考えている事の半分だけ書く」と書いたのは、これから書く部分。
皇太子様の誕生日の会見での 「戦後70年の節目の年、戦争と平和について」との質問へのお答えが、それなりに世間で話題となっている。
皇太子様は歴史学の専門家なので「歴史を謙虚にみつめて、正しく伝えることは重要」と答えられるのは当然だ。
新年早々の特別提言として「戦争の悲惨より、戦時の英知を伝えよ」と喝破した女史もいるので、皇太子様が会見で述べられた「平和を愛する心を育むことは大切」「平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにする」は世論の最大公約数ではないかもしれないが、普遍的な価値観を有する公約数の一つであることには違いない。
しかし、この皇太子様の御言葉を都合よく利用し自説の補完に使う者がいるのと、皇太子様の御言葉が自説にとって都合が悪いと不快感を示す者がいるのを見ていると、どちらも違うのではないかと思う。
昨今の風潮をみていると、表現の一部を切り取り、都合よく利用したり反発したりと、あまりに短絡的ではないだろうか。
同じ穴の貉になってはいけない。
皇太子様は雅子妃殿下の妹さんが訳された「幸せな子」も御存知であろうから、同じ本を読んだ人間として、そのお考えに想いを巡らせ(ここに)記したい気もしたが、皇太子様のお考えを自分の考えに引きつけて解釈してはならないのだと思い、記すことを止めにした。
「走ってみようか」の末尾にも書いたが、
皇太子様は今も、これからも、天命と忠恕の意味と、それを生かす道を考え続けられることだと思う。
それをありのままに受け留めていきたいと思っている。